ひなげし
2026-05-22 20:47:25
4559文字
Public 狛日
 

午後二時の不器用なシグナル

未機パロ/狛日 第98回狛日版週ドロライ「期待」
甘えたい気持ちを無自覚に出す日向くんと、それに気がついて楽しんでいる狛枝の社会人二人の隙間話。

 昼過ぎの強い光が、誰かが開けっぱなしの窓を突き抜け床を照りつける。
 中途半端に上げられていたブラインドが風に煽られ、硬い音と共に床のコントラストを変えた。
 自動販売機の稼働する鈍い音がなる。狛枝は長椅子に腰掛け、ため息を一つついた。
 隣の区画には十四時でシャッターをおろされた社内食堂がある。仕事の終わった食堂の前には昼ご飯を食いっぱぐれた狛枝ただ一人だけが、無糖の缶コーヒーを片手に呆けていた。
「狛枝」
 名前を呼ばれた。冷えているけれど甘さの残った声だ。ほんの少し柔らかい。そして、親しさがあった。
「大変だったのか?」
「うん?」
 顔を上げる。そこには、ぴっしりとスーツを着込んだ日向が立っていた。
「会議だよ。午前に緊急物資支援会議だったんだろ? 揉めたのか」
「あはは、日向クンのご覧の通りだよ」
 狛枝は微笑み、肩をすくめた。
 数日前、絶望の残党の局地的破壊活動が各地で多発した。おかげで残党の潜んでいた地域の一部交通やライフラインは止まり、一時減ってきていた支援救助者が増えてしまった。
 せっかく建て直した建物は火災で燃え、火事場泥棒は家を荒らし、何人かの死傷者も出ている。鎮火報告はきているものの、事態が落ち着くには時間を要することは間違いない。限られた財源をどう割り振り、追加予算とするか。それはもう、会議は紛糾した。
 火が広がった地域の出身者と、比較的安全な地域の出身者では何を大事にしたいか、優先したいかなど感覚が違ってくる。絶望の残党に対しての考え方もそうだ。保護して治療するべきだと諭すものがいれば、治るものではないと断じるものもいる。それだけ、まとまらない会議だった。
 会議は踊るとは言ったものだが、それぞれの立場、想いがある。だからこそ、それぞれの希望を諦め切れず、みな足掻いている。技術職の左右田も、看護に奔走する罪木も、現場での判断を任されていた九頭龍も目に隈を作っていたのを今朝見たばかりだ。上も下も関係なく、希望のある未来のためにみな必死に生きている。
 未来機関が四肢を切れそうにしながら奔走していることは、違いない。
「はは、揉めたんだな。お疲れ様だったな」
「みんなそれぞれに理想があって、願いがあるんだから仕方ないよね。辿り着きたい希望は、ボクたちみんな大体同じ方向性ではあるけれど、その希望に辿り着く道は違うんだ。はぁ……っ、大きな希望を掴み取るための下準備だと思えば、この空腹もきもちのいいものだよ」
「なるほどな。タンパク質も糖分も足りてないと」
 日向がさも悲しげにつぶやき、自動販売機に硬貨を入れた。
「自販機にパンもカップ麺もないのはなにかの事故じゃない? あーあ、これじゃあ病院の自販機の方が優れてると思うけどな」
「まったくだ」
 がこんと、自動販売機が商品を吐き出す音がした。薄く笑みを浮かべる日向が、狛枝の隣に腰掛ける。
「日向クンは……会議前かな。緊急絶望掃討の……
「ああ、そうだ」
「支援の会議であの始末なんだから、掃討ってなるともっと揉めちゃいそうだね」
「ああ……。そもそも、受け入れ体制も十分じゃないからな。今回は苗木もいるけど、正直気が重い」
 日向が深い息を吐き、缶のプルタブを押し上げた。ふっと嗅ぎ慣れた芳香が匂い立つ。視線を落とせば、日向の手には狛枝と同じ無糖の缶コーヒーが握られていた。
「あれ、日向クン。そんな会議の前で無糖のコーヒーでよかったの? 胃がムカムカして荒れない?」
 日向がゆっくりと手に持っているものを持ち上げた。瞬きし、喉元が上下に動いた。息を呑み込んだのだ。持っているものを初めて認知した。そんな動きにも見えた。
「あ、ああ……
「ボクがそれ飲もうか? 最近気に入っちゃっててずっと飲んでるコーヒーだし、一本が二本になったところでぜんぜん構わないよ。せっかくだし、新しいの買ってあげるよ。会議前に飲んでるいつものお茶にする?」
 日向は無言で狛枝を見つめる。ややあって、その視線を逸らした。
「いや……これでいい」
「そう?」
「ああ」
 日向が缶に口をつけるのを見て、狛枝もコーヒーを口に含む。同じ無糖コーヒーの黒いラベルが、同じように傾いている。
 舌の上に冷たさと、香ばしさと苦味が広がった。特別美味しいというわけではないが、条件反射なのか目が覚める。
 眠気や倦怠感の中からあと一歩だなと気力が振り絞られるような味だ。かなしいかな。紛れもなく残業に追われた社会人の味だ。
「ブルーラムはやめたんだな」
 ひと息吐きながら、日向が話しかけてくる。狛枝は自動販売機のエナジードリンク類で唯一売れ残っているドリンクのボタンを見つめながら、残り少なくなった缶を揺らした。
「あはっ、今は虚脱感に旅立っていられないでしょ」
「はは、忙しすぎて泣きながら全方向にキレ散らかしてる左右田に蹴られちまうな」
「それはどうかな。そんな勇気が彼にあると思う?」
「お前が床で寝てたら気が付かなくて、踏むか蹴るのはありえるんじゃないか?」
「ねぇ、日向クン。それ、実体験?」
 狛枝はじっと、日向の瞳を見つめる。
 日向は唇を結び、ほんのわずかに身体を縮めた。それから、コーヒーを持ったまま両手をあげた。
…………悪い。蹴ったこと、ある」
「ふふ、じゃあ二ヶ月前のボクの右腕のあざの犯人は日向クンだったってことか」
「悪かったって。その、治ったか?」
「まぁね」
 うろうろと泳ぐ榛色の瞳に、狛枝は笑む。
 見てみる? なんて言ったらどんな顔したかな。
 狛枝は残り少なくなったコーヒーをすすった。砂糖は少量すら入ってないというのに、ほのかに甘く感じる。他愛のないやり取り。毒にも薬にもならない会話。流れていく柔らかな空気。照り返してくる昼過ぎの日差しも愛おしい。
 会話が途切れた後も、狛枝も日向もそのままベンチに並んで座っていた。互いのわずかに漏れる缶を飲み下す音と、身じろぎする布切れの音だけが響く。
 日向の腕時計から機械音が鳴った。真面目な彼が毎朝朝礼後にセットしているアラームだ。
「日向クン。そろそろ時間まずいんじゃない?」
「あ、ああ」
 日向が息を吐いた。迷うように榛色の視線がうろついているように見えた。それでも、その腰が上がることはない。
 瞬く。
 ああ、なるほどね。
 狛枝は知らずのうちに笑んでいた。
 日向の真意に触れた気がしたのだ。彼から漏れ出るのは、ほんの少しずつの違和感でしかない。けれど、積み重ねれば彼の本音が見えてくる。疲労と空腹で色褪せた世界が、淡く期待に色付いていく。がらんとした白い空間に差し込む照り返しの光が、色鮮やかに発光し目に焼き付くようだ。
 吐息が溢れる。
「ふふ、あの部屋午前中に入ったけど、上の人たちは暑がりが多いからかなり寒いと思うよ」
「最悪だな」
「それでなんだけどさ」
 飲み干した缶を置き、立ち上がる。スーツの上に羽織っていた深緑色のコートを脱ぎ、日向の膝の上にかけた。
「それ、貸してあげるよ」
 日向がぽかんと口を開け、呆けた顔になる。
「えっ……
「冷えたコーヒーを飲んじゃった日向クンがお腹を壊さないように、ささやかだけど祈っていてあげるね」
「俺のお腹への嫌な予告はやめろ」
 じっとりとした目が、座り直した狛枝を撫で付ける。けれど、日向は狛枝のコートを膝の上から落とすようなことはしなかった。視線は狛枝を追いかけ、コートの上で拳を作っている。
 狛枝は一つ吐息をこぼし、笑った。
 日向の傍ににじり寄る。日向の膝の上にかけたコートの上から、彼の大腿部に手をかけた。
 二色の虹彩を覗き込み、にこりと微笑む。
「ねぇ日向クン、久しぶりに一緒に帰ろうよ。一応明日午前休みなんでしょ。あのね、ボクもなんだ」
 静かな闇に包まれた夜に似合う、柔らかな声音を意識する。外界など関係なく、肩書きも過去も重荷もほんの少しだけ下ろして、ただの人間としていられる狭いあの部屋の中、二人で過ごすときの声だ。
 日向が今、狛枝に求めているであろうものを、束の間見せてやる。
……あ、ああ」
 掠れた声がした。日向は狛枝の目を見つめたまま、目を大きく見開く。ふらふらと日向の手は空をさまよい、胸の上でぎゅっと握られた。
 それから、ぎこちなく頷いた。はくはくと、ふっくらとした唇が動く。揺れる瞳は、恥ずかしいのかじわじわと水分で潤んでいく。それでもそらされない二色の瞳が、狛枝の愉快そうな笑みを映し出していた。
……な、なんで……わかったんだ」
 健康的な肌をふわりと上気させて、日向が唇を尖らせる。
 日向の迂闊さ、不器用さ、いじらしさに胸がくすぐられるみたいに疼く。これは自分にはないものだ。本音が小さく、ささやかでわかりづらい。だけど、誰かが気がつけなければ意味がない。哀れで、かわいそうで、彼が生きにくい理由の一つでもあるだろう。彼の無意識に寄せられた期待に手が触れた快感に、背筋がぞくぞくと震える。だらだらと溢れてくる唾液を飲み下す。
 狛枝は指を立て、指先をくるりと回した。
「お偉いさんの集まりがちな会議の前なら、いつもはあたたかい緑茶を飲むはずなのに、ボクとお揃いのものが飲みたいっていうから。今回はずいぶんわかりやすいなって思ってさ」
「うっ」
「まぁ、ボクたち最近ぜんぜん休みがなかったもんね」
「俺は、そんなつもりじゃ……
「日向クンのそういう甘えたいのに甘えられないところ、嫌いじゃないよ。恥ずかしくて撃沈してるのも見てて気持ちいいし」
「趣味が悪いぞ」
「うん。でも、たまにでいいから日向クンから誘ってよ。簡単にお茶でもいいし、夕飯でもいいからさ。ボクなんかを誘ってくれるのはキミぐらいなんだし、断りなんかしないよ」
 手を伸ばす。生身の手で、赤く熟れた日向の頬に触れた。視線がぶつかる。日向がゆっくりと微笑んだ。
……ああ」
 手慰みに、短い髪の毛をまさぐる。日向は目をつぶり、身体の力を抜いて深く息を吐いた。
 警戒心の強い動物を手懐けたような気持ちになる。狛枝は胸の内に疼く快感に身を震わせた。
……まあ、日向クンになら付き合えって手ずから首輪つけられてリードを握られる展開でも、強引にベッドに誘われる展開でも、ボクは一向に構わないけどね」
 狛枝はそっと手を引き、立ち上がる。
 そろそろ仕事に戻らないと、ボクたちの十神クンに怒られてしまう。
「あははっ、またね。待ってるよ、日向クン」
 前へ踏み出し、後ろ手を振る。
 惚けた日向が現実に戻ってくる前に、狛枝はひとけのある廊下の方へと滑り出ていった。
「しれっと難易度を上げるな! おい! 狛枝!」
 後ろから、羞恥にまみれた大きな声が響いてきた。
 狛枝は喉奥で笑う。胸が弾む。心地の良い感覚に足取りが軽くなる。
 せっかく日向クンが期待してくれたんだもん。焦らなくていい。だから、楽しい夜にしないとね。ね、日向クン!
 オフィスに向かって歩く。白色灯が照らす廊下に満ちる多種多様なざわめきの中、愛らしい気配は周囲に同化していった。