海に落ちたら終わりだ。誰も引き上げてはくれない。誰も、助けてはくれない。だから彼は慎重に慎重に、海に落ちないように落ちないようにと気をつけてきた。
「あ」
しかし、新しい仲間もできて、幸せすぎて、油断していたかもしれない。
「ブルックーー!!!」
ざぶんと強い水音。思った以上に強い波。ごぼりごぼり、息が苦しい。なんだか鼻のあたりが臭い。久々の感覚。だからこそ、思い出す。走馬灯のように思い出す。昔々の海賊船のこと、そして、もっと前のこと。王国の騎士の時代のこと。そびえ立つ城。笑顔の姫と、国王と――
「はっ」
「よぉ、起きたか」
音楽家は、ない目を覚ました。料理人がぎゅっと自分のシャツを絞り、ちょっと震えながら乾かしている。あたりは、木々が落ちていて何もない海岸。火をたいて、乾かしている。
そんな音楽家の身体には上着がかかっている。明らかに料理人の上着。
「い、いけません!!」
彼は錯乱したように叫んだ。
「私、騎士ですよ!?こんなの……」
「おい、寝ぼけてんのか?」
べしと頭に手のひらが当たる。料理人はため息まじりに彼を見た。やっぱり音楽家がおかしい。
「寒々しくて見てられねぇからかけただけだろ。何が悪ぃんだよ」
「しかし……あなたは」
「だから、おれがなんだって――」
料理人は様子がおかしい音楽家の話にただ付き合っているだけのようだ。
「一応……王なんですから」
「……は?」
この、一言があるまでは。料理人の顔が、一瞬、明らかに崩れるまでは。
「だから、騎士を守るのは違うでしょ!」
「あー……マボロシ虫のガスか」
海の生き物に詳しい彼はどうやら原因がわかったらしい。顔を明らかにしかめた。
「ホネのやつにまで効くとは思わなかったぜ……」
マボロシ虫はいわゆる海の中のカメムシだ。触れた際に抵抗としてガスを鼻に吹きかけ、嗅いだもののの過去の思い出を蘇らせ、今の状況と不思議と重ねるという。確か護衛戦団の団長を務めていたこともあるとか言ってたから、その時代の話かもしれない。
「何を言ってるんですか!ほら!風邪ひいてからじゃ遅いんですから!後で死刑とか何とか言われるのごめんですよ!」
確か、10分程度すれば匂いの効果は落ちたはずだ。それまでは矛盾すらもうまく整えてしまう。ならば、立ったままの料理人はシャツをばさりと羽織った。
「やだね」
「はっ?」
「お前が騎士らしいとこ見せたら考えてやってもいいぜ?」
シャツを着ながら歯を見せて笑いつつさらりと煽ると、音楽家はぽかんとした。
「できねぇならそのままな」
「どういう趣向ですかもー!!」
音楽家の口調は敬語であれどいつもの船のそれと違う。兄弟子に話しかけるようなそんな口調だ。料理人はちょっと珍しそうにそれを見る。
「わかりました、見せますよ。獲物はどれですか」
「あー……戦う以外で」
「なぜ!?」
「なんでもいいだろ。とりあえず戦う以外で、あんまり動きを見せねぇようにしろ」
先ほど溺れた人間をあまり動かすわけにはいかないので料理人はあえてそういった。すると音楽家はむむっと口のあたりを歪めた。
「じゃあこういうのは、どうですか」
仕込み杖をスッと料理人の方につき出して手渡す。音楽家は彼の前に跪く。
「昔々の、再現」
羽織らされた料理人の上着をマントのように背中で揺らしながら。
「……アコレードか」
彼はこの儀式を知っているようだ。だからこそ、まっすぐと立ち、するりと仕込み杖から刀を抜いた。
「刀で肩をたたき、王が称号を授ける儀式」
「はい」
料理人はゆっくりと太陽と炎で炙るように少し薄手の刃を揺らす。鈍く輝くその刀。音楽家は跪いたまま、その行く末を見守る。
「だが、残念」
料理人はすっと刀を杖に戻した。音楽家は、ホネの顔で見ても分かるくらい、ぽかんとした顔になった。
「おれは、王じゃねぇ」
「え」
「海賊、麦わらの一味の、コックだ」
そのまままっすぐと突き返しつつ、太陽を背に浴びさせながらそう笑うと。はっと彼が我に返った顔をした。
「今度こそ、目ェ覚めたか」
「えっ、あっ……はい」
「じゃあ、もうちょいあったまりながら迎え待つぞ」
まだ寝ぼけてるのか辺りをキョロキョロしている音楽家に、料理人は息をつきながら火の前に座り直した。マボロシ虫のガスの時の記憶はあるのだろうか。そのあたりは特に本にも書いてなかったような。
「サンジさん……」
しかしこちらを気まずそうに見ているところをみると、きっと記憶はあるのだろう。
「隠すことか、隠さねぇことか?」
「え」
「うちの一味はあえては聞かねぇぞ。お前や誰かがやべぇことにならねぇ限りな」
ぱくりと煙草をくわえながら、その先を薪に近づけた。
「じゃあ、長くなりそうなので、ご内密に……」
「あいよ」
料理人はさらりと一つ返事して、それで終わらせ、ふーっと紫煙を吐き出した。音楽家はふわりと骨を緩ませ、
「でもね、サンジさん」
羽織らせられたままの上着を掴んで、
「即座に助けようと飛び込んでくれたあなたも」
目を丸くした料理人に、
「こんなホネの身体が冷えることを懸念してくれるあなたも、尊敬してるんで」
そっとかけなおした。
「風邪、ひかれたら困ります」
ちゃんとまっすぐ目をみて、
「そして、ありがとうございます!」
深々としたお礼と共に言った。
「……尊敬するのは、船長にしとけよな」
すると、料理人はため息交じりにそれを受け取り、ばさりと身体に羽織ったのだった。
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