吾妻
2026-06-04 00:53:56
8137文字
Public アークナイツ
 

イコノクラスト

■里博。博の性別不問。できてる。リケーレのボイスを聞いて感じたことを昇華しておきたかった

 地獄の底に射す光に、有り難みなんてあるものか。
 特に頭上に勝手に浮かんで、消灯スイッチすら搭載されていない蛍光灯なんて。
 子供だろうと容赦しないハイエナどもがうろついている路地裏で、何度この輪っかを呪ったかわからない。ご丁寧に餌の居場所を相手に教えてやっているようなものだからだ。
 どうして。
 どうしてこんな、狼の巣食う掃き溜めなんかで。
 背を縮め、頭を庇って、蹲らないといけないんだろう。

 生き延びる妨げになるくらいなら、とっとと捨てちまいたかった。
 だって、命あっての物種だろう? 死んじまえばそこで全てがおしまいだ。
 恩寵だの共感だの。主の御許ラテラーノを離れた天使サンクタには腹の足しにもならない。ただ邪魔なだけ。

 ――本当に?
 どの口で言うんだ?
 お前だって結局、その天上の〝甘さ〟の虜になったくせに。


            *


 尾けられている。
 訓練所を出たあたりからだ。

 素人の遣り口に思える。少なくとも訓練を積んだ人間の振る舞いではない。内勤のスタッフあたりだろうか。
 愛の告白とか。艶めいた話題だったら、まだいいのにな。いや、正直それも面倒だから、できればパスしたいが。
 何しろ相手に心当たりがない。窓ガラスで軽く確認してみたが、見たこともない顔だった。
 正であれ負であれ。見知らぬ人間から向けられる感情は、往々にして一方的なものだ。
 泥濘に足を取られたくはない。見えている厄介ごとは、可能な限り迂回して生きていきたい。能天気に、満たされた顔をして、目先のことだけを考えて。それはきっと、サンクタらしい生き方だろう。
 自分にそれができているかはわからないが。
 
 何しろリケーレ・コロンボは、ある種後天的なサンクタだ。
 純粋培養のラテラーノ人とは、やはり少し違うのだろう。
 とはいえ、ラテラーノに迎えられてからこれまで、然程困ったりしていないのも事実ではある。時折、彼らが爆発に傾ける情熱に辟易したりもするけれど、ドーナツは甘ければ甘いほど良いと思えるし。
 だから、自分が『サンクタらしいサンクタ』なのか、そうではないのか、生まれてこのかたずっと、判断がつかずにいる。

「い、インサイダーさん!」
 尾行者が意を決して声をかけてきたのは、ひと気のない艦内通路の片隅だった。
 敢えてここまで誘導したのだと、果たして相手は気づいているのだろうか? 他所行きの愛想の良さを装備してから振り返れば、ロドスの制服を着た若い男がひとり、緊張に顔を強張らせて立っていた。

……失礼、お名前を伺っても?」

 同僚イグゼキュターほどではないが、職業柄、人の顔を覚えるのは得意なほうだ。だが、記憶をいくら漁ってみても、やはり目の前の男の情報は出てこない。つまり、初対面ということだ。
 相手はこっちのコードネームを知っていた。そして、何らかの――おそらくは和やかではない類の――感情を抱いている。
 参ったな。人の顔を覚えるのと同じくらい、表面上の世渡りには自信があるんだが。仕事上やむを得ず軋轢を生むこともある聖都と違って、ロドスではお行儀良く過ごしているつもりだ。見ず知らずの人間から恨まれる覚えなんてあるはずもない。
 ――たったひとつの要因を除けば、の話だが。
 名乗る男の声は僅かに震えていた。その張り詰めた声からは、やはり緊張よりも刺々しさが伝わってくる。
 まるで感情を押し殺しているような。たとえば、そう。煮えたぎる怒りを。

「パオロさん、それで今日は一体どういったご用件――
「どういうつもりなんですか!?」
 
 静かな通路に、やや裏返った怒声が反響する。
 必死に堰き止めていたマグマが限界を迎えて噴火した。月並みな表現だが、そんな感じだった。
 男の顔は紅潮し、体の横にぶら下げた拳はぶるぶると震えていた。
 ぶつけられる感情が苛烈であるほど、対するこちらは冷静になる。こういった場合、熱くなったほうが負けなのだ。シラクーザで学んで、ラテラーノでも通用したセオリー。そいつがこれまで、この命を長らえさせてきた。
 それに、一見不条理で支離滅裂なやつの怒りが何を源泉としているのか、だいたいの目星はついている。
 特徴的なブルーを基調とした制服をしっかりと着て、社員証を首から下げて。それだけでも、彼のロドスへの強い帰属意識が見て取れる。果たしてその忠誠は、どこに、誰に捧げられているのか?

「ドクターに……っ」

 とうとう核心がまろび出て、点と点が線で繋がって、すべてがストンと腑に落ちた。

「ドクターに武器を握らせるなんて、どういうつもりなんですか!?」

 ああ、やっぱり。そういう手合いか。
 怒鳴られているのに、思わず笑ってしまった。はは、と漏れ出した声は、相手の感情を的確に逆撫でしたらしい。

「何を笑って……
「あんたもしかして、ドクターは何があっても死なないとでも思ってんのか?」

 勢い余って、愛想のいい外面が剥がれ落ちてしまった。
 愉快と不愉快が綯い交ぜになって、妙にハイになった。冷静さを失ったら負けだとわかっているのに。
 もしかして自分は、案外怒っているんだろうか? 相手の怒りに当てられているわけではなく?
……ど、どうして、そんな話になるんだ」
 男は明らかに狼狽えて、身構えた。まさか、あんなふうに言い返されるとは思っていなかったんだろう。
「僕はただ、あの人に武器を握らせるべきじゃないと……
「同じ話じゃないか? 人間、戦場に立つなら、護身の方法のひとつくらい知っておいて然るべきだろ。それともあんたは、武器を向けられたら両手を広げて受け入れるべきだって言うのか?」
 らしくないな。頭の中で、もうひとりの自分が鼻で笑う。
 面倒ごとをうまく避けて、当たり障りなく。
 能天気に、満たされた顔をして。
 目先のことを目一杯に楽しむ、サンクタらしいサンクタとして。
 身の程を知って、分不相応な問題には手を出さずに生きていくこと。
 それがモットーだっただろ。なぁ、リケーレ・コロンボ。急にどうしちまったんだよ、らしくもない。
 狂信者ほど怖いものはない。特に、ひとりの人間に理想の皮を被せて偶像として拝むような連中には、近づかないほうが身のためだ。
 ドクターに護身の一環としてクロスボウの扱い方を教えた。たったそれだけのことにここまで目くじらを立てるようなやつとは、そもそもわかり合えるわけがないんだから。
「あの人の手を汚させるなんて……
 男は呆然とつぶやく。
 こちらに聞かせるためではなく、堪えきれずにこぼれ落ちた独白のようだった。
 だからこそ、尚更〝深刻〟なのだ。やつは心の底から、許せないと思っているのだから。
 ドクターが武器を取り、他者を傷つけるなど、あってはならないことだと信じ込んでいる。
 ロドスには、この手の信奉者が少なからず存在するのだ。
 正直、これに関してはドクターも悪い。あれだけ甘い蜜を振り撒いていたら、有象無象が寄ってくるに決まってる。
 眩しくも遠大な理想と、それを〝叶えてしまうかもしれない〟と信じさせる――安っぽい言葉で言うところの――カリスマ性。
 常人離れした頭脳、奇想天外に見えて完璧な作戦指揮。種族や年齢、性別を問わず、万人に分け隔てなく接する博愛性。かと思えば、妙な茶目っ気を見せたり、身体的な脆弱性を覗かせたりもして。
 尊敬の念と庇護欲を同時に掻き立てる。
 つまり、そのへんを歩いているだけで、あちこちの脳を焼いて回っているわけだ。
 しかも、無自覚だから余計にたちが悪い。
 哀れにも脳を焼かれた信奉者たちにとって、ドクターはある種の〝神〟であり、侵し難い聖域なのだ。

 解決できない問題はなく、赦せない悪もなく。
 いつだって理性的で、慈悲深く。
 一片の穢れもあってはならない。

 他人の〝信仰〟に口を出すほど野暮じゃない。本来それは不可侵であるべきで、部外者がとやかく干渉するものじゃない。
 だが、向こうからぶつかってくるなら話は別だ。
 こっちからしてみれば、そんなものは狂信の類でしかない。
 何故なら、驚くほどあっけなく、人間は死ぬ。何よりも平等な〝死〟という獣が、いつ、どこで牙を剥くかなんて、誰にも分かりはしないのに。
 ロドスに籍を置いている以上、この大地の残酷さを、生命というものの脆さを、嫌というほど目にしているはずだろう。
 それとも、〝死〟がドクターだけを避けて通り過ぎてくれるとでも?

「俺はあんたと違って臆病なんでね、あらゆる手を尽くさないと安心できないんだ。偶像を拝んでいるうちに、大事なもんを失うなんて、そんなのはごめんだからな」
「ドクターが武装する必要ないだろう! 指揮官の仕事じゃない。きちんと身辺の警護を固めれば……
「だったらあんたは四六時中、不眠不休で守ってやれるのか?」
「詭弁を! あの人がどれだけ慈悲深くて気高い理想を持っているのかも知らないで……
「ああ、ぜひ教えてもらいたいね。代わりに俺もドクターがベッドの中でどんな寝言を言うのか教えてやってもいい」
……っ」

 男の顔が、今日一番に歪んだ。
 理性や建前を取り繕えなくなって、煮え滾る憎悪が剥き出しになった。
 たぶん、ドクターが他人をベッドに招き入れる可能性なんて想像したこともないんだろう。
 いや、そもそもドクターが人間らしく睡眠をとることすら、彼には許せないのかもしれない。執務室であんなに呑気に居眠りしてるのに? まさかそれすら見たことないなんて言わないだろうな?
 神様は睡眠も取らなければ、男を部屋に連れ込んだりもしないって? だったらご愁傷さまだが、そんな神様はどこにもいやしない。

 ムキになりすぎている。
 分かってはいる。
 けど俺は、本当にごめんなんだ。
 命あっての物種だ。死んじまえばそこで終わりだ。
 光輪と光翼を持って生まれて、指先の延長のように銃を扱えても。どれほど甘いスイーツに溺れたとしても。俺は、目先の理想に全てを委ねて飛びつくことはできない。
 頭上で輝く蛍光灯が、恩寵ばかりを齎すものではないと、シラクーザの路地裏で知ってしまったから。
 円を知らない人間に、円の説明をさせるなんてできるはずがない。ラテラーノの秩序から外れたことのない人間には、その秩序の特異性や貴重性は理解し難い。でも、それでいいんだ、本来は。知らずに生きていけるなら、それは幸福と呼べるだろう。
 だが俺はもう、〝外〟を知ってしまった。
 暴力や、差別。当たり前のように流れる血や、ゴミと同じくらい、その辺に転がっている死。
 知っているからこそ、恐ろしい。そいつらがいつ、自分の大切なものに食らいつこうとするのか、恐ろしくてたまらない。

 ドクターが人並みに笑い、怒り、泣いたりすることを。
 案外子供っぽい我儘を言うことを。
 自分の無力さに苦悩し、打ちひしがれていることを。
 もう、知ってしまったから。
 神のように祀りあげて、その嘆きすら見ようともしないあんたは、一体何を拝んでるんだ?
 盲信が神を殺すなら、俺にはその信仰は必要ない。
 俺は、惚れた相手を神になんてしたくない。
 そんな、手の届かない、万人のための偶像イコンなんかに。

 ぶわりと剣呑な気配が高まって、体が勝手に身構えた。
 共感なんかに頼らなくても、相手の敵意が爆発しそうな気配くらいは察知できる。
 炎国の諺でいうところの、『虎の尾を踏んだ』とか、『逆鱗に触れた』とか。そういった類の煽りをしたのは認めるが。
 おそらく内勤であろう相手に、どれくらい手加減すればいいのか。殴り掛かられるかもしれないという懸念より、そっちのほうが難題だった。怪我をさせるのは流石にまずい。
 男の拳が握られる。利き手は右だ。
 踏み込んできたら拳を避け、腕を捻り上げて床に組み敷く。そのプランが一番堅実か。ラテラーノと違って、相手が銃を持っていないだけ危険度は下がるが、むしろ問題は組み敷いたあとにある気がした。
(俺はロドスの〝身内インサイダー〟ってわけじゃないからな……
 正式な契約を経たオペレーターではあっても、本艦常駐の社員とは立場が違う。
 揉め事を起こした結果、監督役であるドクターに迷惑を掛けてしまっては、本末転倒というものだ。
 それでも、大人しく殴られてやるのは癪だった。俺はロドスの身内じゃないかもしれないが、ドクターの身内ではあるはずだ。それこそ寝言を聞けるくらいには。

 空気がひときわ張り詰め、今にも破裂しそうになった瞬間、
「インサイダー」
 背後から、場違いなほど落ち着いた声が呼び掛けてきた。
 真っ先に反応したのは、目の前にいる内勤のスタッフだった。明らかに動揺し、顔色を失い、視線を泳がせる。
 相手のそんなわかりやすい反応を見るまでもなく、声だけで闖入者の正体に察しはついていた。
 失敗した。もっとも煩わせたくないと思っていた人間の手を、結果的に煩わせることになってしまった。あんたは別に、調停者なんてやりたくもなかっただろうに。
……どうした、ドクター? なにか用か?」
 わざわざ名を呼んで、体をひねって振り返る。思った通りの人影が、廊下にぽつんと立っていた。
「公証人役場関連の案件で、君の意見を聞きたいんだけど」
 ドクターの言葉に、忙しない足音が重なった。翻って確かめなくても、例の熱心な信奉者が一目散に走り去ったのがわかった。
 なんともまぁ、逃げ足の速いことで。憧れのひとじゃないのかよ。
 無意識のうちに皮肉った笑みが口の端に浮かんでしまって、慌てて咳払いをしてみたものの、ドクター相手に小手先の誤魔化しなど通用するはずもない。
「君らしくなかったな」
 ドクターの声には、拗ねた子どもを慰撫するような響きがあった。大して年は変わらないように見えるのに、ドクターは時折、妙に達観した雰囲気をまとう。
 まぁ、見た目が確実に年齢を表すわけでもなし、特にドクターなら尚更だ。俺は別に、年齢や役職を比べて、相手の優位に立ちたいわけじゃない。
「そうか? 俺は案外好き嫌いが激しいほうだぜ?」
「それは知っているけど、可能な限り物事を穏便に済ませたがるタイプでもあるだろう?」
 柄にもなく、過度に挑発的だったと、ドクターは言っているのだ。確かにそれは認めるが、そっちはそっちで、いつから立ち聞きしてたんだ? 全部聞かれていたのかもしれないと思うと、急に恥ずかしくなってきた。なにしろ――
……あんたに関することだからだろ」
 あんなに腹を立てて、相手に食って掛かったのは、他でもないドクターに関することだからだ。
「わかってるよ。その気持ちは嬉しい。ただ、そのせいで君が本来向けられなくていいはずの敵意に晒されるのは、私としても本意ではないんだ」
「なんだ、心配してくれんのか」
「するよ。君のことなんだから」
 さも当然とばかりに笑って、ドクターは踵を返す。進行方向的に、執務室に戻るつもりなんだろう。
 ついてこいとは言われなかったが、別れの挨拶もされていないので、少し迷った末に後を追うことにした。

 しばらく無言で歩いているうちに、沸騰していた思考が徐々に冷えてきて、そうしたら今度は段々と居心地が悪くなってきた。
 俺は、どう逆立ちしたって、さっきの男の思想には賛同できない。見たいものだけを見て、信仰対象を理想の型に嵌めようとする傲慢さには嫌気が差す。
 でも、俺がやつと同じでないと、本当に言い切れるのか?
 ドクターに人並みの弱さや狡さがあってほしいと――〝ただの人間〟でいてほしいと望むのもまた、身勝手な理想の押し付けではないのか。
「私は、誰かに強いられて聖人になるつもりも、誰かのために悪徳を選ぶつもりもないんだ」
 耳に滑り込んできた言葉に驚いて、隣を歩く発言者の顔を見てしまった。読心のアーツでも使われたのかと思った。
 ドクターは、相変わらず涼しげな眼差しをまっすぐ前に向けたまま、ややのんびりと歩を進めている。
「私の行いは、すべて私の意思によるものだし、その責は私が負うべきものだ。誰にも譲るつもりはない。私は欲張りだからね。だけど――
 一度言葉を切って、ドクターがこちらを見上げた。バイザー越しに、悪戯っぽい輝きを湛えた双眸と目が合う。
「同時に、他人を変えることができないのも理解している。誰もが私に対して、好意的な感情や、その逆を抱く権利があり、私にはそれを止められない」
……だからって、誰かの都合の良い神様になってやる必要があるのか?」
「もちろん、表立ってぶつけられたら、私にも拒む権利はあるよ。それが人と人の関わり方だからね。だけど、頭の中まではどうしようもないだろ?」
「じゃあ、俺が頭の中であんたにどんなひどいことをしても仕方ないって?」
「実践されない限りは自由だけど――君の〝ひどいこと〟は本当にひどそうだな……
「ご要望とあらば、今夜実践してやってもいいけどな」
「可能な限り手加減してもらえると助かるが」
「はは」
 他愛もない会話で、ようやく肩の力が抜けた。
 自覚していた以上に、どうやら俺は腹を立てていたらしかった。
「俺があんたをただの人間だと思いたがってるのも、結局は俺のエゴなんだろうな。神様でも救世主でもないなら、俺にだって手が届く」
 含みを持たせた視線を投げかける。ある種の誘い文句だった。
 うまくいけば、今さっき提案したような、深夜の訪問を許してもらえるかもしれない。
 だが、艶めいた誘いに気づいているはずのドクターは、バイザーの奥でわざとらしく片眉を持ち上げた。
「神や救世主じゃないかもしれないが、悪党の可能性はあるだろ」
「あんたが?」
 俺からしてみれば、神や救世主と同じくらい、似合わない肩書に思えるが、ドクター本人はそうでもないらしい。至極真剣な顔で「考えてもみろ」と続ける。
「私は、本来自分が冒すべき危険を君たちに肩代わりさせて、己の手を汚さずに目的を達している悪党だよ。君は、そんな極悪人にも手を伸ばしたいと思うのかな」
 どこまで本気で、どこからが冗談なのかはわからなかった。
 それでも、俺には面白い話に聞こえて、堪えきれずに笑い声が出た。
 何を今更。俺を誰だと思ってんだよ。

 主の御元を弾き出されて、掃き溜めを這いずり回って育った。
 この世のありとあらゆる悪徳、絶望、死や暴力も、とっくに見慣れてる。
 本物の悪党がどれほど救い難く、濁った目をしているのかも。

「こんな可愛い悪党なら、とっ捕まえて朝まで尋問するのもいいかもな」

 俺はもう、楽園の外を知ってしまった。それは間違いなく、不可逆の変化だ。
 だが、知ってしまったからこそ、にじり寄る死の危険から身を守る術を教えることだってできるし、あんたが本当に道を踏み外しかけたその時に、手を差し伸べてやることだってできるだろう。
 まぁ、あんたが堕落を良しとするなんて、とても思えないけどな。

 ドクターはしばらくじっとこっちを見つめたあとで、やがて根負けしたように小さく笑った。
「その尋問に応じるのはかまわないけど、人の寝言をあちこちで吹聴するのは遠慮願いたいな」
……あんた本当に、いつから盗み聞きしてたんだよ」
 そんなの、言葉の綾に決まってる。他人に教えるわけがないだろ、勿体ない。
 結局、押し問答にどっちが勝ったのか、今夜部屋を訪ねても許されるのか、うやむやのまま執務室まで辿り着き、
「それで、公証人役場関連の案件についてだけど――
 己の城のドアをくぐったドクターは、何らかのスイッチが切り替わった様子で、もはや仕事以外の話を受け付けてくれそうになかった。


【おわり】