シノハラ
2026-06-01 12:09:02
5629文字
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見知らぬ痛み

ンズイル♀ 自分が傷ついている事に気づけなかったイルーガの話

 アドンがいてくれてよかった。神の目を揉み合いの状態で使っていたら、相手はただでは済まなかっただろう。
 ナシャタウンで仕事を済ませてピラミダに戻ろうとしていた時、街の外れで声をかけられた。どうやらここに来たばかりらしい男は探し物が複数の店で見つかったものの、値段の幅があんまりにも広いので悩んでいると言っていた。それで今、信用の置ける店はどこかと複数の人間に訊いて回っていたらしい。
 品は何かと尋ね返すと、これこれこういうものでと路地の角に置いてある大ぶりな袋に向かっていく。人もつけずに地面へ置き去りにするなんて、相当治安の良い場所で暮らしていたようだ。
 不用心だと忠告しなければと、男性が袋を開けようとするところについて行った矢先だった。袋の口を開けた男が立ち上がったと思えば自然な動きでイルーガの腕を掴んで、細い路地の奥に引きずり込もうとする。
 やられた。そう思うか思わないかのうちにイルーガはアドンを呼んだ。その瞬間、塵芥が散乱する薄暗がりが煌々と照らされて男が怯む。その隙を突いて体当たりをすると同時に腕を振り払い、イルーガは自身の持つ神の目に意識を寄せた。
 まさか街中でライトキーパーに手を出す者がいるとは思わなかったのだが、新参者ならイルーガがライトキーパーの一員だと気づかなかったのかもしれない。イルーガが着ているコートはライトキーパーの皆が身に着ける物とは身長の問題で違っているため、見た目から区別するのは難しいだろう。旧式のライトを見てそうと分かるのは、当時のライトキーパーを知っている者だけだ。
 戦意喪失した相手を支部に引き渡して帰る前、気づかわしげに大丈夫かと支部の隊員から問われてしまった。たしかに街中で物盗りに遭うのは初めてだったが、仕事中にその手の者達に出くわすなんて珍しい事でもなんでもない。
 質問の意図が掴めないまま、次の用事に間に合わせるのが少し大変かもしれないとだけイルーガは苦笑しながら返す。どうやら求めていた発言ではなかったらしく、同僚からは曖昧な相槌しか返ってこなかった。
 次の用――フリンズから報告書を勝ち取るために、夜明かしの墓に向かわなければならない。最近ナシャタウンの仕事の遅延を見越してピラミダに戻る翌日には早番を入れていないのだが、それをフリンズに気取られている雰囲気がある。
 中途半端に仕上げた報告書をイルーガに添削させて、夜中に仕上げれば楽に済むという魂胆なのだ。この前イルーガはとうとう諦めて、彼の拠点に自分の着替えと歯ブラシを置く羽目になった。フリンズもわざわざ寝具を干している暇があるなら、もう少し書類仕事に精を出してほしい。
 大の大人を甘やかすのは良くないのではないかと思いつつも、これといった解決案も思いつかない。今頃イルーガのための夕食を釣り上げているかもしれないフリンズに悩まされながら足早に進んでいるうちに、体温が上がり始める気配があった。
 他所の国ではともかく、ナド・クライで汗を掻いて体を冷やすのは得策ではない。熱を散らしてしまおうとボタンを外して、セーターの胸元が伸びているのに気がついた。
 たしか、コートの前を留めたのは最後に支部を出た直後だったはずだ。支部を出る前に案じられた理由をイルーガは今更ながらに理解する。
 きっとあの男は物盗りではなかったのだ。もしかしたら事を終えればついでに盗っていく予定はあったのかもしれないが、それが本題ではなかったのだろう。
 年頃の娘のような魅力的な肉付きではないことくらい、分厚い上着を着ていても分かるだろうにと少々呆れてしまう。とはいえ、男社会で暮らしているので、そういう問題ではないことも理解はできてしまう。相手をねじ伏せて心底怯えさせながら蹂躙することを目的にするなら、だからこそそういう対象に選ばれなさそうなイルーガを選んだとしても頷ける。
 今回は相手がイルーガを知らなかったからどうとでもなった。けれど、今後似たようなことが起きたとして、相手が複数人だった場合はどうだろうか。事前に薬を仕込まれでもして、アドンに頼る余裕も神の目を使う余裕もない場面だったなら。はたまた、純粋にイルーガを上回る実力者であった時には。
 センサーの調子が悪くなっているのか、まだ日が落ちてもいないのにちかりと瞬く街灯にイルーガは一瞬気を取られる。
 どうにもならない時はいつか来るのかもしれない。そういう瞬間に、果たして自分は生娘のままであって良いのだろうか。
 最初が一番痛いらしいのに、それが暴力として与えられるのだ。鍛えようのない内臓を無遠慮に引っ掻き回されて、無事でいられるとは俄には思えなかった。
 そんな機会がないのが一番ではあるが、自分で選べるものでもない。であれば、一度くらい経験しておいた方がダメージの軽減に繋がるのかもしれない。妙案にも思えたものの、すぐに人選で躓いてしまった。
 体を慣らすのであれば、若くて経験の浅い同世代は除外するべきだろう。行きずりの相手なら行為には慣れているはずだが、イルーガの希望を汲んでくれるとも限らない。男性のように専用の店があるという話も聞いた事がなかった。
 気がつけばうーん、と独り言ちながら軽く首を倒してしまっていた。いつの間にか肩に乗っていた相棒を潰しそうになる前に、アドンが飛び立って大きく弧を描く。最後にイルーガの頭を着地点に選んだアドンを肩に戻しながら、描かれた軌跡の先にある夜明かしの墓の灯台に視線を寄せた。

    *    *    *    *

 来客に備え点検をしてペチカに火を入れたというのに、イルーガはずっとコートを着たままだった。羽織るだけに留まらず、前もぴっちりと閉めている。
 頬は少し赤らんでいて、ぱっと見は暑く感じているように思える。しかし、人間と言うものは体調を崩している場合でも頬の高い所が熱くなることがあるはずだ。
「もう少し温度を上げましょうか?」
 北風と太陽が旅人のコートを脱がせようとする異国の童話を思い出しながら、フリンズはイルーガに提案する。どちらが理由だったとしても、対応としては問題はないだろう。
「大丈夫です」
「寒くはないですか?」
 変に遠慮されていてはいけないと尋ねてみるが、イルーガは迷いなくフリンズの問いに肯定した。
「ならどうしてコートを着ているのでしょう。僕のもてなしに何か不足があったのなら、今後のためにも教えていただきたいのですが」
「いえそんな……そう……そうですね」
 ぱちりと目を瞬かせたイルーガがフリンズを見てから、今度は自分の着ているコートに視線を落とす。迷いの混じる眼差しがもう一度瞼の奥に隠れている間に、彼女は何か決心をしたようだった。
 イルーガが席を立って留め具を外し、丈の長いコートを肩から下ろす。隠れていた胸元が露わになった途端、フリンズは思わず眉根を寄せてしまった。
 仕事着になっているいつものセーターが不自然に伸びている。何か、いや、おそらく誰かに強引に引っ張られでもしなければそんな事になるとは思えない。
「あ」
 何があったのかと詰問する前に、イルーガが場違いにも思える明るい声を上げた。
「フリンズさんが適役かもしれない」
「僕がお手伝いできる事なら喜んで、とは言いたいのですが、一体何の話でしょうか」
 それからイルーガから語られた内容はフリンズの背筋を凍らせるものだった。アドンに助けてもらったので、被害はセーターのみに留まったと彼女はまるでちょっとした事件の顛末のように語ってくる。正直なところ、相手の怪我の程度など今のフリンズにはどうでもよかった。
「それで、一度経験をしておいて、もしもに備えた方がいいかと思って。フリンズさんなら自分本位な事はしないでしょう? もちろん、フリンズさんが良ければですが」
 がつんと強く頭を投げられてから、衝撃が抜けないうちに無遠慮に振り回されたような気分だった。この子はなんて捨て鉢な事を言うのだろう。どうして、自身の身を軽んじるようなことをしたがっているのだろう。
 遅れてフリンズも席を立ってイルーガの前に進めば、コートを椅子の背にかけたイルーガが不思議そうに見上げてくる。この子が見知らぬ相手から無作法な性欲をぶつけられたのだと思うと、酷く遣る瀬無い気持ちになった。
 それと同時に、自分が思っているほどには世間はイルーガを子供だと思わない事実を突きつけられる。幼い頃から彼女を知っている自分よりも、世間の方がこの点では適切な判断をしているのだろう。そう、頭では分かっているのだけれど。
「失礼します」
 どうしてやるのが適切か、正直なところフリンズには分かっていない。それでもそうしてやりたくて、フリンズはイルーガの背中に腕を回してやんわりと引き寄せる。不躾な行為だとは思いながらも、性行為を求めてきた相手であればこれくらいは許されるだろうと甘ったれた推測があった。
 フリンズがイルーガを大切に扱おうとしていると伝わるように、柔らかくもしっかりと彼女を抱き留める。背中から腰回りに腕を下ろした時、そこが描く曲線が少女のそれとは離れつつあると理解した。慈愛と思慕によって触れられるべき、嫋やかな括れに触れる腕は本来罰せられてもおかしくはない。
「恐ろしくはありませんか?」
「はい。少しびっくりはしましたけど」
 声の調子からは嘘はないように思えて、フリンズは安堵の息を漏らす。その息に良かったと声が混じったのは、フリンズの意図するところではなかった。その声に引きずられるように腕の力を込めてしまいながら、無事で良かったとフリンズはイルーガに再び安堵を落とす。
 今回の事が原因で彼女が男性に恐怖を抱いても、何の不思議もなかったのだ。前線に立つライトキーパーとして生きていくのであれば、それがどれだけの障害になるかは想像に難くない。別の生き方を彼女が選ぶことになったとしても、その恐れはイルーガから多くの選択肢を奪うことになるだろう。
 フリンズの言葉を腕の中で大人しく聞いていたイルーガの呼吸が引っかかるようにして一瞬止まった。もしやフリンズの言葉こそが引き金になったのではと緩めようとした腕を、イルーガが服の端を掴んで押し留める。
 少しだけ時間を置いてからイルーガがゆるゆると首を振り、なんてことを口にした。その声には悔恨が入り混じり、自身の心の動きの理由をはっきりと理解したらしい。
「なんでもない事だと、僕は思いたかったんですね」
 ナド・クライにおいてそういうことはままある事ではあるが、当事者にとって些末な事になるはずがない。些末な事ではない被害になるとはいえ、その備えのために望みもしない相手と性交に及ぶなど本末転倒である。
 けれど、彼女は一度そこから目を背けてしまったのだ。そういう行為をすることで、自らが受けるかもしれない恐怖を矮小化するために。そうさせたのはイルーガの腕を強く引いた男の暴力で、確かにその瞬間、この子は深く傷ついてしまった。
「なんでもない事ではありません」
 聡明な彼女のことだから、立ち止まりさえすれば簡単に分かってしまう事をフリンズは念押しをしたくて繰り返す。叱られている気分になっているのか、イルーガはフリンズのくどくどとした口調を素直に受け入れてくれた。
「どうかしていました」
「そうでしょうとも。もう二度とそんな事は考えてはいけません」
 はい、とイルーガは少し萎れた様子で頷いた。自分がどれだけ馬鹿げた真似をしようとしていたのか、彼女自身も痛感しているのだろう。ライトキーパーで役職をもらい働いている手前、直球で叱られる機会が減っているせいで堪えるのもあるのかもしれない。
「誰かに蹂躙される未来のために今を生きようとしないでください。誰かに身を預ける日が来るのなら、一等大切だと思える人を選ぶように」
 生まれ落ちた環境を丸ごと奪われて、たった一つ残った命を燃やしながら進むような人生なのだ。彼女にそんな日がくるのなら、かけがえのない大切な記憶として宿るべきだろう。その瞬間の事を少しだけ想像して、そこらの馬の骨には託したくないとただの同僚が抱くべきではない身分不相応な思いが込み上げる。
 彼女にとって自分は興味を引かれる同僚の一人にすぎない。そう、フリンズは自身に言い聞かす。
 ただの同僚と言えばこの体勢自体が相応しくないだろう。そう告げてくる理性に従って、腕を引こうとした時だった。あ、と微かな声を上げたイルーガが、今度はフリンズの肘辺りを捕まえる。
――…………
 明らかな制止の訳を問おうと口を開きかけて、結局何も言えなくなってしまった。己の腕の中でフリンズを見上げる彼女の表情にはフリンズ以上の困惑が浮かんでおり、イルーガは自分でもどうしてこんな事をしているのか分かっていないらしい。それでも、彼女の手の力は緩みそうになかった。
 その惑う唇が意志を持って動こうとした瞬間、フリンズは彼女の体を抱き直した。ぴったりと他者の胴が触れる感触にイルーガの体がにわかに強張る。
 けれど、その緊張は長くは続かなかった。全身がゆるりと解け、肘を掴んでいた手も離れてフリンズの脇腹辺りに落ちる。胸元に彼女の額と頬がつけられると、擦り寄るように体重がいくらか預けられた。
 ――誰かに身を預ける日が来るなら、一等大切だと思える人を選ぶように。甘える子猫のようなイルーガの仕草から、フリンズは先ほど告げた言葉を思考の上で唱え直してしまう。
 彼女の行動はまさに、自分の願いに沿ったものに他ならないのではないか。滲み出した願望めいた疑問をフリンズは見ないようにしながら、腕の中の可愛らしい人に気づかれぬよう小さく息を吐いた。