ひなげし
2025-10-13 11:56:47
7272文字
Public 狛日
 

薄明のふたり①

本予備/狛日
学費のために自分を安売りして傷つけている日向と、そんな日向を見てぐちゃぐちゃになりながらも唯一の友達に手を伸ばす狛枝の話
①日向の遠回りな自傷を狛枝が見つけてしまうまで。

狛枝の足が止まった。都心の敷き詰められて立つ建物の間に、小さく身を縮こませるようにして立つ三階建てのビルの前だ。
赤い煉瓦の壁と、鮮やかな赤色のサンシェードと、店内を隠すように大きく育った観葉植物は、どこかひと時代前の雰囲気を浮かべている。ドアには、オープンと書かれたドアプレートがかかっているが、あたりは大きな通りと繁華街から外れてひっそりとしていた。
狛枝はそっと息を吐き、顔を上げた。
大きな木とガラスのドアを押し、中に入る。ふわりと、香り高いコーヒーとカレーの匂いがぶつかる。床は艶のある木製だ。狛枝の足下でぎぃと、聞き慣れ始めた音を立てた。
「いらっしゃい」
いつもの──期待した声ではなかった。
フルートグラスを磨く手を止めて、男がこちらを見つめている。
「えっと」
「お前さんが来るってことは……もうこんな時間か。なんだ、今日の学校は終わったのか?」
「はい。あの……
狛枝は、目の前のベストを着たオールバックの男から視線をそらし、めぐらせる。しっとりとしたジャズが少し早い夜を奏でる店内は、客もおらず閑散としていた。カウンターの奥にいる男一人だけが、狛枝に向かって笑んでいた。
「ああ、もしかして日向を探してるのか?」
胸がどきりと音を立てる。乱れそうになった吐息をなんとか飲み込み、狛枝は努めてゆっくりと頷いた。
……うん。ジンさん。日向クン、いつものところにいなくて、先にここに来ているかなと思ったんだけど……日向クンはまだ来ていないのかな。もしかして、遅刻しちゃってるの?」
「いいや、今日は違うバイトだそうだ。俺はいつでもいて欲しいんだがな。おかげで一人で夜の仕込みをするのがさみしくなっちまったよ」
店長のジンは、磨き上げたグラスを背後の棚にしまった。戸棚のガラスの奥には、綺麗な琥珀色をしたボトルがずらりと並ぶ。この店はカフェだが、夜になればバーに変わる。
「戸棚を開けた瞬間、強いアルコールの匂いとコーヒーの匂いが混ざるんだ。それがすごくこう……なんだろうな。自分が夕方と夜を混ぜているみたいに感じるんだ。なんか、大きなことをしているみたいでさ」
耳奥で、素朴でひとりごとのような言葉がこだまする。
榛色の目を戸棚に向け、困ったように眉を下げ、口元に笑みを浮かべた日向を幻視した。柔らかな空気。他愛のない、毒にも薬にもならない会話。それなのに、差し込む西日とささやかな笑みが、胸に褪せることなく焼きついている。
瞬きをひとつすれば、求めていた姿が掻き消えた。
日向だった人が、彼に似ても似つかないオールバックの男に置き換わる。
……おいおい、そんな顔するなよ。いい豆が入ったんだ。お前さんは常連だし今日は俺が淹れてやる。せっかく来たんだ、サービスするから飲んで行けよ」
「いいの?」
「ああ。その代わり、秘密にしてくれよ。日向がうるさい」
ジンが片頬だけで薄く笑う。大人のひねくれた自虐の滲む、おどけた笑みだった。だけど、情のある温かな笑みだ。
「あは、そうかもね。儲ける気はあるのか、ってさ」
ジンの手の中で、空っぽのドリッパーをくるりとまわる。
「ま、日向はそこまで言わないな。たまにじっとりとした視線は感じるが」
「へえ……それなら、やっぱり言われているようなものだよね」
「何度もいうが、俺の店の本業は夜だ。昼はあくまで趣味なんだよ。だけど、給料はちゃんと出してるだろ? お前さんからも言っててくれ」
「まあ、他の場所と比べて良心的な仕事量なのに、いい額もらえるって言ってたよ。ありがたいってね」
狛枝は肩をすくめ、カウンターの椅子を引いて腰をかけた。目の前で白い湯気が揺らめいている。
お湯が紙のフィルターと粉を叩く音がする。ただ、それだけだ。狛枝にとって、意味を成す音が少ない。
重たい息を吐いた。どこか心が満たされない。
ささやかな音楽が撫でる静かな空間も、差し込む夕陽を受けて輝く、コーヒーに注がれるお湯の糸も、好きだったはずなのに。
「次は明々後日だぞ」
「えっ」
「日向が来る日のことだ」
顔を上げれば、視線がぶつかった。ジンが狛枝を見つめていた。
「これも秘密にしてくれよ。事業主として本当はだめだが、俺からちょっとしたおせっかいだ。次はもっと上手におしゃべりができるといいな」
日向の手と比べるとぼこぼこと血管の浮いた、乾いた無骨な片手が、カップに入ったコーヒーを狛枝の目の前に置いた。
一瞬にして頭の中が、かっと熱を持ち、煮えたぎる。口がもぐりと動く。
どうして、ボクがあんな予備学科と。
言葉は、音にはならなかった。
何も言えなかった。ただ、男をみやる。
何に囚われてしまったのだろう。わからない。ただ言えることは、悪態をつけなかった。自分の想定通りに動けなかった。
ジンが狛枝を見やり、にやりと笑う。
「はは、知ってるか? ああいう子には素直が一番だ」
……うるさいよ」
狛枝は、視線を落とし、頭をくしゃりとかき混ぜた。反対の手で、コーヒーカップのハンドルを握る。ソーサーとカップが当たり、かちりと音が鳴った。
コーヒーを口に含む。
深い苦みと、豊かな香ばしさ。舌に残る重い苦味が、時間をかけてほどけて広がっていく。いつもと違う味のコーヒー。きっと、誰もが美味しいと呟くだろう。いい豆だと言うだけはある。
完璧な一杯だと思う。けれど、そこには彼の気配はなかった。
まるで、温度を忘れた朝の光のようだった。
眩しいのに、あたたかくない。そんなコーヒーだった。
「おいしいか?」
カップを口に運ぶ男が、狛枝をじっと見つめていた。
「うん。おいしいよ」
うなずく。
嘘じゃない。プロが入れるものは、本当においしい。精巧な作品だと思う。椅子から立ち上がり、賛美を言わねばと身体を跳ねさせたくなるくらいには。
だけど、ボクは彼が淹れたものが飲みたかった。
その一言を呑みこみ、完璧な味のするコーヒーをもうひとくち口に含む。なぜか、口にはできなかった。言葉にするには、憚れた。
カップをソーサーに置き、狛枝はカウンターの向こうの白い壁に視線を向けた。いつもは彼がここに立っている。
紐がほんの少しだけ偏った結びをされた深緑のエプロン。狛枝だけに向ける、店の客に見せるにしては、個人的な感情を滲んでいる顔。狛枝が口を開く前にチェックが入れられる注文票。一度溢してしまってから、幸運不運だと口を出す狛枝のために、両手で目の前に置かれるコーヒー。
他愛のない、変わらないやり取りが今日もあると思っていた。
彼のいないこの店は、少しだけ静かすぎるように感じた。深く息を吐く。
「別のバイト……か。もしかして学費、なのかな」
吐息がカップに落ちる。ぬるくなったコーヒーの表面に、灯りとつまらない顔をした自分が揺れていた。

店を出ると、頬を引っ掻くような秋の終わりの風を感じた。外は、ぼんやりと薄赤い光に包まれている。陽光はほとんど沈み、静かに夜が這い寄っていた。夕暮れだ。木から落ちた黄色い葉が、二枚もつれるように地面を転がっていく。
狛枝は雑踏の中をゆっくりと歩いていた。
繁華街を抜けて駅を目指す道は、普段は使わない。不運に巻き込まれて何が起こるか予想がつきにくいからだ。ほんの気まぐれだった。繁華街の中のゲームセンター。カラオケルーム。バッティングセンター。今度、超高校級のみんなが一緒に学生らしいことをしようと遊びの約束をくれたことを思い出してこの道を選んでいた。ただ、ほんの少し後悔している。
眠らない繁華街の光とネオンが、夕焼けの残り火を押し除ける。複数の飲食店から流れ出る食べ物と排気ガスの混じった匂い。行き交う人間の足音。ざわめき。無秩序な光と音に、目が眩みそうだった。
ふいに、すぐそばで見送る声と、笑い声が重なる。同時に視線が吸い寄せられる。
そこに──目を一際ひく姿があった。
その青年は、客を見送っていた。
頭につけた黒いうさぎの耳のカチューシャを揺らしながら、軽く頭を下げている。
どくり。
心臓がごとりと音を立てる。
似ている、と思った。
あの栗色の短い髪も、肩の線も、喉の線も、日向クンに。
だけど、彼がこんなところにいるはずがない。
からからに乾いた喉に唾液を送りながら、胸の内で繰り返す。
いかがわしいネオンに透けるシャツの襟元、大胆に開いたシャツの隙間。青年の豊かな胸元が、少しだけ見えている。
あどけなさの残る童顔はどうしようもなく場違いで、大人の色を纏い始めた肉感的な身体はどうしようもなく綺麗だった。
客が見えなくなって、青年が上体を起こす。
ほんの少し見えた青年の笑みを作っていた表情が、ぽろりと剥がれた。
青年の浮かべる、ほんの少し滲んだ諦念。滲んでいる孤独。報われない徒労感。
息をのんでいた。
雑踏の音が全く聞こえなくなる。
足が完全に止まっていた。狛枝の隣を何人もの人間がぶつかりながら通り過ぎる。

日向、クン?

頭の中で、何かが割れる音がした。
あつく、つめたく心臓が早鐘のような鼓動を刻む。息が苦しい。
あれは、彼だ。
まちがいなく、彼だった。
彼がボクにだけ見せてくれた、不器用な信頼の証がそこにはあった。
身体のあちこちの感覚が遠く、鈍い。意識も薄れそうになる。貧血を起こしかけているのかもしれない。それなのに、視覚だけが鮮烈に色を持っていた。
どうして、日向クンがあんな服を着て、あんな顔をしているんだろう。
彼は、そんなことができるような人間じゃないはずなのに。
色とりどりの光の中で、日向クンが振り返る。
彼にボクが見えているのか、いないのかわからない。
伸ばした手が、空をかいた。
唇を噛む。路上に両足の裏から根が出たみたいに、引っ付いて動けない。
痛みに似た不安と、じわりとにじり寄る恐怖で足が前に出ない。
風が強くなる。
雑踏の音が戻ってきたとき、もうそこに彼の姿はなかった。
狛枝は無言で、日向がいた空間を見つめていた。
ゆらりと揺れる黒いうさぎの耳。薄手のシャツが張り付く艶めかしい肌と、貼り付けたような似合わない笑顔が、まぶたの裏に残像のように焼きついていた。


雨の音がしていた。
薄暗い店内を、いくつかのランプがささやかに照らす。ゆらりゆらりと長い二つの影が壁に揺れていた。粋なことが好きな店長らしい。
狛枝はコーヒーカップを軽く持ち上げた。ふわりと上がる湯気の向こうには、榛色の瞳があった。
「いただきます」
カップの中のコーヒーを口に含み、ゆっくりと嚥下した。
喉を鳴らす狛枝を、シンプルな深緑色のエプロンと黒いシャツに身を包んだ日向がじっと見つめている。
日向は何も言わない。ただ、コーヒーサーバーを置くことを忘れて握りしめている。一人分にも満たない余ったチョコレート色が、ガラスの中で揺れていた。
しとしとと、雨の音が密やかに染みてくる。
揺れるチョコレート色をもう一口。
「ちょっと薄い?」
「じゃあ、俺に頼むなよ……。ジンさんに頼めばいいだろ」
「ううん、いいんだ。ボクはこれが飲みやすいからさ」
日向がそっと肩の力を抜く。
……そうか」
「うん」
「ははっ、もっといいの飲めよ」
「お湯もまともに入れられないようなボクには、これぐらいがちょうどいいよ」
日向の唇の端が、ほんの少しだけあがる。
コーヒーサーバーから、余ったコーヒーがカップに注がれる。日向も白いカップを口につけた。
狛枝は日向のその指先を見つめながら、そっと口を開いた。
「一昨日、いなかったね」
「来たのか?」
「うん」
日向は口を開かなかった。黙したまま、狛枝を見つめている。ぴくりとも動かなくなった身体に、緊張が見えた。
コーヒーを飲んだばかりなのに、痛いほどに喉が渇いている。重たい舌を緩慢に動かした。
「別のバイト、増やしたんだ?」
……まぁな。学費、結構するみたいでさ。それに、みんなに、呼んでもらえたからな」
「それで、あっちの店も?」
小さく息を飲む音がした。榛色の瞳が大きく見開く。
……見たのか?」
日向の声がわずかに低くなる。
「偶然、ね。……あんな服、似合わないのに」
「ああ、滑稽だって?」
「あんな店、キミが行く店じゃない」
「あんな? あんなってなんだよ。俺なんかに何が似合うかなんて、お前にわかるのか?」
日向の眉間にわずかな皺が寄った。
胸を押さえる。ゆっくりと、胸に焼きついた光景を思い起こす。何度なぞっても、日向の剥がれ落ちたあの顔が、彼の本当の感情だ。少なくとも彼は、自分自身を欺いている。
「はっきりわからないけど、日向クンなら……もっといい場所があると思うよ。たしかに、キミには才能はないけど……ボクたちの真ん中にいるような、不思議なところがあるから」
「いい場所ってなんだよ」
日向の口吻が尖る。彼の持つカップからコーヒーが跳ねた。白をチョコレート色が伝い、ぽたりと落ちていく。
「俺は、生きる場所を選べない。お前と違って才能も、お金もない。……生きるのに、似合うも似合わないもない」
日向の瞳に影が走った。
「俺は……お前と違って、誰にも、何にも選ばれなかったんだ。お前が初めて出会った時に俺に言ったことは、何も間違いじゃない。お前の言う通り、俺は傍観者で、何かの主役になるなんてことはない。選べるほど価値がある存在じゃないし、選べる立場にない」
違うと言い切ることができなかった。
過去の言葉を撤回するには、覚悟が足りず、傍観者ではないと言うには、狛枝は人生において傍観者でいすぎた。
日向クンの諦念の全てが偽りだとは思わない。だって、ボクも今までそう思って生きてきたから。今までの自分を否定することは、血を吐くみたいに苦しい。
すぐに否定できなかった今、薄らと絶望している彼に何を差し出しても、軽い。
「キミには、向いてないよ」
強く、唇を噛んでいた。言葉があまりにも軽い。
ボクはこんな薄っぺらい言葉でしか、喋れないのか。
「向いてないからなんだよ。それでも、やらなきゃいけないんだ。生きるために。あの学校にいること自体が不分相応だと思うだろうけど。だけど……俺は、まだみんなといたい」
日向が自分を守るように、腕を組む。小さく震える指先が、痛々しい。重たい舌を、かろうじて動かす。
……キミが壊れるのは見たくないよ」
日向が力無く、かぶりを振った。
「とっくに壊れてるさ」
木枯らしのような声だった。
「ねえ……日向クン。最近変だよ。何かあったの?」
……届きそうだった光に手が届かなかった。ただ、特別でもなんでもない。人生でよくあることのひとつが起きた。お金も今までより必要になった。……ただそれだけだ」
「だけど、日向クン。今のキミは」
……悪い。もう、帰ってくれ」
日向は、長いため息をつき、もういいと呟いた。日向が一歩後ろに身を引いた。ランプの光から離れて、薄闇に顔が見えなくなってしまう。日向の手が胸の辺りでエプロンを握り締め、強い皺を作った。
「俺は……このままお前と話しているとすごく、嫌なヤツになっちまう。……悪い」
日向がカウンターから出ていく。店の奥に入って行き、狛枝は一人、残される。
指の腹でカップの腹を撫で、苦い湯をゆっくりとすする。
苦い。胸が詰まって、息苦しい。
日向と入れ替わりで、店の奥にいたジンがぽかんと口を開けて、カウンターに入ってくる。
「なあ、どうした? 何があったんだ」
「ジンさん……ごめん。ボクって本当に何をやってもクズでのろまでダメだから……うまくいかなかったみたい。だけど……、ううん。今日はちょっと帰るよ」
お金をカウンターに置き、音を立てて席を立つ。
「あ、おい!」
狛枝は、追いかけてくる声を振り払って、外へ飛び出した。
雨が降っていた。
ぱらぱらと細い雨が地面を叩く。
それでも、雨は雨で、傘を持たない狛枝はすぐに濡れた。晩秋の冷たい空気が、足元から這い寄ってくる。長くいたら、きっと熱を出してしまうだろう。
だけど、そんなものは不運に入らない。どうせ、ボクは“幸運”に守られる。
ただ、ただ恐ろしかった。
日向クンがボクの幸運で、ぐにゃりとへし折られそうで、恐ろしかった。ボクにはあんなに青筋を立てて怒るくせに、自分で自分を傷つけていることに気が付かないなんて、なんて愚かなんだろう。このままだと、彼の眩しすぎない素朴なあたたかさが、ちょっぴり笑うのが下手くそな癒やされる笑みが、粉々に砕けてボクの両手からすり抜けて落ちていく。
ボクの“幸運“は、生易しくない。
頭を軽く振ってみる。髪が吸って含んでいた冷たい雨粒が周りに散り、残った水滴が静かに滑り落ちて目に入る。
身体が震えた。
しっかりしろ、しっかりするんだ。
日向クンには、価値がある。
キミはこんなゴミクズのボクに、手を伸ばしてくれた。キミがボクを見つけてくれた。どんなにゴミのような才能であっても、ボクにもささやかな希望と価値があったように、キミにも価値はある。
認め難いし、胸の奥でうねる残響は自分を傷つけることもある。いまだに飲み込みきれずに、喉につっかえているものもある。
だけど。それでも。
キミが歩み寄り、強張った顔を下手くそに綻ばせて握ってくれた手とぬくもり。優しい思い出の美しさを、ボクは否定したくない。
心が脱皮していく。
凝り固まった地層のような皮を突き破り、雨が迷いを、心を洗い流していく。
ボクは、キミをもうとっくに選んでいる。
選んだんだ。
だから、ボクは。──キミのために、ボクができることは。
夕焼けさえ覆い隠す重たい雨雲を、遠くのネオンがそれでも照らし出す。
狛枝は、光から目を逸らし息を深く吸い込んだ。
日向クン。
ボクと、勝負してくれるよね。
両手を強く握りしめ、ゆっくりと雨の中を歩いて行った。