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ひなげし
2025-10-25 16:51:06
9791文字
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狛日
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薄明のふたり③
本予備/狛日
学費のために自分を安売りして傷つけている日向と、そんな日向を見てぐちゃぐちゃになりながらも唯一の友達に手を伸ばす狛枝の話
③日常への帰還と、“愛の言語”の獲得
早足で階段を駆け降りる。
間に合うだろうか。いいや、急げばまだ間に合う。
店の裏手の扉を、勢いよく押し開ける。晩秋の夜の冷たい風が、吹きつけてくる。身をすくめて、身体を震わせる。ああ、こんなことをしている場合じゃない。急がないと。
駆け出して店の正面に回る。真っ白の揺らめく髪を色とりどりのネオンに煌めかせ、チャコールグレーのチェスターコートを身にまとった男が、ぼんやりと店舗の前に立っていた。
「狛枝」
呼びかけると、狛枝は目を丸くして振り返った。
「あれ、日向クン。もしかして、付き合ってくれるの?」
「何言ってるんだよ。俺のアフターを買ったのはお前だろ」
「あはっ、そうだったね。じゃあ、今からどこに行こうか?」
「狛枝は行きたいところ、ないのか?」
「うーん、そこまで考えたことなかったんだよね」
狛枝は腕を組んで、ふぅ、と息を吐く。
「買っておいてそれか」
「だって、初めてなんだ。友達と遊びに行くの」
ほんのりと上気した白い頬が上がる。
日向は、小さく咳払いをして人差し指を立てた。
「じゃあ、駅前にあるラーメン屋に行こう」
「ラーメン屋?」
「前食べた時美味しかったんだ。
……
本当はチャーシューと煮卵追加したかったんだけど」
「なるほどね。お腹いっぱいになるまで好きに頼みなよ」
「悪いな」
狛枝はひょいと肩をすくめた。
「すてきなキャストさんとのデートを買ったんだからそれくらいはね」
「
……
じゃあ、行こう」
並んで夜の街を歩き出す。雑踏の中を、慣れ親しみはじめたペースで歩く。さっきまで、あんなに店内の人の波と人の声が不快だったのに、いつのまにか心が凪いでいた。雑踏の音、外の冷たさや、隣の男の立てる足音に、安堵するのがわかる。
「それにしてもさ」
そう呟いた狛枝の声を落とさないように、日向はそっと彼に身体を寄せた。
「ラーメン屋なんて、その程度で済んじゃうんだからキミって安いよね。もっと何かないの? 回らない寿司とか、ステーキとかさ」
日向は一息つき、隣に並ぶ男の名前を呼んだ。
「狛枝。お前なぁ、前から気になってたんだけどな」
「うん」
「それは無意識か? 嫌な言い方はやめろ。言っていい言葉と悪い言葉があるだろ」
「あれ、どこかおかしいところでもあるの?」
「ある。大アリだ! お前がわからなくて頭が痛くなってくる。なあ、お前は俺を貶したいのか、慰めたいのかどっちなんだ」
灰色の瞳を覗き込む。指を立てて、突きつけた。
自分自身大人気なく、結んだ唇が尖っているのがわかる。彼を前にしていると、たまにままならなくなる。まるで、不貞腐れた子どもみたいだ。
「言葉の使い方そんなに間違ってた? せっかくだから、日向クンにいいのを食べさせてあげたいって思っただけだけど。変なことかな?」
首を傾げた狛枝が、瞬きを繰り返す。
狛枝の触り心地の悪い言葉に内包されていたものは、無垢で、純粋で、利己的な愛のようなものだった。だけど、人間はそこにあるものをそのまま見てしまう。不快な思いをしてまで、見たくないものの中身を捉えに行くことはない。
「
……
その気持ちは変じゃない。知ることができて、俺は少し
……
嬉しい。だけど、詳しく言ってくれなきゃわからなかった。正しく伝わらなかったら意味がないだろ」
「
……
意味、ね」
「俺は今、お前と普通なものを一緒に食べたい。今日は身の丈に合わないものは、こりごりだ。きっと、今食べても美味しいって思えない。たぶん、お前がジンさんにコーヒーを頼まないのと同じ理由だ」
非日常は今日はもう腹一杯だった。淡々とくりかえされる穏やかな日常に帰りたかった。誰かと共に、生活するのに現実的な金額の、どこにでもあるようなご飯を食べたかった。日常の象徴に触れたかった。触れて、自分の色を取り戻したかったのだ。
たぶん、狛枝もそうだろう。彼に毎回コーヒーを淹れるようにねだられることは、きっと自惚れではない。
「あはっ、なるほどね。それならボクにもわかるよ」
「そうか。それはいいことだな」
「同感」
「ほら、着いたぞ」
くすくすと笑う狛枝の声を聞きながら、日向は目的地の扉を横に開く。深い魚介の香りがぶつかった。
店内は二十時をすぎたばかりで、いまだに人でごった返していた。回転を売りにしているからか、二人で並んでカウンター席に着いた瞬間、あらかじめ半券を提出しておいたメニューが二人の目の前に置かれる。
魚介スープのラーメンからあたたかな湯気がふわりと立ち上り、日向の頬を撫でた。つけ麺を前にした狛枝が伺うように向ける視線と、視線が絡む。
「食うか」
「うん」
「いただきます」
声が重なり、箸に手をつける。
麺を音を立ててすすり、スープを飲み下す。口の中に残っていたあまったるい香りが、胃の奥に押し流されていく。ラーメンの濃い味が、じんわりと身に染みる。
レンゲを片手に、ほっと息をついていた。
ああ、おいしい。
不思議な感覚だった。身体の隅々まで力が入っていく。カラカラの土が数日ぶりに水を含むみたいな、命が蘇生されていくような感覚。鮮やかに色づく視界の中で、一番に隣で太めの麺を小さく啜る男の顔が見えた。
「なに? 食べにくいんだけど」
狛枝が啜っている麺から、顔もあげずに言った。
「
……
なぁ、どうして気がついたんだ」
狛枝の横顔につぶやく。いつのまにか彼の顔を見つめていたことも、口から滑り落ちた言葉も、無意識だった。
狛枝の動きが一瞬止まる。
「ジンさんの喫茶店の帰りで偶然見つけたんだ、ただそれだけ」
「どうして、放っておかなかったんだ?」
狛枝が箸に持っていた麺をスープの中に落とし、視線を空にさまよわせた。
「どうしてって
……
。最初にボクのことを放っておかなかったのはキミだよね。それにまあ、キミに共感はできるのは本当だしさ」
「共感?」
「才能もない、なんの生産性もないクズであったとしても、自分に価値を求めてしまう傲慢で愚かで、それでもあらがえないどうしようもない衝動を持っているところ、とかね」
「相変わらずお前は、何を言ってるかわからないな。今、一瞬ラーメンの味がしなくなったぞ」
口の端がぴくりと痙攣する。
汗をかき始めたグラスに手を伸ばして、水を飲む。
穏やかな声、穏やかな表情だった。それなのに、狛枝の唇から溢れる言葉は、性質が全く正反対だ。言葉が強すぎて、うまく飲み下せない。
同族嫌悪を向けられていると一瞬身構えたが、彼が纏う雰囲気はあまりにも優しい。嫌われているわけでも、憎まれているわけでもないだろう。
視線を落とし、思考に潜りこむ。そんな日向を見て、狛枝はそっと長い息を吐いて箸を置いた。
「キミに合わせて、もっと簡単に話すよ。これは、きっと単純な話なんだ」
「単純?」
「自分で自分を破滅に追いやろうとしてるキミに自覚してもらいたかっただけ。ボクと友達になったんだよね。あの言葉は嘘だった? ボクと友達を続けるのは嫌になっちゃった?」
狛枝の灰色の瞳が日向に向けられる。
「違う。俺は、お前と友達だ」
間髪入れずに答えていた。
「そう、よかった。じゃあこれからも気をつけてほしいな。前にも言ったと思うけど、ボクの幸運は大切なものから奪っていくからさ」
日向の眼差しが少し眩しいというように、狛枝は目を細め、視線を落とす。
「不思議な話なんだけど、キミが傷つくのを見るのはあまり嬉しくないんだ。
……
やけになっちゃった無謀な友達のために、できることをしたかった。つまりこれはただ、ボクのエゴってことになるんじゃないかな」
狛枝の口から、何度目かの吐息がこぼれた。
日向は言葉を失っていた。
驚く。ただ、驚いていた。
狛枝が差し出した感情は、酷くあたたかい。
あたたかいお湯に浸るあの充足感、心地よさを覚える。この感覚が、己の身体の何を満たして生まれるのかまではわからない。
日向は、泣きたいようにも、笑いたいようにも、くすぐったくて身体を掻きむしりたいようにも思える。
不思議な気分だ。
尊くて、あたたかくて、眩しい。
包み隠されずに差し出された真の心。この心に応えられるものはなんだろう。
「
……
いつか。いつか、お前に話してみたいことがある。それが、たとえお前のエゴであったとしても、多分お前が今日俺に差し出したものに応えるものだと思うから」
ため息と共に言葉が溢れた。
「俺を見つけてくれたお前なら
……
お前にしか、たぶんわかってくれるヤツはいないんだろうな。
……
いや、お前でさえもわかってくれないかもしれない。だけど、俺の無念。俺の後悔。俺の傲慢さ。そして、俺の未来について。お前がお前の幸運について話してきたときみたいに、俺もいつか、お前に話してみたいと思う」
自分に振り回されずに、向き合えるようになった時、恐れずに話してみたい。
狛枝が心のうちを開き、彼の過去と思想と真心を日向に明かして、日向にほんの少しの理解を求めたように。
今、自分でも掴めていないこの感情を、いつの日かお前にも触れて欲しい。焦がれるように思う。
見て欲しい。触れて欲しい。受け入れて欲しい。
そう、他の誰でもないお前に。
「そう。日向クンが話したいって思うなら聴いてあげないこともないよ。でもさ、別に話すことだけが誠意なんてことはないんじゃない?」
「まあ、俺の話に意味なんてないかもしれないけど」
「はぁ
……
キミがそんなこと言うなんて珍しいな。話すことにも、話さない事にもきっと意味はあるんじゃないかな。日向クンらしくないよ。関わり続けることで何か変わるかもしれない。
……
だから諦めたくない。無謀とも言えるし、勇気があるとも言える。キミはそういう人だ。うっかりボクが感心を覚えちゃうくらいにはね。ねぇ、そうでしょ? 他人への──ボクへの理解は諦めたくないくせに、自分のことは簡単に諦めてどうするのさ」
狛枝がふんと鼻を鳴らして、ほんの少しまなじりを釣り上げた。挑むような眼差しと強めの語調は、縮こまっていた日向の背中を強く押す。
「ああ、そうだな。
……
お前の言う通りだ。諦めちゃ、だめだよな。すこしくらい、自分を誇っても
……
いいよな」
身体中に力が満ちてくる。力を抜いていた指先に、力を込めて箸を握る。
自分の偽りのない心に触れ、他人と分かち合う。他人と触れ合い、自分の心に触れる。そこにどんな結果が生まれようとも、きっと意味はある。そうだよな。信じていいよな。
日向を見つめていた狛枝は、目を閉じ肩から力を抜く。そして、一度も飲んでいなかった水を飲み干した。
駅までの道を並んで歩く。
「送ってくれなくてもいいのに。ボク一人でも帰れるよ? 子どもじゃないんだしさ」
「いや、そのぐらいは言われなくてもわかるぞ。だけど、なんだろうな」
日向は自分の胸を押さえる。
離れがたい。
ぱっと思いついたその一言を飲み込み、唇を結ぶ。なぜだか、言いたくなかった。
無秩序にざわめく人並みに、危なっかしくふらつく細い身体。揺れる白い手を見た瞬間、思わず手を重ねて引いていた。
狛枝は薄く笑い、首を傾げた。
「
……
どうしたの?」
「あ、えっと」
完全に無意識だった。理性じゃなく、感覚で、本能で動いていた。心が急く。
「ほ、ほんとうは、アフターの中でキャストも客の払った価値に、応える必要があるんだ。プレゼントとかそういうのが一般的で。ただ、それができなかった時に差し出したらいいって言われたのが」
「これってこと?」
「あ、ああ」
首の後ろをそっと擦る。口から出た言葉は、嘘ではない。けれど、本意でもなかった。
狛枝が立ち止まり、あからさまなため息を吐き出す。
「
……
キミ、色恋営業向いてないよ」
「え」
「向いてないよ」
「
……
そうか?」
「うん」
狛枝の口調が固い。合わない視線に、じわりと汗が滲む。慌てて手を離し、手をひらひらと振った。
「その
……
悪かった
……
嫌に、なったか?」
「
……
別に。だけど、いい大人に騙されやすそうで心配になっちゃうかな」
狛枝が顔を上げ、ふっと軽い笑い声を出した。
「それは
……
否定できないな」
「だけど、日向クンのと、友達としてなら
……
はい」
白い左手が、差し出された。
日向は瞬き繰り返し、狛枝を見やる。
瞬きしない灰色の瞳が、じっと見つめてくる。唇がきゅっと結ばれている。白い手が微かに震えていた。
はやく、はやく握ってよ。
頼れば応えてくれる。母親が無条件に注ぐ愛を知っている子どものような、そんな顔だった。
「ははっ、そうだな」
手を重ねれば、すぐさま握られた。見かけによらず力強い。ぐちゃぐちゃに溶けてなくなりそうだった自分の形が、彼の手によってはっきりと日向創という人間の形に整えられていく。
ああ、そうだ。自分はこんな形をしていたんだっけな。
今は狛枝の下手くそな力加減が、むしろ心地よかった。
狛枝に手を引かれて歩き出す。人の流れに沿って流れるように歩いていく。
駅の改札が見えてきた。もう少しで離れなくてはいけない。
狛枝がぽつりとあのさ、とつぶやいた。
「ねぇ、ボクにこんなことするってことは
……
まだあの店続けるつもりなの?」
じわりと苦いものが上がってくる。意識して深く息を吐いた。呼吸が少し苦しい。
忘れていた現実にそっと触れる。ついこの間まで、揺るぎなく自分の未来になるはずで手にしていたものがあっけなくなくなった。遠のいた、徒労からの解放と、理想。生まれて何度も味わった喪失感は、未だに日向の心と身体に残響を残している。
だけど、それでも生きていかなくてはいけない。
たった一夜、彼から与えられた愛のようなあたたかさは常にあるものではない。それぐらい、知っている。痛いほどに。
それでも、このあたたかさと、彼が日向に向ける視線は、夜の荒野をゆく篝火になるだろう。
日向は静かに目を閉じた。
「続けなきゃ、いけないだろうな。嫌なんだと知った上で続けるのは滑稽なんだろうけど。でも、お前が知ってくれているってだけで、少しは気が楽になった。ありがとな」
先程まで穏やかだった白い顔が、妙に歪んで見えた。狛枝の足が、再び止まる。
「狛枝?」
白い顔を覗き見る。整った顔の筋肉が、わずかに強張っていた。
「あのさ。ボクが日向クンを買うよ」
狛枝の言葉が、真っ直ぐに届いてきた。
動けなくなった日向の手を、白い手がそっと持ち上げる。
「もちろん、キミの言い値でね。キミがキミでいられる時間を買う。何度でも。ボクなんかが払える対価で、キミを守れるなら喜んで差し出すよ。だから、あの服脱いじゃってよ。何が賢い選択か、キミならわかるよね?」
狛枝の手首を飾っていた細身の時計が、外される。温もりの残った傷のない時計が、日向の手首を締め付けた。
「あとこれも着て帰ってよ」
チャコールグレーのチェスターコートが肩にかけられる。あたたかい。だけど、与えられるものが大きくて胸が詰まる。
「あのな」
「
……
お願い、お願いだよ。日向クン」
乱れた息で、ささやかれる。両手で包むように握られる。焼けるように熱い。白い指が手に食い込んできた。
日向は、言葉を失っていた。
それは祈りだった。
それは執心だった。
身勝手で利己的で、それでいて不器用に他者の幸福を願う、愚かで幼い愛のようなものだった。
日向は、そっと外の冷たい空気を吸い込む。すこしだけ、頭が冷える。目の前にいるのは、自分の知らない男だった。いいや、違う。自分がただ狛枝のことを全く知らなかっただけなのだろう。今日だけで何度、彼に驚かされただろうか。
どくりと、胸が高い音を立てる。くすぐったく、気恥ずかしい。日向は唾を飲み込み、視線を落とす。熱をそのまま伝えてくる、微かに震える白い手を見つめた。
「なあ、コート。
……
脱いでお前寒くないのか? お前の鼻、真っ赤だ」
「うん。それくらい大丈夫だよ」
狛枝の顔がくっと上がる。引き寄せられるように、視線が交わる。意志のこもった瞳だ。
「あとで、コートの内ポケット見て欲しいな。じゃあ、日向クンまたね。節約なんて言ってないで、ちゃんと部屋をあたためてから寝なよ。余計なこと考えないようにさ」
ぱっと手を離される。狛枝がひらりと手を振り、背を向け、眠り方を忘れた夜の街へと駆け出していく。
「あ、おい! コート! どうするんだよ、これ」
人混みと薄闇に向かって、叫ぶ。
風の唸り声に、狛枝の機嫌良さそうに笑う声が混じる。冬前の乾いた寂しい音に似合わない、柔らかさのある忍び笑いだった。
「おやすみ。またね」
その場に一人残される。そのまま、改札前で一人立ち尽くす。
日向は、そっと熱が残るあたたかなコートに身を寄せる。誰かの胸に抱かれ、背を優しく撫で付けられるようだった。今、自分は安心して、息を吐ける場所にいる。
ああ、今日のことへのお礼も、何もかも言い損ねてしまった。
風に流され、わずかに雲が割れた。
薄雲の隙間には、小さな光がある。
太陽が中空近くで輝き、店内は白い光を浴びて柔らかな空気を帯びている。夜とは違い、見慣れた店内はただ食器や器具が触れ合う音しか聞こえない。視線を上げれば、榛色の瞳が、真剣な眼差しを手元に向けている。緑のエプロンが眩しい。
狛枝は、安堵の吐息を吐いていた。
思わず、時間を忘れてしまう。微睡の空間だ。
手元のカップから、ふわりとコーヒーの芳香が立ち上がり、狛枝の鼻を掠める。
ああ、落ち着く。やっと帰ってきた。
そう、唐突に思った。
不思議なものだ。
両親も何もかも失って、血を吸って莫大に肥えただけの金だけがある。自分には帰る場所なんてとっくにないというのに。矛盾した生ぬるい実感に、自然と口元が上がる。
なんだか、おかしい。
床の木材が心地の良い音を立てる。狛枝の側に立った日向が、両手でサンドイッチの乗ったプレートを置いた。たまごのサンドイッチと、ハムとレタスのサンドイッチが身を寄せ合うように並べてある。
「これは?」
「俺の奢りだ」
「奢り? ただで食べていいんだ?」
「こうやって押し付けないとお前、腹減ってないとか言って朝ごはん食べないだろ」
「そうかも。まぁ、お金は払ってあげてもいいよ」
「いい。ジンさんに許可はもらってる。俺の試作のモーニングなんだ。メニューになるかはまぁ、ジンさんの意向に寄るんだが、中途半端なもので客から代金をもらうわけにはいかないだろ?」
「ふぅん、試作
……
ね」
狛枝の視線を避けるように肩をすくめた日向が、そのまま狛枝の隣のカウンターチェアに腰掛ける。カウンターに置かれてあった、中身が半分のコーヒーカップを手に取った。二人並んで、同じコーヒーを嚥下する。
いつもの他愛のないやり取り。コーヒーがあたためる柔らかな空気。朝の洗い立ての光。ああ、なんて愛しく、麗しいのだろう。
「なあ、狛枝」
「どうかした?」
日向がカップを置き、エプロンのポケットを弄る。口元に笑みはない。ぴりっとした空気に、狛枝は夜の残り香を感じた。
「これ
……
」
見覚えのある厚みのある封筒が、目の前に置かれる。
「お前がポケットを見ろって言うから、帰ってから触ったら、入ってた」
「あはっ、クリーニングに出されなくてよかったよ」
「びっくりしたんだからな。
……
なぁ、これ」
「コートも、時計も、それも、“あの店の日向クン“を買った代金のつもりだったんだけどな」
「それにしたって、これは」
日向の手が小さく震えている。封筒の中身は、彼にとってどれだけ苦労しても簡単に手に入らない金額だ。与えられたものの大きさに、怯えるようにさまよう榛色の視線を捕まえて、狛枝は微笑んだ。
「だから、昨日言ったよね。ボクがキミを買うんだってさ。キミが卒業するまでかかる残りの一年分の学費代。ホームページで予備学科の学費を見てきたけどとりあえずこれで最低限は足りるよね」
「こんなの
……
いいや、ここまで受け取れるかよ」
「ううん、受け取ってよ。キミにはその義務がある。だって、これはボクがあの店にいたキミそのものを買った代金なんだから。昨日、キミはボクの支払った対価を受け取った。つまり、昨日ボクはキミがあの店で働く理由ごとキミを買ったんだ。だから、あんなはしたない格好はもうボクの前だけでしかできないってことなんだけど
……
。ボクの言いたいことは伝わる?」
「わかる。
……
いや、わかるけどな」
しばらく考え、苦い顔をした日向がため息を吐き出す。
狛枝は封筒を手に取り、日向のエプロンのポケットへ押し入れた。
「じゃあ、何も問題ないよね。コーヒーお代わりくれる?」
小さく、くつくつと抑えきれなかった笑いが空気を揺らす。顔を上げると、店の端のボックス席に座っているジンが広げた新聞の影で震えていた。
「なにかな、ジンさん」
「ああ、いいや。すごく愛らしいものを見せてもらったんで、思わず、な」
ジンが新聞をたたみ、日向の淹れたコーヒーを一口飲んだ。
空っぽになったカップを置き、狛枝は眉を顰める。そんな狛枝を一瞥し、ジンはやはり密やかに笑った。
「狛枝、前にも言っただろ? もっとわかりやすく素直に言ってやれよって。かわいそうに、日向が困ってるじゃないか。お前は頭がいいんだから、代金だなんだってまどろっこしいこと考えないで、もっと素直に、単純に言えるだろ」
「単純って」
日向が首を傾げる。ジンが微笑んだ。まるで、二人の手のかかる子どもに親が向けるような愛情のこもった優しげな笑みだった。
「名前も知らないような誰かにあなたを取られるのが寂しい。もしくは、毎日あなたのコーヒーを飲みたい。ってところだろ? 根っこにあるものはえらくかわいいもんじゃないか、なぁ?」
日向が目を見張る。
「だから、日向は気後れしないで受け取ってやればいいのさ。そんでコーヒーでも淹れて、笑ってやれよ。俺にはかわいい
……
ああ、悪い。立派な男の意地に見えたがな」
束の間、静寂が訪れる。店の外の都会の喧騒が、聞こえてくるほどだった。日向が、そっと息を吸う音が聞こえた。
「なぁ、狛枝」
名前を呼ばれる。浮ついた、期待のこもった声だった。
「
……
どうしたの」
応えた声が掠れていた。
日向の頬が、じわじわと朱色に染まっていく。
「お前って、俺のこと
……
結構好きだろ」
日向の言葉をゆっくりと噛み砕く。
重く、柔らかく、あたたかい。不思議な重さに、戸惑う。
ぶつけられなければ、思い至りもしなかった。
すき。
ボクは才能がある素晴らしいみんなのことが好きだ。だけど、日向クンへの気持ちは、みんなに抱く気持ちとは、違う。
すき。
心惹かれる。
心臓がどくどくと音を立てていた。かちりと何かがはまる音がした。
すき。
きっと、この言葉が相応しい。
「
……
うん。どうやらそうみたいだね」
「なぁ
……
もう一杯コーヒー淹れてくるから。もうちょっと、お前のことを教えてくれよ」
「構わないけど、代わりに日向クンは、キミのこれから行きたい未来について教えてよ」
日向が立ち上がり、カウンターに戻る。水の音と、火の音が耳をくすぐる。
そっと目を閉じる。
日向クンに才能なんてない。
そんなことは、とっくにわかっている。
それでも、彼には酷い目にあって欲しくなかった。
それでも、彼の側を離れ難いと思ってしまった。
そして、見てみたかった。キミにとって大きな壁が取り払われたあとに訪れる真っ白な未来には、どんなものが待っているのだろう。
キミが示してくれたように、ボクにも、キミにも価値がある。
それなら、キミにも、ボクにも小さくとも希望はあるのだろうか。あるとするならば、どんな希望があるのだろう。
想像が
……
つかない。
心が疼く。指先が疼く。
ボクはキミと共に未来を待つ。
柔らかな光が降り注ぐ。
嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが胸を満たす。
目を開ける。
日向がほんのりと血色の良くなった顔で、はにかんだ。白い湯気の立つカップが、目の前に差し出される。
狛枝は両手をまっすぐに差し出した。
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