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三崎
2026-06-03 20:07:09
14599文字
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斬らない男と斬らなくなった刀の話
福沢と隠し刀♀の友情話。
隠し刀♀はよく食べる系で福沢にたかりがちです。
「福沢! 小石川に美味い団子屋があるらしい! 一緒に行くぞ!」
「福沢! 上野の煎餅屋が有名らしい! 行くぞ!」
「福沢! 日本橋の葛餅が!」
「福沢! 深川の泥鰌が!」
「福沢!
……
」
勝海舟邸の一角で仕事をしていた福沢は、手にしていた万年筆からぽたりとインクが落ちるのを見て、ハッと我に返った。まだ真っ白な書類だったから良かったが、これが重要な密書だったらと思うと冷や汗が出る。
勝海舟邸は浪人が拠点としている長屋からほど近く、浪人は事あるごとに訪れては福沢と食事をしたがるのだ。仕事中だろうがなんだろうがおかまいなしで襖を勢いよくパーンと開け、福沢! と呼びかけてくるものだから、少しばかり困っていたのである。
こうも頻繁だといつまた浪人が来るやらと気が気でない。捗る仕事も捗らないというものだ。もちろん、急ぎの仕事がある時は浪人も大人しく隣の部屋で待っていてくれるのだが、人を待たせながらの仕事が捗るはずもなく
……
。
「参りましたね
……
」
今取り掛かっている翻訳の仕事も、特に急ぎという訳ではない。気晴らしに散歩でも、と福沢が立ち上がったその時、ドタドタという足音に続いて、勢いよく襖が開かれた。
「福沢! 今暇か⁉ 浅草で新しい水菓子が
――
」
「やれやれ
……
」
噂をすれば、というやつか。福沢は棚から財布を取り出して懐に仕舞い、大人しく浪人と共に出かけることにしたのだった
……
。
浪人に関わる噂は野盗の捕物といった血腥いものもあれば、失せ物探しといった子どもの遣いのような他愛ないものもあり、その人となりを正確に知る者は誰もいない。人当たりはいいし、どんな相手でも
――
それこそ野盗崩れの権蔵から、植物学者のロバートまで
――
快く頼みを聞き、気を許し許されている。八方美人というよりも無節操のきらいがあり、道を共にする坂本でさえ、彼女の本質を掴みかねているところがあった。
福沢から見ても、彼女の自由奔放で破天荒な生き様の中に、ふっと影が落ちる時があるように思われるのだ。けれど、細すぎる糸の端を掴もうとしてするりと指先から離れていくように、福沢が何か尋ねようとすると、彼女はいつだって悪戯っぽい笑みを向けて、なんだ、腹でも減ったのか、と、それはあなたの方でしょうと言いたくなるようなことを言ってくるのである。
浪人とはしょっちゅう出かけていて、周りからはすっかり茶飲み仲間と
――
いや、一応男女のことであるから逢瀬をしているのではと
――
思われてしまっているが、福沢としては断じてそういうつもりはなかった。浪人だってそうだろう。彼女は自分の財布を当てにして、ありとあらゆる美味を口にしようとしているだけなのだ。たぶん、おそらく。
「どうした? 考え事か?」
「いえ
……
大したことではありません」
目の前で水羊羹を頬張る浪人を見て、福沢はため息をついた。別に、こうして連れ回されることを嫌がっている訳ではないのだ。だが、ここまで一緒に遊び回っているというのに、どうも上辺だけの付き合いというか、本心に触れられぬままでいることが、なんとなくもどかしく思えてならなかっただけである。
彼女は福沢の返事に、ふうん、と生返事を返すと、出された茶を啜り、次の菓子へと手を伸ばした。
「
……
その細い体にどうやってそれだけの量の菓子が入るのか、気になっただけです」
浪人の傍らに積み上げられた皿の数々を見て言った福沢の言葉に、浪人は胸を張り、その分動いているからな、と返した。そういう女なのである。色気より食い気と言った様子の彼女を、色恋めいた目で見ることは難しい。どちらかというとおてんばな妹のような、そういう目で見てしまうのだ。そう、妹のように思う相手だからこそ、もう少し、抱え込んだあれこれを打ち明けてくれてもいいのではと福沢は思う。
何しろ、福沢は未だに、彼女の名前さえ知らないのだから。
福沢の目から見て、浪人は紛れもなく達人であった。隠し刀と呼ばれる黒須藩の兵士。立ち合った者は尽く斃され、その腕前を見た者は誰もが感嘆の声を漏らすという。本覚寺で見た彼女の立ち回りも太刀筋も、噂に違わぬ腕前だった。怖いくらいに容赦がなく、その動きには寸分の無駄もない。しかし、その表情の奥底で何を考えているのかは、どうにもはかりかねるところがあった。
奇妙な女だという思いはあったが、剣の達人ならば護衛にはうってつけだろう。そう判断して口にした、福沢の不殺の依頼を彼女は呑んだ。素手であっても彼女の強さは烈火の如く、気配を殺し、的確に相手に当て身を喰らわせ、またたく間に制圧してしまう。それをまた間近で見ることとなった福沢は、この得体の知れない女のことをすっかり信頼してしまっていた。
黒船侵入が頓狂な依頼であることは福沢も承知していた。拝借と言葉を変えてはいるものの、やっていることは不法侵入と盗みであり、人を殺していないだけで、十分牢送りになるだけの罪を犯している。日ノ本でなくても、米国でも英国でも裁かれて然るべき所業であろう。しかもその理由が、思うように米国行きが叶わないことに焦れた末に、せめて知識だけでも得たいという私欲にかられたものであるから、もちろん後ろめたさがない訳では無い。そんな経緯もあって、せめて相対した兵士の生命は取らぬようにと依頼したのだが、それは身勝手にも程がある頼みだったはずだ。それでも彼女は、ただ一言、わかったと答えると、刀を福沢に預け、福沢が腰に下げている木刀を寄越すよう頼んだのだ。それだけで、彼女を信頼するのに十分なことだと福沢は思った。その依頼の間、彼女は一度も福沢に刀を返すようには言わなかったし、福沢の依頼に文句一つも言わなかった。
黒船からの帰り道、彼女と二言三言雑談をして、その日は別れた。拝借した書物に目を通すのに忙しくしていれば彼女と会うこともなく、次に再会したのは伊賀七の騒動の時だった。フグ毒を自ら飲もうなど、彼もまた頓狂な男だったが、それよりも福沢を驚かせたのは、彼女が帯刀していなかったことだ。彼女は木刀だけを腰に下げ、役人たちを昏倒させてしまったのである。誰に頼まれた訳でもなく、いつの間にやら彼女は刀を置いてしまっていたのだ。
その真意を確かめぬまま、福沢は念願叶って渡米することが決まり、彼女と話す隙もなく時は過ぎた。次に再会したのは吉原で、酒に酔ったままの勢いでべらべらと自分のことばかり話して別れた。そして、勝海舟との縁を結んだ彼女と、今のような関係になっている。腰に下げているのはやはり木刀のみ。そして、初めて会った時の頃からは考えられないほど、彼女は随分と表情が豊かになっていた。自分のいない間に何があったのか、どうしてその顔を自分に向けてくれるのか、その理由もまた、福沢は聞けずにいる。
「ふう、美味かったな」
「それは何よりですが
……
僕も特別高給取りという訳ではないんですよ」
上機嫌の浪人の隣で、軽くなった財布を手に福沢がぼやいた。遠慮のない、かつ豪快で気持ちのいい食べっぷりは見ていても気分がいい。とはいえ出せる金には限度がある。浪人はこりこりと鼻を掻き、すまん、今度必ず礼はするからと謝った。彼女だって金がない訳ではなく、夕餉は今茶屋で食べた倍も食べているのだ。それだけの財力はあるということである。
「なんならこれからうちで飯を食べて行ってもいい。どうせ勝の屋敷はすぐ近くだしな」
「さっき食べたばかりで良く夕餉の話が出来ますね
……
」
とかく彼女は食べることが好きだ。食べねば保たないだけの働きもしている。聞くところによると酒も嫌いではないらしい。男のように食べ、呑み、腕も立つ。だからというかなんというか、彼女には浮いた話の一つも聞かなかった。こうして茶飲み友だちをしている福沢が筆頭とされる程度には。
しかし、見た目だけなら彼女は年頃の娘であり、見目麗しいと言っていい風貌をしている。肩まで伸ばした黒髪は艷やかで、目鼻立ちも整っており、放っておけばどこぞの誰かに言い寄られてもおかしくはない。だというのに、彼女につきまとう黒い噂
――
節操なく誰とでも関わるが故の
――
せいで、彼女は慕われながらも一定の距離を置かれるような、そんな立場にある。
彼女にも、ふと寂しくなる時があるのかも知れない。そう思うからこそ福沢は浪人の誘いをほとんど断ることはなかったし、チクリとぼやきはしても、食事や甘味を奢ることを迷惑とは思わなかった。
……
少しばかり頻度が過ぎているとは思っていたが。
「
……
誘いは嬉しいですが、今日は戻ります。少し仕事が溜まっているもので」
「そうか。邪魔して悪かったな」
「いえ
……
あなたのせいではありません。ただ、なんとなく集中できなかったものですから」
それは、半分は本当で半分は嘘だった。集中できなかった理由は浪人のことを考えてしまっていたからで、それは一緒に出かけたせいで尚更酷くなったような気もする。けれど、福沢は更に嘘を重ねることにした。
「あなたのおかげで良い気晴らしになりましたよ。ありがとうございます」
「おう
……
それなら良いが。ならせめて、手土産だけ持っていってくれ。どうせうちは通り道だし」
勘がいい彼女のこと、誤魔化しきれたかはわからない。だが、彼女はそれ以上追求しなかった。気を遣ってくれたのかも知れない。ともかく、二人はその後だらだらと他愛のない話をし、福沢は浪人から渡された洋酒の瓶を手に勝海舟邸へと戻った。すぐそこだと言うのに、彼女はわざわざ念のためだと福沢を送り届けてもくれた。まだ日は暮れかけたばかり。彼女にああ言った手前、少しでも仕事を進めねばと、福沢は文机の前へ腰を下ろした。その傍らで、彼女から渡された洋酒の瓶が、琥珀色の液体を湛えて、じっと福沢を見つめているようだった。
「はあっ、はあっ
……
」
夜、福沢は鬱蒼と草木が茂った山道を駆けていた。この先にあるのは、参拝する者がいるとは思えないような廃寺のみ。だというのに、踏みしめられた道は人通りが頻繁にあることを示していた。廃寺に足を運ぶ者など、後ろ暗いものがある人間と相場が決まっている。いや、猫探しに精を出している浪人もか。そのいずれも、今、福沢が駆けている理由であった。
時は四半刻ほど前のこと。日も落ち、簡単な夕餉を口にしただけで文机に向かい続けていた福沢の元に、青ざめた顔をした下男が部屋に入ってきた。彼は福沢に、震えた様子の男が持って来たという手紙を渡した。こんな時間に手紙を寄越す男などに心当たりはない。中を改めるとそこには、長屋の女は預かった、返して欲しくば
――
という、笑えない常套句が書かれた手紙と共に、剥がされたと思われる青い爪が二つ、入っていたのである。この瑠璃色は、彼女の爪に塗られているものと同じもの。
幕臣が狙われる事件は跡を絶たず、白昼堂々襲われることもあれば、夜道を狙われることもある。であれば、こうした手のこんだ手段に出る者だってあるだろう。しかし。
「
……
まさか、彼女が攫われるとは
……
」
信じられない。しかし、何らかの騙し討ちのような手で攫われないとも限らない。常ならば罠にかけられてもなんなく脱することも出来ようが、もし、もしも
――
彼女が追う〝片割れ〟の策略だったとしたら? 彼女は何度か片割れに近づくことが出来たというが、いずれも返り討ちに遭ってしまったのだと聞いた。今まで姿を隠していた片割れが、悪意でもって彼女を捕らえたのだとしたら。そして、彼女と懇意にしている
――
真偽はともかくとして
――
自分をおびき寄せ、幕臣である身分を利用させ、何かしら企んでいるのかも知れない。そうであってくれるなと思いながら、福沢は駆けた。役人仕事をしているとはいえ、福沢は朝の鍛錬を欠かしたことは無かった。山道を駆ける足取りに迷いも疲れも見られない。ただ、不安だけは胸のうちに燻っていた。
もし本当に彼女が捕らえられていたならば
――
彼女の爪を剥ぐほど無力化出来る相手を、自分一人で彼女を救い出すことが、果たして出来るのだろうか。
福沢は争いを好まない。立身流の皆伝という腕前に錆びの一欠片も見られずとも、刀を人に向ける覚悟もそのつもりも無かった。しかし、おそらくは自分のせいで刀を置いた彼女が、そのせいで不覚を取り、捕らえられたのだとしたら
……
。いや、だからこそ、抜かずに助け出さねば道理に合わないはずだ。この刀はあくまでも飾りに過ぎぬ。刀を下げているだけで手を出してこない者も多い。身分制度を嫌う福沢であっても、刀を捨てた士がどんな目で見られるかということは理解している。余程のことが無ければ、これを抜くつもりは無かった。人を斬り、殺さねばならぬ道理など、この世にほとんどありはしないのだ。
息を切らして、福沢は指定された廃寺へとやって来た。月明かりに照らされたボロ寺は、いかにも不気味な雰囲気がある。しかし不自然なことに、朽ちかけた扉からは行灯の明かりが漏れ、男たちの下劣な笑い声がひっきりなしに聞こえてくる。どうやら彼女の〝片割れ〟ではないようだ。彼ほどの手練ならば、こうもあからさまで派手で下品な連中を囲うまい。
見張りとして立たされていた男が福沢の姿を認めると、口元をニタリと歪ませ、中の連中に声をかけた。
「おい! 本当に来やがったぜェ、お偉いさんがよォ!」
男は腰に下げていた刀を抜き、福沢へと近づいてきた。開いた扉の奥から、ぞろぞろと目つきの悪い男たちが姿を現した。十人には満たないが、それでも多勢に無勢であることは変わりない。開きっぱなしの扉の奥に目をやると、黒髪の女と思われる姿が見えた。衣服は乱れ、ぐったりと床に倒れている。福沢はさあっと血の気が引く心地がして、無意識のうちに居合の構えを取っていた。野盗崩れが相手ならば、木刀でも十分
――
。しかし、そこに男が声を張り上げた。
「おっと、動くんじゃねえ、刀を捨てな!」
奥の部屋で、男が倒れた女に刀を向けて笑っている。いくら福沢が居合の達人とはいえ、この場所からではどうあがいても間に合わない。
「知ってるぜえ、てめえがこの女に入れあげて、さんざん貢いでるって話はよォ」
色々と言いたいことはあるが、見ようによっては確かにそうだ。福沢は黙り、男たちの言うことに従い、その場に刀と木刀を置いた。もっと慎重に動くべきだった。見張りがいることくらいは想像出来たはずなのに。男たちは丸腰になった福沢をふん縛ると、倒れた女の側に引き倒した。
「ぐっ
……
」
隣に福沢が転がされても、女は微動だにしない。気を失っているのか、それほど甚振られたのか。福沢は彼女に声をかけようとして、彼女を呼ぶための名さえ知らぬことを悔いた。今すぐ彼女の安否を確かめたいのに、両腕を拘束されている状態ではどうにも出来ない。
「へっへっへ
……
しばらくそこで寝てるんだな。お前には餌になってもらうんだからよ」
「
……
?」
女と福沢を見下ろして男が笑う。と同時に、困惑する福沢の隣で、動かなかった女がむくりと体を起こした。否、女ではない。華奢な体つきをしているが、そいつは確かに男
――
野盗の一味と思われる少年だった。
「どうも。いやあ、こうも簡単に騙されてくれるとはねぇ」
「あ
……
」
「あんたが人質となりゃあ、あの女もヘタに手出しは出来ねえだろ? おい」
ちげえねえ、良くやったぞ弟よ、野盗たちが囃し立てるのを聞きながら、福沢は頭が熱くなり、息が苦しくなるのを感じていた。騙された。彼女は捕まってなどいなかった。むしろ、男たちは自分を餌に彼女を罠にかける腹積もりでいる。
「くっ
……
」
なんと愚かな振る舞いをしてしまったのか。自分が罠であると看破していれば、ここに来なければ、彼らの目論見は破綻したはずだ。お人好しの彼女は、きっと自分を助けにここに来る。彼らは自分を人質に、彼女に何かしらの要求をするだろう。どんな要求かはわからないが、碌でもないことには違いない。弁解の仕様もなく、何もかも自分のせいだ。
福沢は悔いた。彼女がどうにかして自分を助け出してくれたとしても、危険な目に遭わせることになるのは変わりない。それならいっそ、来ないでくれた方がマシのように思えた。彼女がそういう人間ではないとわかっているから、余計に後悔の念が身を焦がす。
男たちは福沢を捕らえたことに上機嫌になり、大酒を呑み、どこからか盗んできたのであろう料理を前にどんちゃん騒ぎを始めている。得意げな顔の少年が、部屋の隅で青ざめている福沢を見て、ふっと莫迦にするように笑った。
男たちの宴会は、拘束されて青ざめた顔をした福沢を肴に、いっそうの盛り上がりを見せていた。彼らが話す内容から、浪人が狙われた理由もおおよそ検討がついた。大した話ではなく、どこぞの町を荒らしていたところを浪人にぶちのめされ、その復讐をしようというだけである。つまり、彼らは彼女が倒した数え切れない野盗の一人に過ぎず、彼女は彼らの顔ももう覚えていないだろう。一点、彼らが有象無象の野盗と違うところがあるとすれば、彼らが役人の手を逃れ、こうして復讐に出るくらいの幸運を持っていたこと。
「あの時は油断してやられちまったが
……
なァに、相手は女一人、この人数でかかりゃあ大したこたぁねえ。人質もいることだしな」
頭らしい男の舐め腐った発言を嗜める部下は誰もいない。皆がその通りだと手を叩き、酒を煽り、あの女をとっちめたらどうしようか、下卑た話で盛り上がっている。
(聞くに耐えませんね
……
)
福沢は彼らを逆撫でしないよう、気付かれない程度に眉を顰めた。彼女相手でなくとも、見知った婦人にどう乱暴しようかという話題は気分の良いものではない。
「おう、鈴、おめえは今日の功労者だからな、一番槍はおめえに譲ってやる」
「いいんですか、兄貴」
鈴と呼ばれた少年は、顔を赤くしてだらしない顔で笑っている。しかし、浪人の振りをさせられていた彼の指先には血が滲んでいた。あの手紙に入っていた二枚の爪は、おそらく
――
。
(まだ年端もゆかぬ子どもを
……
卑劣な)
まんまと騙されたことは情けなく思うが、おそらくは身寄りのない子どもをこうして悪事に利用している彼らは許せない。どうにか彼だけでも、この男たちの手から助け出してやりたいが、この有様では望むべくもないことだ。それに、彼女が助けに現れたとて、自分が足を引っ張るのは嫌だった。いざという時は自分のことは気にせず戦うよう叫ばねばならないと覚悟してもいる。
福沢が捕らえられてから半刻ほど過ぎた頃。彼らは大いに酔い、笑い、緩んだ甘い空気が辺りに漂っている。その中で誰かがぽつりと言った。
「あの女、遅えな
……
」
その一言で、場がぴりりと引き締まる。聞けば、福沢がおびき出される少し前、彼女もまた偽りの手紙により別の廃寺へと向かわされていたのだ。万に一つも勝海舟邸から出た福沢と顔を合わせることにならないように。彼女が手紙で指示された先にはまた別の手紙を残し、この廃寺へと誘導するよう仕向けてあるという。
「酒も良いが
……
そろそろ、血が見たくなってきたな」
「兄貴、人質を殺しちまうのは」
「わかってるさ、ちょっとばかり痛めつけるだけだ
……
」
頭の言うことには逆らえないのか、部下たちは顔を見合わせるだけで、ゆらりと立ち上がった男を無理に止めようとはしなかった。
目が据わった男が、福沢の目の前に仁王立ちになる。その手には録に手入れもされていないようないかにもなまくらな刀が鈍く光る。あれで斬りつけられたならば、致命傷でなくても傷口が酷く膿んで、悪くすれば死ぬ。ここまでか、だとしても彼女の足枷にならずに済むのなら悪くはないか、福沢がそう腹をくくろうとした時。天井から何か
――
その場の全員が黒い塊としか認識出来なかったが
――
落ちてきた。
「がっ
……
‼」
落ちてきた〝それ〟は、男が刀を振るう暇さえ与えず、首の後ろに手刀を落とし、一撃で昏倒させてしまったのである。落ちてきたのは、そう、彼らがおびき出し、痛めつけ、辱めてやろうと画策していた浪人その人であった。
「無事か、福沢」
頭を一撃で倒した浪人は、福沢を守るよう背を向けて、野盗たちを見回した。福沢にはその表情は見えないが、声には確かに怒りが滲んでいる。
「なっ
……
兄貴!」
「あ、兄貴が一撃で
……
?」
男たちはたちまち混乱に陥り、戸惑いながらも各々の得物に手を伸ばした。否、伸ばそうとした。
「ぎゃっ」
「ぐっ
……
」
「うあっ!」
近くにいた者から、浪人は有無を言わさず投げ飛ばし、当て身を喰らわせ、次々と昏倒させていく。こんな小者相手では、木刀を抜く必要もないということだろう。丸腰の彼女を前に、男たちはほとんど為すすべもなく、得物を手にする暇さえ与えられずに転がされていった。
賑やかだった部屋は今、うめき声さえ上げられぬ男たちで静まり返っていた。その中に、部屋の隅でうずくまり、震える子どもが一人。しかし彼女は彼を捨て置き、まずは福沢の縄を解いてやった。
「あ
……
りがとうございます。あの
……
いったぁ!」
「
……
全く、心配したんだぞ、福沢」
言いたいことや考えたことがたくさんあったはずなのに、あっという間の出来事に頭が追いついてこない。福沢は振り下ろされたゲンコツに頭を押さえながら、男たちに一人ずつ縄をかけていく浪人を手伝った。
「今度は全員しっかりと役人に引き渡さないとな
……
」
「覚えているのですか? 彼らのこと」
「いや、全く
……
。だが、大方、以前私に伸された奴らの復讐ってところだろう。よくあるんだ、こういう手合いは」
頻繁にあって欲しくはないが、彼女の普段の行いを思えばそれも無理のないことか。そう福沢は納得して、彼らにきつく縄をかけていく。
「
……
で、なんでまた、こんな奴らに捕まったんだ? お前の腕前なら逃げ出せただろうに」
「それが
……
」
福沢は事の顛末をかいつまんで浪人に話した。浪人を返して欲しくば云々と書かれた手紙を寄越され、まんまとおびき出されたこと。そこの少年が浪人の振りをしていて、本当に浪人が捕まっていると思い込み、拘束されてしまったこと。情けなくて申し訳なくて、死ぬ覚悟までしたこと
……
は、黙っていたが。
事の次第を聞いた浪人は、もう一度福沢にゲンコツを落とすと、震えたままの子どもの前にずんずんと歩み寄った。
「それがこの子どもか」
「いたた
……
。はい、その子です」
その子どもは目に涙をいっぱいに溜め、可哀想なくらいに震えている。きっと男たちから彼女がいかに悪い女であるかを聞かされていただろうし、実際、男たちをあっという間に伸してふん縛ってしまったのだから、恐ろしくてたまらないのだろう。自分も酷い目に遭わされる。そして役人に引き渡されて、牢屋にぶち込まれ、いずれ打首にされてしまう。嫌だ。痛いのも、死ぬのも怖い
――
。そう全身で伝えてくる少年の前に、浪人は膝立ちで座った。目線を合わせ、薄く笑って少年に尋ねる。
「お前、名前は」
「あ
……
あ
……
す、すず
……
の、すけ
……
鈴ノ助、です
……
」
名前を口にしただけで、少年の目からぼろりと涙が溢れた。声も出せないほどだった恐怖が、声を出したことで決壊してしまったようだった。
「そうか。鈴ノ助、立派な名前じゃないか。そう怖がるな。何もしない。怪我はしてないか」
「うっ、うっ
……
し、してな、い
……
」
「嘘をつくな。指、どうしたんだ」
「あ
……
」
血が滲んだ指先を、浪人は見逃さなかった。鈴ノ助はうつむき、どう話したものか迷っている様子だった。
「
……
おそらく、彼らに爪を剥がされたのでしょう。僕が渡された手紙に、青く塗られた爪が二枚入っていましたから」
「
……
酷いな」
大人の男の爪ならば、いくら福沢でも騙されない。しかし少年の小さな爪ならば
――
男たちはそう考えて、拾った少年の爪を剥いで偽装したのだ。血は止まっているようだが、碌な手当もされていないのは明らかだ。
「うっ
……
ううっ
……
」
鈴ノ助は黙って泣いている。細かい事情を聞き出すのは難しそうだが、大体の予想はつく。身寄りのない子どもに、人生の選択肢は多くない。まともな大人に拾われればまともな生活と人生が送れる。農民に拾われれば農民に、商人に拾われれば商人に、そして野盗に拾われれば
――
。
浪人の頭に、炎に包まれた村と、殺された両親や村民たちの姿が過ぎっていた。あの時、研ぎ師に拾われたから、自分は隠し刀になった。今どこにいるとも知れぬ片割れと共に。しかし、鈴ノ助と同じように野盗に拾われてしまっていたなら、今頃
……
こうして生きているかさえ、怪しいものだ。
「
……
福沢」
「な、なんでしょう」
さめざめと泣き続ける鈴ノ助を見据えたまま、浪人は福沢に言った。
「お前、こいつに学問を教えてやれ」
「ええっ⁉」
突拍子のない提案
――
というには圧が強いが
――
に、福沢はゲンコツを落とされた頭の痛みも忘れ、驚きの声を上げた。浪人は続ける。
「お前は常々言っているだろう。身分に関係なく身を立てられる世の中にしたい、そのためには学問が大事だと」
「は、はあ
……
まあそうですが
……
」
「私が面倒を見ても良いが、私には学はない。お前が引き取って鈴ノ助を育ててやれ」
「それは
……
構いませんが
……
」
相変わらず破天荒で唐突な人だと思いつつ、福沢もまた鈴ノ助の前に座り込んだ。
「鈴ノ助くん。君が嫌で無ければ、僕と行きましょう。僕も裕福ではありませんが、それなりの生活は保証できます」
どうですか、と福沢が尋ねると、鈴ノ助はしゃくり上げながらも小さく頷いた。元より行くところもない身では、やはり選択肢はないのだ。兄貴たちはこれから役人に引き渡される。自分がそうならずに済むのは、ただ浪人と福沢の善意故であることは、鈴ノ助でもわかっていた。
「よし。じゃあ行くか。こいつらは明日の昼まで目覚めないくらいにはキツく打ってやったからな。目覚めた時には仲良く牢屋入りだ」
そう言ってわっはっはと豪快に笑う浪人を見て、鈴ノ助はまたじわりと涙を浮かべたのだった
……
。
「で、どうだ? 鈴ノ助の様子は」
数日後。浪人の元を訪れた福沢は、茶を出されると同時にそう尋ねられた。元よりその話をするつもりだった福沢は、渋すぎる茶を一口啜り、先日助けた少年の話をし始めた。
「元気にしていますよ。素直に言うことも聞きますし、覚えも悪くありません」
「そうかそうか。良かった」
福沢にも仕事があるし、その間放っておくことも難しいから、鈴ノ助のことは勝にも話を通して、勝海舟邸に連れて行っている。不憫な子どもを憐れんで、勝海舟邸の奉公人たちも何かと鈴ノ助のことを気にかけてくれているらしい。もともと愛嬌のある質だったのも幸いして、環境が大きく変わっても上手くやっているようだ。しかし、今彼はここにはいない。
「
……
あなたのこと、余程恐ろしかったそうです。いつもは僕の後ろについてどこにでも行きたがるのに、あなたに会いに長屋に行くと言ったらぴたりと足を止めてしまって
……
」
「ははっ、そうかそうか。ちょっとばかりやりすぎたな」
男たちをまたたく間に伸してしまった浪人は、幼い子どもには熊か何かが暴れているように思えたのかも知れない。
「あなたが助けてくれたことに感謝もしていましたし、あなたの振りをして騙そうとしたことも申し訳ないと言っていましたが、あなたのことを思い出すと足がすくんでしまうようで、どうにも
……
」
「う
……
そうか
……
」
なら今度は私から会いに行くとしよう、怖がらせないように少し着飾って行くべきかな
……
、そんな話をする浪人を、福沢は苦笑しながら見つめた。一応、彼女なりに子どもには優しくしているつもりなのだ。振る舞いが少しばかり熊めいていただけで。
「あの野盗どもも無事しょっぴいてやれたし、これで一件落着だな」
「ええ、そうですね
……
」
一件落着、それはそうなのだが、あの夜のことを思い出すと、福沢はどうにも引っかかることがあった。
「
……
ですが、ああいう、あなたを狙う連中はよくいるのでしょう」
「ん? ああ、そうだなあ。手応えのない奴らばかりだが」
神妙な顔で言う福沢に、浪人はなんてことないと言った様子で答えた。碌でもない相手からの不興を買い、恨まれ、危険な目に遭う。そんな日常では落ち着かないだろうに。
「
……
しかし、人質を取られたのは初めてだ。巻き込んで悪かったな」
「いや、その
……
それは
……
僕も迂闊でしたし
……
」
ごにょごにょと口ごもる福沢に、浪人はニヤニヤしながら尋ねた。
「
……
いつも逃げ通しているお前が、馬鹿正直に真正面から敵地に乗り込んでいくなんてな。余程私が心配だったのか?」
「う
……
それは
……
その」
正直図星であった。しかし、顔を少しばかり赤くして狼狽える福沢の反応に、逆に浪人の方が困惑した。そんなんじゃありません、少し油断していただけです、荒事には慣れてないんですから勘弁してください、そんな反応を予想していたのに、そんなもじもじした返事をされるとは想像していなかったのである。
「いや
……
まあ
……
もう少し慎重になるんだな。私はそう簡単には捕まらないし、負けない。怪我は
……
たまにはするかも知れないが、死んだりは
……
多分、しないから」
おかげで、言うつもりのなかった真面目なことを口にする羽目になった。
福沢がずっと抱いている申し訳なさに近い何か、その正体は浪人にもわかっていた。浪人が帯刀しなくなったことで、危険な目に遭う頻度も、その危険さも増したのではないか、そして帯刀しなくなったのは自分との出会いがきっかけだと、福沢は思っているに違いない。それはその通りだが、福沢が負い目に感じる必要はない。それを不器用ながら伝えておきたくなったのだ。
しかし、浪人の言葉を聞いて、福沢はいっそう神妙な顔つきになった。そして、浪人があえて言わないようにしていた、そして福沢がずっと聞けずにいた、あのことを尋ねた。
「
……
あなたは、どうして
……
刀を置いてしまったんですか」
「う
……
それは
……
」
今度は浪人が口ごもる番になった。きっかけは明らかだし、それは二人ともわかっている。けれど、そう決めた理由は、まだ誰にも話したことは無かったのだ。相棒として長い付き合いをしている坂本にも、浪人が愛でる犬や猫にさえも。しかし、きっかけとなった本人に尋ねられたならば、話さない訳にはいかなかった。
「
……
お前と黒船に侵入した時
……
いや、正確にはその後、思ったんだ。刀を振るうには、人を斬るには
……
相応の理由がいるんじゃないか、ってさ」
「理由、ですか」
「ああ。普段使わない頭を使って、色々考えたんだ。人を斬ったり、殺したりしてまで、為さねばならないことって、なんだろうって
……
」
「
……
それで、答えは見つかったのですか」
福沢の問いに、浪人は首を横に振った。夢を叶えるため、人助けのため、誰かを守るため、国のため、大義のため
……
どんな理由を考えてみても、それが人を斬ってまで叶えていい理由になるのか、浪人にはわからなかったのだ。もちろん、それが人を斬るに足る理由だと考える者もいるだろう。これはきっと、刀を持つ者それぞれが答えを出さねばならないことなのだ。しかし。
「考えれば考えるほど、もっとわからなくなるんだ。私は刀になるように育てられてきた訳だし、頭を使うのだって苦手だしな。だけど、刀っていうのは、理由もわからないままに振っていいものじゃない気がした。だから、持たないことにしたんだ」
実際、真剣を持たなくてもなんとかなってるしな、と彼女は笑う。なんとも思い切りのいい決断だが、福沢には、それもまた彼女らしいことのような気がした。
「それに、思ったんだ。刀の使い道っていうのは
……
人の生き方っていうのは、もっと自由でいいんだって。刀だからって人を斬らなくていいんだ。お前が心身の鍛錬のためだけに刀を振るうように、私だって、刀であることに縛られなくてもいいんじゃないかって」
「
……
そうですね。僕もそう思います」
刀は容易に人を傷つけることの出来る武器であると同時に、別の側面もある。職人たちの技術の結晶でもあり、工芸品、美術品としての価値も高い。福沢がしているように心身を鍛えるために剣術を修める者も多いし、持っているだけで面倒を避けられるものでもある。刀には、人には、きっと色々な道や可能性があって、それを探し磨いていくのが、人生というものかも知れない。
「だからその
……
何が言いたいかって言うと
……
もうわかるだろう」
「わかりません。言ってください」
「う
……
ああもう、だから、そういうことに気付かせてくれたお前には、ちゃんと感謝してるってことだ。いつも飯をたかりに行ってるし、世話をかけて迷惑だと思っているかも知れないけど
……
お前に会うと、なんとなく素でいられる気がするし、自分はちゃんと人なんだって思えるから」
「それは
……
」
なんだかとてつもなくむず痒いことを言われている気がする。刀として生きてきた彼女が、自分との出会いをきっかけに人らしくなろうとしている
――
それは素直に喜ばしかった。あの食い意地の張ったわがままくらいなら、いくらでも叶えてやろうと思えるくらいには。
しかし、福沢は冷静であった。
「
……
あなたの気持ちはわかりました。迷惑だとも思っていません。でも
……
僕があなたを全く心配しなくなる訳じゃありませんからね」
「うっ
……
頑固なやつ
……
」
ちくりと浪人に釘を刺して、福沢はすっかりぬるくなった茶を啜った。
「せっかくですから、あなたも鈴ノ助と学問をしたらどうですか。答えを見つける一助になるかも知れません」
「
……
考えておく」
学問に興味がない訳ではないらしいが、彼女はどうにも座学は苦手らしい。福沢の学問への思いや考え方を尊重し立派だと言ってくれてはいるが、自分が
……
となると話が別のようだった。実際、彼女は習うより慣れろの精神らしく、言葉はわからないなりに異人と身振り手振りで話しているのを目にすることがある。福沢自身、米国に行った時は書物で学んだ英語が通じず苦労した場面もあるから、実践の大切さもわかってはいるのだが。
あれこれと真面目な話が続いたからか、浪人はぐっと一つ伸びをして、平たい腹をぽんぽんと撫でると、福沢に笑みを向けた。
「さて、堅苦しい話はそんなところだろ。せっかく訪ねてきてくれたんだ。どうだ? これから団子でも」
「まったく
……
敵いませんね」
元より、助けに来てくれたことの礼としてどこかしらに連れて行こうと思っていたのだ。空になった湯呑を置き、やれやれと立ち上がった福沢は、浪人に手を差し出した。
「もう一つ、あなたに聞きたかったことがあるんです。それは茶屋で聞かせてもらうことにしましょう」
「ええ
……
? なんだ
……
? まあ、奢ってもらえるなら構わないが
……
」
訝しげな顔になりつつ、浪人は福沢の手を取って立ち上がった。男たちをばったばったと殴り倒すせいで、女性にしては固くなった手。力強く、逞しく、そして真っ直ぐな不器用さが表れた手だ。彼女が見聞きする世界を、日ノ本を
――
気兼ね無く学び、答えを探しに行けるような、そんな国にしたい。そう福沢は思う。
そして、茶屋について一息ついたら、こう彼女に尋ねるのだ。あなたの名前は何というのですか、呼びかけたい時、名を知らぬままでいるのは悔しいのです、と。
福沢がそう決めていることなどつゆ知らず、浪人は暢気に行きつけの茶屋の新作団子の味わいに思いを馳せているのだった。
おしまい
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