ひなげし
2026-02-28 16:42:40
5017文字
Public 狛日
 

熱の隠し場所

本予備(ハピ軸)/狛日
第86回狛日版週ドロライ「媚薬」「彼コート」
薬を盛られて動けなくなった日向くんを見つけた狛枝が、恐怖と、庇護欲と、欲を自覚する話。まだ友達の狛日。

図書館を出ると、そこはもう常夏の世界だった。
暑い。そして日差しが強い。狛枝は、冷房で冷えていた胸の中の空気を惜しみながら、息を吐き出した。フードを頭の上にかぶせる。真昼すぎの南国の日差しは、無防備に長時間当たるものではない。
バーチャリアリティで行われる合宿旅行。ほんの少しぐらい過ごしやすくしてくれればいいものだが、そこは超高校級。生あたたかい娯楽だけを差し出す楽園よりも、あらゆるリアリティに則した豊かさを重視したらしい。素晴らしいことだ。素晴らしいことだけれど、体調を崩してしまわないか心配だ。一人の友人の顔が頭によぎる。
無理はしない。
水は飲む。日に身体を長く晒さない。ちゃんと誰かを頼る。みんなと一緒に考えて、助けを呼ぶ。
みんながいる。だから、お前は大丈夫だ。
まじめくさった顔をした青年の顔が、瞼の裏で狛枝を見つめている。同じ部屋の並んだソファに腰をかけて、覗き込んできた榛色がぱちぱちと瞬く光を幻視する。
やっぱり、午後は彼と二人で過ごしたいな。
狛枝は心の中で、小さく息をつく。
たくさんの超高校級に囲まれて、いろんな才能が輝く様を見ているというのに、どこか満たされない。空虚な胸の内に隙間風が吹き抜けていく。
ここ数日、彼とあまり過ごせていなかった。今朝も彼が違うクラスの超高校級の青年たちに慕われて、手を引かれる背中を見送った。ちらりと朝ご飯食べろよと向けられた榛色の視線が、狛枝を生活させようと背を押している。
彼にとって狛枝はたくさんいる友人の内の一人かもしれない。だけど、そろそろ夜深く寝入って、身じろぎする白い後ろ姿以外が見たかった。ボクだけを見て、ちょっと困ったり、ほんの少しだけ粗野になったり、仕方ないなと苦く笑う顔が見たかった。
同じ部屋に泊まっているというのに、彼とだけすれ違い続けている。なんだか幸運なのか、不運なのかわからない。
コテージへ向かって歩みを進める。特色のある景観を通り過ぎながら橋の上を歩く。
狛枝と彼が最初に起きた砂浜が見えた。少し遠回りにもなるにも関わらず、足が自然と動いていた。
「あ……
思わず声が出た。足が止まる。さらさらと豊かな砂と海を擁する広い砂浜の奥。ヤシの木が立ち並ぶ隙間に、小さな影があった。
水着と同じ色をした鮮やかなビーチサンダルが、パラパラと砂の上に散っている。ちょっと照れくさそうにはにかんで見せてくれた、鮮やかなオレンジ色をしたサーフパンツが目に染みる。強い日に晒された、身動き一つしない丸まった胎児のような身体。だらりと投げ出された腕は、まるで生気がないように見えた。
頭の奥で緊急事態を知らせるサイレンが鳴り響く。今までずっと狛枝を生へと引き寄せ続けた、頼れる勘に呼応するように、心臓が冷たく音を立てた。
「日向クン!」
砂の上へと駆け出す。何もかもが頭の中から吹き飛んでいた。いつもなら砂に足を取られて転けてしまうとか、転けた先に木があってぶつかってしまうとか色々なことが頭をよぎるはずなのに。意識を向けることさえ忘れてしまっていた。
よろめくようにして、胎児のように横たわる身体の傍らに膝をつく。
「日向クン、ねぇ、大丈夫? 日向クンってば!」
唇を噛み、腕に力を込める。汗でしとどに濡れ、赤くなった健康的な日向の肌に手を伸ばす。顔を覗き込めば、少し苦しそうな荒い呼吸が耳に届いた。口元は何も汚れていないから、吐いてはいないだろう。呼吸困難と窒息の危険は今の所ない。投げ出された手首を取り、心拍を測る。すこし、早いかもしれない。ただそれだけで、そこまでの重篤さは感じられなかった。だけど、確かな意識だけが感じられない。
狛枝は日向の身体を無理に揺り動かさず、名前を呼びながら肩を上からトントントンと力強く叩いた。
この合宿旅行が始まってからすぐのこと。日向クンを海遊びに誘う前に、罪木さんにしっかり教えてもらった、救急救命の初期確認動作。間違うことなく動いた自分の身体にほっとしつつも、周りにはボク以外に誰もいない。頭の奥からあたたかな血が全部地面に落ちていくみたいに、冷えていく。
ああ、いやだ。いやだ。応えてよ。
血に濡れた飛行機の座席。リノリウムのてらつく白い床に、擦り付けられたような黒い跡。細く上がる白い煙と、白と黒の鯨幕。不快な……、ああ違う。幸運の兆しの光景が古い映画のフィルムのようにフラッシュバックする。
手が情けなく小さく震える。ひゅっと乱れた息を吐き出した瞬間、小さくうめく声がした。
確かな生の蠢きに、頬を強く叩かれた。
目が覚める。
「ねぇ、日向クン! どうしたの? 暑くて気持ち悪いの? ねぇってば」
たまらず大きな声を出していた。大きな声に反応するように、日向の身体が小さく身じろぐ。うっすらと開いた瞳が、気だるそうにぼんやりと瞬く。朦朧とした反応は、まるで熱中症患者のようだった。
原因がわかれば、すぐに動き出すことができた。いつも着ている深緑色のコートを、肌が焼けることにも構わずに、迷わず脱いだ。
「ああ、水もない気も利かないゴミクズでゴメンね。あ、これ、被ってよ。これで少しでも日よけになればいいんだけど」
ゆらゆらと泳いでいた視線が、狛枝を認める。
「こま、えだか? あ、りがと……な」
狛枝のコートの下で、へにゃりと真っ赤な顔で日向が笑みを作った。
ほっとした。頭の中に血が巡る。息がようやくできた。
「うん……。あのさ、日向クン。ここ日が照って暑いよ。移動できる?」
……うん」
「罪木さん呼ぼうか? みんなに声をかけてくるよ」
虚な瞳を伏せ、ぼんやりと返事をしていた日向が、ゆっくりと首を振る。
「いや、だいじょうぶ、だ」
「日が照ってる場所で動けなくなっちゃってるのに大丈夫って、何言ってるかわかってる? ボクはキミとの約束を忘れてないけど」
「わ、わかってるさ」
「だったらさ」
「な、なぁ……。こまえだ」
狛枝のほんの少し苛立ち始めた声を遮り、日向が囁く。喉に言葉がたくさん詰まったような、絡まったような、そんな掠れた低い囁きだ。懸命に誰かに縋るような、弱々しさを感じる。
「どうしたの」
「その」
「なに」
「部屋まで、つれてってっ……くれないか」
「それで歩けるの?」
……たぶん。いや、だいじょぶ、だから……。おまえ、だけで……いい。おまえだけが、いい」
震える腕をあげて、日向が狛枝に手を伸ばす。
「わかった、まかせてよ」
狛枝は日向の腕を取り、重たい身体を引き上げ立たせた。ふらつく身体にあわてて手を回す。力の抜けた熱い身体が、狛枝の身体にぶつかった。
「ねぇ、日向クン……
「ぅ……はぁ……っ」
うめく日向を両腕で支えながら、コートのフードを日向の頭に被せる。それから、行儀悪く足先で日向のサンダルを側に寄せた。
「サンダル履いた方がいいよ。アスファルト何が落ちてるかわからないし」
「あ、ああ……
ちらりと横目で日向の顔を伺う。真っ赤に染まって、しっとりと汗ばんだ肌。じわりと潤む瞳に、全力疾走した後のような苦しげな吐息。日向の呼気の中に、ふと以前嗅いだことのある人工的な甘い香りがした。
狛枝の胸を内にふわりと、もう一つの可能性がよぎる。
「あのさ、今日のお昼に日向クンを探したんだけどさ、ずっとすれ違ってたのか会えなかったんだよね。どこで何食べてたの?」
「しってたか? なんか、クラスとわずにいろんなヤツがあつまってて、料理、大会? してたんだ。つくるだけ、つくって、食べれないからって……。胃袋かしてくれってよばれて……
「そっか」
「そのあと、ちょっと、だれかとはなしたくて……うみに、き、てたけど……
「その料理大会に花村クンか王馬クン、いた?」
日向が小さく頷く。
ああ、やっぱりそうか。
安堵しているのか、緊張しているのか、よくわからない気持ちが狛枝の胸の奥に沈澱する。命に別状はなかったのだから、安堵して然るべきなのに言葉にならない焦燥感にじりじりと焼かれていた。生まれて初めて味わう情動だ。
手繰り寄せてしまった真実を、共有してもいいのだろうか。
迷う。
狛枝がゆるりと首を振った瞬間、日向が突然立ち止まる。心配を唇がこぼすより先に、日向の身体がびくびくっと痙攣した。縋るように、強く腕を掴まれる。
「あっ……、はぁっ……
苦しそうに吐く息が、ひどく艶めいていた。ぎゅっとつぶった目。空気を求めて大きく膨らみ、萎む胸。寄せられた眉が、苦痛だけではない色を浮かべている。
胸がどきりと、大きく音を立てる。
狛枝は不躾にも日向の下肢へと視線を向けた。
サーフパンツと大腿部の隙間から、一筋白い線が引かれていくのをみた。
どろりと垂れ落ちるなまめかしい白が、目に焼きついていく。不意に強い衝動に襲われる。
ああ、舐めてみたい。
触れてみたい。
暴いてみたい。
喉がひどく渇いていた。痛いほどに渇いている。身体の奥が急激に熱を待つ。熱を持ち、どくどくと脈動を刻む。
何が起きたのか、わかっていた。わかってしまった。艶めかしい秘密に、日向の身体がのたうちまわっている。そんな身体と甘さと悲痛が混じる彼の顔を見つめて、自覚したことのない自分の想いが、じわじわと熱を持って浸食していく。頭の中が、打ち付ける鼓動の音でいっぱいになる。
乱暴にありとあらゆる手を使って、キミを暴きたい。
ささやかでもいいから、助けてあげたい。
理不尽な不運から、何を犠牲にしてでも守ってあげたい。
相反する衝動が、激しく燃え立つ炎が堅固な建物の外壁を舐めるみたいに身を焦がす。
わからない。わからない。
彼はボクにとって、とても大切な、たった一人の友達だ。
自分はどんな立場でいてあげたらいいんだろう。
でも、ボクのこの沸き立つ生々しい衝動はどうしたらいいのだろう。
日向と視線が絡む。気のせいでもなんでもなく、確かに絡んだ。羞恥と後悔と悲嘆に固まったような顔が、縋るように、祈るように狛枝を見つめている。奥歯を噛み締め、日向の身体を自分の身体と自分のコートで隠すように引き寄せた。ああ、熱い。痺れるような感覚にふるりと身震いをする。
「もう少し頑張って。部屋に着いたらお水を持ってきてあげるし、ボクも日向クンと一緒に部屋で休みたかったけど、ちょっとだけなら外の暑い日差しも我慢してあげるよ」
青くさい匂いと日向の安心する優しい香りが絡まり、漂う。揶揄ってやることもできた。意地悪を言うこともできた。だけど、そうしなかった。
悟られたことに気がついたのか、日向の瞳が泣きそうに歪む。
「そんなに心配しないでよ。別に言いふらしたりなんかしない。ボクはこんなことで友達に嘘なんかつかないよ。だから、ね?」
自分の肩に回した腕に続く先の日向の手を握りしめ、そっと囁く。
日向クンを労わりたいのは本当だ。思いやりたいのも本当だ。そんなもの、本当はなくても生きてはいけるものだとボクは知っている。けれど、ボクはキミからそれをもらってほんの少しだけ豊かになれた。
だから、ボクは唸りをあげる猛獣を宥めながら、柔らかい綿に包んで言葉を吐くことができた。
「ああ、わるい……
日向は狛枝に身体を寄せ、そっと息を吐いた。
それは、快楽を逃すようでも、安堵をこぼすようでもあった。
「ありがとな、こまえだ」
「うん。でも……どうしてもダメなら、ドアに空になったペットボトルでもなんでも投げ当ててボクを呼んでね。ボクなんかが何かできるなんておこがましいことは思わないけど、日向クンのためなら……なんでも、してあげたいんだ」
「はは……、そうか。……うん」
語尾が震えて、乱れた呼吸の音がする。だけど、今泣きそうなくらいに緊張していた榛色が、安堵にゆるりと蕩ける。細められた瞳は、生理的に生んでいた涙の粒をぽろりと頬の上に落とした。日向の手が狛枝の深緑のコートをぎゅっと握りしめる。大事そうに、胸に抱き、かかえるように。
いつの間にか息を詰めていたことに、狛枝はようやく気がついた。
くらくらと、ぱちぱちと眩しい光が目の先で散る。くらりと軽い眩暈がする。

ああ、もう。
なんなんだろうね、この気持ちは。

ずるずると座り込みたくなる身体に鞭を打ち、狛枝は黙々とゆっくり足を動かした。