目の前に誰かが座っている。その男は、簡単に脱ぎ着できる薄緑色の入院着を着ていた。白いベッドの上で膝を抱え、じっと俯いている。まるでやることがなくて日長に縁側で過ごす老人のようにも、母親に相手にされず拗ねている子どものようにも見えた。
またこれか。いい加減嫌になる。
誰か、なんて卑怯な言い方をした。こいつが誰かだなんてわかっている。
わかっていたのに、わからないふりをした。
日向はつきそうになったため息を呑み込み、舌打ちをした。
ああ、俺だよ。どうしようもなく愚かで、劣悪で、視野が狭く、選択肢がなくて大人に騙され煽てられ、自ら手術台に上がった可哀想で馬鹿な俺自身だ。
「いつになったら俺は、お前を見なくなるんだろうな」
呼びかけてみる。返事はない。
白い空間の中で、心電図のモニターと、点滴の管に落ちていく輸液だけが動いている。
「いなくはならない。わかるだろ?」
ぬるりともう一人の自分が振り返った。
感情が抜けた顔。投薬のせいで自我がふやけているのか、視線が合わない。やつれ、正気のない瞳。ズレてはだけた入院着。色褪せた若い自分の姿で、唯一ぽっかりと動く唇とその奥の赤だけがはっきりと視界に焼きついた。
頭の中からすっと血が落ちて、冷えていく感覚がした。ぞっとする。
「過去は変わらない」
じっとりとした虚な視線に吸い込まれる。ぐるぐると絶望を煮詰めた色だ。見ていると、深い深い泥沼に足が沈み、引き摺り込まれる感覚がした。
「俺は……何も成せず、何にもなれず、誰かに愛されるものでもない。無価値で、ゴミで、よくできた人間が作る社会に縋り付く寄生虫」
どこも見ていない虚な瞳から、すぅ……と、涙がこぼれ落ちる。
「それぐらいで泣くなよ……惨めになるだろ」
日向は、学生時代の頃の自分の姿をした男の細い肩に手をかけた。胸が潰れ、そして苛立たしくなるような泣き方だった。はくはくと、薄い息苦しそうな呼吸の音は、聞いているとこちらも息苦しくなる。
気分が悪い。
投薬、眩暈、急な腹痛……。身体を丸く抱えた衝撃で外れる点滴と、白い布団に点々と散る赤色。泣きながら湿気たシーツに身体を横たえた記憶が、よみがえる。
日向は鼻から大きく息を吸い込み、胸に溜めてそっと少しずつ吐き出す。
「しっかりしろ。これは夢だ。夢なんだ」
声に出して、手に力を込める。もう一人の己の細く浮いた鎖骨に、指先が食い込む。肉と骨の感覚が、指に伝わる。
気持ち悪い。気持ち悪い。
目の前の身体がくつくつと笑い、震える。声はひび割れ、血を滲ませていた。
醜い。なんで、笑っているんだろうな。心はちっとも笑ってないというのに。聞きたくない。こいつが言うことを、ききたくない。
「ははっ、俺はこれから何になるんだろうな? 何を成せるんだろうな? やっと、やっと誰かに認められるんだ」
突然目の前の男が、身体を守るようにぎゅっと抱きしめる。その衝撃で、点滴の管がぱんと外れる。日向の顔にぴしゃりと生ぬるい赤が数的飛び散った。ぞっとする。日向は悪寒を覚えた。
きもちわるい。
「何者になれるなんて、幸せだ。そう、幸せなんだ! 死ぬのなんて怖くない。誰かの希望になれるなら、いくらでも命なんて捧げられる。ああ、これで、やっと……誰かに愛してもらえるだろうか?」
男が饒舌になる。何かに憑かれたように喋り続ける。狂ったような男の笑い声が頭の中でわんわんと響く。なんだか、どこかの誰かにも似ている気がして、眩暈がする。
パタリと哄笑がやんだ。
男の手が、日向の手首をぐるりと掴んだ。
「……っ」
息を呑む。手首を掴んだ手が、変色していく。実験に耐えられず、あちこちの血管が使えなくなり、皮膚が腫れていた。頻回に刺され、傷つけられた組織が内出血を起こしているのだ。皮膚の色が、赤と青、黒に黄色とまだらを作っているのが見えた。
手が引っ張られる。榛色がじわじわと赤色に汚染され始めた瞳が二つ、日向を覗いた。病的な色をした皮膚の中、唯一赤だけが鮮やかだ。
赤色の唇が、ぱかりと開く。
「なぁ、俺。胸を張れる自分にはなれたか?」
最悪な目覚めだった。
薄暗い洗面台の鏡に映る、ぼんやりとした榛色と赤色の瞳が自分の顔を見つめている。ネクタイを締めていない白いシャツが、嫌に白く見えていた。
気分が悪かった。
冷や汗をかいていた身体は酷く重い。めまいだけじゃなくて、僅かに吐き気もある。
くそっ……。俺はまだあんなものに囚われているのか。
歯ブラシを噛み、排水口に流れていく水を見つめる。大きく息を吐いた。
俺は前に進むって、決めたんだ。全部を受け入れて、未来を信じて歩いていくって決めたんだ。
それなのに。
胸を張れる自分にはなれたか?
虚な声がよみがえる。
胸を張れる自分にだって? 張れていたら、あんな足を引っ張るような夢なんて見ていないだろう。未だに己は人々の絶望と、悲嘆と、恐怖の叫びと揺らぎの残響が残った世界を生きている。才能がほんの少し残っていたとしても常に、自分の行なってきた愚かさを突きつけられ、息をしている。息を、させてもらっている。
自分は結局のところヒーローになんてなれなかった。何か大きく変わることのない、非日常が日常へとじわじわと調和していく様を世界の端で見させてもらっているわけだ。人間はできることをやるしかない。わかっている。わかっているけれど……ああ、満足のいっていない飢えた自分を突きつけられて、情けなくて自分自身が嫌になる。
日向は瞼を閉じた。さらに歯を強く噛む。歯ブラシのブラシがぐちゃりと歯の上で潰れた。ぽたりと唇の端から白い泡が落ちて、排水口に流れていく。ありとあらゆることに対して、気力がなかった。夢の腐れた残滓が、手首に巻き付いているようだ。身体に力が入らない。もう一歩も、いや、指一本動かすことすら億劫だった。未来機関での更生も、社会貢献も、仕事も忘れて、このまましゃがみたくなってしまう。
ふっと、意識が薄くなる。床でもいい、壁でもいい。何かに寄りかかりたかった。
何もしなくていいよって、言ってくれないか。
足音がした。
がらりとドアが開く。薄暗い洗面所に、朝の白い光が差し込んだ。
「あは……っ、ずいぶんいい顔してるね日向クン」
穏やかな声がした。ドアを開け、同居人の男──狛枝凪斗が立っていた。鏡越しに視線が合う。
「うるさいな……そうじゃないだろ」
「あ、うん。そうだったね。おはよう」
朝の日差しに似合う、起伏の緩やかで柔らかな声だった。日向を不審に思ったり、怪しんだり、労ったりするものではない。遠い昔に置いてきた、同級生に朝会った時のようなさらりとしたものだ。日向は口の中のものを吐き出し、口をゆすいで顔を上げた。
「……おはよう」
鏡越しに慣れた言葉をつぶやく。言葉を吐いて、空気を吸い込んだ。なんだか、ようやく空気が胸の中に隅々といきわたるようだった。
「避けるか?」
「ああ、別にそのままでいいよ。ボクは日向クンの忘れ物を届けにきただけだからさ」
「忘れ物?」
「いつも洗面所でやってるでしょ」
首を傾げていると、狛枝は日向の隣に歩いてきて、日向の肩に手をかけた。くるりと身体を回されて、向かい合う。
「ほら、俯いてないで首をあげて。やりにくいよ」
生ぬるい人の呼吸が、首筋に当たる。日向の身体がぴしりと固まっている間に、首周りでするりと布が擦れる音がした。
「よし、できた。これで、いつもの日向クンだね」
胸元が白い手でぽんぽんと叩かれる。そこには丁寧に上まで結ばれた黒いネクタイが下がっていた。正面の男をまじまじと見つめる。身体が薄く長身の男は、日向と同じ黒いスーツを身に纏っている。首元のボタンを開けたシャツには、だらしなくネクタイが下がっていた。
「……お前、まともに結べるじゃないか」
日向は思わず毒づく。
「あれ、バレた?」
「お前なぁ」
口が開き、瞼がぴくりと動く。この数年、だらしないと色んな部署の人間に、狛枝の生活態度が槍玉に挙げられていた。元絶望だと、日向たちはまとめて白い目を向けられる中で、飄々とそのままをいく狛枝を見て掻き立てられていた感情が、今この一瞬で無駄にされた。この憂いや不安や心配はなんだったんだ。
「ねぇ、日向クン。キミの小言はまた今度聴くとしてさ、今日は朝ごはんどうしようか?」
「は?」
「あのね、日向クンがずっと洗面所でのほほんってしてたせいで、ボクたち仕事前に食いっぱぐれちゃいそうなんだよね」
狛枝はポケットからスマートフォンを取り出し、ロック画面を日向に向けた。
「嘘だろ、もうそんな時間か」
「どこで食べる?」
「どこでって……」
「決め切れないなら、運任せに決めようか」
「……運? くじもないしどうするんだ?」
狛枝はスマートフォンのロックを解き、すいすいと操作をする。
「じゃあ、簡単にダイスでも振ろうか。一が出たらこの間できたばかりの懐かしい牛丼チェーン店。二が出たら近所のコーヒーが美味しいトーストのモーニングを出してる喫茶店。三が出たら花村クンがやってる機関の食堂ね。今言った中で行きたいところはある?」
牛丼、コーヒーとトースト、懐かしくなるような和食。いつもなら生唾がわくはずなのに、今は胃が重たく沈むだけだった。
「……どこでもいいな」
「まさか、本当に言ってる?」
「ああ」
狛枝は肩をすくめ、目を細めた。
「いいわけないよ。一は朝からだったら胃もたれするし、二だったら日向クンは多分お昼前にお腹空いちゃうし、三は花村クンがボクたちのことをどこまで進んだのって邪推して絡んでくると思うけど」
背の低いユニークな冗談を言う友人が、頭の中でウィンクをしている。冗談の中に滲む、湿度のある視線や、尻の居心地の悪くなる言葉。昔は汲み取れなかった意味も、今となっては汲み取れてしまう。口元が引き攣った。
「まだやってるのか。ほんっ……とに変わらないなあいつは……」
「この間はボクに絡んできてたから、次は日向クンかな。まぁ、ボクとしてはセクハラされてる日向クンを見るのも悪くはないけどさ」
「おい、そこは庇ってくれよ」
日向は両手で頭を抱えた。つっこまれても困る。なんと答えたらいいかわからないことを、聞かれるのは身にこたえる。
狛枝が笑う。
「ふふ。よかった。ほら、そろそろ行こうか。日向クン」
「……そうだな」
背を向け足を踏み出した狛枝に、日向も続く。
光の元へと足を踏み出す。
「それで、何番になったんだ?」
「あはっ、ついてからのお楽しみで」
「そ、そうか」
廊下に出てすぐ、狛枝が床に置いていた二つの鞄を拾い上げて、片方を日向に手渡す。
ようやく気がついた。昨晩、鞄はここには置いていなかったはずだ。いつものように、ソファの側の定位置に置いていた。
息を呑む。こいつはずいぶん聡いところがある。予感はあった。
日向は自分のことが好きではない。愚かで醜く、愚鈍で、利己的なそれは、あまり誰にも触れてほしくない部分だ。けれど、この男が、日向の夢の残滓に気づいていたことに、不思議と戸惑いも動揺も嫌悪も湧かなかった。
狛枝が笑った。薄灰色の瞳や薄い唇が、柔らかく弧を描く。朝日に照らされて、美しく蠱惑的な笑みを作る。
「もし、日向クンがどうしてもって言うなら、帰ったら寝酒と添い寝ぐらいなら付き合ってあげるけど?」
静かな空気が間に流れる。狛枝は振り向き、正面から日向を見ていた。静かな瞳だ。
日向はそっと息を吐く。鞄を握る手に力を込めて頷いた。
「奢らせてくれ」
「あはっ、了解」
狛枝がささやく。
するりと伸びてきた白い手に、腕を引かれた。細い身体に見えるのに大きな手は、存外力が強い。たたらを踏むようにそのまま靴を引っ掛け、日向は外の光を浴びた。
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