雨は一向に止む気配が無く、雨戸に激しく水滴を叩きつけている。木造の宿は僅かに軋み、夜を更に不安なものにしていく。ばつんと大きく雨水が窓をノックする音で目が覚める。気だるげな体をゆっくりと起こす。部屋は雨音以外の音は無く、冷え冷えとした空間は不気味な様相だった。雨が自分達を外界から隔絶している。ふと隣に在る布団の丸まりをそっと、少しだけめくる。年の割にあどけなさを感じる寝顔。普段の鋭い目付きからは想像することができない顔だった。彼の撥ねた黒髪を押さえつけるように頭を撫でる。なんとなく寂しい気持ちになって、彼の顔を見るに彼もきっとそうなのだろうと思ったから。柔らかい髪が指の腹を滑る感覚に心地良さを覚える。
ふと、いつかこんな風に誰かの頭を撫でたことがあったかと。脳内に愛しい娘の姿が過る。家賃の安い古い長屋暮らしであったから、ここより雨が降ったときの不安さは大きいものであった。それでも、中々寝付けなくとも、夜更かしの口実を得た彼女はいつもどこか楽しそうで。二人でほつれた布団の中で身を寄せ合い、色素の薄い彼女の頭を撫でてやった日が今でもありありと目に浮かぶ。
「眠れませんか」
凛とした声に思い出の世界から現実へと引き戻される。そうして自分が今撫でまわしているのは五歳の娘では無く三十路の男だったのだと理解する。いつのまにか彼は自分をじっと見つめていた。
「なんや起きてたん」
いつから?と聞くと、彼は目を細め胡坐をかく自分の隣へと頭を寄せる。寝転んだままもぞもぞと動く様を見てこの子もこういう子供じみたことをするのかと思った。親に縋る子供みたいな。
「あなたが触れたときから、うっすらと」
ぽつりと呟く。雨にかき消されそうな声だった。
「ほんなら言うてくれたらいいのに」
そう言うと彼は目を逸らし、黙り込む。ゴロゴロと外から機嫌の悪そうな音が鳴り響いている。眠れるかどうかは分からないがさっさと寝てしまおう。青海を押し退け体を布団に預け直す。布団を浅くかけ、目を閉じる。しかし案の定眠りに落ちる気配が無い。雨が眠気をも流してしまった。寝返りでも打とうかと思った。そのとき、布団の外に投げていた手のひらにひたり、と冷たいものが触れる。
「……寝られへんのはあんさんやないの?」
それは青海の指だった。遠慮がちに指先だけで触れていたが、自分の指摘を受けてからは手のひらをも合わせてくる。ひんやりとした硬い感触。手と手が重なる時間に比例して青海の体温はぬるくなっていく。氷のような子だと思う。ぺたぺたと触る彼の手を握ると静かに息を飲む気配を感じた。雨は相変わらずだが雷はある程度落ち着いたようで、部屋は墨汁で塗りつぶしたように暗かった。眠れないのは二人共同じなようだった。
「今日、シゲ子から手紙が届いたんです」
ゆっくりと手を握り返される。ただの独り言だった。その独り言を拾ってくれる相手がいてくれることの、なんとありがたいことか。
「いつの間にかあんなに文字書けるようにならはって。里親の方らとも仲良うやってるみたいで」
手は繋がれたままだ。
「一緒に写真も入ってて、カワイイおべべ着させてもろうてニコニコ笑顔やって」
青海は静かに耳を傾けている。シゲ子と過ごした最後の記憶が溢れ出す。あ、まずい。
「ボクじゃあういう服は買ってやれんかったろうね」
「良かった」
「……笑ってくれてて」
「…………良かったんです」
ぽつぽつと話す内に言葉尻がどんどん窄んでいく。あら、おかしいな。こんな話をするつもりじゃ無かったのに。額に汗がにじむ。手のひらがじっとりと汗で濡れるのを感じる。ゴメンネ、と青海の手を離す。……が、青海はもう一度ボクの手を握り返す。
「ここには誰もいません。私以外」
ボクの汗でぬるまったもののまだ冷感の残る彼の手のひらが、今は何よりも暖かく感じた。
「ごめんね」
「いえ」
すると青海がこちらへ体を寄せてくる。寝る前に酒を飲んだからだろうか。大した量では無かったと思うが、今晩の彼はなんだか素直に感じる。
「私は得意ではありません。会話が」
彼がゆっくりと話し出す。物理的距離が縮まったおかげで小さな声でも聞こえやすい。
「だから、あなたが話してくれることに感謝しています。いつも」
肩にぬくもりが触れる。青海が頭を肩へと預けている。シゲ子と寄り添って寝た日々が重なる。年下とはいえ、娘と彼を重ねたことに対する後ろめたさと安心感がせめぎ合う。ボクは後者を取り、繋がれていない方の手で彼の頭を撫でる。
それ以上会話は行われず、二人でただ引っ付いて眠りに落ちるのを待った。結局ボクも、彼も、寂しいのだ。父親と、子供。ずっと男二人で家族ごっこをしている。罪に塗れたこの身でひとりぼっちはきっと耐えられない。血塗れの手のひらを握ってくれるのは、同じように血塗れの人間だけだから。
おやすみなさい、青海がそう呟いたような気がした。おやすみと返事をしようとすると同時にあらがえない眠気に引きずられた。手は繋がれたまま、意識は奈落へと落ちていった。
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