千代里
2026-06-04 20:16:40
10472文字
Public 君ふれ短編
 

君ふれ・クガネ編・25話


 ずっと一緒にいようと言ったのに。
 必ず迎えに行くと言ったのに。
 どうして、私を置いていったの。
 
 ***
 
 シャキン、と鋏の音が響く。
 糸を断つ冷たい音の下、作り終えたばかりの巾着がユキハネの膝の上に落ちた。
 深い紫に染められた生地で作られた巾着は、否応なしにユキハネの師を思い出させる。彼の瞳の色も、これと同じような色だったからだ。
 シャキン、ともう一つ、鋏の音が角に届く。
……?」
 間違って鋏を動かしてしまったのかと思いきや、ユキハネの手は先ほど糸を断ち切ったときの形から動いていなかった。
(最近、この幻聴をよく聞いてる気がする……。疲れているのでしょうか)
 ふるふると小さくかぶりを振り、まだ角の奥に残っている残響を意識から断ち切る。
 裁縫鋏を床に置き、ユキハネはできたての巾着を掲げてみた。縫い目にはまだまだ粗さが残るが、二度目の針仕事と思えばまずまずの出来と言っていいだろう。
「ユキハネ、もう完成したのね。おばさんにも見せてちょうだい」
 傍らで同じく針仕事をしていた叔母に聞かれ、ユキハネは素直に巾着を広げて見せる。
「こんな感じなのですが、どうでしょうか?」
「どれどれ……。そうね、縫い目に大きな乱れもないし、上手にできているわ。あとで紐を通さないとね」
 叔母の評価を聞きながら、ユキハネはどこか上の空の気持ちで今日までの自分が過ごしてきた日々を振り返る。
 叔母の家で寝泊まりをするようになり、早いもので既に一週間と少しが経とうとしている。その間、ユキハネは一日の殆どを家で過ごしていた。
 師匠に置いて行かれた直後に感じた衝撃は、最初の頃と変わらずに今も尾を引いていた。
 しかし、彼がエウレカという場所に出発したと聞いてからは、彼への感情は少しずつ形を変えつつあった。
 最初は、置いてかれた事実に対する動揺と、師匠に話しかけることすら怯えている自分の情けなさにふさぎ込んでしまっていた。
 師匠に会いたい気持ちと、会って彼に否定されたらどうしようという感情に板挟みになり、嵐の波間に浮かぶ小舟のように気持ちが浮き沈みしていた。
 だが、今は。
 彼に会えないという状況に慣れたからか、別の感情がユキハネの心の片隅で生まれつつあった。
……どうして、私を置いていったの)
 言葉だけならば、これまでと大して変わりない。
 だが、その思いには決定的に違うところがあった。
 ひたすらに悲嘆に暮れているのでもなければ、自分の優柔不断さを自嘲しているのでもない。
 ユキハネは、彼に今まで向けたこともない感情を向けていた。
(置いていくなんて……許さない)
 ある日を境にふと湧き上がったこの感情は、師に向けるにはあまりに攻撃的だった。
(私は、お師様に怒っているのでしょうか。お師様は何も悪くないのに)
 非難が混じった感情は、師であるフェリキシーへの怒りだ。
 だが、自分が彼に対して怒るのは、何か違うのではないかという違和感もある。
 結果、ユキハネは違和感がある怒りという不可解なものを抱えながら、ここ数日を過ごしていた。
「ユキハネは、お裁縫が得意なのね。そういうところも姉さんにそっくりだわ」
 何も知らない叔母は、姪を新たな娘として迎え、裁縫や料理を教えてくれた。
 とはいえ、それはユキハネが仕事もないのに漫然と暮らす日々に一日で耐えられなくなり、何か仕事ををくれと頼んだからだ。
 叔母は自由に友達と遊んできていいと言うが、ケイたちにはケイたちの仕事があるし、ヒョウセツとて家の手伝いがある。彼らに会って、フェリキシーの話を聞くのも、今のユキハネとしては避けたかった。
 そうはいっても、一人でぶらぶらしていては気持ちが塞がるばかりなので、今はがむしゃらに与えられた仕事をこなしていたかった。
「ねえ、ユキハネ。せっかくだから、あなたの分の着物も仕立ててみない? こんなに縫うのが得意なら、自分で自分の着物を仕立てられると思うわ」
「え、いいのですか。でも、反物を用意するにもお金が……
「いいのよ、それくらいは。私は、ユキハネが来てくれたお祝いがしたいのよ」
 借金をしているかたわらで、安物の生地であったとしても着物を新しく仕立てる余裕があるのか、とユキハネは叔母の楽天的な姿に不安を覚える。
 彼女の娘は、母親を「呑気な田舎娘の気分が抜けない」と評していたが、こうやって思いつきで後先考えず人を喜ばせようとするところなどが、まさにその最たるものだろう。
 やはり、お金のことを考えるべきだと言おうとした矢先、
 
……それに、着物を用意してもあの人は来なかったもの」
 
 そんなことを言おうとしたつもりはなかった。
 なのに、口が勝手に動いていた。
 自分が口にした言葉なのに、ユキハネ自身が「えっ」と声をあげそうになる。だが、今響いた声は確かに自分のものでもあった。
 おまけに、この違和感を、なぜか心のどこかでは自然なものとして受け入れてもいた。
 叔母も、不意にユキハネが放った言葉に疑問を抱いたのだろう。きょとんとした顔をして、
「ユキハネ、誰かと待ち合わせをしていたの?」
「あの、いえ、そういうわけでは……
 不思議そうな顔をしている叔母に、どう説明したものかと焦っていると、助け舟のように廊下を歩く足音が近づいてきた。
 襖が開き、ユキハネたちのいる座敷に顔を見せたのは、叔母の娘でありユキハネの従姉妹でもあるギンチョウだ。
 つっけんどんな物言いが目立つため、最初こそユキハネはギンチョウに苦手意識を持っていた。
 だが、ユキハネが自分の心情を打ち明けた時から、二人の間には、親戚というにはまだぎこちなさはあるものの、一風変わった友情のようなものが芽生えつつあった。
「母さん、ユキハネ借りてくけどいい? ちょっとその辺、ぶらついてこようと思ってるんだけど」
「待ち合わせって、ギンチョウとのことだったのね。いいわよ。ユキハネったら、外で遊んできていいのよって言っても、ずっとお手伝いばかりしてるんだから。どこか楽しいところに連れ出してあげてちょうだい」
「はいはい。ユキハネ、ちょっとこっちきて。どうせ出かけるなら、着替えたほうがいいでしょ。そんな格好で出歩いてたら、観光客って丸わかりだよ」
 ギンチョウの言う『そんな格好』とは、ユキハネが愛用していた、エオルゼアではよくみられるベストとシャツ、スカートの組み合わせのことだ。
 西方の服しか持ってきていなかったユキハネは、実家で生活するようになった一週間、ずっと持ってきた服を着ていたのである。
 有無を言わさずユキハネを連れ出したギンチョウは、その足で自室へと彼女を引っ張り込んだ。
「その服脱いで。あたしの着物、貸してあげる」
「でも、汚してしまったらギンチョウさんに悪いです」
「いいのいいの、どうせあたしの古着なんて多少汚れても大して目立ちやしないんだから。着たい色とかある?」
「それなら、赤で」
 言った瞬間、ユキハネは口を手で押さえていた。
(また、考えるより先に言葉が出てる……
 先ほどの叔母の時と同じだ。考えるより先に口をついて言葉が飛び出る例などごまんとあるが、これはまた違うように思えた。
「赤かあ。今日、あたしが赤を着ていくつもりだったのに」
「あの、それなら違う色でいいです。赤以外も好きな色はたくさんありますから」
「そう? あんたは色が白いし、赤も映えるとは思うけどね。ま、それを言うならあたしも同じか」
 細かいことを気にしない性格のギンチョウは、ユキハネの狼狽を無視して、さっさと着物を用意し始めた。
 彼女が衣装箱から出してきたのは、落ち着いた緑で染め上げられた着物だ。金平糖のように鮮やかな色合いの小花が散っていて、草原の花畑を表したような図柄となっている。
 ユキハネも、一目見てその素朴な華やかさに魅かれた。
「今日は、どこに行く予定なのですか?」
「お店が並んでる通りを、適当にぶらつこうかなって思ってる。せっかくの休みだし」
 ギンチョウは、普段は朝から晩まで潮風亭で働いている。
 だが、流石に連日働くと体がもたないようで、数日おきに休みを入れていた。今日はその休みの日というわけである。
「二人で出かけて、叔母さんは心配しないでしょうか」
「母さんは、昼間に出かけるときはあまりとやかく言わないの。それに、オロシと出かけるって言っておいたから」
「オロシさん、と……
 一瞬言葉に詰まったのは、ギンチョウとオロシが恋人の関係であると知っていたからだ。
 ユキハネとしては、せっかくの恋人の逢瀬を邪魔するのは申し訳ないという気持ちと、フェリキシーに向けた思慕が叶わない今の自分は、恋人たちの姿を見て平静を保てるだろうかという気持ちが半々であった。
「先に言っておくけど、別にあたし達の関係に気を使う必要はないから。むしろ、今日のあいつは単なる付き添いで荷物持ち。いい?」
「は、はい」
 ギンチョウの勢いに押されるまま頷き、そのまま彼女に着付けをしてもらう。
 緑の着物に黒に近い濃紫の帯を占め、淡い桜色の帯紐を締める。自分の袖を包む緑の布地を見ていると、やはりこっちでよかったと思う気持ちが生まれる。
(赤も素敵ですけれど、今の私にはちょっと派手すぎるかもしれません)
 燃えるような赤は、恋人への情熱を膨らませている従姉妹の方が相応しい。ユキハネはそう思いながら、華やかな赤い布地の着物を身につけたギンチョウにそっと視線をやった。
 今日は近所をぶらつくだけということで、凝った飾りなどはつけていない。
 それでも大人と同じような着物に袖を通したのは初めてで感慨深くもあった。幼い頃に適当に着ていた子供向けの着物とは違う。
(なんだか、お母さんのことを思い出してしまいます)
 すでに記憶も朧になっているのに、母も似たような着物姿で自分の面倒を見てくれていた。
 そんな記憶が、ふとユキハネの脳裏に浮かび上がったのだ。
 ユキハネが慣れない着物に感慨を抱いている間に、ギンチョウも自分の着付けを仕上げていた。普段は結んでいる髪を簪で一つにまとめ直しているためか、ユキハネよりも年上にすら思えた。
「じゃ、行こっか。ユキハネはどこか行きたいところ、ある?」
 ギンチョウに軽い調子で尋ねられて、ユキハネは瞳を瞬かせる。
「今日は、ギンチョウさんのお休みなのですから、ギンチョウさんの行きたいところを優先してください」
「その気遣いはありがたいんだけどさ。あたしとしては、あんたの気晴らしも兼ねられたらって思ってるんだけど」
 突然自分が主役にあげられて、ユキハネは一瞬面食らってしまう。だが、ギンチョウの中ですでに決定事項だったようだ。
「だって、ここに来てからのあんた、ずっと塞ぎ込んだ顔してるんだもの。ちょっとくらい出かけて、気晴らしした方がいいんじゃない?」
 思い当たる節は、いくらでもある。
 自分を置いていったフェリキシーのことを考えない日はなかったし、彼が去っていった事実を振り返るたびに胸が痛む。
 最近では、彼の顔を思い浮かべるたび、例の矛盾した怒りが湧き上がってもいた。その時の自分がいつも平静を装えていたとは思えない。
「ありがとうございます、ギンチョウさん」
「お礼を言われるようなことじゃないっての。ただでさえ、あんたには母さんに付き合ってもらってる恩もあるわけだからさ。返せるうちに返しておきたいってだけ」
 今の発言は、ギンチョウにとってユキハネの滞在は一時的なものだと思われていることの証でもある。
 いずれ、ユキハネがここを発つ日が遠からず来ると思われているのは、今のユキハネにとって切ないような嬉しいような複雑な心境だった。
 ともあれ、今日は行きたいところを伝えるべきだろう。
 だが、ユキハネはクガネに来て日も浅い。どんな店があるかも知らない彼女が結局選べたのは、
「あの……それでは、冒険者の道具を扱う店など、ありますでしょうか」
 
 ***
 
 クガネは、ひんがしの国で唯一外へと開かれた街だ。
 そのため、常日頃から、まるでお祭り騒ぎのように、異国から来た人々でごった返している。商店が立ち並ぶ通りだと、その最たるものだ。
 まず、ギンチョウの希望で楽座街と呼ばれる通りを歩くユキハネは、その人の多さに目を回しそうになった。ケイと歩いたときに通ったはずだが、あの日は天気が悪かったので、人出は少なかった方だったのだと気付かされる。
「ユキハネ、びっくりしたんじゃない? こんなに人がたくさんいるところって、西でもそうそうないでしょ」
「はい、驚きました。リムサ・ロミンサの大通りも似たような雰囲気ではあるんですが、こちらとはまた趣が異なりますから」
 どちらも人でごった返している点では一致しているが、クガネはそれに輪をかけた勢いを感じる。
 ふらりと店先を歩いているだけで客引きに無理やり品物を買わされそうになり、慌てて頭を下げて逃げてきたほどだ。
「クガネはひんがしの他の国よりも、商いに関する規制が緩い。そのせいで、内地ではできないような強引な商売をする連中も少なくないんだ」
 人混みに目を回しているユキハネに説明をしてくれたのは、今回の外出の荷物持ちとして引っ張り出されたオロシだ。
 ただ荷物を持つだけでなく、今は人波に潰されないようにギンチョウとユキハネを庇うかの如く、彼は二人の前に立ってくれてもいた。
 だが、ギンチョウは体の大きなオロシが前にいるせいで、店の品物が十分に見れないのが不満らしく、何度も前へ出ようとしていた。
「おい、ギンチョウ。女がそんなに先走って前に出るな。他の連中にぶつかったら、怪我をするだろう」
 オロシとしては、彼なりに気遣いをしたつもりなのだろう。だが、ギンチョウは細い眉を吊り上げ、キッとオロシを睨んでから、彼の腕を強引に掴んでぐいぐいと通りの端に向かう。
 一体どうしたのかとユキハネが彼らの後を追うと、ギンチョウが今まさに、自分よりも一回り大きなオロシを睨みつけているところであった。
「あのさ。あたしのことを、男に守られないと外も歩けないような軟弱な女扱いしないでって、前にも言わなかったっけ?」
 ギンチョウの言葉の鋭さに面食らったのは、言われたオロシよりもユキハネの方だった。
 思い出す限りでも、自分はフェリキシーに今のような挑みかかるかの如き声音で話しかけたことなど一度もない。
 つい先日「オロシに嫌われたらどうしよう」と弱音を吐いていたと思えないほど、ギンチョウの振る舞いは毅然としていた。
(でも、これでオロシさんがもし気を悪くしてしまったら、どうしましょう……
 おそるおそるユキハネが様子を伺ってみるも、対するオロシもギンチョウの言葉に狼狽える様子もなく、真剣な顔で向き合っている。
「ギンチョウがそう言っていたのは覚えている。だが、お前は男よりも小さい。人混みでは、お前の小ささを気にせずにぶつかってくる者もいるだろう。その時にお前が怪我をするようなことがあったら、お前は良くても俺は嫌だ」
 オロシの説明は理路整然としていて、正当な主張のように聞こえた。
 ギンチョウも同様の感想を持ったのだろう。一瞬不満げな表情を見せたが、頭ごなしの反論はしなかった。その代わりに、
「でも、あんたが前に立つと、見たいものが見れないの。それじゃ、あたしの息抜きにならないんだけど」
 ギンチョウの言葉にも一定の説得力はあった。
 二人はどうするのかと、ユキハネが交互に二人の顔を見比べていると、
「それなら、俺はお前の横に立つ。ユキハネ、お前はギンチョウの隣に立っていてもらえるか。道場で見たあの身のこなしができるお前なら、人混みが近づいたときにこいつに警告ぐらいは送れるだろう」
「は、はい。わかりました」
「ちょっと、あたしをお姫様扱いしようってわけ?」
「雑踏の中ぐらいは、そうさせてくれ」
 ギンチョウは唇を尖らせていたが、先ほどよりは不満の色は薄い。オロシが自分を気遣ってくれていることは、彼女もわかっているのだろう。
「じゃあ、そういうことで。ユキハネ、あんたは大丈夫なの?」
「はい。人混みには慣れていますから」
「そう。あーあ、あたしもユキハネみたいに身軽になれたらな」
「ギンチョウさんも、練習すればできるようになりますよ」
「それなら、今度オロシに教えてもらおうかな」
 ギンチョウが見やった先、オロシは沈黙を維持したまま首を横にも縦にも振らずにいた。
 話に蹴りをつけて、再び商店街を歩き始めるため、言われた通りユキハネはギンチョウの隣を歩きながら、漫然と通りの品々を眺めていた。彼女の頭を占めていたのは、クガネの珍しい品々ではなく、先ほど目にした二人のやりとりだった。
(私、あんな風にお師様にくってかかったことなんて、一緒に冒険者として旅立ってから今まで、一度もなかったと思います。だって、お師様の示す道は、いつも正しかったから)
 少なくとも、ユキハネにとっては正しいと感じられるものだった。
 だから、今、こうしてユキハネは苦しんでいる。
 彼の示した正しさ――ユキハネを家に残していく、という選択に従いたくないと、初めて彼の意見に逆らいたいと思ってしまったから。
……ギンチョウさんは、いつもあんな感じで、オロシさんとお話をしているのですか」
 気づけば、隣を歩くギンチョウに尋ねてしまっていた。
 いつの間にか買っていた飴細工を舐めていたギンチョウは、きょとんとした顔になると、
「あんな感じって、どんな感じのこと?」
「あの……先ほどみたいに、オロシさんの行動が間違っている、といったような感じの……
「ああ、あれ? もしかして、驚かせちゃった? 別にあれ、喧嘩でもなんでもないからさ」
 はい、とユキハネにも飴細工が渡される。
 試しに舐めてみると、林檎の甘酸っぱい香りが砂糖の甘味と共に口の中に広がった。
「オロシはいいやつだけど、たまに母さんみたいに口うるさくなって、あたしのやりたいことを邪魔することがあるのよ。あいつなりの気遣いってやつなのは分かるんだけど、あたし、そういう息苦しいやつは耐えられない性分だから」
 知ってるでしょ、と相槌を求められて、ユキハネもつい頷いてしまう。
 ちらりとオロシを見やると、ギンチョウの言い様に納得しているのか、頷きが一つ返ってきただけだった。
「でも、オロシさんの意見を否定して、嫌われるとかは……思わないのですか」
 その質問に、ギンチョウは何やら面映そうに頭を掻き、しばし口ごもる。
……そりゃ、後から言いすぎたかな、とか思うことはあるけど。でも、無理して我慢し続けたら、あたし、いつかオロシのこと嫌いになっちゃいそうだし」
 ギンチョウが見上げた先では、オロシも彼女と同じような顔をしていた。
「俺は、こいつとは違う環境で育った。俺にとっての常識が、こいつにとっては非常識だったり、押し付けがましいように感じる場面もあるんだと、俺も最近知ったんだ」
「前のあんた、本当に酷かったからね。女は箸一つ持てないみたいな言いっぷりでさ」
 ギンチョウにつつかれ、オロシは何か苦い物を噛んでいるかのように唇を曲げる。
 かつての自分を振り返ることは、それほどまでに彼にとって認め難いことのようだ。
「俺は、女とは男よりも弱く、男が守らねば何もできないものだと、ずっとそう思っていた。女は体が弱い。男に比べれば、力もない。彼女らは男の後ろに立って男を支えるものだと、父上や周りの連中からずっとそう聞いていたんだ」
 それは、ユキハネが道場で感じたことでもあり、同時にこの短い間共に過ごしていた叔母夫妻の振る舞いからも時折感じていたことだ。
 アウラ族は、男女の体格差がとりわけ大きな種族であるからだろうか。叔母は折に触れて、女の幸せは働き者の若者の花嫁となり後ろに一歩下がって彼らを支えることだと話していた。彼女自身、夫のシノツキをそうやって支えてきたのだろうが、ユキハネとしては馴染みのない考えにその都度違和感を覚えていた。
 オロシは、苦いものを噛んだような顔のまま、話を続けた。
「だが、女だろうが男だろうが関係ない部分もある。体格差も力の差も変えられないが、だからと言ってずっと後ろに下がっていろと言われるのは不愉快だと感じる奴もいる。それを、ギンチョウと会ってからは何度か痛感させられている」
 オロシとギンチョウの出会いは、道場に配達に来た彼女を手伝ったことからだと聞いている。オロシが食器を片付ける手伝いをしてくれたとギンチョウは語っていたが、この調子なら、出会った時からギンチョウはオロシに食ってかかっていたのかもしれない。
 だが、オロシはその反抗を受け止め、自分なりに考えを改めようとした。だからこそ、反抗的な姿勢を見せたはずのギンチョウも彼を受け入れ、思い合うまでになったのではないか。ユキハネは、そう思った。
「あんたって昔は、女のことを、何もできないお飾りの人形みたいに思ってたでしょ」
 遠慮のない物言いに、オロシは元々引き結んでいた唇にますます力を込める。
「女は弱いからってよく言うけどさ。あんたの言う弱いって、力が弱いとか体つきが華奢とか、そういう意味でさ。それを全部一絡げに『弱い』って言われたら、こっちも頭にくるって言ってやったことがあるのよ。あたしだって、考える頭ってやつがあるんだから」
 ギンチョウはにやりと口元を吊り上げ、オロシの脇腹を肘で小突く。オロシは素直に頭を下げこそしなかったものの、瞑目した彼の表情からは、深い自省が感じられた。
「それでも、無意識に出ちゃうことがあるのよ。今日みたいにね」
「だが、人混みに潰されて怪我をしたという事例も聞いたことがある。お前もたまには俺の話を聞け」
「はいはい。そういうところ、ほんとうちの母さんそっくり」
 言いながらも、ギンチョウの声音には言葉ほどの嫌悪はない。
 先に行こうと促す彼女の後に続きながら、ユキハネは二人の言葉を再びなぞり直していた。
(無理をして我慢をしていたら、いつかは好きな相手でも嫌いになってしまうかもしれない……
 ごく当たり前の一般論だ。ユキハネとて、その程度のことはわかっていたつもりだった。
 なのに、フェリキシーに置いていかれると思ったとき、自分は去り行く師の背に取りすがろうともしなかった。
 きっとギンチョウなら、オロシが相談もせずに自分を置いていなくなろうとしたら、怒るだろう。自分の怒りを、相手にぶつけるだろう。
(でも、それは相手に傷ついて欲しいからじゃない)
 オロシも言っていた。
 彼とギンチョウは、大店の息子と職人の娘という、全く異なる環境で暮らしてきた。
 だからこそ、お互いにわからない部分や噛み合わない部分がある。
 真剣に共にいたいと願うからこそ、それらを擦り合わせるために、自分の感じたことをぶつけ合っている。
 それは、今日までユキハネがしていなかったことでもある。
 再び歩き出した二人についていきつつも、ユキハネは俯いたまま思う。
(私は、関係が変わってしまうのが怖くて、お師様に尋ねられなかった。私のことをどう思ってるのかって)
 フェリキシーは、自分に逆らったからと言って、それだけで相手を嫌う人ではない。彼の過去を知っているユキハネは、そのことをよく知っていたはずなのに。
……それに、何も言わずに一方的に置いていくなんて、私は納得していません。それなら、私は……もっとお師様に言うことがあったはずなんです」
 小声で己に囁くと、独り言が聞こえたのか、ギンチョウと目があった。彼女は片目を瞑り、その意気よと口だけを動かして、ユキハネを励ましてくれた。
 顔を持ち上げ、前を見る。
 周りには沢山の人が思い思いの言葉をかけ合いながら歩いている。何気なく見えた一人一人の通行人の顔すら、彼らなりに人と人の関係を積み上げてきた結果なのだと、今なら素直にそう思えた。
(お師様が帰ってきたら、ちゃんと話さないと。お師様が、一人で納得してしまう前に。私が、お師様を嫌いになってしまう前に――
 そう思った矢先。
 
『話をして何になると言うの?』
 
……え?」
 思わず、足を止める。
 まるで耳元で誰かに囁かれたように、角の奥まではっきりと声が響いて、思わず角に手を当てる。
 どうしたのかとギンチョウたちが目顔で尋ねているが、周囲を見渡してもそれらしき人影は見えなかった。
「すみません。気のせいだったみたいです」
 二人にはそう言って先に行くよう促すものの、数歩歩くうちに言葉がユキハネの口をついて出ていた。
……私を置いて行ったあの人を。私は、許さない」
 ユキハネ自身ですら自分が話したと気づかないほどの、糸のように細い音。
 だが、その音が雑踏に消える頃には、ユキハネの心の端には小さな炎が点っていた。
(私は……私を置いて行ったお師様のことを)
 そこで、一度ユキハネは瞳を瞬かせる。
「お師様のことを……? いえ、でも私はあの人って……
 それは、一体誰のことだろうか。いや、迷うまでもない。今の自分が考える相手など、お師様と呼ぶ彼しかいないはずなのだから。
(そう、私は、あの人のことを……
 一度胸に灯った炎は、すぐに心の内側に溶けて消えていく。
 だが、悲嘆は彼女の中に依然として残り続けていた。
 小さな怒りへと、形を変えて。