Hnyanko
2026-06-03 20:09:46
7331文字
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星にまつわるあれやこれについて

人気ソロアイドル🏹と裏方🧡の悠アキです

 星は、夜だけに輝くものではない。

 太陽が昇り、空が青く満ち、人々がその存在を忘れてしまう昼のあいだも、星はひとりでに光を失ったりしない。ただ、見えなくなるだけだ。

 浅羽悠真も、そうだった。

 彼は、見られている時だけ美しい人間ではなかった。

 ステージの上。ライトの下。何千、何万という視線を浴びて笑う彼が美しいのは、当たり前だった。音楽が鳴り、歓声が上がり、カメラが彼を抜く。指先の角度ひとつ、伏せた睫毛の影ひとつ、軽く息を吸うその一瞬までが、計算された奇跡みたいに見えた。

 けれどアキラの目に焼きついて離れなかったのは、その光が消えたあとの浅羽悠真だった。

 楽屋へ戻る短い廊下。汗で額に張りついた黒い前髪。衣装の装飾が照明を拾わなくなった瞬間の、ひどく静かな横顔。ファンの声も、カメラのレンズも、スタッフの拍手も届かない場所で、彼がほんの一瞬だけ息を吐く。

 その顔を、アキラは何度も見てしまった。

 見てしまった、という言い方がいちばん近かった。

 仕事だから見ている。
 進行を滞らせないために見ている。
 転換時間を確認し、導線を確保し、衣装の乱れやイヤモニの不具合や、次の立ち位置への移動を判断するために見ている。

 そう思っていた。

 そう思うことにしていた。

 浅羽悠真は、アイドルだった。

 ひとりでステージに立つ、ソロアイドル。
 歌える。踊れる。喋れる。顔もいい。気の抜けたような軽口で現場の空気を和ませたかと思えば、本番になると、誰よりも正確に光の位置を捉える。

 彼は、自分がどう見られるべきかを知っていた。

 笑う角度も、沈黙の長さも、目線を外すタイミングも。
 ファンが息を呑む一秒と、カメラが欲しがる表情を、まるで最初から身体に刻み込まれているみたいに選び取る。

 だから、浅羽悠真が美しいことに、驚く理由はなかった。

 ないはずだった。

 それでもアキラは、舞台袖の暗がりで見た彼の背中を、何度も思い出してしまう。

 スポットライトの届かない場所で、浅羽悠真は誰にも見せない顔をする。口元に残った笑みを、指先でそっと外すように消す。深く息を吸って、吐いて、ほんのわずかに肩を落とす。疲れた、と言うわけでもない。つらい、と訴えるわけでもない。ただ一瞬だけ、彼の輪郭からアイドルという名前が剥がれる。

 その時の浅羽悠真は、夜が明けても消えない星に似ていた。

 見えないだけで、そこにある。
 誰にも気づかれないまま、勝手に光っている。
 たぶん本人でさえ、自分がまだ輝いていることに気づいていない。

 だから。

「浅羽さんがいない」

 誰かがそう言った瞬間、アキラは真っ先に、光の届かない場所を探した。

 控室前の廊下を満たしていた慌ただしさが、一段階だけ質を変えた。

 スタッフの足音。インカム越しに飛び交う声。誰かが香盤表をめくる紙の音。衣装ケースのキャスターが床を噛む音。どれもさっきまでと変わらないはずなのに、中心にあるものがひとつ抜け落ちただけで、現場全体が傾いたみたいに見えた。

「浅羽さん、まだメイクルームですか?」
「いや、五分前に出ました」
「ステージ袖には?」
「いません。上手も下手も確認済みです」
「え、待って。本番まであと十二分ですよね?」

 誰かの声が、少しだけ裏返る。

 無理もない、とアキラは思った。

 今日の収録は大型音楽特番の生放送だった。浅羽悠真は、その中盤に組まれたソロステージの目玉枠。持ち時間は、たった三分四十秒。けれど、その三分四十秒のために、朝からどれだけの人間が動いてきたかをアキラは知っている。

 照明。音響。カメラ。衣装。ヘアメイク。ステージ導線。演出変更。リハーサルの押し巻き。スポンサー対応。局側との確認。

 たったひとりのアイドルを光の下に立たせるために、見えない場所ではいつも、数えきれないほどの手が動いている。

 その中心にいる本人が、今、消えていた。

「アキラくん」

 名を呼ばれて、アキラは顔を上げた。

 制作チーフの女性が、イヤモニのケースを片手に焦った顔をしている。普段は物事を荒立てない人だが、さすがに今は目元が硬い。

「ごめん、浅羽さん探せる? 私、局Pに捕まってて動けない」
「わかった。行ってくるよ」

 アキラは短く返事をして、手にしていたクリップボードを胸に寄せた。

 今日の導線表。リハでの変更点。出演者の入り時間。警備配置。休憩スペース。非常口。関係者以外立ち入り禁止の動線。

 浅羽悠真が通れた場所は限られている。

「最後に見たのは?」
「メイク終わり。衣装も着てた。マイクはまだ」
「飲み物は持っていたかい?」
「持ってたと思う。水」
「誰かと一緒だった?」
「いや、たぶんひとり」

 アキラは一度だけ廊下の先を見た。

 人の流れがある。だが、混乱しているわけではない。浅羽悠真がいないことは、まだこの一角のスタッフにしか伝わっていない。騒ぎにするには早い。けれど、遅れればすぐに取り返しがつかなくなる。

 こういう時、焦った人間は近い場所を探す。

 控室。メイクルーム。トイレ。ステージ袖。自販機。喫煙所。

 けれど浅羽悠真は、たぶんそこにはいない。

「三階と四階の間の非常階段を見てくる」
「え?」
「そこにいると思うよ」

 言い切ると、チーフが一瞬だけ目を丸くした。

「なんで?」
「リハのあと、上手袖から戻る時に一度だけそちらを見ていたんだ。人の流れから外れていて、監視カメラの死角ではないけれど、立ち止まっても目立ちにくい場所だろう?」

 それから、少しだけ付け足す。

「今の浅羽さんが、完全に逃げるとは思えない。けど、人目から外れたいとは思ったかもしれないね」

 チーフは何か言いかけて、それから飲み込んだ。

「お願い」
「うん」

 アキラは走らなかった。

 走れば不安が広がる。現場でいちばん速く伝播するものは、怒号ではなく焦りだ。だから歩幅だけを広げて、すれ違うスタッフに軽く頭を下げながら、廊下の突き当たりへ向かった。

 非常口の重い扉を押すと、空気が変わった。

 廊下の熱気と照明の白さが一枚隔てられ、冷えたコンクリートの匂いがする。遠くから、会場の歓声が微かに響いていた。誰か別の出演者が、今まさにステージに立っているのだろう。

 アキラは階段を上がった。

 三階と四階の間。

 踊り場に、黒い衣装の背中があった。

 浅羽悠真は、そこに座っていた。

 片膝を立て、壁に背中を預けている。片手には水のペットボトル。もう片方の手は、だらりと膝の上に置かれていた。ステージ衣装の黒いジャケットには銀の装飾が縫い込まれていて、非常灯の頼りない光を拾うたび、かすかに光った。

 その姿は、場違いなほど綺麗だった。

 けれどアキラは、そう思ったことをすぐに頭の隅へ追いやった。

 今必要なのは感想ではない。

「浅羽さん」

 声をかけると、悠真はゆっくり顔を上げた。

 黒い前髪の隙間から、金色の瞳がこちらを見る。テレビで見る時と同じ顔。雑誌の表紙で笑っている時と同じ整った輪郭。けれど今の彼は、笑っていなかった。

 ほんの一拍のあと、悠真は口元だけで笑った。

「見つかっちゃった」

「本番まで九分だよ」

「意外と余裕あるね」
「ないよ」

 アキラは踊り場の入口に立ったまま、腕時計を確認した。

「八分五十秒。上手袖まで戻る時間を考えると、実質五分もない」

「怒らないの?」

「怒った方がいいかい?」

「普通はあるんじゃない? アイドルが本番前に消えたら」

「本番に穴を開けたら怒るよ」

 悠真が、少しだけ目を細めた。

「手厳しいなあ」

「戻れるかい?」

「戻らないって言ったら?」

「理由を聞くよ」

「理由ね」

 悠真はペットボトルを持ち上げた。中の水は半分ほど残っている。飲むのかと思ったが、彼はそれを眺めただけで、また膝の横に置いた。

「ちょっと疲れただけ」

「体調が悪い?」

「さあ。アイドルって体調不良になっても、ステージ出たら治るんでしょ」

「治らないよ」

「夢がないなあ」

「必要なのは夢じゃなくて判断だと思うよ」

 言ってから、少しだけ踏み込みすぎたかもしれないと思った。

 アキラは今日、この現場に入ったばかりの臨時スタッフだった。浅羽悠真の専属でもなければ、マネージャーでもない。制作会社から入っている進行補助のひとりにすぎない。

 本来なら、本人の状態に踏み込む立場ではない。

 けれど悠真は怒らなかった。

 むしろ、面白がるようにアキラを見ている。

「君、名前は?」

「アキラ」

「名字は?」

「今、必要かい?」

「必要かも」

「舞台に戻ってくれたら考えようかな」

「ガード固いね、アキラくん」

 初対面で下の名前にくん付けをされた。

 人によっては距離が近すぎると感じるだろう。けれど、不思議と嫌味には聞こえなかった。浅羽悠真という人間が、そういう距離の取り方に慣れているからかもしれない。

 ステージに立つ人間は、他人との距離を測るのがうまい。

 あるいは、測っているように見せるのがうまい。

「浅羽さん」

 アキラはもう一度、腕時計を見た。

「戻ろう」

「僕が戻りたくないって言ったら?」

「それでも戻ってもらうよ」

「強引」

「仕事だからね」

「へえ」

 悠真は立ち上がらなかった。

 ただ、膝の上に置いていた手を軽く握った。アキラの目は、その小さな動きを拾った。

 指先が、わずかに震えている。

 緊張、ではない。

 浅羽悠真ほどのアイドルが、本番前に緊張しないとは言わない。だがこれは違う。疲労か、低血糖か、あるいはもっと別の何か。少なくとも、このまま何も見なかったことにしてステージに戻していい状態ではない。

「手、震えているね」

「よく見てるね」

「見えたんだ」

「みんな見てるよ、僕のこと」

「そうだろうね」

 アキラは一歩だけ近づいた。

「でも、今の震えは誰も見ていないと思うよ」

 悠真の表情から、薄い笑みが消えた。

 ほんの一瞬だった。

 次の瞬間には、またいつものように口元が緩んでいる。テレビで何度か見た、軽くて、綺麗で、掴みどころのない笑み。

「アキラくん、変なこと言うね」

「そうかい?」

「そうだよ。僕を見てる人間なんて、いくらでもいる」

「うん」

「今日だって、客席にも、カメラの向こうにも、スタッフにも」

「うん」

「なのに、誰も見てないって言うんだ」

 責めるような声ではなかった。

 むしろ、少しだけ楽しそうだった。
 いや、楽しそうに聞こえるように整えられた声だった。

 アキラはその違いを、なぜか聞き分けてしまった。

「僕は医療者じゃない。だから、体調について断定はできない」

「うん」

「けれど、少なくとも今の状態で全力のパフォーマンスは危険だと思う。袖に戻ったら、マネージャーさんに共有する」

「やだなあ。大ごとになる」

「なるだろうね」

「なら、言わないで」

「それはできない」

「アキラくん」

「できないよ」

 言葉が、非常階段の壁に小さく跳ね返った。

 悠真はしばらく黙っていた。

 遠くで歓声が上がる。曲が終わったのだろう。インカムを通していないのに、会場の熱だけが床から伝わってくるようだった。

 悠真はその音を聞いて、ようやく立ち上がった。

 思ったよりも背が高い。ステージではもっと遠くに見えるのに、近くで見ると細くて、薄い。衣装の華やかさがある分、余計に身体の線が際立った。

 彼はペットボトルを拾い、何事もなかったようにジャケットの裾を払った。

「じゃあ、戻ろうか」

「歩けるかい?」

「歩けるよ。僕、そこまで弱く見える?」

「弱いかどうかじゃないよ。状態の確認だ」

「ほんと、夢がない」

「ステージに夢を持ち込むために、裏では現実を見るものだろう?」

 悠真が足を止めた。

 アキラも、それに合わせて止まる。

 振り返った悠真は、さっきより少しだけ、目の奥の色が変わっていた。

「それ、いいね」

「何が?」

「裏では現実を見る、ってやつ」

 彼は笑った。

 今度の笑みは、少しだけ本物に近かった。

「僕の周り、夢見てる人ばっかりだから」

「アイドルだから……それはそうだろう」

「そう。僕、アイドルだからね」

 自分で言ったその言葉に、悠真はどこか他人事みたいな顔をした。

 そして次の瞬間には、もう完璧だった。

 背筋が伸びる。肩の位置が整う。呼吸のリズムが変わる。先ほどまで踊り場に座っていた青年は、扉を開けて廊下へ戻る一歩手前で、光を浴びるための浅羽悠真になる。

 アキラは、その変化を目の前で見た。

 人間が、商品になる瞬間。

 あるいは。

 人間が、自分を守るために仮面をかぶる瞬間。

「アキラくん」

 扉に手をかけた悠真が、こちらを見ずに言った。

「何?」

「本番、見る?」

「進行上、袖にはいるよ」

「そうじゃなくて」

……見るよ」

「仕事で?」

「もちろん」

 悠真は小さく笑った。

「じゃあ、それでいいや」

 扉が開く。

 白い照明と、人の声と、熱が一気に戻ってくる。

 廊下に出た瞬間、誰かが叫んだ。

「浅羽さん戻りました!」

 空気がまた動き出す。

 メイク担当が駆け寄り、衣装担当が裾を確認し、マネージャーが顔色を覗き込む。チーフがアキラを見て、安堵と感謝を混ぜたように小さく頷いた。

 悠真はその全部に、いつもの調子で応じていた。

「ごめんごめん、ちょっと迷子」

「この局、広すぎない?」

「え、怒ってる? 怒ってるよね。あとで謝罪会見する?」

 軽口が飛ぶたび、周りの緊張がほどけていく。

 それを見ながら、アキラは思った。

 この人は、うまい。

 うますぎる。

 自分の不調も、不在も、周囲の焦りも、全部笑いに変えてしまう。そうすれば誰も、それ以上踏み込まない。怒る理由も、心配する理由も、本人が先に薄めてしまう。

 浅羽悠真は、そうやって光の中に立っている。

「上手、スタンバイお願いします!」

 スタッフの声が飛ぶ。

 悠真はマイクを受け取り、イヤモニをつけた。だが左耳の収まりが悪かったのか、軽く眉を動かす。

「少し触るよ」

 アキラは反射的に近づいた。

 イヤモニのコードを確認し、髪に引っかからないよう指先で位置を直す。耳元に触れる距離で、悠真がふっと息を吐いた。

「慣れてるね」

「何度か対応したことがある」

「誰にでもそうやって触るの?」

「必要があればね」

「ふうん」

 声が近い。

 アキラは手を止めなかった。

「動かないで」

「はいはい」

「はいは一回」

「アキラくん、学校の先生みたい」

 悠真は楽しそうだった。

 けれど、アキラはその耳の後ろに滲んだ汗を見た。呼吸が浅いことも、先ほどより唇の色が悪いこともわかった。

 それでも、もう止められない。

 本番まで一分。

 照明が落ちる。ステージ袖が暗くなる。客席から、次の出演者を待つざわめきが広がってくる。

「浅羽さん、板付きでお願いします!」

 悠真が歩き出す。

 その背中に、アキラは声をかけた。

「浅羽さん」

「ん?」

 悠真が振り返る。

 暗がりの中、金色の瞳だけがこちらを捉えた。

「終わったら、医務室だよ」

「えー」

「約束して」

「今それ言う?」

「今だから言ってるんだ」

 悠真は一瞬だけ黙った。

 それから、口元をゆるめた。

「僕がちゃんと歌えたら?」

「医務室」

「かっこよく踊れたら?」

「医務室」

「ファンが泣いたら?」

「医務室」

「アキラくんが感動しても?」

「医務室」

 悠真はとうとう笑った。

 先ほどまでとは違う、声の混じった笑いだった。

「手強いなあ」

「約束できるかい?」

「はいはい」

「一回」

「はい」

 その返事で、ようやくアキラは頷いた。

 悠真は少しだけ目を細める。

「じゃあ、仕事で見てて」

 その言葉の意味を、アキラが理解するより早く。

 悠真はステージへ出ていった。

 暗転した会場に、ひと筋の光が落ちる。

 歓声が爆発した。

 その中心に立つ浅羽悠真は、もう非常階段で膝を抱えていた青年ではなかった。

 光を受け、顎を上げ、マイクを持つ指先まで美しく整えた、たったひとりのアイドルだった。

 アキラは袖から、その背中を見た。

 仕事だから。

 そう思った。

 仕事だから見ている。

 仕事だから、目を離さない。

 仕事だから、震えた指先を覚えている。
 仕事だから、浅い呼吸も、庇った足も、笑顔の奥に隠した疲労も、全部見逃してはいけない。

 そう、思った。

 思うことにした。

 ステージの上で、悠真が一瞬だけこちらを見た。

 客席ではなく、カメラでもなく、スポットライトの外側にいるアキラを。

 ほんの一瞬。

 けれど確かに、目が合った。

 悠真は笑った。

 何万人にも向けられた笑顔の形で。

 けれどアキラには、なぜかそれが、自分ひとりに向けられたもののように見えてしまった。

 その錯覚を、アキラはすぐに打ち消した。

 そんなはずがない。

 浅羽悠真はアイドルで、自分は裏方だ。

 光の中にいる人と、光が消えないように袖で立っている人間。

 それだけだ。

 それだけのはずだった。