ひなげし
2026-03-07 17:26:51
8255文字
Public 狛日
 

ナゲット十箱分の午後

本予備(ハピ軸)/狛日
第87回狛日版週ドロライ「巻き添え」
最悪な映画を見た狛日と日向。ダイナーで映画の感想会をしながら、左右田も九頭龍も巻き込んで日向が自分自身を見つめ触れる話。まだ友達狛日。

「ああ、まったく酷いものを観たね。あんなものに当たるなんて、とんでもない不運だよ」
狛枝が眉を吊り上げ、大仰にため息をついた。
「希望の踏み台にすらならない絶望に、価値なんてないに決まっているじゃないか! ストレスだけ与えられてカタルシスがないだなんて、駄作も駄作だよ」
「ま、まぁ気持ちはわかるぞ。二時間も座って話があれじゃあな」
「ああ、本当に酷い目にあったよ。整備のされてない椅子に当たったのか、骨組みに太ももが当たって痛かったし、ダイナーでもこの有様。あはっ、いったい幸運はいつ訪れてくれるんだろうね」
「だけどほら、あの映画にもちょっとはいいところもあっただろ?」
日向は、顔をひきつらせながら、テーブルの上にいくつも並ぶ炭酸の紙カップを一つ手に取る。ストローを口に含んだ。しゅわしゅわとした刺激が、胸に居座る後味の悪さを少しずつ押し流していく。
珍しいことに、気持ちはほとんど狛枝と同じだった。二時間座って観た映画があまり好みではなかったのだ。希望を期待して期待して、最後にそのまま落ちて沈んでいった話に捧げる言葉を、日向はそれほど多く持ち合わせていない。無念だろうか、悲嘆だろうか。つかむに掴めない胸の内を撫でながら、休むことなく唇を動かす狛枝をぼんやりと見つめていた。視界がじんわりと霞んでいる。目も心もほんのり疲れていた。
昼過ぎの強い日差しが差し込むダイナーには、ほとんど人がいない。幸運なのか、狛枝がいくら騒いでも、誰一人視線を向けるものはいなかった。
狛枝が腕を組み、鼻の先に薄く皺を寄せてから「で?」と問うてきた。
「で、どこなの」
「えっ」
「いいところだよ。あったんだよね」
「あっ、えーっと。……え、映像とか! 綺麗だったよな」
指をぴんと立てる。緊張した姿勢からだらりと姿勢を崩した狛枝が大きな息を吐いて、笑った。
「残念だよ。日向クンがCGと本物の見極めもできない凡人ってことがよくわかったね」
「な、なんだよ、CGの進化くらい褒めてもいいだろ。というか……俺も、まぁ……あまりいい気持ちになる話じゃなかったというか」
「ふーん。それで、誰にでも何にでも優しい日向クンは、あんな映画にも苦し紛れの薄っぺらい褒め言葉を吐いてるんだ。サクラのレビューをつけるバイトはいくら貰えるの?」
狛枝が、山のように積まれた箱の中からナゲットを一つつまみ、マスタードの海に沈める。
「するかよ、そんなバイト。ただ俺は、全部をダメだったって大きな声で言い切ってしまうのに、気が引けるってだけだ」
「そっか。じゃあ、結局日向クンから見てあの映画はどうだったの? 素直に言ってみたらどうかな。キミが時々胸の中で柔らかくない言葉を転がしてるのなんて、もうわかってるんだよ。ボクに何を喋ってもいいから気にするなって言うんだから、キミもボクに言葉を偽る必要なんてないんじゃない?」
狛枝がぱくりと、ナゲットを齧る。そのまま薄灰色の視線は、日向を見つめてくる。心の底までも覗き込むような視線だ。空気の塊を喉に詰まらせたみたいに、息苦しくなる。日向はその光がほんの少し、苦手だった。でも正面からぶつかってくる光でもある。汗をかき始めた紙カップをぎゅうと両手で握りしめる。
日向は薄灰の視線を受け止め、ゆっくり頷いた。
「ああ……そうだな。……とりあえず、一人で観なくてよかったかもしれない」
呟いたあと、吐き出したばかりの言葉を口の中で転がす。今述べてみた言葉が本当に正しいのか、よくわからなかった。
なぜ、そう思ったのだろう。なぜこの映画はこんなに言葉にならない息苦しさが残ったのか。そしてこれを好きと嫌いで判別していいのかわからない。
日向は、あの狛枝が最悪だと罵る映画を何故か最後まで見届けられた。魚の小骨のように、何かが喉奥で引っ掛かっている。胸に引っ掻き傷が残ったけれど、苦しいは嫌いじゃないはずだ。だって、苦しいからって理由で嫌いだったら、苦節ありすぎた目の前の男と友達になんてなっていなかっただろう。
たとえ、迎えた先が破滅だったとしても、全てを否定するのは間違いじゃないか。悲しく閉じた人生であったとしても、それは決して惨めなんかじゃない。なぜかそう思ってしまう。だから、好きや嫌いという枠に心を押し込めて、言葉に切り取ることに抵抗があった。
決して、狛枝に心を偽りたいわけではない。むしろ、心の内を聞いて欲しいとさえ思っている。しかし、日向は自分自身の心を掴みあぐねていた。いま持ちうる言葉では、心の内が説明し難い。
「どうかした? 難しい顔しちゃってさ」
狛枝が、首を傾げる。
「いや、これ以上、具体的に何をどう言ったらいいか」
ダイナーの入り口で、からりと扉が開く音がした。外の新鮮な空気が、漂う油の匂いを押し流していく。ぐるりとわだかまっていた心が、ほんの少しすく。
視線を上げる。入ってきた人物を認め、日向は唇の端を上げた。
「よかったな。ちょうど来たぞ。とりあえずダイナーで最悪に突き落とされた分の、お前と俺にとっての幸運が」 
「は?」
ナゲットをようやく飲み込んだ狛枝が、きょとんとまたたく。
日向は皮の剥げつつある横長のソファから腰を上げた。
人によっては小腹が空いてくる時間だ。ちょっとした物を食べるのにこの店は適している。ダイナーの通路を進んでくる男二人に、身を乗り出し、手を伸ばした。
「左右田、九頭龍いいところに来た! 頼む、助けてくれ」
「だーっ、何してんだオメー!」
「お、おい! 服を引っ張るな!」
服を突然引っ張られた二人の男が、その場でたたらを踏む。
「胃袋貸してくれるか?」
「胃袋は貸すもんじゃねーだろ。つーかテメーら何してんだよ。おい、なんなんだその机の上はよ」
九頭龍の顔が、突然苦い物を口に入れられたような顔になる。日向は、九頭龍の隠しもしないしかめ面につられて笑う。
日向と狛枝のかけるダイナーの四人がけの席は、強い油の匂いと、炭酸が弾けるささやかな音の大合唱で充満していた。開けられていないナゲットの箱が十。包に包まれたままのバーガーが十二。様々な炭酸飲料の入った大きな紙カップが十三。
二人が使うには広すぎるテーブルの上は、食べ物で溢れかえっていた。
「狛枝のストレスと不運に当てられた可哀想な食品たちだ」
「いや、そんなつもりはなかったんだけどね。一つずつ欲しかっただけなのに、タッチパネルが勝手に動いちゃったというか。壊れちゃったというか。まぁ、いつものことだよね」
からりと狛枝が笑む。狛枝の隣に無造作に立てかけられた注文のタッチパネルの画面は、ぱらぱらとノイズが走り、点滅している。まるで、一昔前の壊れたカラーテレビのようだ。
「テメーは相変わらずだな」
九頭龍の唇の端がひくりと引き攣る。左右田が大きく日向に身を寄せた。
「加糖のコーラはあるんだろうな?」
「ああ、何個もあるぞ」
日向は頷き、泡をあげ続けるコーラを並べた。
「しゃーねぇな。じゃあ、少しくらいは付き合ってやるよ」
「日向に頼まれちゃあ仕方ねぇ」
「ありがとな、九頭龍!」
「オレにもいえよ!」
左右田の迫真のしかめ面に笑いながら、日向は座席の奥へ引っ込み、二人をそれぞれ席へと誘った。
汗を数滴垂らした紙カップを、二人の前へ置く。外が暑かったのか、九頭龍は無言でストローを吸い、左右田はプラスチックの蓋を開け氷をバリバリと噛みながらコーラを飲む。冷たく長いため息が吐かれたあと、日向の隣に座る左右田は話を促した。
「で、オメーらは何してたんだよ」
「狛枝の映画批評会だ」
「映画の感想会でしょ」
「映画の感想会にしては、ずいぶんテーブルがおもしれーことになってんじゃねーか」
狛枝の隣に腰掛けた九頭龍が、眉をあげて愉快そうに声を張る。それから、包みを一つ開き、バーガーを頬張った。
日向は頷き、ソースをつけたナゲットを一つ口に放り込む。
「俺は、狛枝の才能を甘く見ていたかもしれないな。この間の、海で泳いでる左右田に近寄るサメも大概だったけど」
左右田が露骨に顔をしかめた。
「オレは面白くねーよ! つーかなんで何かあったのがオレだったんだよ!」
「あの時のサメから追いかけられる絶望を踏み台に輝く、左右田くんの泳ぎは大いに盛り上がったよね! ほんとうに素晴らしかったよ!」
狛枝がいつものように、腕を広げ大仰に声を上げる。
「それに比べたら、今回は地味で確実な嫌がらせだな。残念だけど、この間の左右田を見て、ソニアが珍しく感心して応援のヤジを飛ばしてたみたいな浮かれた話が湧く余地は全くないぞ。今回の狛枝の不運は誰も輝かない。輝くとしたら、今からこの食材を無駄にされた未来が来たとして。怒りに真っ赤になる花村の顔ぐらいだな」
「おい、ちょっと待て。日向、ソニアさんがなんだって?」
「狛枝がいて、不運にあったっつーことは、今回はいい映画に当たったんだな?」
身を乗り出していく左右田に一目もくれず、九頭龍が言葉をこぼす。
「残念だけど真逆なんだ。最悪で最低で、ドブのような後味の映画に当たっちゃってね!」
「嘘だろ! テメーの幸運はどこにいったんだよ」
「まぁ、ポスターの雰囲気から嫌な予感はしてたんだよね。構図は悪いし、フォントはダサいし、役者の顔からあんまり希望を感じなかったし。あはっ、わかりやすい地雷を踏んじゃったよね」
「おい、ソニアさんの話をあとで聞かせろ! つーか、そんなボロクソに言うくれーなら、観なきゃよかったじゃねーか」
左右田が人差し指を突き出し、ますます身を乗り出す。日向は苦く笑い、頬を掻いた。
「ははっ、ソニアの話はまたあとでな。それと、今回の映画は俺が誘ったんだ。俺のわがままに狛枝は付き合ってくれたんだよ」
「この間はボクがみたいものを一緒に観たからね」
「へぇ、狛枝はともかく日向も外で見ねーからどこにいるかと思いきや、テメーら揃って映画館にいたんだな」
「その……。誘ったのは同好の仲間っぽくて憧れてたというか、癖になってたというか」
日向は目の前のバーガーを食み、蓋を開けた透明なサイダーを一気に飲み干す。しゅわしゅわと喉奥で弾ける刺激に、言葉を止める。狛枝も左右田も九頭龍も口を開くことなく日向に顔を向けていた。笑んでみる。
気恥ずかしい。ほんの少し、ぎこちなくなる。
「まぁ、良いも悪いも楽しめたほうが、視野が広がるっていうだろ? 俺はみんなと違って、まだ何が好きかさえ自信を持って言えない。だから、この合宿で少しでも何か掴めたら良いって……思ったんだ」
言葉尻がしぼむ。三対の瞳から視線を逸らす。緑色の液体の中からぷくぷくと湧き上がる泡を見つめる。映画館の薄暗い上映室にひっそりと寄り添う、澄んだ音がした。
「古いシネコンとキャラメルポップコーン、大きすぎる紙カップに入った炭酸飲料、古めの映画に、新しい映画。ただで見放題、食べ放題だ。たくさんの価値観に触れるなんて、そんなの滅多にできない経験だろ。それに、すごく贅沢だ。形式に酔ってるって言われたらそれまでだけど、ちょっと大人っぽくていいなって思ってさ。ははっ、恥ずかしい理由だろ?」
「いいんじゃねぇか? オレだってアクション映画は好きだしよ。別に恥ずかしがることねーだろ」
左右田が空になったカップを重ね、次のカップに手を伸ばし蓋を取る。日向は首を横に振った。
「話題作だったり、定番の作品を観るんだったら俺だってそこまで恥ずかしいなんて思わないさ。だけど、そこはかとなく地雷臭がするのに進んで観るんだから、痛いヤツって思われても仕方ないだろ。でも、俺は……本当は何をしたくて、何が好きなのか知りたいんだ。何も持ってないのがとても恥ずかしくなる。周りを見たらみんな自分の道を知っている人だらけだ。そりゃそうだよな。ここは、好きで好きで続けたことが才能になっている人ばかりだから。そんな人たちの中にいたら、たまに……少しだけ嫌な自分が顔を出すんだ。こんなの誰にも頼れないし、一人でしないといけないことだとわかってる。それに今まで、映画なんて一人で見るのも大人数で見るのも大差ないとも思ってたんだ。だけど、この間から狛枝と星と集まって見てるせいか、つい誘ってしまってさ。俺の自己満足に狛枝を巻き込んだのは、悪いと思ってるけど」 
「まぁ、狛枝は日向相手に押し黙るようなタマじゃねーだろ。そいつは置いておいて、だ」
九頭龍は口の中のものを飲み込む。手のひらで空になったバーガーの袋をくしゃりと丸める。
「日向が失敗も含めて映画を楽しめてるならいいんじゃねーか?」
「楽しめてると……思う」
日向も緑色の炭酸飲料をストローで啜った。映画館で飲んだものと同じ、どこをメロンと言ったらいいのかわからない甘い風味が口の中に広がる。
「オレも……少しこの合宿で悩んでたっつーか」
九頭龍が呟いた。左右田が無言で丸められた袋を回収し、手をつけられていないオレンジジュースを九頭龍の前に置く。
「だから、テメーの気持ち、少しはわかるところもあるぜ。だから、たまにはオレも誘えや」
……いいのか」
「好きも嫌いも、良いも悪いもゆっくり時間持ってたくさん何かに触れないとわかんねーだろ。例えばだ。大切な人のために強くなりたいと思ったとして、トレーニングをするとしても何がオレの身体に合うのか最初は手探りだ。がむしゃらにみて、やって。ふとした時にこれだって思ったものと出会った時、それを掴み取るには体力がいる。要は、それと同じなんじゃねーのか。たくさん変な思いしてないと、心がこれだってものに気がつけねーっつうか。……わりぃ、ちょっと何言ってるかわかんなくなってきたな」
九頭龍は目を逸らし、照れ臭そうに頭を掻いた。
「いや。確かに、そうかもしれない」
「じゃあ、テメーのその映画通いも、図書館でがむしゃらにジャンル問わず本を手にとってるのも、何一つ無駄じゃねーよ」
日向に向かい、九頭龍は頷いてみせた。日向の視界の端で、左右田も小さく頷いているのが見える。
「九頭龍、お前。図書館まで……知ってたのか?」
「まぁ……別クラスの女からトレーニングの傍らに聞いた話だ。他の人のことはたくさん褒めて良いことを言うのに、悩んでそうな顔してんのに踏み込ませてもらえなかったからって言われてんぞ」
「うわ、待ってくれ。それ誰だ……!?」
頭を抱えてうめく。九頭龍の軽い笑い声が、空気を撫でた。
ふと視界の隅で、紙カップを囲む白い指先が水滴で滴っているのがみえた。狛枝が小さく息を吐く。
「狛枝? どうかしたのか。ファーストフード、やっぱり苦手だったか? 炭酸ドリンク、水に変えるか」
溢れんばかりの紙カップの中から、唯一水を入れた小さな紙カップを差し出したけれど、狛枝は受け取らなかった。
俯いていた視線がくっと上がる。挑むような、それでも迷うような瞳が日向を正面から見つめる。
「いいよ。いや、あのさ。日向クンって時々すごく傲慢だよね」
「は?」
「自惚れがすぎる、とでも言うのかな」
「狛枝、お前は何が言いたいんだ」
日向は顎を引いた。視線は外さない。狛枝がもう一度、深く息を吐く。白くて長い指先が、とんとんとテーブルを叩き濡れた跡を残す。
「好きや嫌い以前の初歩的なことだよ。この合宿が始まった時だってそう。苗木クンの妹さんにどんな視線を向けていたか、思い出してみるといいんじゃないかな。キミは冷静で論理的に組み立てる思考力はある。だけど、自分の偏った思考で物事を切り取りがちなんだ。キミは誰にでも何にでも共感して、偽りのない心を差し出せる。それは素敵なことかもしれないけど、その視線は自分にも向いてるって言える?」
言葉が頭に突き刺さる。胸の奥が、くらりと揺れた。
「現実を穿った形に切り取ってないって本当に言える? 疑わないことは、傲慢じゃないかな。それだと、真実をとらえ損ねるよ。ボクが超高校級の才能のあるクラスのみんなを代表してこう言うことはおこがましいことだけど、才能に突き進むばかりにひとりぼっちであることを、ボクたちは疑ったことがなかった。三年前のボクらは点でバラバラで、クラスで集まることなんて想像もつかなかったけど、今ではどうかな。キミが何か一人でしてると、クラスのみんなほとんどがキミの周りに集まるようになっちゃった。ねぇ、本当に何にも持ってない人間がそんなことできると思う? それをまずキミは認めないといけないんじゃないかな」
……そうかも、しれないな」
「バーベキュー楽しかったぜ」
左右田の声が追いかける。あの時、日向は最初一人で砂浜にいた。そして、いつのまにかクラスのほとんどが集まったのだ。
不意に胸が詰まった。
俺には何もないわけじゃない。自分があやふやで掴めない今のままでも、胸を張ってもいい。自分を認めて、誇っていい。そうなんだな。
狛枝。
視線をあげる。すぐ正面には、友達が真剣な顔をしてそこにいた。初めて会った頃に浮かべていた、揶揄も侮蔑も嫌悪も何一つ感じられない。
「それに、日向クン。ボクは一言も嫌だって言ってないんだよ。あのね、九頭龍クンの言う通りなんだ。ボクは、日向クンとならいいかな、って思ったんだ」
「えっ……
「地雷臭丸出しのハズレの映画を引いて時間をドブに捨てちゃっても、伝えたいことを言葉にできなくて黙ってても、あまり食べたことのないファーストフードの油に不運にも埋もれそうになっても。日向クンと一緒なら、最後にいい日だったなって思えるから。それに、日向クンが頑張って何にでもいいところを見つけようとするところ、結構気に入ってるんだ。ボクには全くない視点だしね。だから……つまりはさ。ボクでよければ気にせず誘ってよ」
……そうか」
張り詰めていた何かが、解けるような気がした。
ずっと何かに追われるような、張り詰めたものを抱えて生きてきた。失敗したら終わりだと思っていた。ずっとひとりで、何にも認められず、がむしゃらに足掻いて、走って歯を食いしばってきた。
自分自身が矮小で、みっともなくて、弱くて、恥ずかしくて、どうしようもないと思っていた。
だけど、そうじゃないんだな。
「それにボクはね。今まで生きてきてやることなんて、本を読むことしかなかったんだ。だから、いろんなジャンルから日向クンが読みやすいって思えるおすすめの本も紹介できるし」
「えっと……
「あと、静かでゆっくりできる場所も見つけたんだけど」
白い指がぎゅっと丸まり、それは拳になる。
……ボクは素晴らしい才能のあるみんなと比べたら、たいしたことなんてできないことぐらいわかってる。そんなこと思うのもおこがましい立場だという自覚もある。だけど、ボクもさ。……少しは日向クンの力になれたらうれしいって、思っちゃってるんだ」
薄灰色の眼差しが眩しかった。視線をほんの少し落とせば、薄い唇が強く横に引かれていた。
日向は息を呑み、小さく身震いをしていた。肌がくすぐったい。ふつふつと、頬が上気するのがわかる。
なんだか、やっぱり照れくさい。
……狛枝。ありがとな」
日向は頷き、心の疼きを隠しもしないまま微笑んだ。
「うん」
狛枝が眦を緩ませて微笑む。
あたたかな空気、そして充足感が日向の全身を包み込んだ。

「九頭龍。オメー、どう思う」
小声で左右田は九頭龍に声をかける。
「ま、あの狛枝にもこの合宿で得られるものがあったってことだろ」
九頭龍は、空になったオレンジジュースのカップのストローをぐるぐるまわした。密やかな会話を隠すように、氷ががしゃがしゃと音を立てる。
「なぁ、それは得てよかったのか」
「よかったんじゃねーか。少なくとも、オレは狛枝のああいう顔、初めて見たぜ」
日向と狛枝が、タイトルもわからない本について嬉しそうに話している。図書館から持ち帰って日向が読んだ本が、狛枝が好きな本と偶然被っていたらしい。はずむ声の中に、今やどこにも憂いの影はなかった。
九頭龍と左右田は、ほぼ同時に安堵の息を吐き出した。
午後の穏やかな光が、ダイナーの中を白く、優しく照らす。積み重なるジャンクフードが山を築く中、穏やかな笑い声が響いていた。