ひなげし
2026-06-04 20:15:07
4609文字
Public 狛日
 

凡庸なる愛惜

未機パロ/狛日 (30歳)
第100回狛日版週ドロライ「告白」「答え合わせ」
当直勤務の眠気覚ましに目が覚める話をねだる日向と、打ち明け話をする狛枝の話。愛してると言わない愛の話。

 狛枝が振り向き、椅子がぎしりと音を立てた。
「日向クン、大丈夫?」
「あーーだめだ」
 日向は、缶の中身をすすった。買ってきて数時間経ってしまった缶コーヒーは、冷たくも温かくもなく、残業の眠気を飛ばすには到底刺激が足りない。だが、どこでも再び買えるようになったコーヒーだ。学生の頃、試験勉強のお供に背伸びして飲んでいたせいか、愛着はある。
 それでも目を覚まそうとして、目を擦る。
 隣の席の狛枝が、くすりと笑った。
「限界そうだね」
 日向は視線を上げ、壁時計を見つめる。時間は二十三時をすぎていた。
「でも、帰るわけにはいかないだろ」
「テロの予告行動に近い動きがあったんじゃ、仕方ないね」
 数時間前、退勤ギリギリになって未来機関が管轄する発電所近くで、爆発騒ぎがあった。送電線が一部破壊され、復旧を始めた都市の一部が停電状態となっている。
 破壊の足音はこの数年でとっくに聞き慣れてしまっていた。これから、また絶望の残党の衝動的騒ぎが始まるかもしれない。沈静化してきたとは言え、規模感のわからない相手だ。おかげで当直配備がされた。何か事態が大きく発生した時に備えて、各部署数名ずつ最低限施設を稼働できるように駆り出されている。
 日向と狛枝は、今回の当直配置のペアだった。深夜に片足入りかけた空っぽのオフィスで二人きり、パソコンの青白い光を浴びていた。
「でも、待機時間に通常業務に手をつけてるのは日向クンぐらいじゃないかな。もっと気楽にしてたら? 隣の部署の人なんか、休憩室で寝ちゃってたよ」
「寝てるのか? 気楽なもんだな」
「最近は全部が全部暴動化まで発展するわけじゃないからね。そう考えたら、そのへんに転がって寝落ちしちゃってる職員なんて、平和の象徴みたいなものじゃないかな」
「なんかかっこ悪くて嫌だな、その平和の象徴」
 肩をすくめ、飲み干した缶を置く。
 狛枝のパソコンを覗き見ると、膨大なマス目上で爆弾探しをしていた。平地がずいぶんと広がっているのを見るに善戦しているようだ。静かにしていると思ったら、こいつも気ままな平和の象徴をやっていたらしい。
 視線が合うと、狛枝は肩をすぼめて小さく笑った。
 ふわりとあくびが込み上げる。
「狛枝、なんか目が覚める話ないか?」
「ボクが起きておくよ。少しぐらい仮眠していいのに」
「いいや、絶望患者の支援計画書だけは先に仕上げておきたいんだ。早ければ早いほどいい。だって……誰かに関わるだろ?」
 狛枝が僅かに笑んだまま、そっとため息を漏らす。呆れのようにも、受容のようにも思える吐息だった。白い指先が、黄色と銀色のブルーラムの缶を撫でる。
「うーん、目が覚めそうな話か。……あるにはあるかな」
「なんだ?」
「実はさ、ずっと前から日向クンと寝てみたかったんだよね」
「今度お前が観たいって言ってた映画でも借りてきて、布団敷いて川の字みたいに寝てみるか?  川の字には一人足りないけど」
「キミとセックスがしたいって意味なんだけど」
 狛枝が日向を遮るように、かぶりを振った。
「性行為だよ。過度に乱暴にしたりしない、肌が触れ合って濡れる、ちゃんと気持ちのいいやつね」
「徹夜で頭やられでもしたか? いい歳こいて徹夜でブルーラムなんて飲んでるから」
 薄灰色の瞳と視線が絡んだ。言葉が止まる。
 揶揄いも、皮肉も、嫌悪もない。ただそこには無風の湖畔のように、凪いで美しい瞳があった。
 そっと息を呑む。
 これだけ長く付き合っていても、わからないこともある。むしろ、わからないことの方が多い。だけど、お前の仕草、癖はよくわかっていた。プログラムの中、錯乱する治療の中、そして日常の中。本当に柔らかな部分を見せる時、笑みと軽やかさのあるベールを纏って、二人きりの時にひっそりと打ち明けてくる。
 こいつは、沈黙だけは雄弁だ。
 だったら、これは。
 日向は手を握り込む。乾いていた喉を震わせた。
「嘘じゃ……ないんだろ?」
「どっちだと思う?」
 機械の手に顎を乗せ、狛枝が薄く笑む。密やかな空気に、あの薄く纏うベールを感じた。細い雨の匂いがする。柔らかくてほんの少し湿っぽい。
「何年一緒にいると思ってるんだよ。……わかってる」
 日向は俯き、吐息を漏らす。
 ああ、やっぱりそうか。
 日向クンと寝てみたかった。
 キミとセックスがしたい。
 狛枝の言葉を胸の中でそっとなぞる。日向がわかるように言い直したそれは、冗談のようにも聞こえる声音の中に、ほんの少し混ぜられた真実があるように思えた。
 だって、俺は、お前が本当に欲しいものに素直に手を伸ばせないのを知っている。死臭と血の海を歩いてきたようなヤツだ。
 さみしさと、ひたむきさがなんだか、切ない。ため息が出そうになる。
 男と男がセックスできるかだなんて、わからないし、俺がこいつに勃つかもわからない。俺がお前にちゃんと応えられるかはわからない。だけど……
……求めてもらえるのはうれしい。俺にできることなら……応えたい」
 視界の端で緩慢に近づいてくるものがあった。狛枝が手を伸ばしてくる。ほんの少し低い温度の指先が、頬に触れた。身体がぴたりと動かなくなる。
 ぎしりと椅子が軋む音がした。狛枝が身体を寄せてくる。鼻先がくっつきそうなほど近づく静かな顔を、正面から見つめる。
「悪癖」
 吐息が耳たぶを掠める。指先が頬を滑って、最後に耳たぶを引っ張った。軽くだから、痛くはない。だけど、甘く切なくなるような感覚が、身体の奥深くで疼いた。
 狛枝の身体がそっと離れる。感覚が残り続ける耳に手を伸ばすと、そこは熱を持って火照っていた。パソコンの光に視線を移した薄灰色を凝視していると、狛枝はやれやれと手を振った。
「ボクが言うのもなんだけど、自分くらい大切にできるようになりなよ。ボクのこともそうだし、この間廊下で人目憚らずキミに迫ってた女の子にもそう。付き合ってって言われてたでしょ」
「見てたのかよ」
「あれだけ騒がれてたらね」
「別に、押しに負けたわけじゃないからな。かわいそうだけど、ちゃんと一旦帰ってもらったし……
「ふーん。どうだか。そのうち負けるんじゃない?」
「そんなわけあるか。その、俺はあいつのこと何も知らないのに、俺のことも……知らないのに。わかってて貧乏くじ引かせるのは、なんか……悪いだろ。そういうの」
 狛枝は首を振り、あからさまなため息を吐いてみせた。
「日向クン、アイランドモードで何股してたっけ?」
「うっ……わ、わかってるよ」
「ほんとうに? キミは愚かにも求められたらなんでもしたくなっちゃう人だよ。それが誰かのためになるのならね。だから、自己が揺らぐ。本当は何が大事か、何が好きか、わからなくなる。あーあ、可哀想にね」
 こいつの言葉はいつも痛い。見て見ないふりをしている膿んだ傷を、忘れるなと引っ掻いてくる。丸裸の俺を知っていると、その目で見つめてくる。確かにお前の言うように、普段の俺はそうかもしれない。だけど……胸の上をなぞり、切なく疼く思いを確かめる。
……お前のは、驚きはしたけど嫌とは思わなかった」
 僅かに薄灰色の瞳が見開く。
 日向は密やかに吐息を漏らした。
「なんでだろうな」
 目を閉じる。胸の内を探り、言葉を探す。
 ふと、耳の奥で雨の音がした。
 眼裏に景色がよみがえる。あの日の夜、日向は寝台の上で強く目を閉じていた。心臓が身体に血を送り、拍動するたびに重く頭が痛む。発作のようなものだった。頓服を服用したが、効きが悪い。
 日向は拳を握り、唇を噛み締めた。
 大丈夫。薬は効く。だから、大丈夫。
 あと少し、すこしだ。
 熱を持つ頭を、冷たいシーツに擦り付けていると、外から空気が流れてくる気配がした。布が床を擦る音がして、ベッドの淵が重さに沈んだ。
 誰かがそっと日向の頭を撫でる。誰かなんて、この家には日向以外には一人しかいない。彼の唯一残っている生身の温度の低い手が、髪を掻き分け地肌を滑っていく。拍動し、ずくずくとした痛みが、僅かに遠ざかる。身を縮め強張った身体が徐々に緩んで、血が流れ始める。薄明かりの中、握りしめて爪の痕が残った手のひらが見えた。
 日向は深く息を吸い込む。吸い込むことができた。見知った匂いが隣にある。
 安心するし、気持ちがよかった。
 薄目で見つめる、手のひらごしのレースのカーテンからのぞいた夜明けの薄明かり。色彩はほとんどなく、だけど、深い群青と滲んでいく白だけは静かに目に染みた。傲慢にも許されてると思ったし、緩やかに地肌を撫でる温度の低い指先は逃げられない痛みを和らげてくれた。
 俺はきっと、あの光景と温度を美しいと、愛しいと思ったのだ。全く口にするには顔が赤くなるほど、凡庸で稚拙な感想だ。
 この静かな納得を、情動をうまく言葉にできない。表現することもできない。でも、お前が許してくれる隣の温度と色彩が、どんなものか興味がないかと言われたら……ないわけではない。どうしてだか気恥ずかしいけれど、そう思えた。
 だから、きっと。僅かにでも応えたいと思ったのは、偽りじゃない。
……本当に俺がだめだった時、何も聞かないで冷たい手で頭を撫でてくれる、お前の手とカーテンから覗く外が綺麗だから……かもな」
 無言で日向を見つめていた狛枝は、まだ残っている白い生身の手を見下ろした。ややあって、その手のひらが柔く拳を作る。
「あはっ、じゃあ日向クンの恋人候補にでも立候補しちゃおうかな」
 白い顔に、ぱっと笑みが浮かぶ。耳の奥で響いていた雨の音が遠ざかる。空気が軽やかなものに変わった。
「どうしてそんな話になっちゃうんだよ」
「嫌じゃないなら、全く脈がないわけじゃないんでしょ。ボクならいくらでも日向クンを見ていてあげるよ。凡庸で、可哀想で、どうしようもないほど未熟で愚かで誰からも愛してもらえなかったキミも全部。……嫌になるほどにね」
「相変わらず、嫌な言い方は治らないな」
「でも、安心するんじゃない? 虚飾に塗れた表面だけ見てくる薄っぺらい言葉なんて、キミは嫌いなはずだもんね。だから、あの女の子の告白も薄ぼんやり見てたんじゃないの?」
「なるほど」
 日向は頷く。
「お前の方が俺を知ってたってことか」
「ふふ……どういたしまして」
 ため息を一つ。受容にも似た気持ちで、薄灰色の瞳を見つめる。
「だけど、ほどほどにしてくれよ。友達のお前がいなくなるのは、さすがにさみしい」
「どうして? ボクはボクじゃない」
……今のままでも、居心地がいいんだよ。お前の望みに応えてやりたいとは……思ったけど、それは別に怖くないってわけじゃない。それに恋人なんて浮かれた表現、らしくないっていうか」
「まぁ、今とあまり変わらないと思うよ」
「そんなもんなのか? でも、さっきお前……
 俺とセックスがしたいって言わなかったか。
 そう言おうとして、言葉を呑み込む。机の上に放り出していた手に、白い手が絡んでいた。
 じわりと手のひらに汗が滲む。拒む気は不思議と湧いてこなかった。
「たぶんね」
 狛枝は振り解こうとしない日向の指先を見つめ、おもしろおかしそうに微笑んだ。