僕は落ち着いたフリをしながら、運ばれてくるグラスを眺める。休日の前の夜、ずっと前から手帳に入れていた予定が実行される日だ。僕は兄さんがニコニコとそろっていく酒席の準備を眺めているのを伺った。
今夜は僕の成人祝いだ。
もちろん、一族の行事としての成人祝いはきちんと済ませた。スピーチもした。Bクラスの飲み会に呼ばれて、缶チューハイを呑んだのも楽しい思い出だ。宗雲さんからもバーに誘われている。けれど、兄さんとしっかりお酒を飲むというのは初めてだった。
兄さんが僕に微笑みかける。
「雨竜くん、今日のことをとても楽しみにしていましたからね」
「兄さんとお酒が呑めるのが嬉しくて……」
「おや、兄をそんなに喜ばせていいのですか?」
「本当のことですから」
僕は少し頬が熱くなるのを感じる。兄さんは目を細め、満足そうに頷いた。
「何歳になっても、その素直さを失わないでくださいね」
顔に出てしまう僕の性質を、兄さんが褒めてくれる。僕は僕の未熟さを愛せそうな気がした。
テーブルの上には、様々なお酒とおつまみが並んでいる。お酒の銘柄は、勉強したけれどいまだにピンときていない。ただ国内外を問わず、こだわって選ばれたことがわかる。種類がチーズやサラミといったいかにもなおつまみだけでなく、漬物やドライフルーツなどもあった。配膳した使用人さんはすぐに立ち去る。僕たちがなるべく二人きりになれるようにという配慮がありがたい。
兄さんはお気に入りの日本酒を手に取る。僕にラベルを見せた。
「雨竜くんには私の好きな日本酒はまだ早いと思うので、色々試してみましょう」
「成人はしましたよ」
僕は軽く首を傾げる。兄さんは少し眉を寄せた。
「そうではなく。では、呑んでみますか?」
「はい!」
兄さんのお気に入りで、度々呑んでいるのを見かける日本酒。それを呑めることが嬉しかった。
「グラスを持ってください。これからお酌されることも増えるでしょう」
「えっ、はい」
僕は慌てて、兄さんから渡された切子のグラスを手に取る。マナー本で読んだ見様見真似で、兄さんからの酌を受けた。きれいな透明で、青紫のグラスが生き生きと輝いた。
兄さんはそのまま、僕が止める間もなく手酌でグラスに酒を注ぐ。今日はとことん僕が上座になるようだった。グラスに満たされた日本酒を、軽く掲げる。
「雨竜くんの成人祝いに、乾杯」
「かんぱい。ありがとうございます」
僕は気恥ずかしさに頭を下げる。ごまかすように、グラスに口をつけた。ガラス細工の口当たりはまろやかで、少し厚みがあるのが心地よい。兄さんは不安げに僕を見る
「最初は舐める程度にしましょう……」
「んっ! これは……なんというか、くわっときますね……」
僕は顔をしかめてしまうのを必死で堪える。お酒……というよりも、化学実験の薬品を舐めたような感覚だった。刺激が喉を通り過ぎて、カッと身体が熱くなる。おいしいと言うより、疑問が強い。
兄さんは肩をすくめ、僕と同じ日本酒が入ったはずのグラスに口をつける。そして満足そうにため息を吐いた。
「そうなのです。サッパリとした辛口は、その分まろやかさや濃厚な香りに欠ける。舌を慣らして勉強してからのほうがいいかと」
「な、なるほど」
僕は知識としてしかなかった日本酒の甘辛について思い知る。兄さんを不快にさせないように、ゆっくりとした仕草で水を飲んだ。子どもだとは思われたくなかった。
兄さんはかわりに、細身のボトルをテーブルから取る。ラベルがないかわりに、中に入っている柑橘やスパイスが見えた。
「君のために準備したのはこちらの、日本酒サングリアです。甘口の日本酒をドライフルーツや氷砂糖と軽く漬けたもの」
「へぇ……色んな味わい方があるんですね」
僕はボトルを眺める。クラフトコーラのような作り方があるんだな。兄さんはボトルを開封し、僕に新しいグラスを取るように言う。またお酌をされてしまった。
「雨竜くんはフルーツが好きでしょう? 呑みやすいと聞きましたので、ぜひ」
「ありがとうございます」
僕は頷いて、軽く口元に近づける。匂いからして違った。フルーツの香りがするし、その先に甘酒のようなお米の発酵した香りがする。ボトルに入っているようには見えないのに、メロンのような香りもした。口をつけると、舌にじんわりと味が広がった。酸味のある香りが、先ほど感じた薬品っぽさを消している。砂糖の甘さが足されているのでとても呑みやすい。鼻にアルコールが抜けていく感覚も心地よいと感じられた。
「これならわかるな……日本酒ってゆっくり美味しさが伝わりますね」
「ふふ。君も中々イケる口になりそうですね」
兄さんは僕をつまみにするように、もう一口お酒を呑んだ。
続いて兄さんは立ち上がると、準備されたアルコールたちを一つ一つ指さしていく。
「日本酒だけではありませんよ。焼酎も年々おいしいものが増えています。割材も準備しましたので、君にもきっと呑みやすいかと。ハイボール向きのウイスキーもあります。そうそう、カクテルも本日はバーテンダーを呼んでいますから、好みを伝えて見てください。いえ、最初は難しいかもしれませんから私が頼んでおきましょう。フレッシュフルーツで弱めのロングカクテルをお願いします。それからきちんとチェイサーを飲んでくださいね。アルコールと同量の水を飲んでください。おつまみはタンパク質を意識してとると悪酔いを避けることができます」
「に、兄さん、一気に色々と……」
僕はまだアルコールが脳に回っていないのに、目が回りそうだった。途中でバーテンダーさんに内線もかけていたし、仕事中のような忙しさだ。
兄さんは今気づいたかのように動きを止める。不意に上から手をかざした時のハムスターのようだった。そしてバツが悪そうに笑う。
「……すみません。私も、君と呑めるのが楽しくて」
兄さんが素直に言う。僕は兄さんの素直さを褒めたいような気分だった。
あれから二時間、僕たちはお酒を呑み、ちょっと踏み込んだ話をしたり、普段ならできないような無意味な話をしたりした。シラスと目が合うのが苦手、とか。
僕はだいぶぼんやりしていて、氷の入ったお酒で喉を潤している。ハイボールだということはわかるけれど、兄さんが説明した銘柄が思い出せない。聞こうとしても、兄さんはちょうどバーテンダーさんにあいさつに行ったところだった。
「これなんだかわからないけど、炭酸割りは美味しいな……」
レモンの香りの向こうから、少しウッディなお香のような香りがする。僕が呑んでいると、兄さんが戻る。ぱたぱたと軽快な足音。兄さんは酔っていないらしい。
「そろそろバーテンダーさんに帰っていただきました。信頼できる方と聞いていましたが、本当にいい腕の方でしたね」
「……誰に……?」
僕は兄さんを見あげる。思ったより気だるげな、不機嫌な声になってしまったと思う。
誰に聞いたんですか。そんな些細なことが気になった。
兄さんは上手な微笑みで、僕に言う。
「……あぁ、仕事の付き合いで聞いたのですよ」
仕事の付き合いなら、僕に説明してくれてもいいのに。
兄さんが話したがらない、ひと。
もし宗雲さんなら、叢雲兄さんなら僕に言ってくれてもいいのに。どうして頑な、なんだろう。
僕たちは兄弟なのに。
家族なのに。
「兄さん……」
僕の口から、気の抜けた声が出る。兄さんは僕を覗き込むと、僕の傍に座った。ソファは三人掛けで、僕の知る限り三人が座ったことはない。
「どうしましたか? すこし酔ってしまったでしょうか」
兄さんの手が、僕の手を探る。兄さんの体温が僕の指先にうつる。僕の手首を、兄さんの長い指が押さえる。お酒と混ざって、兄さんの香りがする。体温が上がっているからなのか、その香りはなんだかとても温かくて、もっと嗅ぎたくなって。
「兄さん……っ」
僕は兄さんを押し倒していた。ソファに倒れた兄さんが、僕を見上げている。普段は兄さんが僕を見おろしているのに、今は切れ長の瞳が僕の顔の下にある。
「雨竜、くん?」
戸惑った声。アルコールで染まった頬。僕の兄さん。
「兄さん、僕は、兄さんのことが……」
「え?」
僕は目を覚ました。天井は見慣れた我が家のものだ。薄手のカーテンから日差しが入っている。
「……朝?」
さっきまで夜だったはずだ。兄さんと楽しい「宅飲み」をしていたはずだ。しかし記憶は途切れていて、なぜか僕はベッドの中にいる。
「昨日は何があったんだ……?」
僕は横になったまま目を閉じる。怠い身体に、緩慢な脳。僕はしたたかに酔って、兄さんが僕に秘密を抱えているのが許せなくて、もっと、もっと近くに感じたくて。
押し倒したんだ。
僕の顔面から血の気が引く。弟としても男としても最低な行動だ。合意のない暴行だ。
「兄さんに謝らないと」
僕は慌てて起き上がる。ベッドから出ようとした。掛け布団を抱えている人間の手で、布団は止まった。
「ん……うりゅ、くん」
「え?」
ベッドの中には、兄さんがいる。金色の髪をほどいて、ほうぼうに遊ばせている。まだ意識はないのか、目はまったく開いていない。僕はベッドの広さを意識する。キングサイズ。家具を見る。ものが圧倒的に少ない。本棚ぐらいしかない。
「ここ、兄さんの部屋だ……」
僕の部屋じゃない。最後の記憶では居間のソファだったのに。
「ど、どうして僕が兄さんと寝て……」
兄さんが運んでくれた、のか? 僕はベッドから降りようと足をそろえて、気付く。
「パジャマだ……僕は一回、脱いだんだ……」
グレーのパジャマに着替えている。お酒を飲んでいた時の部屋着ではない。
「僕は、まさか……」
押し倒した。脱いだ。一緒に寝ていた。つまり。
僕は兄さんの肩を揺する。起こそうとする。
「兄さん! 申し訳ありません、こんな、こんな……!」
けれど使用人さんたちが来たらまずい。なるべく小声で兄さんを呼んだ。
「うりゅーくん……」
兄さんはうっすらと目を開ける。僕の顔を認識すると、懐いた猫みたいにふにゃっと笑った。
「――さくやは……とってもすてきでしたよ……」
とってもすてきな夜。僕は背筋に棒が入ったかのように硬くなる。そのままベッドから飛び出して叫んだ。
「か、顔を洗ってきます!」
「……はい、いってらっしゃい」
兄さんはガウンパジャマ姿で、ひらひらと手を振った。
私はベッドで寝返りをうちます。昨日の喜びが、まだ全身に広がっているようでした。
「……うりゅうくんと、たくさんお酒が飲めて幸せでしたね……」
思い出しただけで、くすくすと笑いがこみ上げてきます。雨竜くんが私に甘えて、抱きついて来て、そのまま寝てしまうだなんて。
「ふふ。突然寝てしまった雨竜くんをパジャマに着替えさせるなんて、弟が小さい子に戻ったようです」
実際にそんな過去があったわけではありませんが、無防備な姿を見せてもらえるというのは嬉しいものでした。身体は立派に育ち、筋肉もついていました。健やかな彼が甘えてくれるのがうれしい。きっと彼も、楽しんでくれたのでしょう。
「……彼の部屋に無断で入るわけにはいかないと、私の部屋にしましたが、兄弟で眠るというのも兄弟らしくって……」
私は独り言を言いながら、のろのろと体を起こします。雨竜くんとたくさん思い出話をしたいのです。今日は有意義に使わなければ。
「兄さん!」
部屋の戸がノックされました。私が「はい」と返事をすると、勢いよく扉が開きます。そこに居たのはもちろん雨竜くん、でしたが。
「……はい?」
雨竜くんは、きっちりと前髪を上げ、礼服に身を包んでいました。立派な大人の男です。私がガウン姿なのが恥ずかしいぐらいです。
そして、言いました。
「結婚しましょう!」
完
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