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史加
2026-05-31 23:19:17
11659文字
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原神(鍾タル)
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割り切れないぶんだけはあなたのもの
鍾タル/先生との食事を避けようとするタルと、タルと一緒に食事をしたい先生の話
※別名義で友人に寄稿したお話です。
どうしてこんなことになったんだろう。
なんて、答えはわかっているのにタルタリヤの口からため息がこぼれ落ちていく。これはただの嘆きだ。誰かに別の答えを用意してほしくて生まれたものではない。
くるん、と器用に薄焼きの卵を巻いて四角いフライパンの端に寄せ、卵液を注ぎ足し、また巻いて分厚くしていく。もう片方の炉にかけた鍋ではふつふつと湯が煮立ち始めていた。うっすらと焼き目のついた黄金色の卵焼きを完成させてまな板に置いたところで、沸騰した湯にほうれん草を入れる。さっと茹でて取り出し、水を切ったら擦っておいた胡麻と調味料で和える。その間も頭の中ではどうして、なぜ、と嘆きが繰り返されていて煩わしい。
調理台の上は、他にも用意した副菜の皿と、空の弁当箱ふたつで占められている。卵焼きの端を切り落として綺麗に四等分にした後、タルタリヤはおもむろに端っこのひとつを摘むと口に放り込んだ。鰹の出汁と、ほんの少しだけ垂らした醤油の香ばしい風味が広がる。文句のない出来だ。
もうひとつ切り落としたものを摘み上げて、じっと見つめる。
……
これは、これだけはあげられない。あげてはいけない。
証拠を隠滅するように、タルタリヤはそれを飲み込んだ。
「公子殿は本当に料理が上手だな」
弁当箱の蓋を開けた鍾離がわずかに目を丸くしたあと、揶揄うでもなく素直に賞賛の言葉を口にするのを、タルタリヤははいはいと受け流した。
このところ数日に一回、昼を少し過ぎた頃になると、北国銀行の応接室は公子と往生堂の客卿の「打ち合わせ」のために貸し切られて、人の出入りを禁じられる。エカテリーナを筆頭に古参の行員すら詳しい事情を聞かされていないため、部下たちの間では「これから何か大きな戦いがあって、後処理を往生堂に頼むつもりだろうか」「仙人相手に喧嘩でもされるおつもりなのだろうか」などと様々な噂が飛び交っていた。
しかし定期的に鍾離と会う時間を作れるくらいタルタリヤは手が空いているし、余計な騒動は起こさないようにと本国から命じられている。何せ神の心を巡る騒動の一件以来、璃月におけるファデュイの評判はガタ落ちだ。金融機関を運営しているのだから信用というものは重要で、一度失ったそれを再び得るには相応に時間がかかる。暴れたくても暴れられる状況ではないし、もし本当に大規模な戦いが控えているのなら悠長にはしていられない。
では何をしているのかと言うと。
「卵焼きにほうれん草の胡麻和え、松茸の肉巻き、大根と筍の煮物、焼売
……
どれも美味そうだな。早速いただくとしよう」
「どうぞ。さっさと食べたら出ていってくれ」
「む
……
ずいぶんとつれないことを言う」
「こんなこと俺は頼んでないからね。あんたが人に弁当をたかりに来てるだけだろ
……
まったく
……
」
卓の上にふたつ揃って並ぶ弁当を前に、タルタリヤは肩をすくめてため息をついた。傍らには入れたばかりの、まだ白く湯気の立つ茶もある。兵法書や地図、契約書の類といった物騒なものはその場に一切存在しない。どこからどう見てもふたりで昼食を取っているだけである。
まさか謎の「打ち合わせ」が昼食会だとは行員たちも思うまい。わざと昼の時間を少しずらして始めるようにしているし、この「打ち合わせ」は一度始まると大体二、三時間続くので、皆大事な会議や密談だと思い込んでいる。実際にはタルタリヤが作ってきた弁当を食べた後、さっさと鍾離を追い出そうとするのだが、食材や料理に関する蘊蓄やら雑談やらが続くので無駄に時間がかかっている、というだけなのだが。
茶を啜り、箸を手にした鍾離は最初に煮物を口へと運んだ。箸遣いひとつすら様になる美しい男が、ぱかりと大きく口を開けてそれなりに大きさのある筍を一口で頬張る。黙っていれば深窓の令嬢みたいな雰囲気を醸し出すくせに、所作のところどころに男らしい豪胆さが見えるのがどうにもタルタリヤの目を惹き付けて仕方ない。
「きちんと下茹し、調味料が染み込むまでじっくりと煮込まれている。口の中で崩れるほどに柔らかく、冷めていても文句なしに美味いな。昨晩から仕込んでくれたのか」
「まあね
……
」
咀嚼し終えた鍾離の品評に、タルタリヤは内心で安堵する。黙って食えばいいのに、この男ときたらおかずのひとつひとつを味わっては感想やアドバイスを伝えてくるのだ。悲しいかなタルタリヤは弁当作りの手を抜くことが出来なくなってしまった。
ともあれ今日こそはさっさと食べ終わったら出ていってもらわなければと、タルタリヤも自分の弁当を食べ始める。どれも作っている時に味見をしているから特段驚きはない。ただまあ、今回も上手く出来たほうじゃないかと、目の前で鍾離が箸を止めずにいるのを見て、少しだけ満たされた気分になる。それから胸の奥が重みを増す違和感に気付き、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「うん? どうした、妙な顔をして」
「
……
思ってたよりほうれん草が苦かっただけだよ」
「そうか? 青臭さもえぐみもなく適切に調理されているし、質の良いものを選んでいるとも思うが」
「
……
いいから黙って食べてくれ!」
こちらの顔色に気付いた鍾離に対し、大根役者も呆れるほどの苦しい言い訳しか出来ない自分に辟易として、タルタリヤは吠えるように言った。
不思議そうな顔を作って首を傾げた鍾離だが、すぐに食事を再開する。よく喋る割にもう弁当箱の中身は半分が胃袋の中だ。タルタリヤも遅れをとるまいと箸を進める。
箸を扱うのは最初こそ苦戦したものの、毎日諦めることなく使い続けていくうちにすっかり慣れた。料理をする時は箸以外の調理器具を駆使するが、璃月人や稲妻人の前で食事をしても恥ずかしくないくらいには上達したと自負している。
それでも鍾離の箸遣いは美しいものだと思うし、食事のペースは追いつけそうで追いつけない。ゆっくり料理を味わっているように見えて、最も美味しく食べられる温度のうちにきちんと食べ終える。そういう男だ。もっとも今目の前にあるのは冷めた弁当なのだが、不自然に手が止まることはない。
「そうだ、公子殿」
ふたつ並べて入れた卵焼きのうちのひとつを飲み込んだ鍾離が、不意に口を開く。
「今晩は空いているだろうか。万民堂で香菱の新作料理の試食会を行うそうでな、もし良ければ一緒にと思ったのだが」
魅力的な誘いの言葉に、タルタリヤの心はぐらついた。揺れて、震えて、みしりと軋んだ。
時折外食に誘われるこの瞬間が、タルタリヤはどうにも苦手だ。否、苦手と表すのは適切ではない。ぐらぐらと心の揺れる感覚が落ち着かなくて、少しだけ苦しくなる。その苦しさを表に出さないようにと努めながら返答を口にすると、どうにもいたたまれない気持ちになるのだ。
「
……
悪いけど、今日も空いてないんだ。せっかく誘ってくれたのにごめん」
箸を止め、まだ半分残っている弁当に視線を落としたまま答える。夜に予定なんて入っていない。定時で仕事を終えたら仮宿に戻り、日々の細々としたことを済ませて眠るだけだ。
鍾離はそうか、と頷いた後、何も言わずに食事を再開した。タルタリヤもそれに倣う。
沈黙は気まずいようでいて慣れたものだ。ようやく鍾離が静かになってくれたことに安心しながらも、蘊蓄を語る声がないことを少しだけ物足りなく思って、己の我侭さにうんざりする。
そのまま、時間にして十分は経っただろうか。
鍾離は箸を揃えて置いた。
「馳走になったな。今日のも実に美味かった。
……
また三日後に来てもいいだろうか」
米粒ひとつ残さず綺麗に平らげられた弁当箱と、鍾離の穏やかな顔を交互に見て、タルタリヤは静かに息を吐く。
「
……
しょうがないな。いいよ」
三日後は特にこれといった予定もないし、その前日も夜遅くまでかかるような仕事は特に入っていない。食材を揃え、手間を惜しまずに弁当を作れるだろう。
約束を取り付けることに成功した鍾離は、ありがとう、と微笑んだ。それから茶のおかわりを自ら入れて、タルタリヤが食べ終えるまで日々のことを語りながら待っていた。食べ終えたあともなんだかんだと話が続いて、結局その日の「打ち合わせ」も二時間後に終わったのだった。
少し前まで、タルタリヤはよく鍾離と外食をしていた。夜に三杯酔で酌み交わすこともあれば、日中に万民堂で昼食を共にすることもあったし、琉璃亭の個室を押さえて美食に舌鼓を打ちながら仕事の話をすることだってあった。食に対するこだわりの強い鍾離が勧めてくる料理は何でも美味いから、基本的にタルタリヤは鍾離からの誘いを断らなかったし、鍾離も頻繁にタルタリヤを誘いに来た。食事は、ふたりの間で当たり前に交わされるコミュニケーションのひとつとなっていた。
それをここ最近になって断るようになったのは、別にタルタリヤが鍾離の正体と、騙されていた事実を知ったからではない。すべてはあの男の手のひらの上だったという事実は今も思い返すと舌の根に苦味を甦らせるものだが、ひとのことを騙しておきながらあの男はその後も何ひとつ態度を変えずにタルタリヤに声をかけてきたし、騙されたタルタリヤのことを過度に見くびるような目を向ける訳でもなかった。タルタリヤとて若くして執行官の座に着いているから、相手が己を陥れるという明確な悪意を持って謀略を立てたのか、それとも譲れぬ目的があり、それを確実に為すための方法としてそれを選んだのかくらいは見抜けるし、そこには大きな違いがあることを理解している。鍾離が己を騙したのは後者だと分かっているから、必要以上の嫌悪を抱くことはない。
では、なぜ鍾離との外食を断るのか。
そんなの、簡単な話である。
「またそれで昼を済ませるつもりなのか」
「げっ
……
」
翌日、昼下がりの北国銀行の屋根の上でタルタリヤは驚きと気まずさの混ざり合った声を上げた。また三日後に、と約束をした男がいつの間にやら隣に立っていて、タルタリヤの右手にある固形食を目ざとく見つけたからだ。
味気もなければ、ぱさぱさとしていて食べづらい軍用レーションは、本日のタルタリヤの昼食だった。
「
……
あのさ、凡人は普通昼時にこんな屋根の上まで登ってきたりしないと思うんだけど。それとも鍾離先生もひとりで静かにご飯を食べられる場所を探していたのかな」
「何、堂主の遣いの帰りにお前が執務室の窓から抜け出して屋根を登るところが見えたのでな。気になって様子を見に来ただけだ」
「はぁ
……
上ばかり見て歩いて足元を掬われても知らないよ」
鍾離の行動の突拍子のなさは割と慣れたものだし、口論を仕掛けたところで勝率が低いのは理解している。タルタリヤは呆れたように肩をすくめた後、残り一口分となっていたレーションをさっさと飲み込んだ。
頭上の太陽は呑気に燦燦と輝いている。少し顔を上げると遠くには凪いだ海と、出航したばかりの船が見えた。徐々に小さく、遠ざかっていく船影を眺めていると、きし、と屋根瓦がかすかな音を立てる。
「なるほど、ここからの眺めも悪くないものだな。今日のように風の穏やかな日なら、人目を忍んで休憩を取るのに丁度良い」
「
……
だからって今度からここを陣取るような真似はしないでくれよ」
「案ずるな。お前がひと息つける場所を奪うつもりはないぞ。ただ、昼食がそれだけというのは感心しない。まだ時間はあるのだろう、共にどこかへ食べに行かないか」
音もたてずに吹くやわらかな風が、鍾離とタルタリヤの頬を撫でて去っていった。
顔を見てはいけないと、タルタリヤは己を律する。冷静に断りを入れ、鍾離の納得する理由をつくり、さして急ぎでもない仕事をしに執務室へ戻らなければと頭を回す。けれど説得力のある理由なんてすぐには思い浮かばない。携帯食しか収めていない胃袋はエネルギー不足を訴えているし、ぐらぐらとした心の揺らぎが理性さえも震わせて、鍾離と食事を共にした記憶を次々と蘇らせる。
鍾離という男は、その堅苦しそうな見た目と澄ました顔に反してよく笑う。美食を口にするたび石珀のひとみを細めて頬を緩める様を、食に関する蘊蓄を語る声の機嫌の良さを、タルタリヤは何度も真正面で受け止めてきたから知っている。凡人らしく、美味しいものを美味しそうに食べるひとなのだ。だから。
「俺と一緒だと、せっかくの食事の場なのに気を遣うだろ? だからいいよ。ほとぼりが冷めるまで放っておいてくれ」
ずいぶんと情けなく、弱々しい声がこぼれてしまった。
はっとした時にはもう遅い。船の汽笛も、人々の雑踏も、この屋根上でははるかに遠く些末な音だ。相手に聞こえていなければいいと願っても、タルタリヤの声を隠してくれるものはここにはない。
長く、深いため息がタルタリヤの隣から響く。
「
……
やはり、それが理由だったのか」
焦れたような、呆れたような声だった。
――
岩王帝君崩御の一件と渦の魔神オセルの騒動により、今の璃月におけるファデュイの評判は地の底まで落ちている。
信用回復のため、タルタリヤは地道に事務仕事を片付け、悪目立ちしかねない取り立て行為や戦闘を控え、道行く人が困っていれば手助けをし、失ったものを取り戻そうと努力をしていた。
しかしそれは一朝一夕に実を結ぶものではない。ファデュイを悪だと決めつける民衆の視線は鋭く、店で買い物をするだけでも一苦労で、欲しい商品を売ってもらえなかったり、通常の倍以上の価格を提示されたりなんてことがざらにある。外食なんてもってのほかで、常に監視の目を向けられるものだから落ち着いて食事をするどころではない。
別に料理長や店員に見張られたところでタルタリヤ自身は気にならないが、タルタリヤの存在と、店員たちの緊迫した空気が他の客にも影響して、誰も目の前の料理を楽しむことの出来ない状況になってしまうのは本意ではないことだ。だから状況が落ち着くまでは外食を一切やめて、昼食は携帯食や自分で作った弁当、夕食もなるべく自炊して済ませることにした。食材はなるべく野外で調達し、どうしても購入しなければならないものは他国出身の部下に私服で買い物に行くよう頼んで、こちらに敵意はなく、人々の生活を脅かす気はないということを示すのに徹していた。
鍾離からの誘いを断るようになったのもそういう訳があってのことだ。例えどれほど彼が璃月の人々から信頼されていようとも、タルタリヤと行動を共にすれば要らぬ気遣いをさせることになる。上手く立ち回ってくれるだろうが、彼を盾のように扱いたい訳ではないし、どうせ一緒に食事をするのならつまらぬことに気を揉ませたくない。そんなタルタリヤのエゴゆえの拒絶だった。
ただ誤算だったのは、事情なんて簡単に察せられるだろうに鍾離が大人しく引き下がってくれなかったことだ。彼は何度も北国銀行へ足を運び、タルタリヤを食事に誘い続けた。挙句、あるとき軍用レーションで昼食を済ませているところを目撃されてしまった。
彼はタルタリヤの胃袋の大きさも、タルタリヤが食事の楽しみ方を知る人間であることも把握している、実に厄介な男である。だから不味くも美味くもない携帯食を食べるタルタリヤへ、「外食が無理ならせめて数日に一度、北国銀行で一緒に食事は出来ないのか」と尋ねてきた。
今思えばそれも割り切って断るべきだったのだろう。騙されたことを根に持っていますと嘘をついて、突っぱねるくらい出来たはずだ。
だけどひとりでの食事の味気無さに飽きてきたところだったし、暴れてストレスを発散出来ないのも堪えていた。だからつい、タルタリヤは頷いてしまったのである。「公子殿の手料理に興味がある」なんていう鍾離の言葉にも。
そうして今に至った以上、もうタルタリヤは白旗を上げるしかない。
観念して顔を上げ、鍾離のほうを見た。
瞬間、胸の奥がちくりと痛くなった。
「俺としては、お前だから誘っているのだがな」
普段はあれほど堂々と、奔放に凡人生活を謳歌している男が、ずいぶんと寂しそうな顔をしていたからだ。
「食事をするときに、料理の出来は言うまでもなく重要だが、誰と食べるのかも大切だろう。お前は俺に対して媚びへつらうことなく、璃月の美食や酒を共に楽しんでくれる。それは俺にとって実に嬉しく、貴重なことだ。だから時間が合うのなら、美味い料理や酒をお前と味わいたいと思っている」
「えっと、それって
……
」
続けられた言葉に今度は心臓がどきりとして、タルタリヤは思わず視線を彷徨わせる。けれどもう逃げ場など存在しない。
黄金のひとみがひたとタルタリヤの泳ぐ目を捉える。
「だというのに、気を遣わせるなどと寂しいことを言ってくれるな。ひとりの凡人として食事を楽しみたいから、俺はお前を選んでいるんだ」
――
完敗だった。
「お前だって味気ない食事には飽きているだろう。どうしても気になるのなら、弁当の礼だと思ってくれればいい」
立ち上がった鍾離が手を差し伸べてくる。この世界の誰よりも板についた振る舞いで、誰に対しても慈悲を差し出し救うためではなく、タルタリヤじゃないと嫌なのだという我儘を示すために。
それはあまりにも滑稽で、贅沢で、幸せなことのように思えた。あれこれ気を回して悩んでいたのが馬鹿馬鹿しく思えた。
ああ、本当に馬鹿馬鹿しい。
だけどそれくらいにタルタリヤは、この鍾離という男が凡人らしく生きているところを見るのが好きだった。
「
……
しょうがないな」
負けを認めて、鍾離の手を取り立ち上がる。
「弁当の礼だっていうなら、勿論支払いも鍾離先生がしてくれるんだよね?」
「ああ。今日はきちんと財布も持っているぞ」
「ははっ、じゃあ久々に翠玉福袋を食べたいな。あと椒椒鶏も」
「なら万民堂にしよう。今日も香菱がいるそうだから機を逃しては勿体ない」
他愛のない話をしながらふたりで屋根を降りて、昼間の明るい道へ出た。
陽光を受けて鈍く光る石畳の上を、多くの人が行き交っている。思えばこんな真昼間に大通りを歩くのも久しぶりかもしれない。もう少しひとの少ない道を選ぶべきかと迷うより先に、ぐい、と手を引かれる。
「そういえば、昨晩の試食会で出された料理も正式に万民堂で提供されることが決まったらしい。せっかくだから頼んでみたらどうだ」
前を向いたまま、鍾離が常と何ら変わらぬ態度でそう言った。手だけがしっかり握り込まれたままになっている。
取った手を離すタイミングを見失っていたことに今更気付いて心臓の裏側がむずむずとするのを感じながらも、タルタリヤはふと引っ掛かりを覚えた。
「あれ、昨日先生試食会に行ったんじゃなかったの」
自分は断ってしまったが、鍾離のことだからひとりで試食会に参加して料理を楽しんでいてもおかしくない。だというのに、人づてに知らせを聞いたような口ぶりで言うものだから気になって尋ねると、彼は少し苦い顔をする。
「
……
店には立ち寄ったが、海産物を使ったものだと聞いてな」
「ああ
……
なるほど」
例えシェフがどれほど優れていても、鍾離の海産物嫌いを克服させることは難しい。新作料理を楽しみにして店を訪ねたのに試食を辞退して帰る姿を想像し、面白いものを見逃したな、と少しだけ惜しい気持ちになる。
「なら、俺が代わりに食べて感想を伝えるよ。それでもし気になったら一口味見すればいい。煮付けとか、そういうのは平気だったりするだろう?」
「!
……
ああ、そうだな。そうさせてもらおう」
タルタリヤの提案に鍾離は嬉しそうに頬を綻ばせた。石珀のひとみが熱を帯びて蜜色に溶ける、その瞬間をまざまざと見せつけられて、タルタリヤの頬まで熱くなってしまう。
もしかすると昨日タルタリヤを誘ったのも、最初から海産物を使ったものだと知っていてのことだったのかもしれない。ここのところ鍾離の分も弁当を用意するために魚介類を避けていて、海産物を使った料理は久しく口にしていなかったから。けれどタルタリヤは海の幸も積極的に食べて楽しむ男だと、鍾離は知っているから。
ひとつ気付くと次から次へと見えてくるものが、タルタリヤの心をどうしようもなく揺らしている。その揺れによって起こるさざなみが、胸の奥のやわいところをくすぐり、落ち着かなくさせて仕方ない。
ああ、ますます割り切れなくなってしまうな。
いつだったか飲み込んだ卵焼きの端っこの味が舌の上に蘇った気がして、タルタリヤは唇をきゅっと引き結んだ。
タルタリヤは愛嬌のある青年だと鍾離は思う。
例えば彼の肩書きと正体を何も知らぬ者が、街中で迷子の面倒を見ている彼の姿を見かけたら、親切で子どもに優しい青年だと思うだろう。黙って席に着き、舞台上の役者の名演技に目を丸くしたり、幕が降りるのと同時に惜しみない拍手を送ったりする姿を見れば、観劇を趣味とする心の豊かな青年だと思うだろう。市場で食材を吟味し、質の良い品を選んで言い値で購入する姿を見れば、家庭的でありながら価値あるものへの投資を惜しまない、気持ちの良い性格をした青年だと思うだろう。
無論、彼の負う肩書きは非常に重く、一度それが明らかになると彼を見る目は大きく変わってしまう。大半の人間が彼をただの悪党と見なして、その本質を見抜けなくなるのだ。それでも彼の見せる顔の何が本当で、何が嘘なのか
――
それを全く見抜けない者ばかりではないとも、信じている。
この国にそれを見抜けぬ人間しかいなかったのなら、きっと鍾離は神の座を降りて凡人になることなど出来なかったはずだから。
「ん、美味い! 青魚の臭みが全然ないし、身はやわらかくてふっくらとしている。それにこの甘辛いソース、先生も好きな味じゃないかな。酒にもよく合いそうだ」
昼時を迎えて賑わう万民堂の片隅で、上機嫌なタルタリヤの声が響いた。香菱の新作料理を口にした彼の屈託のない笑顔と感想に、鍾離は微笑む。
彼が食べたいと言った料理の他にも数品注文したため、卓の上は取り皿の置き場すらないくらいに埋まっていた。男二人でも食べ切れない量に見えるかもしれないが、鍾離もタルタリヤも人並み以上に食べるからこのくらいでちょうど良い。それに久方ぶりの外食なのだから、存分に楽しまなくては損だろう。
タルタリヤを慮り、店の中でも隅にある目立たない席を選んだが、そもそもふたりとも璃月では有名な人間であるため揃って店に足を踏み入れるだけで目立つ。昼食を取りに来た他の客の視線はすぐにふたりへと向けられたが、鍾離が同伴しているからかあからさまな嫌悪感を滲ませたものはなかったし、少しずつだが人々の目に宿る感情は色を変えていた。
「公子殿、この焼売も熱いうちに食べてみるといい」
「どれどれ? あつっ
……
ん、でも美味い。中に絶雲の唐辛子を混ぜてるのか。あふれる肉汁にほどよく辛味が効いてて、タレをつけなくても素材の味だけで十分楽しめるね」
器用に箸を使って摘み上げた焼売を頬張り、目元を緩ませて笑うタルタリヤに鍾離は頷く。それから先ほどまでタルタリヤが食べていた魚料理の皿をおもむろに己の方へ引き寄せて、箸で一口分切り分けると静かに口へ運んだ。青魚を使った煮込み料理だが、彼の言う通り臭みやぬめりはまったくなく、やわらかな魚の身に甘辛い煮汁がよく合っている。酒のつまみにしたくなる一品だ。
「どうだい?」
「お前の言った通り、好みの味付けだ。美味いな」
「だろ? あ、この焼売もう一個もらってもいい?」
「ああ、気に入ったのなら残りは全部食べていいぞ」
「じゃあ遠慮なく」
蒸籠の中の焼売をまたひとつ口に運び、うっすら汗を浮かべて肌の血色を良くしながらもタルタリヤは美味そうに食べる。栗鼠のように頬をふくらませているからか、元よりあどけなさの残る顔がいっそう幼く見えて愛らしい。
タルタリヤが素直に美味いと言って璃月の美食を褒めるたびに、周りの客の目から毒気が抜かれていくのを鍾離は感じ取る。当たり前だ。璃月の民は自国の文化にも誇りを持っている。だからたとえ相手が誰であろうと、璃月の美食を褒め、美味そうに頬張る姿を目の当たりにしては、喜びと誇らしさを覚えずになんていられない。
別に鍾離は、ファデュイの印象回復に努めるタルタリヤに手を貸したい訳ではない。己が騙したことも原因のひとつであると理解しているが、タルタリヤは救いの手など求めていないことを知っている。ただ、鍾離からの食事の誘いを断る彼のひとみの中に、その歳には似合わぬ寂しい揺らぎを見た。それが惜しかったし、鍾離も寂しいと思った。だから根気よく通い詰めて、ふたりで過ごす時間を作り、いじらしい彼の本音がこぼれ落ちる時を待って、我儘を言ってみた。それだけだ。
結果としては、悪くないものだろう。
「はー、食った食った! 腹ごなしに手合わせでも、って言いたいところだけど、部下たちに何も言わずに出てきてしまったしさすがに戻らないと」
卓の上にひしめいていた皿や蒸籠をすべて空にしたタルタリヤが、満足げに腹をさすって立ち上がる。久々に外での食事を楽しんだ鍾離もそうだなと頷き、席を立つと、懐から財布を取り出して会計を済ませた。
店内の客たちは、各々の食事に集中している。警戒や不安、恐怖といった感情の滲む視線がふたりの肌を掠めることはない。そこかしこで談笑の声が上がっていて、平和そのものだ。
「
……
あのさ、先生」
万民堂を出て少し歩いたところで、不意にタルタリヤが足を止めた。倣って鍾離も立ち止まり、彼を見る。
「今日はその
……
ありがとう」
白い頬をかすかに赤く染め、気恥ずかしそうにしながらも笑みを浮かべる彼に、そっと頬を緩ませた。
「礼を言うのはこちらのほうだ。お前と食事が出来て嬉しかった」
「あ、そ。
……
で、三日
……
いや、二日後の約束は、どうするの」
尋ねられて、はたと気付く。
もうタルタリヤは、鍾離からの誘いを断る理由を持ち合わせていない。つまりこれからは以前と同じように、あちこちの料理店で食事を楽しめるということだ。
いくらタルタリヤが料理に慣れているとはいえ、弁当を用意するのだって手間だろう。彼が鍾離の舌に合うよう、食材選びからこだわり、前日から仕込んで丁寧なものを作ってくれていたことなんて、言うまでもなく分かっている。
だけど情の深いところをもつ彼が、すっぱりと割り切ることも出来ずに鍾離へと与えてくれたあの弁当は、格別に美味いものだった。どの店の料理を口にしても得ることの出来ない幸福感があった。問題は解決したものの、あれをもう二度と味わえなくなるのもそれはそれで惜しい。
冷静に考えて、ここはタルタリヤに配慮すべきだろう。だけど凡人としての心はすっかり我儘を覚えてしまった。どうしたものかと答えあぐねていると、タルタリヤが表情を崩す。
「ふ、くくっ、先生ったら、ずいぶんとわかりやすい顔もするようになったじゃないか」
「
……
わかりやすい?」
くふくふと笑う彼にとぼけてみせても無駄だ。そう分かっていても鍾離は敢えて何を言っているのか分からないふりをしてみる。
それを、タルタリヤは甘えと受け取ったらしい。受け取って、何やら覚悟を決めたようだ。
「まあ、自分で料理をしたい時もあるし、また先生の分も弁当を作ってあげてもいいよ。卵焼きの端っことか、夕飯の残りが入ってても文句を言わないならね」
はにかんでそう言うタルタリヤのいじらしさに、鍾離はこそばゆい気持ちになった。
相手の好みを考え、体裁を整えて作られた弁当も素晴らしかったが、手癖で作ったおかずや余り物の詰め込まれた弁当というのもきっと魅力的で、さぞ美味いものだろう。この健気な青年の純情のおこぼれに預かる未来を想うだけで、六千年を生きてもなお経験したことのない温かさが胸の奥から込み上げてくる。
――
元より彼のすべてが欲しいとは思っていない。
最たるものになりたいとも、なれるとも思っていない。
ただ、本来は家族と氷神に等分して捧げられる彼の愛情の幾許かに触れることをゆるされるというのなら、遠慮をする必要もないだろう。
「ああ、もちろん。お前が割り切れなかったぶんは、俺が貰おう」
傲慢に、何の澱みも偽りもなく鍾離は頷いてみせた。
その、神様めいていながらも実に凡人らしい答えに、タルタリヤはこの日一番嬉しそうな笑顔を浮かべた。
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