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ひなげし
2026-05-29 20:56:47
5802文字
Public
狛日
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水深七メートルの遭難
本予備(ハピ軸)/狛日
第99回狛日版週ドロライ「孤独」「遭難」
才能を持つ人間の熱量に触れて自分を見つめる日向と、迎えにくる狛枝のお話。ハピダ友達狛日。⚠️ハピのネタバレがある⚠️
日向は水の中を泳いでいた。
白い砂浜から少し離れた、輝くばかりの南国の海だ。日向は予備学科に在籍しておりながら、本科の人間の行事に特別枠で参加させてもらっていた。この珊瑚礁も、カラフルな魚が泳ぐこの海も、空も、島も全てがプログラムだなんて信じられない。さすが、超高校級の才能というべきなのだろうか。本当になんでもありだ。
空気を求めて海面に顔を出す。
昼前の熱気と光が、頭上に降り注ぐ。
砂浜から少し離れた海面には、ブイなどは一つも浮いていなかった。船舶も通らず、漁業も、海上保全機関も関与しない海は、不自然なほどにまっさらだった。沖へ振り向けば水平線の彼方まで見渡せてしまえた。
一瞬わっと、砂浜の方から歓声が上がる。目を細めれば、長い棒を持ち砂浜に立つソニアの足元には、緑色と赤色が転がっていた。新しいことに自ら触れて学び、白い頬をほんのりと上気させて興奮気味に話す彼女が目に浮かぶようだった。眩しくて、目を逸らす。
日向は大きく息を吸い込み、逃げるように再び海へと潜った。
吹きつけてくる空気の熱も相まって、水は冷たく心地良く感じられる。深く潜ってしまえば、脈動する自分の身体の音と、手足でかき分ける水流の音しか聞こえない。外の音はもう聞こえなかった。
ほっと小さく泡を吐き、目をつぶる。
ここには俺一人しかいない。何も偽らなくていい。飾らなくていい。詰まっていた息を小さな泡として少しずつ吐き出す。
この空間は、暑すぎる。
気温ではない。空気が熱いのだ。希望ヶ峰学園に選ばれた才能を持つものを何人も見ていると、才能があると選ばれた理由が嫌でもわかる。
彼らはどこにいても、何か一つに人生をかけたいと熱狂できる人なのだ。選ばれた才能以外の道に進むのだとしても、彼らはもう次のやりたいことに向かってひたむきに走り始められている。信念を持ち、自らの行きたい道を知っている。
本当にすごいと思う。
心から。
この合宿中何度も、そして誰からも当たり前に見せつけられて、その度に息が詰まりそうになる。
いろんな価値観を持つ人と交流できる喜悦。感性鋭い深い自己理解への驚愕。惜しまぬ努力への感嘆。頑張っていたと思っていた自分と彼らの距離の自覚。彼らと比べて熱量をどれにも持てない自分への当惑。そして
……
痛み。
才能を持つ彼らと長く過ごすことで、日向は様々な感情を生々しく味わった。彼らと触れ合うことで、世界が広がっていく経験が心地よく、貴いと感じていた。
しかし、同時に才能がある人間に憧れているだけで、自分がいかに無知であったか、愚鈍な感性を持っているかを突きつけられてもいた。
だからこそ、痛みを覚えた。予備学科だと何度だって揶揄われたけれど、久しぶりに胸の奥が痛み、疼く。彼らを前にして、胸を掻きむしりたくて疼く手を、必死に握り込んだことも一度や二度ではない。才能を持つ人間のたぎるような熱を、衝動を、日向は理解できなかった。
日向創には、熱狂できるほど好きなものはなく、何においても中途半端だ。
だから、俺には才能がないんだな。納得しかできない。
俺は
……
ここじゃ、ずいぶん浮いてるよな。
居場所はここにはないと言われているようで、とても焦ってしまう。焦っちゃいけないことも、わかるけど。
息が苦しくなり、浮上してはまた沈む。
身体を縮める方が、海の底に沈みやすいことに気がついた。手足をまっすぐに広げずに伸ばし、水の流れに逆らわず揺蕩う。長く潜るには、無駄な動きをしない方がいい。たったそれだけのことだ。ダイビングや素潜りの才能のある人間にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど、日向はこうやって何度も潜りながら学んだ。
ほんの少し、息が苦しくなる。目を細めて開ける。水面から差し込む光が揺蕩い、カーテンのように揺れた。それがあまりにも綺麗で、一瞬時を忘れた。
天啓のようにも思えて、ゆらめく光へ手を伸ばす。
「苦しい時もあります。でも、それでも好きなんです。だから手を伸ばすんです」
声が頭の中で響く。これは
……
そうだ。舞園が日向の隣で、ぽつりと呟いた言葉だ。
数日前の、ただ島を一周している道路上でのことだった。
太陽が昇り始めるぐらいの早朝だ。まだみんなが眠るような時間に、舞園は毎日走っていた。
日向はそのランニングに数日参加させてもらっていた。
「日向君、きつくはないですか?」
朝方のまだ冷えた空気を吸い込んで舞園は、まだ開けていない冷えたペットポトルを差し出した。
「ああ、ついていけてるぞ。ありがとな」
日向はペットポトルを受け取り、ゆっくりと頷いた。足は止まることはなく、歩きながら休憩をする。
「ふふっ
……
一緒にいいかって誘ってもらえてびっくりしました」
「あっ
……
大事な時間に、迷惑だったか?」
「これぐらい、大したことじゃありませんよ。でも、どうしてか聞いてもいいですか?」
舞園は日向に向かい、穏やかに微笑んだ。
「えっと」
「答えにくかったら、大丈夫ですよ。私のことを日向君が知ってくれたように、私も日向君のことを知りたいと思っただけなんです」
舞園の瞳が、前を向く。見つめていたら喋りにくいだろう。そう思ったのかもしれない。なんだか不思議と心を見透かされたみたいだった。けれど、嫌な気持ちは全くしなかった。
胸の内をなぞり、言葉を探す。どう説明したらいいのか、どう言葉を尽くせば交流の少ない相手に自分を理解してもらえるのか、迷う。
事実は、とても単純だ。日向にとって彼女のあり方は眩しく、尊敬できるものだった。そして、羨ましいとさえ思えた。
澄んだ朝の空気を深く吸う。
「いや、舞園は前、今のこの積み重ねがやりたいことそのものではないこともあるし、全てが幸せではないけれど、アイドルが好きだから続けてるって話をしてくれただろ?」
「ごめんなさい。先日は私ばかり偉そうに語って、つまらなくありませんでしたか?」
「いいや、すごく勉強になったよ。舞園はすごいなって思ったんだ。こんなこと話すなんて恥ずかしいことだけど、俺には
……
舞園みたいに、胸を張って好きって言えるものがないんだ」
「
……
そんなことは」
舞園が、俯く。
日向は笑み、なるべく明るい口調で言葉を続けた。
「ははっ、いいんだ。だから、才能のあるみんなのように苦しくても、光り輝くほど好きなものに手を伸ばし続けるような熱意が俺にはわからなかったんだ」
日向は、ランニングと会話で焼けつきそうになっていた喉に水を送る。ひと息つき、ボトルをつかむ手に視線を落とした。
「でも、手を伸ばす衝動だけなら、俺にも理解できるかもしれないって思ったんだ。だから、本当に好きなものが、胸をくすぐるようなものが目の前にきた時に手が届くように、基礎を積み重ねて頑張る舞園みたいに、俺も何かに備えておきたいって思って」
舞園が立ち止まる。
「すてきですね」
静かに言葉が落ちた。舞園は顔を上げ、日向を正面から見つめていた。アイドルらしい笑顔ではない。けれど、瞬きしない真剣な表情に活力を与えられるようだった。
「そうか?」
「はい。日向君は真面目で、整えることを怠らない努力もできる人なんだと思いました。
……
なんて、日向君のことあまり知らないのに急にすみません」
「いや、いいんだ。毎日好きなもののためにコツコツ頑張れる舞園にそう言ってもらえて、少し自信がついたよ」
「あのですね、直接夢のためにならない積み重ねも、苦しいことばかりじゃないんですよ。ほら、前を見てください」
舞園は前を向き、ふふっと軽い笑い声をあげた。
彼女の声に導かれて顔を上げる。太陽の白く滲む洗い立ての光が、溢れんばかりに道路を白く照らし出す。群青が押しのけられ、大地と海が白く染まっていく。
密やかに息を呑む。
夜明けの光だ。
努力は徒労に終わることもある。彼女のように、全ての人間が夢に向かって全力疾走できるわけではない。
だけど、それでも。日向は、再び息を吸うまでの間、放心していた。胸の内の疼きがほんの少し和らいでいく。
「私は朝のこの光景も、澄んだ空気も心地が良くて好きなんです。ふふっ
……
思わず手を伸ばしたくなっちゃいませんか?」
光がゆらめく。
緩やかなゆらめきは、あの時見た朝日のように美しかった。吐く泡を追いかけることなく、見惚れてしまう。光のカーテンが日向の身体を撫でてよぎっていく。追いかけるように、手を伸ばした。
ふと思う。
舞園に限らず、才能を持つ人間が持つ熱意と衝動の感覚は、今の俺が水面に向かって手を伸ばすものに近いのだろうか。
ごぼりと口から息が漏れた。急に苦しくなる。魚でもない日向はずっとここにはいられない。息苦しさに光を見失う。
日向は水を掻き、水面に顔を出した。
日差しは中天に近くなったのか、ますます水面を白く染め上げる。眩しさに目をつぶり、大きく息を吸う。空気をたっぷり吸い込んで胸を張り、頭を振る。耳の中の水が抜けて、ようやく息が吐けた。
海面に浮いたまま、日向は瞬きした。
「どこだ、ここ」
潜水を始めた砂浜はここにはなく、目の前には山肌が広がっていた。砂などなく岩が転がっていて、木が風に揺れる音だけが流れてくる。あれだけあった人の声など、一つも聞こえなかった。海流に流されてしまったのだろうか。
まさか、この歳になって迷子か?
海に出るには険しい岩の岸辺に向かってゆっくり泳ぎ出す。ここは遊泳区間じゃないのかもしれない。ひやりとした。本当にただひとりぼっちになったみたいで、海水が余計に冷たく感じる。
唐突に帰りたいと思った。
帰りたい。どこに?
視界の隅で何かが動いた。
接岸付近の木の影あたりだ。
薄ぼんやりと、見えてきた人影は見覚えのある形をしていた。
「あっ、やっと浮かんできた」
「
……
狛枝?」
ゴロゴロと積み上がる岩の先の土の上に、男は立っていた。ふわふわの白い髪が風になびく。いつもの深緑色のコート姿は変わらないが、首には大きめの水筒と、バスタオルがかかっていた。
「ずいぶん長い旅だったね。左右田クンがしきりにここは安全だからって叫ぶものだから、大丈夫だとは思ってたけど、日向クンが本当に無事でよかったよ」
長い足が、岩の上を歩く。岩肌と波がぶつかる場所で狛枝は立ち止まった。
降り注ぐ光が逆光になり、狛枝の顔は黒くなる。あまりよく見えない。影がしゃがみ、手を伸ばしてきた。
「なんで、いるんだ?」
「なんでって
……
。海岸を歩いてたら、沖で潜水してるキミを見つけちゃったから?」
「はぁ?」
すぐ目の前まで伸びてきた手に、日向はのろりと手を伸ばす。手首を掴まれ、身体が海から引き上げられた。急激に重力が身体の上に降りかかってくる。身体が傾いた。
は?
あっと思う間もなく、日向は土の上に着くなり尻もちをついていた。腰を浮かせそうにない。ひどく身体が重かった。
「それで、日向クンは今度は何に興味をもっちゃったのかな?」
濡れた身体を柔らかなものが包み込む。バスタオルを頭の上からかけられた。
「
……
瞑想、か?」
「ふうん。そう」
土と靴が擦れる音がした。狛枝が傍でしゃがみ、水筒を開ける。水が落ちる音がして、水筒の蓋に並々と注がれた水が目の前に差し出された。
「ほら、これも飲んで」
「用意がいいんだな」
「ああ、これ? 後で罪木さんと弐大クンにお礼を言ってね。罪木さんは、休憩時間は入ってますかって心配して水筒を持ってきてくれて、弐大クンは潜水の平均時間とかカウント方法教えてくれたんだから」
「そう、か」
「日向クンの潜水時間は平均一分半いかないかくらいかな。極端に短くなり始めたら止めようかと思ってたんだ。前から思ってたけど、日向クンって体力はあるよね」
「まぁ、そうだな。たぶん、あるとは、思う」
カップを傾ける。
おいしい。
きんと冷えた水が喉を通り、日向はようやく喉が乾いていたことに気がついた。乾いていたものが満ちていく。空っぽになったカップにまた水を注がれ、日向はもう一口と、水をすする。
「歩けそう?」
「えっ」
「歩いてもらわないと困るかな。ボクにはキミを背負って山を歩ける保証はないから」
「合宿初日、部屋に冷蔵庫運び込んできたのによく言うよ」
狛枝が肩をすくめる。
視線が合う。揃って小さく笑った。
「ボクたちの十神クンがね、バーベキューの串を山ほど作ってくれたんだって。キミが一人で海に潜ってるって聞いて、新しく肉を持ってきてまで追加されちゃったみたいでさ」
「ええっ、な、なんでだよ。十神が用意したんだろ? それじゃ、今頃大変なことになっちゃってるんじゃないか?」
「大正解」
狛枝はにこりと唇を上げ、日向の鼻先に指先をくるりと回して丸を描く。
「長時間身体を動かしてくるなら食べさせないとって。これ以上細くさせるものか、俺が導いてやるって言って張り切っちゃったみたいだね。キミにも連帯責任で食べてもらわないとって、ボクたちのクラスのみんなを集めて回ってた小泉さんが息巻いてたよ」
ふっと薄灰色の瞳が細まる。
「なぁ、行かないと怒られるよな」
「夜ご飯に紙皿に取り分けられた、山盛りの冷えた肉は嫌じゃない?」
「それは賛成だな」
日向は水を最後まで飲み干した。身体の核に染みてくる。疲れ切っていた身体と心が蘇生する。膝に力を入れて、立ち上がる。
「あれ、もういいの?」
狛枝はつられて立ち上がり、首を傾げた。
薄灰色の瞳が、ほんのわずかに揺れている。
日向は安心させるように笑んでみる。水筒のカップを狛枝の手のひらの上に置いた。
「ああ。行こう、狛枝。連れて行ってくれ、お腹すいた」
「うん、了解」
狛枝が山の中をゆっくりと歩き出す。
前をいく狛枝の隣に並ぶ。狛枝の歩みは、疲れ果てた足でも追いつけるスピードだった。
一歩ずつ進む地面を見つめる。木々からこぼれ落ちる木漏れ日が美しい。
日向は、目をつぶり深く息を吸った。
隣の男に手を伸ばす。指先の疼きは止まっていた。
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