ひなげし
2026-01-03 17:57:32
5416文字
Public 狛日
 

眠るまで、そばに

本予備(育計軸)卒業後/狛日
第78回狛日版週ドロライ「誕生日」「特別(微量)」
誕生日に発熱してしまった日向くんを看病する狛枝と、冷たい記憶を振り払い、欲しいものを欲しいとねだる日向くんの話。
第77回「クリスマス」の「名付けられないままの箱」二人と同じ軸の二人です。

ドン、ドンと遠くで音が響く。
低く響いてくる微かな音だ。スマートフォンのアラームのように、定期的な感覚で空気が震えている。なんの音かまではわからない。だけど揺らいでいた意識を叩くには十分だった。
日向はそっと目を開けた。
まぶしい。
気分が悪い。
吐く息が熱い。頭部から下、全てが燃えるように熱かった。目を開けた瞬間、情報の洪水が日向を襲う。ぐらりとくる眩暈に、再び身体が深い泥沼に沈むような感覚がした。
ぞっとする。
苦しい? 吐きそう? もうあんなのは、いやだ。
真っ白な皺のないシーツに、消毒液の匂い。まっすぐな血管を探して、何度も何度も刺される針。点滴筒へとつとつと落ちていく薬液の雫。視界の端で明滅する昼白色の電球。自我をぬるりと無意識に溶かしていく感覚は、二度と慣れるものではない。無様で、惨く、恐ろしい。
ちがう。ちがう。
日向は身震いを一つし、唇を強くかみしめた。これが夢想であり、現実でないことは嫌でも知っている。己の惨たらしく、恐ろしく、愚かな夢は、途中で凍結されたが故に叶わなかったのだ。
この身は無事だった。小さくなってしまっていた、才能なんてなくても俺は俺なんだとすすり泣く声も、生きたいと望む想いも、今はちゃんと聞こえている。
だから、おちつけ。れいせいになれ。これはまぼろしだ。
深く息を吸う。人工的な甘い電解質溶液の香りが鼻につく。燃えるように熱い手の甲を、慣れた手触りの毛布が撫でた。そっと一つずつ、現実を触り確かめる。肺に溜めていた空気を、口からゆっくりと吐き出す。
だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶなんだ。ここは、おれのいえ。おれだけのへや。
じわりと吹き出る汗と、鈍い頭痛にもぞりともがき、息を吐く。あつい。とにかく、あつい。
ふと、誰かが身じろぎする気配がした。
は? 誰か?
ひやりとしたものが首筋に触れた。身体を炙るような炎が揺らぐ。ほんの少し息がしやすくなる。ここちがいい。目を閉じ、ゆるりと身体を弛緩させる。
耳慣れた音が空気を小さく揺らし、仄かに笑った。
「来てくれるって言ったのに、うそつきだなぁ」
薄く目を開ける。
やっぱり、まぶしい。
日向の部屋は、自分で選んだ電球色の光が満ちていた。見慣れたシーリングライトの光を割って、薄灰が弧を描く。
「こまえだ?」
「うん。きちゃった。おはよう日向クン」
日向を上から覗き込んでいた男が、瞳だけでにこりと微笑む。口元には不織布マスクを二枚重ねられていた。親にも渡していない合鍵を、唯一渡した人間がそこにいた。
「おは、よう」
ひゅっ。喉が鳴き、強く咳き込む。軽く数度咳き込んだだけなのに、喉がひりつくような痛みを訴えた。
無言でストローキャップのついたボトルが渡される。電解質に近い清涼飲料水が、身体の隅々まで染みていく。常温なのに冷たく、身を焼いていた揺らめく炎が引いていくようだった。
「まぁ、おはようとはいっても、もう夜だけどね。苦しくない? 大丈夫?」
「ああ」
癖で頷いてしまった。無理やり飲まされた名前も知らない薬の副作用のように頭は痛いし、出したくもないのに咳は出る。まったく大丈夫でもない。この男の癖のある言葉の中に疼く想いを、より一層汲み取れる余裕はない。こんな状態を、大丈夫と言っていいものではない。
ああ、いや、違うなとひとりごちる。
思ったより、苦しくはない。先ほど見ていたものが、悪夢だとわかっただけ心は自由だ。おれはおれだと、言える。それが何よりも尊く、自由で心地の良いことか。
ふわりと浮上した気持ちに後押しされて、視界を巡らせる。テレビとソファの間の床の上だ。見慣れない場所で、見慣れた布団に寝かされている。後ろにはベッドがあるはずなのに。わけがわからない。瞬きを数回続けていると、狛枝はああ、と呟き、手をひらりとふった。
「ボクが来た時、日向クンソファに寝てたんだよ。これでも頑張ったほうじゃない?」
「ありがと、な」
「どういたしまして」
狛枝が白い顔をゆるりと緩める。見上げる顔を後ろから照らす青白い光が、パッと一瞬だけ華やいだ。
「あけまして、おめでとうございまーす」
ドン、ドドン。ごーん。
明るいアナウンサーの声を掻き消すように、音が追いかける。ようやく最初に聞いた音の正体がわかった。太鼓と、除夜の鐘の音だ。しかし、朦朧とした意識の中で、日向がテレビから聞き取れたのは最初の年越しの挨拶だけだった。
己の知っている日付から一日がすぎている。年末三十日のバイトを終えて、帰ってきてからの記憶が一切ない。大晦日と元旦は無理を言ってバイトを空けていた。
約束。そうだ、約束だ。
“キミの誕生日、誘ったら来てくれる?”
たったそれだけのささやかな約束だ。ささやかな願いの裏にこの男にとって何かの願掛けがあったのか、わからない。緊張に潤み強い光を帯びた薄灰。手に跡が残りそうなほど強く絡む高い体温。意志を宿した薄い唇。ああ、俺は、結局、彼の望みを叶えてやれなかった。
ほんのりと疼く無為感を吸い込み、視線を日向の布団の側に座り込む男に向ける。
「こまえだ」
渇いた喉で、名前を呼ぶ。
「どうかした?」
「おまえのせいじゃ、ないぞ」
「わかってるよ。日向クンの発熱に……ボクの幸運なんて関係ない。浮かれた人間が多いシーズンに、バイトを詰めすぎて自己管理まで疎かにしちゃった日向クンのせいだもんね」
「ああ、そうだ。……やくそく、まもれなくて」
「日向クン、誕生日おめでとう」
狛枝はほんの少し布団ににじりより、そっとつぶやいた。
……ああ。ありがとな」
静かで染み入った表情の狛枝を見つめながら、日向は細い声で応えた。
胸に疼いていた無為感は、綺麗に消えていた。特別コイツが喜ぶような大きなことも、約束も果たせなかったけれど、これで十分な気がした。たぶん、また誘えば考えてくれる。好意の押し付けでもなく、策略でも損得でもなく、不運でも幸運でもない。ただの日常の一つとしてこの男と過ごせていることが、なんと素敵で輝かしく満たされることか。ようやくわかった気がする。
「せっかくの誕生日だしケーキといきたいところだけどさ、日向クンには飲んで欲しい薬があるから遅いけど少し先に何か食べようか」
「くすり? そんなもの、このへやにあったか? もしかして、かってきてくれたのか?」
「ああ、病院の先生に往診に来てもらったんだよ。今流行ってるインフルエンザだってさ。原因がわかってよかったね」
思考が飛んだ。
往診? 金は? 保険資格証は? 手続きは? 年明けに賃貸の更新が来るはずだ。今、俺は一体いくら持っているんだ?
何一つ覚えていない。思わず、うめいていた。
「いいわけあるか。こまえだ、おれのへやかってにあさっただろ。おかげで、ちらかってるし。そもそもびょういん、いくらしたんだよ」
視線をさっと室内に走らせる。布団のせいで、ソファの側面に並ぶように押しやられたローテーブルの上に、白い紙が重なっている。身体を起こそうとすると、肩を上から押さえつけられた。
「あれ、もしかして怒った? 掃除得意だし一緒に片付けるから、そんなに怒らないでよ」
「そうじゃなくて」
ちりりと喉が焼ける。反射で身体が曲がるほど、強く咳きこんだ。
「往診に来てくれたのはボクがいつもお世話になってる先生で、料金はボクがもう払っちゃった。何度声をかけても日向クン、ちっとも起きてくれなかったんだから。だから、ボクが不安で、ボクが安心をお金で買ったんだ。それなら、ボクが支払うのは当然だよね。でも、誕生日のプレゼントがこんなものじゃ虚しいと思わない? 他にほしいものはあるかな?」
欲しいもの? 急に言われても、わからない。
今までの誕生日、この男は勝手にプレゼントを見繕って持ってきた。びっくりするほど高いマフラー。日向の家に来る時、商店街で当ててしまった、日持ちしない高級カニやエビ。ちぐはぐで的外れで、たが彼らしいプレゼントに、日向は何度色んな種類の笑みを浮かべたかわからない。だから、狛枝らしくない動きに一瞬止まる。
ただ熱くて、だるくて、何も考えられない。それなのに自分の内海に触れろだなんて、めんどくさいことをなぜ、今しなくてはいけないんだ。空気の読めないお前が、ほんの少し腹立たしい。八つ当たりのような気持ちを自覚する。祝ってくれようとするささやかな善意に対して、とんだ傲慢、我儘だ。
ああ、もう、これだから病気は嫌なんだ。
隣人からお金も、善意も、ささやかな思い遣りも与えられて恵まれているというのに、心がままならなくなってしまう。自分がとんでもなく性格の悪い人間であることを突きつけられるみたいで、嫌になる。いつもより気持ちの揺れがおおきい。それが、意外にも辛い。
意識して、肺を絞り出すように深く息を吐き出す。暑さの中に、ほんの少しだけ涼が理性を運んでくる。
日向は、ゆるく首を横に振った。
「なあ、さっきは、おこってわるかった」
「安心してよ、そんなのボクは気にしてないよ。そんなことよりさ、ボクが知りたいのは日向クンにもっと何かできたり、与えられるものはないのかってことなんだけど……
「いい、じゅうぶんだ。たぶん、もらいすぎぐらいだぞ」
狛枝は眉を寄せる。それから、さも残念そうにため息をついた。
「あーあ、キミってほんとに与え甲斐がないんだから」
狛枝は肩を落とし、散歩帰りに雨に降られた犬のような顔になる。あまりな落ち込み様に、ぐるりと胸の中がかき混ぜられるような違和感が襲う。
いや、他に何かあるな。
予感だった。高校在学ほぼ三年、卒業後大学までついてきて四年。片手で数えきれなくなってきた付き合いの年数を重ねた故生まれる、確信に近い予感。ぱたぱた動く狛枝を、上から下へつぶさに見つめる。辿り着いた答えに、日向は唇の端を上げた。
「おまえのそのコートのポケットのなかみ。それ、くれるか?」
ぴくり。狛枝の身体が固まった。
狛枝の深緑色のコートのポケットが、手のひら大に四角く不自然に膨れていた。この男は、クリスマスのプレゼントと同じ色の贈り物を忍ばせている。そう咄嗟に思った。思考力も観察力も発熱で底辺だ。だが、かけてもいい。
俺は、お前の空気の読めないお前らしいプレゼントをかなり気に入っている。
「このあいだのこと、きにしたのか? おれは、おまえがくれるのなら、なんだって。すうだんとばしでおもたいものもってきても、うけとってやるよ。くうきがよめてなくても、うけとってやる。わらってやる。だから、にげるなよ」
狛枝が瞬きする。
そして、あたたかみのある穏やかで、愉快さを隠そうともしない笑みを浮かべた。
……あはっ、もちろん。日向クンこそ逃げないでね」
「ああ。キスのひとつぐらい、おれからしてやるよ」
「へぇ、はめを外すには中途半端に理性が邪魔しちゃって、言い出した途端に恥ずかしくなるキミが? 一体どこにしてくれるんだろうね? それは、すごくたのしみだなぁ……!」
ぐちゃぐちゃと呟く男を見て、ほっと身体の力が抜けていく。ゆだった頭が拾える意味が途切れ途切れで、ここちがいい。子守唄のようだった。
「こまえだ」
名前を呼ぶと、狛枝はぴたりと口を閉じた。興奮じみた色も、揶揄の色もめっきりと消えていた。狛枝の気配が少し強張った。
なんだ、緊張している? この男が? 俺のせいで? ここまで来て?
ほんの少し愉快だ。口角が上がってしまう。
「なあ、ほしいものがっ」
ごほっ。ひゅーっ、ふぅーっ。
身体を折る。咄嗟に毛布で口元を覆った。光が遮られ、影に包まれる。布をする音がする。分厚い布団の山越しに、そっと撫でられていた。
静かで戸惑うような光が、日向を見つめている。日向の言葉を待っていた。
「もう、ひとつあるんだ」
「なにかな?」
「おれがねるまで、そばにいてくれ。ねつがあるときに、ねむるのがすこしにがてなんだ」
布団から出した、左手の甲を見つめる。ここには、もう針の跡は残っていない。痛みもない。“今“を撫でながら、そっと息を吐く。
「いいよ。特別におはようも言ってあげる。……もっと、はやくそう言ってくれればよかったのにね」
狛枝が俯き、言葉を詰まらせた。床に置いてあったビニール袋を、白い手が引き寄せる。
「こまえだ。おまえがいてくれて、よかった」
「ボクも、日向クンがいてくれてよかった。キミが、キミでよかった。……そう思うよ、心からね」
心からの贈り物だ。
狛枝から出てくる言葉にしては、ずいぶん柔らかく、あたたかい。正面から受け止めるには、くすぐったいものでもある。
がさりと音が鳴った。二十四時間開いている、家から一番近いコンビニの袋だ。狛枝は中からプリンを取り出した。年末年始の特需の中、何もかも売れてそれでも残っていたのであろう。それは、特別安くもなく、特別高いというわけでもない。ただなめらかさを売りにしたシンプルなものだ。なぜか胸が詰まる。
相手を見つめる。不織布に半分隠れた顔の、全てはわからない。だけど、きっと薄灰に映る自分と、同じような顔をしていた。
蓋がぺりっと剥がれる音がする。
差し出される黄色の塊を、日向は口を開けて素直に待った。