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はち
2026-06-01 17:55:21
2077文字
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なんでもなかった日々
つき合って落ち着きが出てきたイトアキの朝。
EPで女の子の髪を結んであげてたりしたしこういうこともあったんじゃないかなーという妄想。
浮上したばかりの意識で緩慢に瞬きを繰り返し、窓辺を染める淡い光でアキラはおおよその時間を把握した。
起き抜けに感じる、腰を抱く腕の重みもなければ、安心しきった寝息すら聞こえてこない。ベッドの主はどうやら不在らしい。ストイックな彼のことだから、日も顔を出さないうちからトレーニングに勤しんでいるかと思えば、どうやら今日は例外なようだ。
甘い香りが室内を満たしている。それを堪能するかのように、アキラはゆっくりと息を吸った。懐かしささえ感じるこれは、バニラだっただろうか。これがいいと我儘を通した、ナッツにも似た珈琲の芳ばしい香りも混ざっている。
まどろみから現実へと連れ戻されるように、視界が徐々に焦点を結び始める。視点をうろつかせると、ろくに使っていないとぼやいていた簡素なキッチンに慣れ親しんだ背中が見えた。片脚に重心を乗せてコンロに向かう彼の手には、フライ返しが握られている。似合わない調理道具に、自然と目元が緩んでしまう。
物音を立てないよう起き上がるなり、手繰り寄せたタオルケットを素肌にまとう。ベットの下で転がっていたルームシューズに足を通そうとしたところで、脱ぎ散らかされたままの衣服が目に留まった。数秒ほど葛藤して、ひとまず見なかったことにした。
片脚を上げ、母趾球と小趾球から着地し、次いで踵を静かに落とす。換気扇の駆動音で多少の足音は掻き消されていることを信じて、獲物を狙う猫の如く忍び寄っていく。一歩二歩と、ある程度のところまで距離を詰めたところで、アキラは唐突に足を止めた。目標地点にいる男の肩が、笑いを堪え切れなかったのか竦めるように数度揺れたからだ。バレてしまっているなら、驚かせたところで返ってくるのは三文芝居だ。それはアキラが望んでいる反応ではない。
「なんだ、もうやめか?」
普段通りの足音を立てると、振り向きもせずからかわれた。小さく鼻を鳴らして、左隣に並ぶ。
「バレているならやったところで意味がないだろう?」
「それもそうだ。
……
おはようさん」
「おはよう、ライトさん。これは
……
、ホットケーキかい?」
手元を覗き込むと、フライパンの中でクリーム色の生地が焼かれていた。香りの正体はこれだったようだ。傍にはふたり分のマグカップを珈琲が満たしている。ボウルには、残りの生地とフライパンに移すためのレードルが立てかけられていた。
普段の食事は出来合いの物だったりする、あまり自炊をする性質でもない彼が朝から料理をするなど珍しい。それも、ホットケーキなど。久しぶりに焼こうかな、などと彼との散歩の合間にぼやいた記憶も無かった。
「ああ。ちと懐かしくなってな」
そうなんだ、と相槌を打ち、ライトに倣って再び生地を見守る。火力は極限まで落とされていて、よく耳をすまさなければ燃焼音は拾えないほどだ。
「
……
昔な」
「うん」
「ねだられて焼いてやったことがあったんだ」
隣の男をちらりと盗み見る。サングラスを介していない細められた双眸。緩く持ち上げられた口角と、声の柔らかさに懐古が混じっていた。
「最初はそりゃ焦がすわ生焼けにするわで手酷くクレームをもらったもんだがな、ムキになって連日焼きまくったら今度は飽きただの太るだの言われる始末だ」
「いったいどれだけ焼いたんだい
……
?」
「アイアンタスクの車体ぐらいは越えてそうだな」
僅かに硬くなった声音に、思わず苦笑いが浮かぶ。高く積み上げられたホットケーキから滴り落ちる、溶けたバターとシロップを想像して、胃に入る前から胸焼けが起こりそうになった。
「それは
……
、ずいぶん練習したんだな」
「ま、最終的には黙らせてやったさ」
ふつふつと生地の表面に気泡が浮かびだす。それを確認するなり、ライトはフライ返しを生地とフライパンの隙間に通し、器用にひっくり返してみせた。綺麗に焼き色のついた、厚みも充分なホットケーキに思わず感嘆する。
「
……
案外、覚えてるもんだな」
誰に言うともなく呟かれた、噛み締めるような響きに寂寞を感じた。
彼は、こうやって昔の話をすることが増えた。出会ったばかりの頃に披瀝された、仲間を失った悔恨や、覚えておく価値も無いと吐き捨てた地下闘技場での日々のことではない。自責の念に駆られ続けているのは変わりないけれど、指でなぞるように、傭兵時代の思い出を語ることが増えていた。そういう時、彼の声には必ずと言っていいほど優しが滲んでいる。今だってそうだ。
大切な記憶の一片に耳を傾ける度、暖かな日だまりのようだとアキラは思う。傷を埋めることもできず、寄り添うことしかできないアキラの手を取り、その日差しの下に招かれているような錯覚さえ覚えた。彼なりに前を向こうとしている。その兆しだとするなら、ただただ嬉しかった。
「なんだよ。火ぃ使ってるから危ないぞ」
「
……
うん」
肩に頭を預けたところで咎められはしたものの、引き剥がそうとする気配はない。その優しさに寄りかかり、アキラはホットケーキが焼き上がるのを静かに眺めていた。
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