ひなげし
2025-10-18 23:28:52
9207文字
Public 狛日
 

薄明のふたり②

本予備/狛日
学費のために自分を安売りして傷つけている日向と、そんな日向を見てぐちゃぐちゃになりながらも唯一の友達に手を伸ばす狛枝の話
②ラウンジ・バーにて、狛枝が日向くんを買うシーン

日の沈んだ繁華街は、光と音が多すぎる。
ぶつかりそうになりながらすれ違う人間の、意味の拾いきれない会話。色めき立つ声に、怒号。悲嘆の声。まるで帰る場所を失って、ネオンに群がる虫の羽音のようだ。
みんな眩しい光が見せる非日常に何かを求めて夜の街に集い、一時の欲望を満たし、一時の救いや慰めを得る。
きっとみんな疲れて、病んでいた。
ボクも、そしてキミも。
狛枝は、ネオンと強すぎる光に導かれるように歩く。気がついた時には、あの店に着いていた。
──Re:veil.
この店は、コンセプトに沿った衣装を身にまとった店員が接客するが、店名が示す通り二面性がある。昼はカフェ、夜はラウンジ・バー。時間帯によってキャストとのメニューの種類が、そして方向性ががらりと変わる。十九時を少し過ぎた今は、後者の顔をしている。屋外のスタンド看板には、昼の軽食メニューの代わりに、カクテルの名前が並んでいた。
見覚えのある営業形態で、苦いものが上がってくる。ジンの店で慣れたとでも思っていたのだろうか。違いがわかっていないのであれば、盲目すぎて、呆れてしまう。わかっているのであれば、自傷がすぎる。
何もここまで、夜に足を踏み入れなくてもよかっただろうに。
品のない笑い、ざわめきが外まで漏れてきた。早くも深い夜を迎えた人間がいるらしい。
狛枝は眉間に寄せた皺を解くように、深く息を吸った。背筋を伸ばす。自信を持って歩かなくては、怪しまれてしまう。震えそうになった手を、強く握りしめる。
そっと息を吐き、扉を引いた。
入った瞬間、空気の密度が変わった。世界がぐにゃりと溶ける。甘いアルコール、きついアルコールの匂い。甘い香水の匂い。タバコの臭いが混ざり、鼻を刺す。照明は低く、光の粒が床に散っていた。
突然弾けた、アルコールに溶けた品のない大きな笑い声に思わず眉を寄せる。
やはりどれも、居心地がいいものではない。
ボクには似合わないものだ。もちろん、日向クンにも。
視線を店内に向ける。輝くボトルが並ぶカウンター席と、複数客がメインで使うボックス席。そして、奥には重たいカーテンが引いてあり、ここからでは中が伺えなかった。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
黒いうさぎの耳をつけたスタッフが、こちらに気付いてやってきた。
「うん」
「キャストに希望はありますか。指名料がかかります。指名しないこともできますが」
差し出されるメニューと名簿を見るまでもなく、視界の端に“彼”が映った。
黒いベストに、銀色に輝くアルバートチェーン。白いシャツ。退店後テーブルの片付け作業に没頭しているのか、捲られた袖口から見える手首。胸元のいくつか外されたボタンから見える、はりのある艶やかな肌。
髪の色も、背丈も、テーブルを丁寧に磨き上げる神経質な手の動きも。見間違えるはずがなかった。
──いた。
ふいに口元に笑みを浮かべていた。
狛枝はメニューも名簿も見ないまま、テーブルを片付けていた彼を指差した。
「うん。あの子がいいな」
スタッフが小さく目を見張る。黒いうさぎの耳がぴくりと揺れた。強張った頬と揺れる瞳には、驚きと、ほんの少しの同情が混じっていた。
「はじめくん、表に出るのは二十時までなんです。あと一時間あるかないかでして」
「それでもいいよ。あの子一生懸命ですごく、かわいいよね。ボクのタイプだよ。今空いてるかな、話してみたいんだ」
……わかり、ました。ご案内いたします」
もごりと唇を震わせたスタッフは、何か言いかけた口を閉じ、メニューを持って前を歩き出す。
一歩進めば、うさぎの耳が視界の端でいくつも揺れている。
夜の光と音がぶつかってくる。
狛枝は拳を緩め、足を踏み出していった。

「はじめくん、ちょっといいか」
日向が、同僚のスタッフに呼ばれたのは十九時をほんの少し過ぎた頃だった。主に受付スタッフをしている春沢は、気の良い二十代後半の男で視野が広く、面倒見がいい。この店の現場の支柱のような存在だ。ホール清掃の指示も、エスコートも、キャストが足りなかったり、たくさんの人と会話したいという客の希望だったりで時々席に着く時の慣れない客との会話も、仕事はこの男が大体教えてくれた。
「どうかしましたか」
バックヤードに身体を半分引いている春沢の元に歩み寄る。
「なあ……、悪いけど一時間客の相手できるか?」
「俺一人でですか?」
「うん」
春沢がほんの少し眉を寄せて腕を組み、小さな声で唸る。
「どうしてもって、客がいて……どうやらお前を気に入ったみたいなんだ」
「俺……を」
どくりと、心臓が音を立てる。
「珍しいっちゃ珍しいが……会計やエスコートのちょっとしたやりとりで気に入られて席に呼ばれることは、うちじゃ全くないわけじゃない」
「春沢さんもこの間呼ばれてましたよね。べろべろに酔っ払って、俺が会計変わったんでしたっけ?」
「ああ、そのパターンだ。はじめくんも何度か席についてもらったことはあるけど、一人で客を相手するのは初めてだろ? 突然客前に一人で放り込むなんて鬼だと思ってさ。一応、大丈夫か確認しておこうと思ってな」
そう心配するなと、からりと笑った春沢に日向はそっと息を吐いた。
「まあ、捉え方によっては大きなチャンスだ。はじめくんにファンがついて、稼いだ分だけ給料はもらえる」
「わかりました。やります」
強く頷き、日向は手を握りしめていた。
隣に座って、話を聞くだけ。
隣に座って、一緒にドリンクを飲むだけ。
そんなに長くもない。たったの一時間だ。
大丈夫。大丈夫だ。
「そんなに緊張しなくていい。客に楽しく過ごしてもらえたらそれでいいんだ。何かあったらすぐ呼んでくれ。じゃあ、席に案内する」
春沢が歩き出す。夜に一歩足を踏み入れた店内は、昼間のカフェとは比べ物にならないほど混雑し、誰の声か聞き分けられないほどになっていた。
春沢の歩みが止まる。
カウンター席の一番端。広い背中から男性だろう。汚れのない白い柔らかそうなシャツに身を包んでいる。伸びた背筋が綺麗だった。自分より年上だろうか。白い癖のある毛が一括りにまとめてある。一瞬一人の友人を思い浮かべてどきりとしたが、彼はそこまで自分の容姿に頓着しない。
日向はそっと息を吐く。
焦るな。落ち着け。口を開け。
やさしく、やわらかく、穏やかに。
「こんばんは」
日向の声に振り返った顔に、日向は立ちすくんだ。
「やあ、はじめクン。よろしくね」
日向は、ごくりと唾を飲み込んだ。
耳元でうるさく鼓動が鳴っている。
まぶたを閉じて、開いても変わらない。
さぁと血の気が頭から引いていく。ぐらりと揺れそうになる視界の中で、ゆるりと灰色の瞳と薄い唇が弧を描く。
友達の狛枝が、穏やかな笑みを浮かべて日向を見つめていた。
「しつれい、します」
「うん。隣に座ってよ」
身体と視界に現実味がない。身体の奥底から鈍い音が鳴っている。日向は、震えそうになる手を一度強く握りしめる。そっと息を吐き、カウンターチェアに腰をかけた。
視線を上げれば、すぐに灰の瞳と絡んだ。整えられた柔らかな白い髪の毛が、カウンターの優しいオレンジ色の光を受けて輝いている。
「なにか、のみますか?」
緊張に枯れた声しか出なかった。
「キミのおすすめはある? キミと一緒に同じものを飲みたいな」
「指名あり、コースは一時間です。キャストを交代したくなったり、ドリンクの追加やオプションを希望でしたらお気軽にお声掛けください。すぐにお持ちします」
春沢がカウンターにメニューを音もなく置き、狛枝に一礼する。一歩彼が足を引いた瞬間、トーンの高い、飴のような声が割って入った。
「あーっ、はじめちゃんいる! 今日もかわいいね! ね、ボタンもうちょっと外してみない? 見てみたいなぁ」
名前を呼ばれ、振り向く。ふんわりと柔らかなピンク色に塗られた唇が薄闇の中で目を引いた。名前も知らない女が微笑んでいた。
女の視線が、日向の顔、身体を不躾に舐めるようになぞっていく。身体から血が失われるみたいに、ぞっと悪寒がした。
「あ、ええっと」
嗅ぎ慣れない強い香水の匂いが、鼻にまとわりつく。
凍りついたように、言葉が出てこない。
頭の中がしんと冷たくなっていく。
「あはは、冗談だって。あとでいいから私の相手してくれない?」
愛らしい顔立ちをした女が、ピンク色をした唇をぱかりと開けて笑う。
本当に身体が震えた。狛枝と出会ってから感じていた、出所のわからない心の捻れ。立っていられなくなりそうなほどの浮遊感。身体の奥底から響く鈍い音が大きくなる。
心と身体が乖離して、バラバラになっていく。
なにか、何か喋らなきゃいけない。しゃべらないと。
視界に白い手が横切り、女の顔を遮った。
「ごめんね、お姉さん。はじめクン、今日はボクと遊んでくれるんだ」
くるりと椅子を回して女に身体を向け、へらりと狛枝が笑んでいた。
「えっ……変えないの?」
「せっかくかわいい子に会えたのに、変えないよ」
「ふーん、ざんねん」
女が肩をすぼめる。高い位置で結ばれたツインテールが揺れて、去っていった。
「ねぇ、キミ。サービス見せてよ。はじめクンと個室でお話しできる? 半個室でもいいんだけど」
「申し訳ございません。初回のお客様にはそのようなサービスは提供しておりませんでして……
狛枝が、あからさまなため息をついてみせた。
「はぁ……さっきみたいなの、好きじゃないんだ。それともなにかな、ボクはチャージ料に加えて、はじめクンを指名して彼との“時間“も買ったのに、ただの通りすがりにその“時間”を取られることをこの店は許容しているってことかな? あはっ、随分と客が支払う代金に対して不誠実なんだね!」
灰色の瞳が、冷たい光を宿す。まるで鋭利な刃物を思わせる露骨な光は、狛枝が口元に浮かべる笑みの印象を掻き消してしまうには十分だった。春沢の顔が強張る。もう一つの、色の違うメニュー表が狛枝に差し出される。
……大変申し訳ございません。こちらに、ございます」
「ふうん、“ヒミツのトーク”で十五分か。じゃあ、日向クンを指名してる時間いっぱいこのサービスを使うよ。お部屋は空いてる?」
春沢は日向と狛枝がかけるカウンター席から少し離れたカーテンに手をかけ、部屋を開けた。
……どうぞ、ごゆっくり」
春沢の下げられた頭がゆっくり上がる。一瞬、憐憫の視線が日向を撫でた。
足音が遠ざかる。それはすぐに店内を飛び交う嬌声に紛れるように消えていった。

春沢はもういない。日向を導く先導者はこの場にはいなかった。
店の中心から離れた半個室は、光量がほんの少し落とされていて落ち着かない。重たいカーテンのおかげで、喧騒がほんの少しだけ遠い。ローテーブルに並べられたドリンクに、飾り切りされたフルーツの盛り合わせ。ふかふかの柔らかなソファ。すぐ隣に人の気配がする。両手を強く握り締め、重たい口をこじ開けるように開いた。
「なあ」
狛枝。
「はじめクン、はじめまして。ボクはなぎとっていうんだ。よろしくね」
人好きのする笑みが、日向を覗き込んでくる。日向は慌てて頷き、曖昧に微笑む。
「は、はい……。よろしく、お願いします」
「食べてみない? おいしいよ」
メロンを突き刺したフォークが、日向の口元に差し出される。
「ほら」
ぺとりと唇に触れたメロンの果汁が侵食し、口内を犯す。諦めにも似た気持ちで、口を開く。冷たい四角い果肉が、口内に転がり落ちてきた。
「おいしい?」
灰色と視線が絡む。
果肉を押しつぶす。
途端に戸惑いが走った。混乱は恐怖を生み、思考を停止させる。
わからない。
なにも、味がわからなかった。
「ねぇ、はじめクン。ボクと手を繋いでくれる?」
混乱の中、柔らかな声に視界が揺らされる。
「手……
「さっきメニュー表を見た時に見たんだけど、キミと手を繋げるサービスがあるんだって。ボク、母親とも手を繋いだ記憶が残ってないから誰かといつかやってみたかったんだ。うれしいなぁ……
狛枝が頬を上気させ、うっとりとした瞳で身悶えている。視線が日向を離さない。
「ほら、このペンを使って。そこの伝票にちゃんと自分で売上書かなきゃ、ね」
目を逸らさないで。キミに対して支払われた対価だよ。さぁ、しっかりみて。
口の中の唾液を音を鳴らして飲み下す。ふと気がつくと、日向の手は白い手に包まれ、ペンを握らされていた。
オレンジ色の光に照らされる薄い伝票には、すでにいくつもボールペンが踊った跡があった。日向の一ヶ月分の家賃代をゆうに超えている。
「たったこの程度しかお金を払えないなんて、残念だよ……。本当は一番高いボトルも入れてプレゼントしたかったんだけどさ。さっきの男の人に止められちゃったんだよね」
「お前、な、何考えてるんだよ!」
「何って……。ここはキミを買う場所でしょ? 何を言ってるの?」
狛枝は肩をすくめ、息を吐く。小馬鹿にした態度に、日向は言葉を詰まらせる。
「そう……キミは商品なんだ」
狛枝はほんの少し黙り、意を決したように視線を上げた。彼の表面だけでも纏っていた柔らかな雰囲気が、がらりとかわる。灰色の双眸は、ぬるりと輝いていた。強くまっすぐ輝く光ではなく、奥底から仄かに光を持ち静かに獲物を見つめる。そんな居心地の悪くなるような光だ。
悪寒が少し強くなる。
「商品って」
白い手が伸びてきて、日向の握るペンをそっと優しく抜き取った。
狛枝が、伝票の一番下のメニューに一本線を引く。
一瞬、息が詰まる。
ただ、みていることしかできなかった。
「ここでは、キミはキミの価値を自分で決めることができない。きっと客をたくさん取れる価値のある人間にはもっとお金を積まないと、デートなんてできないんだろうけど……、キミはそうじゃない。キミの身体の自由さえ、ボクのこんなはした金でなんとかなっちゃうんだよね」
アフター予約権──仕事終わりに、二人きりでデートをしなくてはいけないオプション。そこに線を引いた男は、日向に穏やかに笑んだ。
次々と引かれていく線に、軽く眩暈がする。
「キミは、キミが何よりも自分自身に価値を求めているはずなのに、キミは愚かにも自分の手で自分の身体に店の商品価値基準の値札を貼っちゃったんだ」
ざわりと胸の奥が泡だった。傷ついた皮膚に、海水が触れるみたいにしくしくとひりついている。
狛枝の言葉は、柔らかいのに鋭い。忘れていた傷のかさぶたを、そっと剥ぐみたいな痛みをもたらす。
白い手が伝票を次のページへと捲る。
ゼロが一つ多い、キャストとの身体接触のプランにも、迷いなく線が引かれた。
突然手が白い手に包まれる。腕に身を寄せてきた他人の熱が触れた。
「かわいそうにね。今のキミは、ボクを拒否する権利もない」
頬をもう片方の白い手がするりと撫でる。顎に指がかけられて、上を向かされた。
狛枝の顔が迫ってくる。
逃げられたらよかったのに。
でも、だめだ。現実から逃げられるほど、俺は強くない。
俺は何もかも捨てて、誰にも大切にしてもらえなかった自分に価値を見出したかった。
予備学科とはいえ、大切なものを、まだ手放したくないと思えるものを見つけてしまった。今の居場所を手放して、俺は俺でいられるのか。
わからない。
でもきっとここで逃げたら、後悔する。大切なものを簡単に手放しまえる俺のことを、俺は愛してあげられないかもしれない。かと言って、俺には頼れるものは何もない。選べる選択肢は他になかった。
それなら……いっそ。
深い落胆に囚われる。身体には重い疲労がのしかかり、思考することも、身体を動かすことも億劫になってしまった。
頬になまあたたかな呼吸が触れる。日向は、泳ぐことを諦めるように、目を閉じてそっと力を抜いた。
……あはっ、嫌ならしなくていいよ」
からりとした、友達の声がした。影と温もりが離れる。
すぐ近くでソファが鳴る音がした。目を開ければ、狛枝は人一人分離れて、ソファにもたれていた。
……は?」
「これでわかったよね。ボクが“キミには向いてない“って言った意味がさ」
顎を引き、薄く笑った狛枝がそっとつぶやく。
「別にボクなんかに奉仕してくれなくたっていいよ。だって、ボクはキミが日向クンでいられる時間を買いに来たんだからさ」
狛枝は、日向から視線を逸らし、密やかにため息をついた。
「吐きそうな顔しちゃってさ。ねぇ……日向クン。さっきから自分がどんな顔してるか気づいてる? もしかして、笑い方も忘れちゃった?」
そっと頬に手をやる。
硬い。硬い皮膚の感触がした。
日向のぎこちない動作を、狛枝は瞬きもせず見つめている。
「本当は知らない人に買われるのも、身体を舐めるように見られて他人に値段をつけられるのも嫌だったんでしょ。地を這うように頑張ってようやく手に入れてもまるで足りないものを、他人が湯水のように使っちゃうのを見るのも気分が悪いんだよね」
「狛枝」
「日向クン、キミは自分から目を逸らしているんだ。自分に選択権がない人生を送っていることを突きつけられている自分を見たくない。金を手に入れる手段だからと心を偽って、自分の本音を見たくない。だって、傷ついている自分を見て自分が傷つきたくないから。違う?」
「知ったような口を聞くな」
口吻が尖る。
狛枝の言葉は、あまりにも痛かった。己の醜さを、己の膿んで未だに血を流し続ける傷を容赦なく突きつけてくる。
八つ当たりだと気がついていた。ずるい。卑怯だ。そんなこと、わかっている。
だけど、心が言うことを聞かなかった。沸点を超えた感情がぶくぶくと泡を立てる。
……じゃあ、部屋が寒いのかな? 暖房の温度上げてもらおうか?」
狛枝は、瞬き一つせずに興奮する日向を見つめ、そう言った。
言葉は完全に失われた。日向は唾を飲み込み、横を向いた。力を抜き、深くソファに座り込む。全く飲まれないグラスが、オレンジ色の光を受けて鈍く光る。
「だって……、俺は……金が必要だったんだ」
ポツリと言葉がこぼれ落ちた。
「助けてって言えばよかったじゃない」
「お前にか?」
「うん」
「ははっ、そんなの……言えるかよ」
自分の傲慢さ。
ささやかな望み。
誓約書に書かれた、乱雑な親の署名。
御破算となった学園との秘密の取引。
誰にでもある金銭的困窮。
誰にでもある所属の喪失。
日向に訪れた破滅と自暴自棄をもたらした事実をただ述べることは、きっと容易い。誰かに自分の話を聞いてほしい。その鬱屈した願いは少なからずある。だけど、うまく言葉が浮かばない。
誰にもわかってもらえる気がしなかった。だって、何もかもを持って学園に選ばれた人間と俺はあまりにも違う。
持てるものに、憐れまれるのは酷く惨めだ。
持てるものに、勝手な想像をされるのは身勝手にも腑が煮えくりかえってしまう。
どう説明すれば、自分を正しく理解してもらえるのか、全く見当がつかなかった。
助けてほしいのに、喚き散らしそうでただ、黙っているしかなかった。
「ふうん。まあ、それが言えたらキミは予備学科なんかに入学してない……か」
……そうだな。本当に、そうだ」
感嘆の響きが含まれた言葉を最後に、狛枝は一言も喋らなくなった。ただ、そこにいて静かな瞳で日向を見つめている。
何も飾らなくてよくなって、深く息をつく。静かで穏やかな空間だ。狛枝が暴いた生傷が、よく見えていた。
「ほんとうは……嫌だったんだな」
日向は、艶のある絨毯の上で、足を踏み締めた。店の光を受けて艶やかな光を反射する自分の靴が、どこか遠くに見える。
身体の力が抜けていく。嫌な汗をずっとかいていたことに、ようやく気がついた。
才能なんてない。秀でたものもない。誇らしいと思えるものもない。だけどそんな自分にもどこかに価値があると思いたいのに、自分で自分の価値をつけられる前に、名前も知らない他人に買い叩かれていたことが苦痛だった。
金が必要だからと理由を並べて、自分でそんな選択をしてしまったことが、滑稽で虚しかった。幼い自尊心が泣いていた。
狛枝の穏やかな吐息がそっと落ちる。
「嫌だったんだよね」
「ああ」
「息苦しかったんだよね」
「ああ……そうだ」
「できるなら、大切にしてあげたかった。そうでしょ」
言葉なく、頷く。
嫌だったんだ。
もう一度、呟いてみる。
言葉は自覚を促した。
痛い。苦しい。
身体の奥底から響く鈍い音の正体。ようやく確信できた。遠ざけて届かなくなっていた心が、少しずつほぐれていく。痛む傷に手を当てたみたいな、ホッとする感覚が身を包む。日向は、そっと深呼吸を繰り返す。胸のつっかえがほんの少し取れていた。
ああ、息ができる。
狛枝が大きく息を吐きだした。よかったと、唇が動く。穏やかな微笑みに、日向は目を見張る。本当に珍しい、安堵の笑みだった。
白い手が伸びてくる。ただ、ぼんやりと見つめていると、ずっと日向の頭を締め付けていた圧迫感がふっと消えた。
指先に血が通う。強張っていた指先が握り拳の形をつくる。身体に力が戻ってくる。
狛枝が黒いうさぎ耳のカチューシャを指先で弄んでいた。狛枝に視線をやった日向に向けて、狛枝はぱっと笑って見せる。うさぎ耳のカチューシャは、一度も灰色の視線を向けられることなく放り投げられ、地面に落ちた。
「ねぇ、日向クン。とりあえずフルーツでも食べたら? ほんとうにおいしいからさ。この洋なしなんか、最高だったよ」
狛枝は、カチューシャを放り投げた手で、曇り一つなく磨かれたフォークを洋なしに突き刺した。
ぱかりと開いた唇が、果実を飲み込んでいく。薄い唇から、果汁がぽたりとだらしなく垂れ落ちるのが見えた。彼の整った服装。大人に見えるように武装されたアクセサリー。綺麗にまとめられた髪の毛。あまりにも、不釣り合いだった。
だけど、俺は知っている。
だらしなさへの呆れよりも、見慣れた光景からの安堵が日向を捉えて離さない。そして、身体から湧き起こるあたたかな親しみも。
ここは、どこだっただろうか。
「もしかして、食べさせてほしいの?」
「いいや、自分で食べれる」
日向はりんごをひとかけら、摘み上げた。
一口、かじってみる。ほんの少し硬い身が弾け、甘く爽やかな味が口に広がる。
空っぽのフォークを手にしたまま、狛枝は日向を覗きこんできた。
「どうかな?」
手に垂れてきた果汁を、舐めてみる。
……おいしい」
久しぶりにだした、心からの声だった。