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ひなげし
2026-01-09 21:08:42
3819文字
Public
狛日
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白い壁のあいだで
未来パロ/狛日
第79回狛日版週ドロライ「名残」
周囲に揉まれて静かに落ち込んでいた日向くんと、日向くんがいつもの調子に戻れるように画策する狛枝の小話。恋人同士の2人の話。
長い廊下を革靴の音が叩く。
未来機関の建物の中といえども、廊下の空気は冷え切っていた。倦怠感が、密やかに染みてくる。
先ほど小会議室の一つで、一人の人間の処分が決定された。機関の資産の横領をしていたのだ。日向が証拠を見つけたのは偶然で、証人として呼ばれていた。
一人の人間の野心の終わり。のっぺりとした顔、せせら笑う声が目と耳にこびりついている。日向は、未来機関の旧勢力だの、新勢力だの権力争いには興味がない。だが、胸の奥が波立った。心の奥底に蓋をしたはずの無謀な正義感と無為感が、身の内で疼く。どこかで味わったことがあるような、言葉にし難い激しい情動だ。ほんの少し気が重い。
何を感じたとしても今は、できることを少しずつやるしかない。無駄に時間を取られてしまった。このあとは、少し残業か。
日向が小さく息を吐いた瞬間、襲われた。背後から身体に腕が巻き付く。
「なにを」
瞬く間に、口を塞がれる。そのまま身体を引かれて、応接室に引き摺り込まれる。両手をばたつかせるも、ガッチリ回った腕はぴくりとも動かない。無情にも応接室の扉はバタンと音を立てて閉まった。
ひっきりなしに心臓が音を立てている。背筋が凍る。
絶望の残党の敵襲か? 相手の武器は何だ? 背丈は、俺と同じくらいか?
最近、前線に行くことなんてめっきり減っていた。だからこそ、忘れていた。忘れてはいけない光景が、ほんの少し風化してしまっていた。唐突に振りまかれる凄惨な事象と、悪意。その脅威を、どうして忘れてしまっていたのだろう。時とは残酷なものだ。簡単に記憶の隅に追いやれる、自分自身にすら寒気を覚えてしまう。絶望という大地の病はまだ根絶していないというのに。
なんて、迂闊なんだ。
ぞわり。
肌があわ立つ。息が詰まる。
生き残れ。生き残らなくてはならない。どうする
……
今の俺に何ができる。
「ひーなーたクン。ボクだよ」
耳元で穏やかな声がした。
耳慣れた声。あの男しかいない。肩の力が抜ける。緊張が霧散した。
なんだよ、お前かよ。
思わず、舌打ちをしていた。噴き上がる安堵と、振り回されたことによる疲労、それとほんの少しの八つ当たりに似た怒り。日向を拘束する力がふっと緩んだ瞬間、身体を捻り抜け出した。
日向は腹に力を込め、男を見やった。
「何するんだよ、狛枝! 死んだかと思っただろ!」
「ごめん、怒った?」
男がふふっと空気を吐く。形の良い唇が薄くめくれる。薄灰の瞳は、楽しそうに歪んだ。
「やっていいことと、悪いことぐらいわからないか? 他の人間にあんなことしてみろ。見られてみろよ。どうなるかわかるだろ」
「だって、日向クン呼んでも気がついてくれなかったから」
「あのな、もっとちゃんと呼べよ。それくらいできるだろ」
拳を握り、叫ぶ。一体何年この男に振り回されたら気が済むのだろう。こんな男が恋人だなんて、人生間違っている。
狛枝が静かに人差し指を立てた。
「日向クン、静かに。隣の部屋、地域交流部門が外部との懇親会やってるよ」
大きく息を吸い込み、深く吐き出す。八つ当たりのような怒りはすぅと、空気に溶けていく。いちいち怒っても仕方がない。この男はいつも唐突だ。長い付き合いの中で、もう慣れている。
視線をあげると、細められた薄灰とぶつかった。
「そうは言っても日向クンはさ、こうでもしないと寄り道してくれないでしょ。仕事が残ってるとかつまらないこと言っちゃってさ」
「で、狛枝にはつまらないけど大事な業務より、素晴らしいことでもあるのか?」
「いや、あのさ。日向クンには、そろそろボクがいるかなって思っちゃったんだよね」
「思っちゃったって
……
」
言葉を切る。不意に会議室に視線を走らせる。当然、日向と狛枝以外誰もいなかった。電気も入っていないこの部屋を、午後の穏やかな冬の光だけが照らしている。静かで、この時間誰も邪魔立ての入らない場所。日向は、やれやれと肩をすくめた。
「そう言いながら、実はお前が俺にかまって欲しかっただけだろ」
「あれ、ばれた?」
「あのなぁ」
「でも、少しは息抜きになったでしょ」
狛枝がとんとんと、自分の頬を指先で指した。
つられるように、頬に手をやる。
指先に触れる感触は硬い。久しぶりに、心のままに表情を作ったのか。
「不運だったね。偶然碌でもない証拠を見つけちゃうなんてさ。日向クン、最近ずっと酷い顔してたよ。学級裁判で、犯人を察しちゃった時の顔みたいでさ」
「おい
……
嫌な言い方はやめろよ」
「放っておけばいいのに、日向クンのなぁなぁにして逃げないところ
……
いや、違うな。逃げられないところ、かな。自罰的で、かわいそうで、キミらしくてボクは結構好きだけど、まぁさみしかったよ。一緒に眠りたくて大きなベッドにしたのに、日向クン全然入ってきてくれないし」
言葉が詰まった。思考が乱れる。急に甘くなるのには、慣れていない。狛枝の手が、上からするりと日向の両腕を撫でていく。
「日向クンが息抜き上手じゃないのはわかってるけどさ、たまには、ね」
狛枝は日向に身体を向けて、手を大きく開いた。
緊張で渇いた喉に、唾を送る。癖で周りを見渡せば、目の前の男に小さく笑われた。
大きく広げられた狛枝の腕の中に、そっと身を寄せた。背中を抱きしめられる。あたたかい。深く息を吐けていた。先ほどまでの凍えた空気、策略と謀略、人間の際限のない欲望と愚かしさ。それが遠くなる。大人になって、人間の冷酷で身勝手で信じ難い面に触れることが多くなってしまった。でも、だからこそ、この個人を見つめて差し出された、ささやかで得難い情のあたたかさを忘れたくないと思う。
与え方が下手くそで、だけど彼らしいふれあいが、身体の芯まで沁みてくる。ただ、職場でこういうことをするのは、彼らしくない。ほぐれていく筋肉と思考の糸が、色褪せつつも残っていた一つの光景を引き摺り出した。
「
……
昨日、小泉たちに囲まれてたな。何か吹き込まれたんだろ」
「あれ、見てたの?」
「そりゃ、目に入るに決まってるだろ。
……
一応、お前の隣にいるのは、俺だろ」
狛枝の肩越しに、日向は白い壁に視線を向けた。何を話していたかまでは知らない。だけど、気には、する。してしまう。
「そうだね。うーん。半分正解、かな」
「半分? あとは?」
「あとは、ボクが日向クンと話したかったから」
「ふーん、で? 何の話してたんだ」
「気になる?」
ほんの少し身体が離れて、薄灰が覗き込んでくる。薄い唇が愉快そうに歪む。日向は、狛枝から視線を逸らし唇を尖らせた。
「まぁ、少しは」
「恋人甲斐の話」
「なんだそれ」
口元が引き攣る。瞬きを繰り返す。
狛枝は何も答えず、穏やかに笑んだ。日向に再びそっと身を寄せる。白い指先が、するりと日向の頬を撫でた。普段職場での言動からは想像できない、優しい手つきだ。
「なぁ、狛枝」
じわりと汗が滲むのがわかる。頬が熱を持って、居心地が悪い。が、決して悪いものではない。それくらい分かっている。けれど、未だに慣れないものだ。
日向が半歩後ずさると、もう片方の硬い腕にぐっと腰を引き寄せられた。
たたらをふんだその先で、唇が重なった。
優しく重ねるだけの、幼くてくすぐったくなるようなキスだ。
冷え切っていた唇が、あたたかな温度に染まっていく。触れる柔らかさ、熱が心地よくて何もかもが飛ぶ。何度か同じように、角度を変えながら幼く唇を重ねる。ただそれだけなのに、心地がいい。日向は、目の前の体躯に身体を預けて、惚けていた。
「こまっ、
……
んっ」
空気を求めて薄く開いた唇に、ぬるりと舌が割って入る。他人の熱が歯列を割り、奥に縮こまった舌と絡んだ。
ぞくりとする。甘美で身を震わせるような背徳感に、身体の芯がぐずぐずに溶け落ちそうになる。くらりと目眩がした。
視界を、ホワイトボードが反射する白い光が焼く。
反射的に、目の前の身体を強く押していた。
「おっと」
「なに、すんだよ!」
日向は拳を握り、眉を吊り上げた。
「あはっ、ごめんね。日向クンがあんまり気持ち良さそうだから、ついやっちゃった」
狛枝は、片手をひらりと振りけろりと笑む。反省も、後悔もないすっきりとした顔だ。
ふつふつとした衝動が、身体の奥底から湧き上がる。己の感情の豊かさと、波の大きさに自分でも驚いてしまう。
「やっちゃうなよ! それに、あれは
……
お前のせいだろ」
「うん、日向クンが職場でもえっちな気持ちになっちゃうくらい条件付けされちゃったのは、ボクのせいだね」
「もういい、知るか! 俺は先に帰るからな」
「日向クンつれないなぁ、もうちょっとゆっくりしようよ。せっかくニ人きりになれたのに」
「お前に構ってゆっくりしてたら、仕事が終わらないんだ。じゃあな」
ドアを開き、外に出る。背後からふふっと忍び笑いが聞こえたが、日向は構わず大きく足を踏み出した。バタンとドアが閉まる音と共に、静寂が身を包む。
昼光色で溢れる廊下を歩んでいく。
その足取りは、先ほどと打って変わり軽い。
はっとする。まったく、わかりにくい男だ。
明日も仕事に変わりはない。だが、今日ぐらいは冷えた身体で同じベッドに潜り込んでやってもいいだろう。
日向は口元に笑みを浮かべ、深く息を吸う。冷たい風を切り、そのまま力強く歩みを進めた。
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