フリンズさんの口とぶつかった話


…………え?」
……あ!」
 それは見目麗しい男と私が、ゼロ距離でぶつかってしまった時の事だった。


「お、フリンズじゃん。一人なの?珍しいねぇ」
「おや、今晩は。貴女こそお一人なのは珍しいですね」

 フラッグシップへふらりと立ち寄ったところ、たまに見かける後ろ姿を見つけて声をかけた。ライトキーパーのフリンズだ。カチャカチャクルムカケ工房見習いという仕事柄、ライトキーパーの方々には少し縁がある。フリンズもその一人だ。先日もアイノちゃんにランプ修理を依頼して、頻繁すぎると怒られていた姿を目にしたばかりだ。
 
「お隣、いい?」
「えぇどうぞ。何か呑みますか?」
「うーん……今日はご飯だけの予定」
 
 そう答えると同時にデミアンさんが注文を取りに来てくれた。相変わらずできたバーテンダーさんである。私のご飯のついでに、フリンズの空きそうなグラスに目線を注ぎ、彼のおかわり分の追加注文まで受けていた。
 他愛のない世間話を二人でしながら、私はご飯を食べて、フリンズはお酒のグラスを傾けていた。ご飯も食べ終わったので、そろそろ帰ろうかな?と考え始めたところ、デミアンさんが私の前にカクテル『爽やかなサマータイム』を一つ提供する。
 
……注文、してないけど……?」
「それは僕からですよ。貴女と僕の、この楽しいひと時のお礼です」
 
 フリンズへ目線を向けると、彼はふふっと優しく微笑んだ。断る理由もない――むしろ嬉しかったけれど、その紳士的な振る舞いに動揺して「……ありがと、ね」とだけ返した。カクテルに口をつけると、レモンとミントの爽やかさが口に広がり、食後にもぴったりな飲み物だった。

 少しお酒の強かったカクテルを飲み終わる頃には、頬が火照ってきた感覚があった。今夜はお酒を飲む予定ではなかったけれど、楽しかったから良しとしましょう。
 今度こそ帰ろうと思い、フリンズへ向き直ってお礼を言うことにする。

「思いがけず良い時間が過ごせたよ、フリンズ。ありがと」
「こちらこそ、お相手ありがとうございました」
「うん。じゃあまたね」

 自分が食べた分の代金をカウンターへ置き、デミアンさんへ声をかける。そして少し高いカウンターの椅子から降りて、鞄を背負う。よし、と出口へ向かおうとしたところ、
 
――お待ちください」
「えっ……あ!」
…………え?」

 フリンズに後ろから声を掛けられた。何事かと振り向いたところ――唇にフニっと柔らかい感触が当たった。
 少し屈んでいたフリンズと、振り向いた私の顔が……というか唇同士が当たってしまったようだ。彼の手の中には私の財布があり、あぁ支払い後に財布をしまい忘れたんだろうな、と言うところは察したのだが、まさかの場所にゼロ距離でフリンズとぶつかるとは……
 
「ご、ごめん……事故ったね! あはは…………フリンズ、大丈夫?」
 目を丸くして口元に手を当てたまま時を止めて動かないフリンズを心配し、私は彼の顔を覗き込む。すると、ようやく彼がふらりと動いた。
 掴んでいた私の財布を私に押し付けるように返し、どこから取り出したのか見えなかった酒代をカウンターへ置き、そのまま何も言わずにふらりと出口から去って行った。
 
……なんなの?」
「なんでしょうね……
 思わず出口を指差しながら、様子を伺ってくれていたデミアンさんに聞いてみたが、彼も首を傾げており初めて見る様子だという。
 ……心なしか、去り行くフリンズがいつも腰から下げているランプの蒼い炎は、日頃見るよりも強く燃えていたようだった。

 それよりも私が気になってしまったのは別のことで――、私との偶然のキスは……フリンズにとってはそんなに嫌だったのかな?と考えてしまい、勝手に少しだけ落ち込んだ。


 ***


 ――翌日。
 
 少し頭痛のする頭を無理矢理動かしてベッドから起き上がる。今日が休日で助かった。
 昨夜は少しモヤモヤした気持ちのまま帰宅し、就寝準備もそこそこでベッドへ飛び込んだ。フラッグシップから慌てて立ち去るフリンズの後ろ姿が忘れられなかったのだ。
「私は、事故とは言え……好きな人とキスできて、嬉しかったんだけど、ね」
 頭に浮かんだ独り言を呟く。昨夜もフリンズと会えて嬉しかったし、二人きりでたくさん話せるなんて機会なんて今までになくて、凄い偶然の良い時間ではあったんだけどなぁ……と思い浮かべてから、いつもよりも遅い時刻を差す時計を目に入れてから洗面所へと向かう。別に誰かと予定があるわけではなかったが、せっかくの休日を寝て過ごす気は無かったのだ。無かったのだが――
 顔を洗ってから鏡の中の自分を眺める。「……へへっ、ひどい顔をしているね」と笑うと、鏡の中の私も『お前もだろう?』と言うように同じ顔をしていた。


 ――――コンコン。

 玄関の方から音がした。誰かが家の扉をノックしたようだ。荷物が届く予定も、友人が訪ねてくる予定も無かったはずだが……。とはいえ、扉の向こうに誰かがいるようなので、玄関へと歩いて向かった。

……はい」
「僕です、フリンズです」
…………えっ?」

 その名前を聞いて、何も考えずに扉を開け放ってしまった。先程まで考えていた人物がすぐそこに、と思った途端に体が動いていたのだ。
 するとそこには、大きな花束を抱えたフリンズが立っていた。

「お迎えに上がりました」
……ん? えぇっと……何、どういうこと?」

 いつもよりも口角を持ち上げて深い笑みを浮かべたフリンズは、そっと私も手を取る。
「昨日のうちに伺えず申し訳ありません。色々と準備に手間取りまして」
「昨日……? 訳がわからないのだけど」
「ですから、僕たちは昨日――口付けを交わしましたので、二人で結婚するしかありません」
……けっ……こん…………?」
「えぇ、はい」

 語尾に音符が見えそうな、深い笑みを浮かべたままのフリンズがおかしなことを言っている。結婚?誰が誰と?……私⁇

「なんで⁈」
「先程もお伝えしましたが、口付けを――
「それは事故! ……だった、じゃない?」
「きっかけはそうかもしれませんが、僕の生まれ故郷では随分昔からそのように決まっておりまして。ですから、はい――まずはこちらを受け取ってくださいませんか」

 そうして差し出された大きな花束。ちょっとすぐには数えられそうにない量の赤い薔薇の花束、その意味ぐらい私も知っている。ってことは…………本気なの?
「ちょっと待って貰えるかな……?」
 そう言って私は心の中で頭を抱えた。彼がコクリと頷くのを確認して状況判断に努めた。
 昨日私たちは偶然にもキスしてしまい、フリンズの故郷ではキスしたら結婚しないといけなくて、今は彼からプロポーズ……されている……ってこと?
 上手くまとめられた気はしたが、何も納得できない。
「フリンズ、待って」
「えぇはい。なんでしょうか」
「私、まだフリンズのことをほとんど知らないよ」

 私の中の彼は、私の想いを抜きにすれば、偶にご飯屋で会う気の良い飲み友達……ぐらいなのだ。ライトキーパーに所属していることは知っているけれど、家がこの街から遠いとか、お酒大好きとか、長身の美丈夫で、話し上手で聞き上手であり……あれ、実は何故か結構フリンズのこと知ってるかも?
 いや、しかし……、それでもやはり私はフリンズのことを、まだほんの少ししか知らないのだ。

「ふむ。なるほど……
 彼はそう呟いてから目を伏せて口元に手を添えて何かを考えているようだ。そのまま少し待つと、顔を上げてもう一度私と目を合わせる。

「では、少し譲歩しましょう」
「譲歩」
「お互いを知ると言うことも、確かに必要かと。――それでは僕と、結婚を前提に……お付き合いしませんか」

 彼の笑顔と共に、もう一度差し出された大きな赤い薔薇の花束。全く、どうしようもないほど勝手で少し呆れてしまったけれど、これが嬉しくない訳ではない。
「仕方ないから、まずはお友達から……ね?」
「えぇ、是非。どうぞこれから、よろしくお願いしますね」

 フリンズから受け取った花束はとても大きくて、私は薔薇の香りに溺れそうになりました。



『未来のことは誰にも分からないけれど、』