丹羽燐
2026-06-01 23:50:07
15945文字
Public 唯一解
 

唯一解 - サンプル

2026-06-28発行予定の「唯一解」より,プロローグと一章パレート効率性
最善の策とは一体何か?
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 通りに面した個人経営の喫茶店。そう片づけてしまうにはもったいないほど、喫茶ポアロには客足が途絶えなかった。コーヒーをはじめとした喫茶店定番のドリンクから、季節限定スイーツ……今なら春限定いちごタルトまで。取り扱うメニューの幅広さも人気の一つだった。
 慌ただしい店内で、今日も今日とて梓と安室は狭い店内をくるくると回っていた。
「梓さん、片づけ終わったらカフェオレとコーヒーお願いできますか? 僕、フレンチトーストを焼くので」
「はぁい。あと、いちごタルトが二番さんから」
 カウンター越しに安室へかけた声に、梓はついでとばかりにオーダーを追加する。今朝と比べて少し鈍くなった梓の動きから、安室は梓の疲労を察した。既に時計はティータイムの午後三時を指しており、休憩の時間はとうに過ぎているのだから仕方がない。
 久しぶりに出勤しているせいか、感覚を忘れたのか、安室には妙にポアロが賑わっているように感じられた。大方、庁舎では書類に、現場では悪意に囲まれていたせいだろう。善意で構成された空間はどこかこそばゆい。
 いちごタルトが二番さんから。安室は梓のオーダーを小声で復唱しながら、冷蔵庫の中身を思い出す。いちごタルトの残数は、たしか。
「そういえば……最後の一つだったような」
「えっ……さっき二つオーダーが」
 ホールから回収した皿を持つ梓の顔が一瞬にして青ざめる。今朝、いちごタルトを前にした時の表情とは正反対のそれが安室の思考速度を上げる。梓の眉が下がり切る直前、安室は一つの解決策を閃いた。
「今朝、試しにお皿に載せたものでよければ一つ」
「もしかして写真を撮った時の」
「はい、それなら」
「あーっ……残ったら食べようって朝から狙ってたんですけど……仕方ないですね」
 満面の笑みが咲き誇ったと思えば瞬時に萎れていく。どこか食い意地を張っている節のある看板娘は、春限定いちごタルトを逃すのが惜しいらしい。
 梓が、食べたかったなあ、と小さく呟きながら安室の横を通り抜けていく。それが庇護すべき年下らしい愛らしさを主張していたものだから、つい、ポロッと安室の口から甘やかす言葉が零れた。
「明日も作りますよ」
「本当ですか?」
「もちろん。梓さんのお望みのままに」
「やったぁ!」
 ケトルを火にかけながら、春限定いちごタルト、と梓が楽しげに繰り返す。これほど一喜一憂してもらえるのであれば、本職ではない安室でも作り手冥利に尽きる。
「今日と同じいちごタルトでも、趣向を変えていちごのレアチーズでも。梓さんのリクエスト通りに」
「梓さんいいなあ。あむぴ、明日も来るから取っておいてよ」
「あはは、梓さんにだからポアロには出さないよ」
 カウンターの向こうから割り込んできた女子高生に安室はきっぱりと返す。まだ試作段階だとか、マスターに許可をもらっていないとか。いくらでも言い訳は出来るのに、すっかりポアロで平和ボケした頭が叩き出した回答は、まるで牽制のようだった。しまった、と思ったところで遅い。
 えー、と女子二人は顔を見合わせて不服そうな声を上げたものの、すぐに話題を切り替えて安室を蚊帳の外に追いやった。
「そうだ、安室さん、ナポレオンパイは? 春のいちごといえばナポレオンパイですよ」
 安室と女子高生の会話などまるで聞いていなかった梓の反応に、安室は思わず頬を掻く。
 何層にも折り込んだパイ生地でクリームといちごを挟み重ねるナポレオンパイ。全く、この人はまた作るのが面倒なものを、と安室は眉を下げる。
「ナポレオンパイ、ですか。……さすがに、それはちょっと悩みますねえ」
「冗談ですよ。安室さんが作りやすいのでお願いします」
 そう笑う梓に、落胆の影が見えたのを安室は見逃さなかった。冷蔵庫の中身と、ざっくりとしたレシピを脳内で比べてから口を開く。
「いいでしょう、ナポレオンパイ……作りますよ」
「冗談ですって。いちごのムースにしてポアロにも出しましょ」
 フライパンの前から動けない安室の後ろをケトルの湯気が通り抜けていった。それを待ちながら、安室は甘えた声を喉元で調整する。
「長期欠勤のお詫びとして、ここは一つ作らせてもらえませんか」
 コーヒードリッパーの上で円を描いていた梓の手が止まる。梓の目線が左右に揺れ、あと一押しというところだった。
「無断欠勤の分も含めて、後輩からの賄賂です」
……し、仕方ないですねえ。次からはちゃんと連絡してくださいよ」
「気を付けます」
 ご機嫌な梓の手元で、こげ茶色のコーヒーに白いホットミルクが注がれていく。対流で少しずつ色が混ざり合う様子は、フォームミルクで蓋をされて見えなくなった。とぷとぷとカップの中で揺れるその白さが、安室にはいつにもまして眩しかった。
 微かな焦げ付くにおいに慌ててフレンチトーストをひっくり返す。裏側はまだまだ少し黄みの強いクリーム色に占められていた。どうやら間に合ったらしい、と一息ついた。
「じゃあ先にドリンク出しちゃいますね」
 梓が下手なウインクをバチンと投げてキッチンから出ていく。安室は作業スペースに置かれたままのドリッパーを片づけようと手を伸ばす。しかし、それをすぐに引っ込めた。作業スペースからは、まだコーヒーの香りが漂っていた。
「お待たせしました、先にホットのカフェオレとコーヒー。フレンチトーストは少し待ってね」
「梓ちゃんありがとー。今日のフレンチトーストのジャムは何味?」
「えー、えーっと、いちごだったような……安室さーん、今日は何でしたっけ?」
「梓さんの言う通り、いちごです。一応、ブルーベリーもありますが」
 くるりと振り返った梓に、苦笑を隠さず安室は返す。春といえばいちごだ、と少し前に言っていたにもかかわらず、こうも自信を失っていて何だかおかしい。
「やったぁ。いちごジャムと、クリームマシマシで」
「あんた、太るよ?」
「夕飯減らすからいいの。せっかく春休みなんだし食べないと」
 人は違えど何度となく聞いた内容に、安室はポアロへの信頼をしみじみと思った。
 ポアロは人気の多いショッピングモールにあるわけでも、賞を受賞するような何か特に秀でているものがあるわけでもない。それでも客足が途切れないのは、ひとえにポアロが米花町の住人に愛されているからだろう。
 安室以外の顔では、時に汚名を被り、罵声を浴びせられる。そういった場面とは程遠いポアロは、安室――降谷が素直に笑える安息地でもあった。
……ということで、クリームマシマシでお願いします」
「「お願いしまーす」」
「はいはい」
 たしかめるように顔を見合わせた梓と女子高生の三人は突然笑い始めた。安室には何がおかしいのかさっぱり理解できない。まあいつものことだ、と片付けて手元のフライパンに目を落とす。甘い香りの立つフレンチトーストの裏面をそっと覗くと、綺麗な焼き目がつき始めていた。
「フレンチトースト、クリーム多めですね」
 空のおぼんを携えてキッチンへ戻ってきた梓へ安室は尋ねる。ミスはオーダーをとってきた人が責任をとる、そう以前言ったのは梓だ。とはいえ、確認一つでミスを防げるなら確認するに越したことはない。
「違いますよ、安室さん。クリームマシマシです」
「どう違うんですか、それ」
 クリーム多めとクリームマシマシ。要は、最終的に皿に載せる量は同じだろう、と安室は言いたかった。その言葉の代わりにフライパンの中でフレンチトーストがじゅうじゅうと音をたてた。
「沢山ってことです」
「一緒じゃないですか」
「全然違いますよぉ。マシマシの方が背徳感があるんです。えーっと……ほら、ラーメンだって背脂多めじゃなくって、背脂マシマシでしょ」
「言われてみれば……たしかに?」
 ねー、とテーブル席の女子高生たちから同意の声が響く。完全に言葉の感覚の問題で、肯定も否定もしにくい微妙なラインだった。
 年の差六歳はこういった所に現れるのか。納得できてしまう己が何とも寂しかった。
「そういうことです」
 言いながら、安室の背後から梓がちらりと作業スペースを覗き込む。梓はいちごタルトが提供できる段階か確認しているだけだ、とわかっていても、背中に安室の集中力が割かれてしまうのは悲しい性だ。
 きっと誰でもそうだろう、と安室は意味もなく一人言い訳をした。
「いちごタルトはもう出しちゃっても大丈夫ですか?」
「あー……仕上げだけさせてください」
「じゃあフライパン見てますね」
 その一言と共に、二人の立ち位置が入れ替わった。
 作業スペースに並べられた皿の一枚には朝セットしたもの、もう一枚は切り出されたままのいちごタルトが載っている。手つかずのいちごタルトに粉糖をふりかけ、チョコレートソースをたらす。ホワイトチョコレートの白がいちごの赤を隠した。
 安室自身、見栄えに対しこだわりがあるわけではない。ただ、盛り付けも味の一部だ、と梓と尋ねたケーキ屋併設のカフェで言われてからは、最後まで手をかけるようにしていた。それに、飾り付けた時の方が試食の時の梓や、提供時の客の反応も良かった。
「梓さん」
「はぁい」
 フライパンを見ていた梓と代わると、梓はいちごタルトを載せたおぼん片手にホールへと出ていく。その様子を横目に、安室は冷蔵庫からクリームとジャムを取り出した。
「お待たせしました、安室さん特製いちごタルトです」
 手際よくフォークと皿が並べられていく音を聞きながら、安室はフレンチトーストをフライパンから下ろした。クリームを添え、いちごジャムをジャムカップに移す。
 フレンチトーストはそれぞれの好みに合わせて食べられるよう、控えめな甘さだ。ジャムとクリームどちらも捨てがたい、と頭を悩ませた梓による欲張りセットは、スイーツ好きの女性客からも好評を博している。
 立てかけていたおぼんにフレンチトーストの皿二枚とカトラリーを乗せ、先ほど梓がドリンクを運んだテーブルへ近づく。声をかける前から、女子高生たちの目はフレンチトーストに釘づけだった。
「お待たせしました。気まぐれフレンチトーストです。クリームといちごジャムをお好みに合わせて」
「やったぁ、久しぶりのあむぴのフレンチトースト! 何ヶ月ぶりだろ」
「たしか、二……三か月ぐらい? ……たしか、この写真」
 ほら、となぜか安室にまでスマホの画面が向けられる。たしかに画面に映るフレンチトーストの皿の上には、目の前の皿同様にこんもりとクリームが盛られていた。
「前もクリームマシマシじゃん。久しぶりすぎて忘れてた」
「ほんとだ。いつあるのかわかんないから、つい頼んじゃう」
「梓さんも教えてくれないんだもん」
 柔らかなポアロの空気が一瞬にしてざらつく。嫉妬のこもった視線が、安室ではなく梓に向けられた。
「安室さんが突然休むだけで、私は本当に知らないんですからね」
 突然会話の矛先を向けられたにもかかわらず、梓は呆れたように言い返す。梓が事実しか述べていないことを彼女たちも知っているせいか、それ以上の言及はなかった。
 安室がポアロに来たばかりの頃と比べると、随分と逞しくなった。狼狽えていたのが遠い昔のように感じられ、頼もしさと申し訳なさが安室の中に渦巻く。これも含めてリクエストのナポレオンパイを作ろう、と安室は一人決めた。
「ということで、梓さんにはいつもご迷惑を」
……あむぴ、梓さんのこと困らせちゃだめだよ」
「ポアロでは後輩でもあむぴの方が年上なんだからさ」
 冷ややかな視線はいつの間にか安室に向けられていた。犯罪者相手ではなくとも、こういった瞬間的な変化は背中に嫌な汗をかかせる。
「本当ですよー。せめて、マスターには休むって連絡してください!」
「気を付けます」
 年下の三人の女性から小言を言われている。ポアロ以外ではありえない状況に、思わず安室の口角が緩んだ。梓に見つからないよう振り返らずにキッチンへ戻ると、カランとドアベルが音をたてた。まだ少し冷たい春風がポアロに吹き込む。
「こんにちは、梓さん。……って、珍しい。安室さんだ」
「えー? あ、本当だ」
 ドアを開けたのは、上階に住む毛利蘭と、その友人の鈴木園子だった。少し目線を下げると、毛利家の居候こと江戸川コナンが呆れたような笑みを浮かべている。
 コナンは安室の欠勤事情を察し、時にそれを利用してくる。ある程度の精度で推測しているからこそ、普通に出勤しただけでこの言われようになる安室を擁護する言葉はないといったところだろう。
「いらっしゃい、園子ちゃんに蘭ちゃん……とコナンくん。今日は安室さんスペシャルデーなんです」
「あ……梓さん?」
 得意げに言う梓に、安室は思わず困惑の声を上げた。スペシャルデーとは、と続けたくなる口を慌てて閉じる。
……あれ、違ったんですか?」
「ええと……
「だってほら、普段はないフレンチトーストとか、いつもより凝ってるタルトとか」
「え、今日フレンチトーストあるの? ラッキー」
 タルトは無断欠勤が続いたことへのお詫びだったというか。そう安室が返す前に園子の声が割り込んだ。
 そろそろ開店前に用意した食パンが尽きる。昼前に追加で卵液へ漬け込んで正解だったかもしれない。今日はフレンチトーストがよく出る、と安室は現実逃避をしそうになった。
 安室と梓が案内するまでもなく、テーブル席が埋まっているのを察した蘭と園子、コナンの三人は流れるように空いているカウンター席に着く。
「私もフレンチトーストにしようかな。園子はコーヒー?」
「もちろん。梓さんが淹れたコーヒーと安室さんの作ったフレンチトースト……まさにポアロの看板って感じじゃない?」
「そこはマスターのコーヒーじゃないかなぁ」
 腑に落ちない梓を横に、二人の会話は続く。
「マスターはマスターだから」
「梓さんと安室さんは二人でセットって感じなんです」
 安室は洗い物の水音をBGMに、梓の困り顔を眺めた。手元を伝う水の冷たさと食器の硬さがやけに違和感を触覚へ訴える。この穏やかな空間は安室、否、降谷の過ごすべき日常ではないとでも言わんばかりだった。
「じゃあコーヒーとフレンチトースト二つずつ……コナンくんはどうする?」
「ボクはオレンジジュースがいいな。博士の家でおやつ食べてきちゃったから」
 美味しかった? うん、と蘭とコナンの会話が続く。安室と違い、何も事情を知らない梓には、仲のいい姉弟にしか見えていないだろう。
「コーヒー二つ、オレンジジュースが一つ、フレンチトースト二つ……安室さん出番ですよ」
「はいはい」
 安室は梓の持つ皿を引き受け、キッチンに戻った。またあのフライパンにつきっきりの時間が始まる。今日何度目かわからないそれに若干の飽きを覚えながら、安室はフライパンを火にかけた。
「コーヒーは梓さんお願いします」
「もちろん!」
 元気な梓の声と共に、またバチンとウインクが安室に飛んできた。萩原のように完璧なウインクが飛んできても困るが、こうも下手だとコメントに困る、と曖昧な笑みで誤魔化した。
 フライパンにバターを溶かし、冷蔵庫から取り出したトーストをフライパンに並べる。隣からは先ほどと同じように、落ち着くコーヒーの香りが漂ってきた。
 授業の話、テストの話、部活の話。カウンター席に座った蘭と園子の会話は目まぐるしく変わっていく。コナンは時折相槌を打つのみで、積極的に話に加わらないようだった。
「梓さんさー、最近なんか楽しい話ない?」
……楽しい話、ねえ。どうしたの? また急に」
 梓は返事をしながら、コーヒーをカップへと注いでいく。グラスの中で揺れるオレンジジュースと、なみなみと注がれたコーヒーカップ二つがおぼんの上に並べられた。
「ほら、春、新学期、クラス替え、別れと新たな出会い……と来たら一つしかないじゃないの」
「私もうクラス替えないんだけど……
「ひ、と、つ、しかないじゃない」
 区切るように繰り返された園子の言葉に梓が一瞬怯む。
「えー……なあに?」
「コイバナよ、コイバナ。別れ際に知る愛に、新たな恋との出会い――はあ、園子にも現れないかしら。満開の桜の木の下で」
「園子には京極さんがいるでしょ」
「もちろん京極さんが一番好き……だから梓さんに聞いてるんじゃないの」
 すかさず入れられた蘭の突っ込みを躱した園子が梓に詰め寄る。その圧に梓の動きが止まり、おぼんは宙に浮かなかった。
 梓の浮いた話。
 安室とて一度や二度は考えた。信頼の裏に恋心を隠す常連がいるのではないか、プライベートでそういった関係の人がいるのではないか。その疑問を解き明かす手段を持っているからこそ、本人から聞くまではそっとしておこう、と毎回結論づけていた。
 知ったところでどうするわけでもないのも、そうする理由の一つだった。
「な、ないよ。園子ちゃんたちの方がいっぱいあるでしょ」
「本当に?」
「梓さーん」
 ガタガタと立ち上がる音の後に、梓の名を呼ぶ声がテーブル席から響く。園子の疑うような目つきから逃げるように、梓はキッチンを出ていった。
 ポアロに安室と梓の二人がいる時、こうして名前を呼ばれるのは大抵梓だ。会計はもちろん追加オーダー、果ては雑談まで。ポアロといえばマスターと梓の二人、そう客にも染みついているようだった。
 馴染みの客たちからすれば、安室は時折やって来る臨時の店員の方が近いのかもしれない。大事の前の小事だ、と言って周囲との間に引いた線を改めて見つめなおす。降谷の立つ足元は暗く、きっぱりと引かれた白線の向こうは明るい。踏み越えたくなる身勝手さに降谷は少し嫌気がさした。
「ないない。ポアロの毎日で手一杯」
 オーダーシートを片手にそう言って、梓はいちごタルトをオーダーした二人組の会計対応に回る。カタカタとレジから鳴る音は、安室が庁舎で聞くタイプ音と印象が異なる気がした。
「あむぴのいちごタルト美味しかったよー」
「それはよかったです」
「次休む時は、忘れずに梓ちゃんに連絡してよね」
「心がけます」
 全く正反対なトーンそれぞれに合わせて返したせいか、意思なく流れにのまれる人のようだった。
 安室の所々に降谷の素が出ていても、安室は降谷とは別人だ。当然、梓やポアロの面々との良好な関係も降谷のものではない。それが寂しくもあり、同時にどこか安心感があった。
……本当かなあ」
 なんて事のない会話の後、二人は顔を見合わせて困ったように笑った。背を向けている梓の表情は、安室にはわからなかった。
 安室とて連絡を忘れていたわけではない。ただ、コントロールを失いあちこちに手が回らなくなるからこそ、想定外と言うのであって、優先度の低い連絡などできる状況ではない。それをそのまま梓やマスターに伝えるわけにもいかず、ずるずると無断欠勤・長期欠勤の多い安室透となってしまった。
「カフェオレとコーヒー、いちごタルト二つで二六〇〇円……ちょうどですね。またのご来店、お待ちしてまーす」
 お待ちしてます、と梓の声に被せるように安室も続けた。ドアベルと共に二人がポアロを立ち去る。
 何だかんだ言いながらも、満足そうな表情を浮かべて出ていく客を見るのが、安室はもちろん降谷も好きだった。自分の存在が障害になり得ることを理解したうえで、ポアロのこの平穏な時が末永く続けばいいとさえ思っている。
……で、梓さん狙いの常連さんとかさ」
「ないない」
 蒸し返す園子の声を梓は一刀両断する。あー、と間延びした梓の声と共に、レジの引き出しが音をたてて閉まった。
「最近多いらしいんだよねえ」
「梓さんのファンが?」
「まっさかぁ。老若男女問わず大人気の安室さんじゃあるまいし」
 期待が一瞬で打ち消された蘭と園子は半目で梓を見つめた。コナンに至っては、呆れを通り越してため息すらついている。
「おや、僕に突き刺さる梓さんファンの視線はいつだって痛いですよ。今日だってランチ時に来ていた大学生の」
「あの子は高校生の頃から来てくれている常連さんで、安室さんより私の方が見慣れてるだけですー」
 思わず訝しげな目線を投げかけて、安室は窓の外へ視線をやる。返答次第では梓のプライベートに土足で踏み込むことになりそうだった。いくら探偵を自称しているとはいえ、いくらなんでもやりすぎだろう、と安室は無意識に梓から一歩退いた。
「安室さんファンからの方が怖いですってば」
「まあたしかに安室さんのファンって……
「ねえ……
 顔を見合わせる女性陣三人に、安室は思わずコナンへ助けを求めたが、遠い目をする少年はコメント一つくれそうにない。少し首を傾げてお茶を濁す。萩原だったらもっとうまく立ち回れただろう、とあり得もしないことが脳裏を過った。
「それで、何が多いんですか?」
「その……不審者が出るらしいんです」
 不審者、と蘭と園子が声を揃える。思わず眉を顰めるような、平和なポアロには似合わない言葉だった。
「不審者って……大丈夫なんですか? お父さんにも相談してみます?」
「大丈夫、大丈夫。同じマンションの人に聞いただけだから。それに、私はまだ見たことないし!」
 見たことがあったら、それは手遅れじゃないだろうか。そうツッコミを入れたくなったのは安室だけではなかったらしく、コナンも手を無意味に動かして何か言おうとしていた。
「もう出会っていたら」
「新しく引っ越してくる人かもしれないし」
 タイミングが悪く、梓の声が安室の声に重なる。一番聞いてほしいはずの人には聞こえないまま、コナンだけが同情するように肩をすくめた。
「まあ……見たことないならいっか」
「それはそうですけど……気をつけてくださいね」
 困惑を隠せない二人の言葉も梓にはどこ吹く風のようだった。
 その不審者のターゲットが梓ではないなら心配はいらない。ただ、梓がターゲットだからこそ遭遇しないという可能性もある。どちらかまだはきりとしない以上、無闇に介入すべきではないだろう、と安室は結論付けた。
 この世界は、いつ、どこで虎の尾を踏むかわからない。
「ありがとう、蘭ちゃん。でも、本当に」
「そうだ!」
「どうしたの、園子」
「安室さん戻ってきたんだし、安室さんに送ってもらえばいいじゃない。安室さん、どうせ暇でしょ? 事件がなければ」
 事件がなければ、と続けられた言葉だけやけにトゲがあった。なかなか蘭に顔を見せない誰かを皮肉っていることはたしかだった。
「僕、ですか?」
 急カーブを描いてきたボールを安室が曖昧に投げ返すと、ふふん、と得意げに園子が告げた。
 暇かと尋ねられれば、欠勤中よりは暇だろう。身辺調査の情報から察するに、梓の家を一度経由して庁舎へ向かったところで、安室の移動時間は大して変わらない。まさか永続ではないだろうし、それで梓の好感度稼ぎができるなら安いものだ。
「まあ、梓さんを毎日送り届けるぐらいの時間はありますけど」
「ならちょうどいいじゃない。ポアロで働いて、帰りは安室さんに送ってもらえば」
 どうせシフトも一緒に入ってんでしょ、と園子は投げやりに続ける。安室がちらりと振り返った先の冷蔵庫にあるシフト表には、凡そ安室と梓の名前がセットで書かれていた。
「そのうち、ラブの予感……なんて」
「ないないない。っていうか、そっちの方が怖い」
 蘭の言葉に梓が本気で怯える。コナンは変わらず呆れた視線を安室に投げていた。呆れる前にこの二人の暴走をどうにかしてほしい、と安室が思ったところでどうしようもない。
 喫茶ポアロのアルバイト仲間、先輩と後輩。それ以上でもそれ以下でもない。それが、安室透を騙る上で必要な設定の一つだった。プライベートに踏み込ませないことで脅威から遠ざけ、安全を担保する。そのために、安室は梓との間にいくつもの線を引いていた。
「まさか安室さん、送り狼……
「園子ちゃんストップストップ、炎上! 炎上する!」
「えー、もう今更でしょ。何回炎上したと思ってるの」
 あっけらかんと言う園子の前で、梓が項垂れた。安室が梓から聞いた範囲でも、ゆうに片手の数を超えている。以前と比べれば頻度は下がったものの、累計回数は減らない。ため息をつく梓を前に、園子はコーヒーを一口飲んでから続けた。
「すっかりポアロの二人といえば梓さんと安室さんで……ねえ」
「うんうん。学校でも噂になってるし」
「ポアロ、マスターのお店なんだけどなあ」
 互いに目配せをしながら蘭と園子が頷く。果たして、梓が突っ込むところは本当にそこでよかったのか、流石の安室も口を挟みそうになった。とはいえ、高校生の噂程度であれば、そうそう大きな問題にはならないだろう。
 安室とて、余計な口出しをして撃たれる趣味はない。沈黙を選ぶことにした。
「そういえば、明日って蘭は部活?」
 小さくぼやいた梓の言葉は元気な二人の声にかき消され、返答はなかった。
「なかったと思うけど……
「じゃあさ、夏服見に行こうよ。新しいお店出来たって聞いたし」
「駅ビルのとこの?」
「そうそう。四階の雑貨屋だったとこ。そこに新しく入ったんだって」
「どんなお店なんだろ」
「そこまでは聞いてないんだけどさ」
 まだ春になったばかりだというのに、園子と蘭はもう夏の話をしている。彼女たちの気が随分と早いのか、安室の季節感が失われているのか判別がつかないまま、園子の口からカタカナが並べられていく。
「それで……どう?」
「いいよ、行こう。……コナンくんはどうする?」
「え? ボク? 明日は……明日も、探偵団のみんなで博士の家に行く約束してて」
「そっか。気を付けてね」
「うん! 蘭姉ちゃんもね」
 仲睦まじい二人の会話をよそに、安室の手元から香ばしいにおいが立ちあがった。フライパンの中で、白から茶色へとゆっくりとメイラード反応が進んでいく。このままひっくり返さず放っておけば、フレンチトーストは焦げ、フライパンと同じ黒に染まる。
 黒、梓の生活圏に現れた不審者。
 暇を持て余した思考がキーワードで歪な線を結び、安室の脳裏で黒のロングコートが翻った。ジンがあの見た目のまま気配を消す努力もしなければ、間違いなく地域住民に不審がられて通報されるだろう。普段のジンに若干の疑問が湧きながらも、面倒ごとの予感に従って考えることを止めた。
 ジンと言えば、最近の動きが苛烈さを極めている。複数のNOCが一つの任務で見つかってからというものの、今までの倍以上の速度で構成員が粛清されている。ここ二、三か月で、少なくとも両手の数以上は殺された。
 今月頭に消された男は、日本人だった。詳しいことは知らないものの、彼が日本警察に関連するNOCではないことだけはたしかだった。
 もしかしたら他国警察や別の犯罪組織の人間のNOCだったのかもしれないし、裏切ってなどいなかったのかもしれない。ただ、真偽はどうであれ、この世界で力のない者が裏切りを疑われたら終わりだ。それを隠す能のある人間か圧倒する力を持つものだけが生き残る。
 庇い逃す余地はあった。でも、バーボンはそれを選ばなかった。
 庇った際に生じる歪によってはバーボン自身の立場が悪くなる。今までに払ってきた犠牲を考えれば、庇う選択はできなかった。そもそも、その人間が本当にどこかの組織と内通しているかどうかなど、到底調べきれるものではない。
 存在しないことの証明は、不可能であるからこそ悪魔の証明と呼ばれる。 
 もし仮にジンが遠目に見て不審だとしても、梓や梓の住むマンションの住人を狙う理由はない。それに、あのマンションの人間が組織に関与していないことは、下調べの時に確認している。そもそも、ジンはバーボンの表の顔である安室の同僚を狙う様な回りくどい性格ではない。
 よって梓の言う不審者はジンではなく、どこかの見知らぬ誰かだろう。
「不審者……か」
「安室さん?」
「なんだい、コナンくん」
「何か知ってるの?」
 カランと氷がオレンジジュースのグラスの中で音をたてる。隣の蘭と園子は梓と談笑しており、コナンが探偵の顔をしていることに気がついていない。全てを見通すようなコナンの丸い目は、安室に張り巡らされた嘘を暴こうとしているように降谷は感じた。引きつりそうになる口元を意識的に押さえた。
 いくらコナンが本来は非常に優秀な探偵の工藤新一であろうと、一般人であることに変わりはない。情報をむやみに共有することも、彼を巻き込むことも、決して褒められたことではない。
……君が興味を持つようなことは知らないよ。何もね」
「ふうん」
 コナンの問い詰めるような声は、隣から上げられた声にかき消された。
「あーっ、安室さん、フライパン! 焦げちゃう」
「えっ、ああ……本当だ」
 安室は慌ててフレンチトーストをひっくり返すも、時すでに遅し。フレンチトーストはきつね色をとうに過ぎ、すっかり焦げ付いていた。
「大丈夫そうですか?」
「お客さんには出せないですね。……後で片づけておきます。すみません」
 安室は提供するには随分と焦げたそれを皿に避け、冷蔵庫を開ける。ドアに隠れるようにしてため息をつく。
 消耗している自覚はなくとも、久しぶりの接客業で頭が上手く回らないのかもしれない。安室は切り替えるようにゆっくりと息を吸った。肺一杯に冷たい空気が広がり、少し思考がクリアになった気がした。
 フレンチトーストを焼き直すには、新しい食パンを取り出すのはもちろん、バターも再び引く必要がある。深呼吸を誤魔化すように、必要なものを手早く取り出してから冷蔵庫のドアを閉じた。
「いえいえ。さっきもちょっと危なかったし……もしかして、寝不足ですか? 面白いミステリ読み始めちゃったとか」
「まさか、あの事件バカじゃあるまいし」
「あはは……すみません、蘭さん園子さん。焼き直します」
 妙に鋭い園子の声に、安室は乾いた笑いしか返せなかった。
 蘭に連絡もせず事件を追う探偵の工藤新一を事件バカと呼ぶのなら、数多のものを犠牲に組織へ潜入している警察官の降谷を、園子は何と呼ぶのだろうか。猫のように死ぬわけにはいかない、と安室は好奇心を飲み込んだ。
「そのくらいいいのに」
「お客さんに出せる状態ではないので」
「じゃあ、代わりに私が食べちゃおうかな」
 少し焦げたぐらいなら気にしないし、と言い張る二人の間に、突如梓の声が割って入った。
「梓さんのためなら別のを焼きますから。あとで僕が」
 そう安室が言いかけた時には、既に梓がフレンチトーストに真っ赤ないちごジャムをかけていた。あー、と園子が小さく呟く。
「えっ、もうジャムかけちゃいました。……まかないに食べてきていいですか?」
「梓さんの分も焼きますから、お皿ください」
「お腹すいちゃって待てませーん。食べ終わるまで、ポアロをお願いしまーす」
 フレンチトーストを赤いいちごジャムがまだらに染める。血を思わせるそれに安室が手を伸ばすも、あえなく空を切った。
……はいはい。ポアロはお任せください」
「やったぁ! じゃあ、休憩もらいまーす。またね、三人とも」
 流れるような動きでフォークとナイフを取り出し、ひらひらと手を振りながら梓はバックヤードへ消えていった。後輩のミスを隠すような、食い意地の表れのような退場だった。
「梓さんも自由ねえ」
「まあ、梓さんですから」
 ポアロの看板娘らしくしっかりとしていながら、どこか自由さを持つ可愛らしい女性。
 それが安室の中での榎本梓の認識だ。身辺調査の情報だけだった頃から比べると、随分と実感を伴う理解へと変わった。
 例えば、わざとらしいポアロの先輩の素振りは、きょうだいが兄だけで下に妹や弟がいないことの表れであるとか。梓の他人の話を正面から聞く姿勢やポアロへの思いが、常連に愛されている秘訣だろうとか。
 梓への好感度の高さは、安室として過ごす時間の大部分を共に過ごしているのが大きな理由だろう、そう降谷は結論づけた。
「何よその、俺はわかってるんです……みたいな顔は」
「そんなことないですよ。僕よりも園子さんや蘭さんの方がよくご存じでしょう」
 年の差だとか、性差だとか、知り合ってからの期間だとか、いくらでも理由を付けられた。どれかを選んで返したほうが尤もらしいとわかっていながらも、安室はそれを選べないまま口を閉じた。
 今度こそうまく焼けたフレンチトーストの横にクリームを添え、ジャムをジャムカップに移し替える。一体、この動作が今日何度目なのか、とうの昔に数えることをやめた安室にはわからない。
「でも、好きな人の前でだけ見せる姿ってあるじゃん? 新一♡の前の蘭みたいに」
「そっ……園子だってそうじゃない、京極さんの前だと」
「トーゼンでしょ。……もちろん、蘭しか知らない私だっているけどね」
「それを言ったら園子しか知らない私だって」
 赤いいちごジャムは蘭、藍色のブルーベリージャムは園子の前へ、安室はフレンチトーストの載った皿を並べる。園子と蘭がああだこうだと言い合いながらも礼を述べるあたりに、二人の育ちの良さが滲んで見えた。
 二人のくだらない言い合いは、降谷に学生時代を彷彿させる。郷愁を振り払うように小さく頭を振った。
「だーかーら!」
 音に合わせるように園子の人差し指が揺れる。園子のことを知らない人に声だけを聞かせたら、話している場所がカフェか居酒屋か、判別しにくそうな絡み方だった。隣に座る蘭も少し呆れたように眉を下げている。
「安室さんは、梓さんのそういうとこを知ってるんじゃないのって」
……僕たちはただの同僚ですよ。それ以上でも、それ以下でもない」
 ですよね、と安室が同意を求めようにも、梓は休憩中で近くにはいない。まさか園子や蘭に尋ねるわけにもいかず、安室は曖昧に笑うほかなかった。
「もう聞き飽きたわよ、それ」
「事実ですから」
「はいはい、推理は証拠の積み重ねだーって言うんでしょ。どっかの推理バカみたいに」
 園子の呆れた声がクリームの上を転がり落ちた。それは一口大に切り分けられたフレンチトーストにすくわれ、口の中に消えていく。
 証拠を一つずつ集めて導き出すのが推理なら、嘘で塗り固めたものは、一体何なのだろう。
 カウンター席で舌鼓を打つ二人と、それを眺める少年。テーブル席で雑談に花を咲かせる二人組。オーダーも全て提供し終え、物事に追われる感覚が安室からするりと抜けた。その代わりに、空腹感と睡魔が忍び寄る。
 左胸元に入れようとした手が空振りをして、今着ているのがジャケットではなく、ただのTシャツとエプロンだと降谷は思い出した。
 安室のラフな服のポケットには、眠気覚まし用のミントタブレットも入っていなければ、支給の拳銃や手錠も当然入っていない。さらに貴重品、特に家のカギと財布は防犯の観点からロッカーに入れるようマスターから指示されている。
 おかげで、今の安室のポケットに入っているのは二台のスマホと車のカギ、オーダーシートにボールペンだけ。スマホ複数持ちがある程度一般的になった今、二台持ち程度では犯罪組織の幹部どころか、潜入捜査官にも程遠い。
 ただの一般人の安室透としての日々は、いつか人生に飽きてしまいそうなほどに平穏だった。
「梓さんはさ」
 フォークとナイフの動きを止めて、園子が呟いた。あまり無闇に客の会話を聞かないように、とマスターから言われていても、つい耳を傾けたくなるのが探偵……人の性。それは安室以外――テーブル席の二人組も同じのようで、唐突にポアロは静寂に包まれた。
「ああは言ってるけどさ……脈アリだと思うんだよねえ」
「園子もそう思う?」
「ってことは、やっぱり蘭も?」
「うん。なんかさ、最近ちょっと違う気がするんだよね」
 ね、と同意を求められたコナンが首を横に振る。
「ボクにはわかんないや」
「ガキンチョにはまだ早いっつーの」
「あはは、噂の女の勘ってやつかな」
「安室さん、否定しないの?」
 くるくるとストローを回しながらコナンは安室に尋ねた。園子と蘭のコメントに安室が同意しているように聞こえたようだった。
「人の心は推理できない」
 そうだろう? と続けた安室の声は、ポアロの前の通りを駆け抜けるスポーツカーのターボ音にかき消された。
 探偵は証拠を元にトリックを、犯行の手順を解き明かす。動機の一部を推測することは出来ても、全てを暴くことは出来ない。まして事件を起こしていない人の感情の機微など到底無謀な話だ。
……安室さんも探偵ですもんね」
「まだ助手だけどね」
 園子が首を傾げたのも束の間、ニヤニヤと笑い始めた。蘭はそれを不思議そうに眺めている。
「はいはい、そういうことね」
「なっ、何よその顔は」
「ふっふっふ」
 園子の怪しげな笑い声の後、二人はまたからかい合いながら、恋愛談議に戻っていった。
 取り残されたコナンの様子を見ようとした時、安室のスマホが震えた。通知欄には、今夜九時に呼び出す内容の端的な一文が表示されている。文体からしてベルモットだろう、と安室はあたりをつけた。ならば、とターゲットたちのスケジュールを脳内で書きだすも、今夜ベルモットが顔を出しそうな案件は見当たらない。
 一体何の用件で呼び出しているのか、安室にはさっぱりわからなかった。その一方で、ベルモットの行動は読みにくい、と擁護が入る。何にせよ、ポアロの閉店作業の後に着替え、指定された場所に急いで向かう必要がありそうだった。もちろん、座席下とグローブボックスの奥に隠した拳銃と弾薬を身につけてからだが。
「あむぴー」
 思考を中断させる元気な声に、はーい、と安室はポアロらしく間延びした返事をした。テーブルの上に開かれたメニューがちらりと見え、追加オーダーだと察する。スマホと入れ替えるようにオーダーシートを手に取った。紙の端についたいちごジャムが、白い紙の上に赤い線を引いた。
 甘いジャムとコーヒーの香りが漂う穏やかな空間は、これが仮初の生活であることを忘却させようとする。硝煙や埃を纏う降谷でも、裏切り合う殺伐とした空気に身を置くバーボンでもなく、他愛のない日常を送る安室こそが本来の生活であるかのような錯覚。明晰夢のようなものだとわかっていてもなお、手を伸ばしそうになる。
 靴底が降谷の意思をたしかめるように地面を掴む。目的を忘れるな、と地面から反発された。組織の壊滅、敵討ち。忘れるはずがない、と降谷はまた一歩足を踏み出す。
 目的を明確に理解している。取るべき立ち回りも、してはいけない事項も頭に入っている。それらを成している間は、組織の面々から周囲へ危害を与えられることはないだろう。
 少なくとも今は、ヤツらが彼女に手を出す理由もなければ、彼女を守るメリットもない。まだ大丈夫だ。そう脳内で繰り返しながら、安室はキッチンを出た。


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