クドリャフカ
2026-06-03 23:41:21
3170文字
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寺川がトガシくんのマネージャーになる話⑥

🐈‍⬛

 ──6月。いよいよ始まった日本陸上。
 今年の開催地は、名古屋である。

 トガシと寺川は大会前日に現地入りし、名古屋駅近くのホテルにチェックインしていた。部屋はツインルーム。一応、トガシのコンディションを考慮して別々の部屋にするかと寺川は提案していたのだが、トガシがケチって却下した。どうせ東京でも同じ部屋で毎日生活しているのだからもう今更だというのが、トガシの言い分である。トガシはちょっと金にがめつかった。

 さて、その晩のことである。明日の大会本番を控えたトガシは、早くもメンタルを崩壊させていた。

「う"ぅうっ、予選敗退したらどうしよう……っ」

などと不気味に呟きながらベッドに突っ伏し、シーツにくるまってメソメソしていた。なにしろ今年の日本陸上のキービジュアルには、小宮と共に自分の姿がそれはもうデカデカと使われているのだ。現日本記録保持者。優勝候補。誰も彼もが、昨年の決勝を再現するものだと信じて疑わない。これはトガシにとって、とんでもないプレッシャーなのである。

もっとも、そんな当人の現在は恐ろしいくらいに絶好調である。むしろ、ここ数年で最も仕上がっていると言ってもよろしい。その速さは揺るぎなく、怪我の後遺症もない。それでも、不安なものは不安なのである。トガシはそういう面倒くさい男だった。

「もしも、肉離れが再発したら……
「はいはいはい」

隣のベッドに寝転んだ寺川が、スマホをいじりながら気だるげに受け流す。

「大丈夫じゃない? トガシくん速いんだから」
「大丈夫じゃないっ!!!!!!」
……あ、そ。もういいから、とりあえず早く寝なね? 俺はこの後ちょっと外出てくるからさァ〜」

そう言って寺川は欠伸を噛み殺しながら冷たくあしらった。マネジメントは担当しているが、メンタルケアはあいにく業務外なのである。

「──……はァ?」

途端、トガシの声がひっくり返った。

「出掛けるって……まさか先輩、この俺を一人にする気ですか!? しかもこんな夜中に……──はっ、さては女かッ!?!?」
「違うよ」
「あーーーっ穢らわしいっ!!不潔!!最低!!」
「違うって」
「このクズ!!甲斐性なしっっ!!!!」
「聞いてよ」
「うるさいっ、このチンポ野郎がっ!!俺を一人にするなよっ!!さっさとどっか行けっっ!!!!」
…………

完全なヒステリーである。
こうなったトガシを相手にするのは、かなり厄介だった。寺川は靴を履き替えながら心底面倒臭そうに答えた。

「普通に、映画観に行くだけだよ。暇だし」
「えいが……?」
「そうそう。レイトショー」
「ゾンビ?ホラー?」
「サメ」
……………………おれも行く」
「は? いやいやいや、バカじゃん。ついて来んなよ。明日に備えてちゃんと早く寝な」
「行きます」
「予選に響くよ?」
「大丈夫ですよ。俺は速いんで」
「君さぁ…………

トガシはこういう男だった。



 名古屋駅太閤通口。いわゆる名駅の裏側は、戦後の闇市に端を発した猥雑さが色濃く残るディープでカオスなエリアである。二人が訪れたのは、そんな雑多な路地の一角にある小さなミニシアターだった。大手シネコンではまず上映されることのなさそうな所謂マイナー映画やインディーズ作品が日夜上映されており、名古屋界隈の映画好きからは根強い支持を集める場所である。レトロチックな受付窓口で、二人は目当てのB級サメ映画のチケットを2枚購入する。ちなみに寺川曰く、サメが宇宙へ行くというストーリーらしい。あらすじだけで既にクソ映画の気配である。

「絶対クソ映画じゃないですか」
「わかってないなァ、トガシくん。こういうのはね、クソであればあるほど最高なんだよ」
「なんですかそれ……

 上映までまだしばらく時間があったので、二人は適当に外で暇を潰すことにした。名古屋の夜は、いかにも名古屋らしい雑なネオンで煌めいている。東京みたいに洗練されてもないし、大阪みたいにギラギラ主張するわけでもない。ただそれぞれの看板がそれぞれなんとなく好き勝手に光っているのだ。居酒屋の看板、パチンコ屋のLED、古びたビジネスホテルの電飾。そんな色とりどりのネオンがべったり滲むアスファルトの上を、トガシと寺川はあてもなくぶらぶら歩く。

その途中。通りがかりの駐車場の隅で、一匹の野良猫を見つけた。

「寺川さん、猫ですよ!」
「猫だねぇ……

トガシは自然と、猫に向かってふらふら近づいていった。その場にしゃがみ込んで、そろっと手を伸ばす。逃げられるかもと思ったけれど、猫はむしろ待ってましたと言わんばかりにゴロゴロ喉を鳴らして擦り寄ってきた。柔らかい額が指先に触れる。可愛かった。

「すげー人懐っこい。先輩も触ります?」
「うーん……、遠慮しとく」

少し離れた場所で煙草に火をつけながら、寺川が気のない声で返す。トガシは気にせずそのまま猫を撫でた。猫は気持ち良さそうに目を細め、しまいにはゴロンと腹まで見せて寝転がっている。そうしてしばらくもちゃもちゃ揉んでいると、どうやら猫は急に気が済んだらしい。突然するりと身を翻して逃げていった。長い尻尾が暗がりへ消えるのを、トガシはぼんやり見送った。その様子を眺めていた寺川が小さく笑う。

「満足して帰ってったね」
「ですね」

トガシが立ち上がり振り返る。

……先輩、猫嫌いでしたっけ?」
「んー? 別に嫌いじゃないよ」

煙を吐きながら、寺川が肩をすくめる。
ネオンの色を纏った煙が、ゆっくり夜の空気へ溶けていった。

「でもさ、懐かれるとちょっと困るでしょ」
「どうしてですか」

トガシがそばへ戻ってくると、寺川は携帯灰皿に煙草を押し付けた。じゅ、と小さな音がした。ちょうどその瞬間。通り過ぎる車のライトが、彼の鼻筋の通った横顔を一瞬だけ照らしてすぐに遠ざかっていった。寺川はさっきまで猫がいた場所を見つめていた。

「いなくなった時、寂しいじゃん」

ぽつりと呟く。妙に静かで、煙草の煙みたいに夜の空気へ消えていきそうな声だった。寺川らしからぬその言葉に、トガシはちょっと面食らった。

「先輩でも、寂しいとかって思うんですね」
「ハハ、ひどくない?」



 やがて開場時間になり、シアターに入場する。客入りは疎らであるが、ガタイのいい二人は邪魔にならないようにと一番後ろの席に腰を下ろした。狭くて天井の低いシアター内。ふと顔を上げると、映写機の光の中で埃がキラキラ踊っているのが見えた。まるで宇宙塵みたいだなとトガシはぼんやり思う。

映画の始まる直前。
予告編の最中、寺川がそっと口を開いた。

「──明日、もしトガシくんがダメだったとしてもさ、君のマネージャーとして、骨はちゃんと拾ってあげるから安心しなよ」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「んで、そのままウチの神社で祀ってあげる。韋駄天の骨ってことで」

いつもの軽口である。
トガシは小さく吹き出した。

「はは、それも良いかもしれませんね」
「だろ? 任せてよ」
……そういえば、先輩のとこの神社って、なんの神様を祀ってるんでしたっけ?」
「霊鼈」
「れいびつ?」
「河童の神様のこと」
「河童かぁ……

トガシは一瞬想像して苦笑いをする。河童の隣で祀られるのは御免だった。なので、やっぱり走って全部解決するしかないなとスクリーンを眺めながらぼんやり思った。ちなみに、寺川おすすめのサメ映画は、期待を裏切らない見事なクソ映画だった。


 ──かくして、トガシはその年の日本選手権も好記録を叩き出し、次のアジア大会の参加資格を得たわけである。