ひなげし
2025-10-05 11:55:26
5808文字
Public 狛日
 

それでも、待ってる

未機パロ/狛日 第65回狛日版週ドロライ「アクセサリー」「暗黙の了解」「過保護」
一人未来機関の苦しい立場という苦難に耐える日向くんと、そんな日向くんにどんな手を使っても力になりたい狛枝の話。(二十代前半)

「毎月毎月、集まってよくやるよな。会議あるからってやることは減らねーなんてありえねー」
左右田はラーメンを啜り飲み込んでから、口を曲げた。昼時の未来機関の食堂は、人がごった返していた。
「進捗の管理という面では理解はする。しないヤツはしないからな。ただ、ちょっとあの空気はやっぱり慣れないな……
日向は、左右田の顔からそっと視線を落とし、水を口に含んだ。喉をすぎる稼働し続けた給水機の水は生ぬるい。ぐっと肩が重くなる。ずんとした、目の奥の痛みに目を閉じる。憂鬱だった。
「なぁ、今日帰れそうか?」
「誰かが、経緯書を書くような事態を起こさなければ、だな」
「顔色わりーけど、大丈夫か?」
左右田が正面から覗き込んでくる。
日向はのろのろと啜るうどんの麺を飲みこんで、口を開いた。
「お互い様だろ。左右田も昨日深夜に呼び出されたって聞いたぞ」
「今、オレの話はしてねーだろ。嬉しいけどよ」
「はは。まあ……正直、胃が痛い」
無意識に唇を噛んでいた。誰も味方がいないかのような会話が、自分の上を滑っていく空間。あそこにいると、自分自身がなぜここに座っているのかわからなくなる。自分たちが今まで何をしてきたか、わかっている。だからこそ、必死だった。それなのに、今までみんなで積み上げたことが、とても矮小なものに感じて足元が崩れ落ちていく。そんな居心地の悪い経験は、何度もしたいものではない。
「つか、そんなに具合悪いならちゃんと休んどけよ。それに、それ乗せすぎだろ。肉豆腐二皿も食えんのか?」
左右田が、日向の盆の上を見つめ、首を傾げる。衣がふやけ始めたごぼ天と、半分くらいに減ったうどん、手がつけられていない肉豆腐の皿が二つ。
ふっと脳裏に閃く姿に、胸がどきりと音を立てた。
箸で摘んだうどんが、つるりと深皿に戻る。跳ねたつゆが、ブルーライトカット眼鏡のレンズに飛んだ。
「あ、ああ……
「なぁ、キツいならオレが食うぞ?」
左右田は眉を下げ、盆の上に二つ並んだ肉豆腐を見つめる。日向は、唇についた出汁をなめ、そのまま口を閉じた。
頼む。そう一言言えば楽になるというのに、唇が動かない。この肉豆腐の皿を、左右田にあまり取ってほしくなかった。この感覚をどう説明したらいいのか、わからない。左右田にどう言葉を尽くせば理解してもらえるのか、言葉がうまく浮かばなかった。
事実は、簡単だ。
プログラムから目が覚めた後、現実を生きようとしなかったあの男が、日向が差し出した不恰好な肉じゃがを何も言わずに食べた。それ以来、日向は彼が自分の用意したものは食べてくれるかもしれない。そう期待してしまって、ほんの少しの食事を毎食欠かさずに用意してしまっていた。
たったそれだけの、ほんの些細なことだ。けれど、その言葉にしない約束がだんだんと温度を変えていることに日向は、気がついていた。灰色の瞳がじっと見つめている。冷たい色。静謐な空間。その中で、次第に揺れるようになった熱のようなもの。
するりと心の内に入り込んできた灰色を、どうしたらいいのか迷っている。二人きりの時にあの男が伸ばしてくる手が、存外心地がいいものだから、余計にだ。日向は言葉少なく伸びてきた白い手を受け入れた選択に、不思議なほどに後悔はなかった。物静かに、そっと傷口に慰撫し、触れ合うようなこの奇妙な関係は、どうにも説明がし難い。
それに、ふらりと消えてしまいそうな男の、伸ばされた手を一度離してしまえばどうなるかがわからないことが一番怖かった。
だけど、あの男がそれだけで終わるとは思えない。いつの日か積み重ねてきたものをひっくり返されて、笑わない目で見つめられるかもしれない。柔らかな言葉を吐いて、日向の肌に触れてきたその唇が、棘を含ませた温度のない言葉を吐くかもしれない。
暗闇の中で握りしめて信じていたものが、あっけなく覆り崩れ落ちていく。そんな経験はもう何度もした。
もう片手で数えきれなくなってきた、あの過去へと過ぎた電子の修学旅行でのあの男の姿を、死に様を、今でも夢に見る。恐怖と不快感に汗でシャツを湿らせて目が覚める朝もあるのだ。
心地が良くて寄り添い、不安で目が離せないのに、積み上げてきたものがなくなってしまう予感に怖くなってたまに逃げ出して……。全てが徒労に終わるあの無為感が恐ろしい。何もかも煩わしくなって、一人になりたくなってしまう。
あまりにも、ほんの少しずつ変わっていっているアイツに不誠実で、身勝手だ。感情のままに動く、脆弱な自分が時々嫌になる。
それでも、ほんの少しだけ期待しているのだ。
共に生きてくれないだろうかと。
「やあ、日向クン、左右田クン。お疲れ様」
ざわめきの中から、声がした。
心臓が、どきりと跳ねた。そんな感じがした。そっと深く息を吐く。呼吸が少しだけ苦しい。唾を飲み込み、横を振り仰ぐ。
そこに、灰色の瞳を見た。たった今、日向の頭の中を占めていたあの男が立っていた。
「あ、ああ……
「お、おう……
狛枝が、笑う。
「ボクなんかが、いいところを邪魔しちゃったみたいでごめんね。でも、他に空いてなくってさ」
日向の向かい側にかけている左右田が、顔を歪めた。
「別に座るななんて言ってねーよ!」
「あはっ、光栄だなぁ」
狛枝が、日向の隣の椅子を引き、そのままかける。隣に置かれた盆には、プラスチックのカップに入った、カクテルサラダパスタのみが乗っていた。
「つうか、オメーそれだけで足りんのか?」
「ああ、うん。ボクは少食だからね。まぁ何食べてもそこまで肉はつかないみたいでさ。食べようっていう気があんまり起きないよね」
「それ、いつか骨カスカスになるやつだろ」
左右田がさも哀しげに、長い息を吐き出す。
小さく息を噴き出していた。
他愛のないなりとり、小競り合いのような馴れ合い、各々の食べる食べ物の匂いさえ愛しい。
ああ、悪くない。会議の前に、こんなに軽い気持ちになれたのは久しぶりかもしれない。
「あれ、日向クン、それボクのだよね。もらうよ」
白い手が伸びてくる。とたん、箸が止まる。白い手は、迷うことなく日向の盆の肉豆腐の小鉢に触れた。
胸の中がほんの少しだけあたたかくなる。小さく、頷いていた。
「あ、ああ。もらってくれ」
「オメーは何当たり前のように取ってんだよ」
狛枝が困ったように笑う。割り箸が、豆腐を割り、口の中に白い塊を運んでいく。
「強いていうなら癖、かな。ボクが来てよかったね、日向クン」
「つーか、オメーはまだ狛枝係抜けてねーのかよ」
左右田が指をさし、眉を吊り上げる。
日向は、ゆるりと手を振った。
……癖なんだよ」
「日向クン、ボクの健診の採血結果見ても安心してくれなくってさ」
「安心しろ。お前が適切な量のご飯を食べれば、晴れて卒業だ。骨は大事にしろよ。リハビリ大変だぞ」
息を吐き、肩をすくめる。
日向の言葉に、狛枝は隣から身を乗り出してきた。
「そういう日向クンはうどん? ああ、今日は午後から重い会議があるんだったよね」
「ああ……、別に俺はいてもいなくても変わらない気はするけどな」
「まあ、上にとってはボクらは替えのきく駒なのは確かだよね」
左右田が音を立てて立ち上がる。
「バカ、お前! 日向、オメーはしっかりやってるよ。お前は替えなんてきかねーんだからな。なぁ、オレが作ったボイスレコーダー、ちゃんと持ったか?」
左右田の眼差しが眩しく、おもばゆい。
「あるよ。ありがとな、左右田」
胸元のポケットのペンを引っ張り出す。左右田の力の入って緊張した顔が、ほっとくずれた。
テーブルの上に置いていた、スマートフォンが震え始める。
大きく息を吐いた。口の中が苦い。身体の奥から込み上がってくる苦味を、ぬるい水で押し流す。
穏やかな時間の、デッドラインだ。
「悪い、行ってくるな」
重たい腰を上げる。立ち上がった瞬間、ネクタイがゆらりと揺れて、まだ中身の残るうどんの深皿を撫でた。日向の盆が勝手に横に動く。盆を引いた狛枝が、トマトをフォークで突き刺しながら、口を開いた。
「これ、置いて行っていいよ。あと日向クン、ボクらの十神クンから伝言。手伝えるものは十神クンとボクで処理しておくから、後で確認してよ」
「悪い」
「お、引き継ぎ入んのか?」
「ボクたちの十神クンと、ボクと日向クンは進行を共有してるから大体わかるんだ」
「じゃあ、オレらに任せて行ってこい。あ、飲みが発生したら誘えよ?」
「ああ。愚痴が生まれないことを祈っててくれ」
「あは、左右田クンは別に何もしないよね」
「うるせー! オレは、今から現場だっつーの!」
左右田が胸を張り、狛枝に指を突きつける。
「オレも気持ちはオメーらと一緒だって話だろーが!」
「ははっ、左右田も午後頑張れよ!」
「おう」
日向が椅子を机に押し込む。半歩身を引いた瞬間、声が追いかけてきた。
「日向クン、ちょっと待ってよ。キミの忘れ物のことなんだけどさ」
「忘れ物?」
「うん」
狛枝が立ち上がり、日向の正面に立つ。日向のネクタイの上をするりと、白い指がなぞった。
くすぐるような触覚に、身体が身じろぐ。
狛枝がスラックスのポケットからなにかを取り出した。見覚えのあるネクタイピンだった。迷いなく取り付けられた彼の胸を飾る銀色が、日向の胸の上でも同じ色で光る。
「これでいいかな」
狛枝が、満足げに頷く。白い指がそっと離れた。
「あ、ありがとう」
さらに混雑し始めた店内は、お互いの声が聞こえにくいほどになっていた。
狛枝の顎が上がる。穏やかさの奥に、何かに挑もうとするような意志を感じた。
……じゃあ、日向クン。今日も待ってるね」
狛枝がささやく。
「えっ……
「ボクは、キミを待ってるよ」
狛枝の言葉が雑踏をかきわけ、まっすぐに届く。
心を見透かしたような言葉だった。それなのに、日向を見つめるその灰色には、冷えた胸をあたためるような熱を持っていた。
「キミが選ぶものならなんでも、ね?」
狛枝がそっと日向の腕をさする。他者のぬくもりが傍にある。するりと腕をつたい降りた手は、最後に慰撫するように手首を撫でて離れていった。
信じてみたい。
積み上げたものが自分の中だけでなく、彼にとっても同じように価値のあるものだと、信じてみたい。全ての人間とはいかなくても、せめてこの男には。
自分の胸をそっと押さえる。
……ああ、わかった。いってくる」
日向は深く頷き、足を踏み出す。
大丈夫。大丈夫だ。
拳を握りしめる。
信じてみたいもののために、目の前の障害をなんとかしてみせる。
人々の絶望や恐怖、憎悪の苦しみの連鎖をこの生涯を持って断ち切る。元絶望だったからといって、簡単に躊躇いなく命を選別するような選択をさせはしない。誰も殺さず、殺されないような未来を掴み取ってみせる。
進む足取りは軽い。同時にほんの少しだけ、胸の奥の重さが軽くなった気がした。
それが彼のせいなのか、自分のせいなのかは、まだわからないまま。
食堂を出て、日向は一人になった。


「なぁ」
左右田のわずかに低くなった声音が、ポツリと落ちる。
「なにかな」
狛枝が顔を上げると、左右田の歯を剥き、露骨にしかめられた顔がそこにあった。
「よく食うじゃねーか」
「うん。だって、いくらなんでももったいないよね」
狛枝は、ふやけて衣の剥がれたごぼうをかじりながらそう言った。
「食えるなら、食えねーなんて言わねーで初めからもっと素直に食っとけよ。いつまでもオメーのこと気にして……日向がかわいそーだろ……
「今となっては、あの頃のボクに感謝しなきゃいけないのかもね。だって、自暴自棄になってたボクのおかげで、日向クンはボクを見てくれるんだからさ」
「可哀想だと思わねーのか?」
左右田がけっと、歯を剥き出して吐き捨てる。
「あのさ、ボクが今までどれだけ日向クンにフラグを折られたと思ってるの」
「いや、それはオメーのせいだろ」
「ねぇ、酷いと思わない? やっとボクのことを受け入れてくれたのに、まだ信じてくれないんだよ。キスして添い寝しただけで逃げちゃうなんてさ。ほんっと、絶望しちゃうよね」
「き、ききたくね〜」
左右田は頭を抱えて俯いた。
「わからないかな。それくらいしないと、今の日向クンは心配しなくてよくなった人間のことなんか見てくれないよ。彼が築き上げたはずの、確かな繋がりもきっと苦しい時ほど信じてくれない。彼を支える役には立てないかもしれない。今の日向クンに、そんな余裕はない」
……大事にしろよ」
左右田が奥歯を噛み締める。もぞりと動いた唇は、それきり小さなため息をつくだけだった。
「積み上げてきたものは、無駄にはならない。いろんなものに引っ張られて、また周りが見えなくなっちゃった日向クンに言ってもまだきっと受け入れてもらえないんだろうけどさ……。夜くらい、何も心配しないで眠れるようになれたらいい。ボクは心からそう思っているよ」
日向は狛枝を待っていた。
起きた後の、混沌と怨嗟の吹き荒れる現実の大地で、日向は待っていた。
責任と贖罪に一歩先を歩き続ける日向の背が、七十七期の皆を守っている。彼がうっすら浮かべたクマと、夜音もなく涙もなく泣いている彼の後ろ姿を知っている。
己の幸運が、今後何をするか考えるだけでも恐ろしい。
狛枝は最後のうどんの麺を飲みこみ、視線を上げた。灰の瞳が、鋭く光る。
「だから、あのさ……左右田クン。お願いがあるんだ。ボイスレコーダーのデータ、ボクにも聞かせてもらえないかな? 日向クンが今、誰と、そして何と戦っているのか知っておきたいんだ」
左右田の目が信じられないものを見るかのように見開かれる。
「初めに起きたみんなだけで戦ってるんだよね? ボクもそれに混ぜてくれる? ボクは……ボクの好きな人を、守りたいんだ」
二つ分の呼吸の後、左右田は黙したままつなぎのポケットをまさぐった。そして、音もなく親指くらいのデータのチップが差し出された。
……頼む。オレたちと一緒に、オメーも戦ってくれ」
ほんのすこし疲れた、それでも芯のある声が耳に届く。
狛枝は力強く頷き、温度の残るチップを受け取った。