ひなげし
2025-09-28 11:40:59
3342文字
Public 狛日
 

甘い匂いの合図

未機パロ/狛日
第64回狛日版週ドロライ「合図」「直感」
素直に甘えられない日向と、日向の出す不器用なサインに気がつく狛枝の話。

本のページを捲る。
室内は、静かにエアコンの音がしていた。
作られたばかりの未来機関の社員寮マンションには、外部の音はほとんど伝わってこない。連日のように外の木々をざめかせる風も、雨が地を打つ音も聞こえない。厚い雲がもたらす薄暗さが、早めの夜を染みさせる。
物語を追うにはいい日だ。
狛枝は心の内海にこもり、浸る。疑似体験とはいえ、恐怖と安堵が胸の内でぐるぐると混ざる感覚は心地がいい。
紙の感触に心を傾けて惚けていると、しんとした世界に馴染まない匂いがした。ふわりと、甘くやさしい香りが狛枝の鼻をくすぐる。
「なあ、お前もいるだろ?」
背後から声がした。
強くはなく、遠慮がちでやわらかな声が、閉じた世界に籠る狛枝を優しく撫でる。同時にとくりと、心地の良い胸の高鳴りを覚えた。顔を上げ、振り返る。
狛枝の同居人──日向と視線が絡んだ。日向は両手に白いカップをそれぞれ掲げ、狛枝のかけるソファの後ろに立っていた。いつもは凛々しい眉が下がり、榛色の瞳はゆるりと弧を描いている。ほんの少しクマを作る疲労の滲んだ顔が、歓喜を伝えていた。
ソファの右側が沈む。狛枝は本を片手で開いたまま、隣から差し出された湯気の出るカップを受け取った。揺れる乳白色からは、こもったような甘さと望郷を掻き立てるような香りがする。
「あれ、牛乳にしたの?」
「悪い、嫌だったか?」
狛枝はカップを軽く持ち上げる。湯気の向こうで、不安気に揺れる榛色に笑みを作った。
「いいや、ありがとう。ちょうど喉が渇いていたんだ」
「心配しなくても、お前がいつも飲む朝の分も残ってるから」
「別に明日の心配してるわけじゃないよ。いつもなら節約して白湯なのにね、って思っただけなんだ」
「別に……なんとなく、だ」
榛色の瞳がそっと逸らされる。日向は、そのままカップの中身を嚥下した。
狛枝はそっと眼を細める。
「ふうん。……そう」
カップの中の牛乳を一口飲んだ。
あたたかい。そして甘い。牛乳だけの甘みではないまろやかさが広がった。
直感だ。
胸の内がくすぐったい。
紙の上に指先を滑らせる。視線を感じた。
やっぱり、そうなんだ。
狛枝の世界を、そっと彼が追う気配に自然と頬が上がっていた。
狛枝にとって静謐な世界が崩れ、物語の音も匂いも消えていく。
目で追っていた紙の上に踊る文字はもう、意味をなしていなかった。
「ねぇ、日向クン」
「なんだ?」
本から視線を上げる。すぐに榛色が絡んだ。
狛枝は、からからと笑いたくなる衝動を頬の肉を噛み押し殺す。
「もっと寄ってもいいよ」
……はあ?」
「ほら、おいでよ」
カップを目の前のローテーブルに置き、膝にかけた毛布を捲る。
「別に寒くないぞ? それより、お前の方が寒がりだろ。胃の調子が悪くなったとか言ってすぐご飯抜くだろ。気にするなよ」
狛枝の視線に日向が首を傾げる。
「あは、日向クンさあ、ボクが気がつかないとでも思ってる?」
「は?」
「鏡でも見てきたら? 雨に濡れた犬の方がずいぶんマシな顔していると思うけど」
榛色の瞳が泳ぎ、戸惑うような顔になった。
今、狛枝の隣で狼狽える日向は、両眼の下にうっすらとクマを浮かべ、口元は固く引き攣っている。いつもは健康的な色をしている肌は、幽鬼のように白い。狛枝が好きな、ぎこちない笑みや困ったような笑みはどこにもない。どう見ても一週間前よりやつれていた。
狛枝はため息を一つつき、音を立てて本を閉じた。エアコンのリモコンに手を伸ばす。
「理由はいくらでも用意してあげられるけどさ」
リモコンのボタンを何度か押し、設定温度を下げる。
エアコンが大きな音を立てて、冷たい風を吐き出し始めた。
「日向クンがちゃんと乗ってくれないと、ボクはキミを助けてあげられないんだけど」
緊張した雰囲気に耐えられなくなったのか、日向はふっと息を吐き、カップの中身を飲み干した。カップを狛枝のカップの隣に並べ、勢いよくぶつかってくる。
「よくできました」
「なぁ、俺はこどもかよ」
「欲しいものを欲しいって素直に言えなくて、泣きそうで不貞腐れた顔してるなんて。子どもみたいなものなんじゃない?」
不貞腐れたような日向の尖った唇に、指先でそっと触れる。くすりと笑いが漏れていた。
「観念して、疲れて不安で甘えたいって認めなよ。一緒にちょっと眠って、あたたかいものでも少し飲んでまた眠る。ちょっと起きてセックスして……。たまにはそうやって怠惰に過ごしてもバチは当たらない。ね、そうでしょ」
「いいや、明日窓が割れてるな。狛枝、掃除は頼んだからな」
「ほら、すぐそれだ。キミ可愛くないって言われない?」
……っ、かわいい? ……親どころか、お前とセックスしてる時にしか言われたことないな」
日向のそっと浮いた腰に、慌てて手首を掴む。
「まって、揶揄ってごめん。拗ねないでよ。キミにどんなことがあって、甘えられなくなっちゃったのかはキミが教えてくれないから知りようがないけど、ボクは好きだよ。直情的でわかりやすくて、どうにもならないほど難解でめんどくさい日向クンのことが大好きだから」
「褒めてるのか貶してるのかどっちだよ」
日向が口元と目元を歪めて、しかめ面を作る。
その顔と耳朶にほんの少し血の色が通っているのを見て、狛枝は薄らと浮かべた笑みの下で、衝動を噛み殺した。
ああ、なんていじらしい。
嗜虐心が疼いて、少しだけ困る。
「ややこしいけど、いじらしくていいんじゃないかな。キミのことがどうしても気になって、気になって好きになっちゃったボクのことぐらいそろそろ信じてくれてもいいんじゃない?」
狛枝の右手の白い指を飾る、小さな傷がいくつも入ったペアリングが暖色の蛍光灯の下で鈍く光る。
……狛枝、本気でそう思っているのか」
「もちろん、本気だよ。そうじゃなきゃ、キミのわかりにくくて、めんどくさい合図なんてわざわざ拾わない」
「め、めんどくさい」
「そうじゃなきゃ、キミの自傷じみたひとりごとを否定したりしない」
「そう、か」
「うん」
狛枝は身体を横にずらし、両手を広げてみる。
手が震えても、誘うことはできる。
なんでもない風を装って、請い願うこともできる。
だけど、キミが自分で選んで手を取ってくれなければ意味がない。
日向の喉仏がこくりと動くのをじっと見つめる。
大きく広げた狛枝の腕の中に、おずおずと日向が収まった。
そのまま背中を抱きしめる。あたたかい。人間の、肉体の持つあたたかさ、生きた人間のあたたかさが心地よい。
「いつもよりつめたいね」
「お前の身体はあたたかいな……
語尾が消え入りそうな声だった。狛枝は、腕にそっと力を込めた。
強い光が一瞬、室内を白く染める。
腕の中にある身体が、強くかたく強張った。
「強い光が、苦手なんだ……
「そう」
……動かない身体の上で、ぼんやりとした視界の中で光る無影灯を思い出してさ」
耳元をくすぐる、無理やり明るく跳ねさせた声に、言葉が詰まった。
尽きることのない闇の中に、何もかもに置いていかれて独りになる。あの見覚えのある、底が抜けるような孤独の匂いがした。
視線を落とす。ソファの下には、狛枝と折り重なった日向の影が色濃く伸びていた。
「そこに影はあるのにね」
「ははっ、だろ?」
伸ばした指先で、短い栗色の髪をまさぐる。
「一眠りする?」
……ああ。おまえは、どうだ?」
「キミが甘えてくれるなんて幸運に恵まれちゃったからね……窓が割れて日向クンが怪我しないように起きていようかな」
そっと身体が離される。
見つめあったまま、唇は堅く閉じられていた。
じとりと睨んできた榛色に、狛枝は肩をすくめる。
「うーん、及第点だね。ねぇ、他にボクにできることはある? 日向クンの力になれるかな」
……なんでもいいから、いっしょに……寝てくれ」
「あはっ、わかったよ」
目の前の体躯を抱き寄せ、そのままソファの上で横になる。息を吸い込み、大きく膨らんでそっと萎み弛緩した身体に毛布をかけてやる。
「おやすみ、日向クン」
狛枝は、手の届かない本からは目を逸らし、そっと目を閉じた。