燈 ともしび
2026-05-31 21:30:11
1675文字
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ぎゆさね【不意打ち】

キ学軸。憂鬱が逆転すること

 あと一日が面倒だな、なんて。そんなことを思ってしまう金曜日の朝。
 分かっている。このまま支度をして家を出てしまえば金曜日なんてあっという間に終わることを。それでもやっぱり、この時期はやることが多くて少し疲れてしまう。
 教師になることを選んだのは自分。教職にプライドを持ってやっている。でも肉体的疲れと精神的疲れはどうしたって起こる。
 だから、何か癒しが欲しいなんて思った。甘いものはそんなに好まない。ゲームなんかの趣味があるわけでもない。高価なものに興味はない。
 俺の、唯一の癒し。もうそれしか考えられなくて無意識のうちにスマホを抱えていた。
 向かうのは洗面所。今なら不死川が顔を洗っている頃だろうと。そっと覗いてみれば予想通りの恋人の後ろ姿が見える。
「不死川」
……ん?」
 顔は洗い終わった後なのか、呼びかけると素直に振り向いてくれたので遠慮なくスマホのカメラを起動した。シャッター音と共にスマホの画面にヘアバンド姿の不死川が保存される。
……なにやってんだァ」
「癒しを求めて」
「あ?」
 やっぱりだ。ヘアバンドで形の良い額を全開にしている不死川はとても可愛い。でも顔を洗う時くらいしか見る機会がない。常々、いつか写真に撮っておきたいと思っていたのだ。それが今、叶った。
「癒しって……
 一緒に暮らし始めて一年。俺の奇行に慣れてきたのか不死川は呆れた顔をしたものの怒らない。優しい。
「最高の癒しだ」
「そーかィ。ありがとさん。でもそれは人前では出すなよ」
「分かっている」
 こんな可愛い不死川を人目に触れさせるわけが無い。これは俺が今日一日を乗り切るためにこっそり一人で眺める用の不死川なんだ。むふふ、と顔をにやけさせていると
「俺のこと可愛いなんて見えるのはお前だけだっての」
 と不死川は笑う。その顔は恋人の贔屓目を除いてもやっぱり可愛いとしか思えない。可愛いと格好良いと綺麗。全部、ここにある。抱きしめたい、と思った。俺の不死川が愛おし過ぎるから。でももう家を出なくてはいけない時間なので我慢する。朝練に顧問が遅刻するなんて言語道断だからだ。
 名残惜しくもう一度生身の不死川も眺めてからスマホは通勤用のリュックへとしまう。本当は壁紙にしたかったけれど、それでは誰かに見られてしまうのでやめた。見られたら俺の癒しが減る。それは嫌だ。
 後ろ髪を引かれる思いでモダモダと履き慣れたスニーカーの紐を締めていると不死川が玄関まで来た気配がする。見送りしてくれる気なんだろう。不死川の出勤時間はもう少し後だから。
「行ってこい。今夜は鮭大根にしようなァ」
「ありがとう」
 近所のスーパーのチラシ、特売の鮭に丸が付いていた。予想はしていたがやっぱり嬉しい。鮭大根も、それを疲れている週の終わりに作ってくれようとする不死川の思いも。

「行ってくる」
 ありがとうと大好きを込め、真っ直ぐに目を見て言えば不死川は壁に寄りかかったまま綺麗に笑ってくれた。俺の癒しゲージが満杯だ。惜しいのはその表情を撮り損ねたこと。
 玄関ドアを開ける。今なら足取りも軽く通勤出来る。
「冨岡」
 声に振り向く。
……忘れもン」
 ちゅ、と唇に温かい体温が重なる。
 行ってきますのキスは俺が何度強請っても恥ずかしがってしてくれたことなんてない。それなのに今、ここで貰ってしまった。
 不死川の耳が赤い。可愛い。どうしよう。両手が抱きしめたくてワキワキするが堪えた。流石にタイムリミットだ。
「愛してる」
 せめて。今感じてる不死川への愛しさを言葉にして家を出た。いつも同じ時間帯に会うサラリーマン風の男性がギョッとした顔でこちらを見ていたから、今の俺は相当に緩んだだらしのない顔をしているんだろう。
 そうだろうな。足取りも軽くどころか今なら空も飛べそうだ。一気に元気になって駅まで駆け出した。
 大丈夫。金曜日なんてあっという間。帰れば美味しい鮭大根と美味しそうな恋人が待っているのだ。そんなの、はしゃがずにいられるか。