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ひなげし
2025-09-05 21:41:31
4643文字
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狛日
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月明かりは欲を知る
未機パロ/狛日 第61回狛日版週ドロライ「旅行」「欲張り」「熱帯夜」
全ては手に入れられないと知っているけれど、求めることを否定しない。今を受容する現実的な幸せの話。(年齢操作あり/三十路)
日向がゆるりと顔を上げた。
小さなルームライトが、薄闇の中から日向の顔を照らし出す。額にじわりと玉のような汗が浮かべ、だらりと唇を開けていた。
「なあ」
「なに」
「ここまでくると、お約束って言葉がぴったりだと思わないか?」
狛枝は顎を引き、薄らと汗をかいたペットボトルを開け水を一気に飲み干す。冷蔵庫から取り出したばかりの水は、身体が乾き切った人間にとってはまさに甘露。贅沢品と言ってもいいだろう。
「ボクらには完璧な旅ができないって?」
「ああ、そうだ」
日向が緩慢に頷く。
頷いた顎からぽたりと汗が垂れ落ち、並べて敷いたばかりの布団に小さな染みを作った。ファンの回る音が静かに、張り替えられたばかりの畳の部屋に落ちる。狛枝はそっと熱い息を吐いた。
忙しい機関での仕事の合間に二人は夏休みをとり、珍しく狛枝の希望で海沿いのホテルに来ていた。
「砂の城
……
、完成させたいんだけど来てくれるかい」
狛枝の拙い誘いに、日向は迷わず頷いた。身体を繋いでしまった深い関係だったから頷いた、あるいは、狛枝が自ら望んだことを自分だけが叶えてやれる、狛枝に選ばれたという自己肯定感から頷いた。屈折した自我で青春時代を焼け野原にした男の真意はどちらかわかりはしないが、狛枝にとってはもうどちらでも良かった。
望みとは言っても幼稚でささやかすぎる、小さな望みだ。もう遠くなってしまった、何があっても安全が保証された夢のような出来事の中でも、ささやかな望みさえ叶えられなかったことだけが心残りだった。ただの幻想。絶望からのリハビリでの幻の世界での心残り。それは、わかってはいる。
ただ、そのささやかな心残りを、彼は覚えていた。理由がなんであれ彼が頷いた時、ただそれだけでひどく満たされたのを覚えている。
ささやかな幸福感を覚えた旅の道中は何もなく、無事に目的地に辿り着いた。
何もかもがうまくいっていた。事故に遭わない。食事に当たらない。バーチャリアリティの世界ではついぞ完成しなかった砂の城は、窓から海辺を見下ろせば未だに形を残している。ここまで全く不運には見舞われていなかった。
そう、ここにくるまでは。
日向は息を吐き出し、狛枝と、客室の動かないエアコンと、淡い月光がゆらめく水平線を順繰りに見つめた。
おもしろおかしいと言わんばかりに、柔らかそうな唇が歪む。
「でもまあ、これぐらいで済んで良かったのかもな」
「キミさあ
……
」
訪れた不運を笑う男に、なんとも言い難い気持ちに襲われる。どこかくすぐったい。長い足を畳んで座り込んだ自分の身体を抱え込むように、身じろぎした。
暑くて、熱くて、どうしようもない。
生きている。
唐突に、言葉が頭の中で溢れてくる。生きていることを実感するだって? ぐつぐつとゆだった頭が選ぶ言葉を鼻で笑いたい。
「狛枝
……
?」
日向が首を傾げている。榛色が、月光に照らされ、いつもより淡く輝いている。ことりと心が動く。
生きている。
満たされたい。満たされたい。
もっと。もっと。
キミが欲しい。こんなどうしようもない地獄の中でも、キミの瞳に、言葉に、形にどうしようもなく惹かれている。そして、キミに支えられて、だらだらと生きてしまっている。
ボクの望みは、全てが叶わないと知っている。どこかが必ず欠けてしまう。それは、当たり前のことだった。
だけど、ほんとうは全部が、欲しい。
冷たい。熱く発熱したような皮膚に、冷ややかなものが触れている。あれあれ?
潜り込んだ深層から、いまに引き戻される。心配そうな榛色が、間近で狛枝の顔をのぞいていた。
胸が酷く高鳴る音が聞こえる。
四つん這いになり這い寄ってきていた日向が、濡れたタオルを狛枝の頬に当てていた。
「大丈夫か? 暑いよな。気持ち悪くなってないか?」
日向の眼差しと言葉が、静かな夜を分かち合う時のものに変わった。利己的な愛情のようなものが静かに柔らかく、熱を持つ部屋に落ちる。
濡れたタオルが、熱を持った皮膚の上を撫でていく。冷たくて、安堵感にほっと息を吐いてしまう。心地がいい。まるで、愛撫のようだった。
狛枝を見上げる彼の首筋を、玉のような汗がつるりと滑っていく。見てはいけないようなものを見た気がして視線を落とした。その視線の先には、人より少し大きくはりのある胸がシャツを引っ張っているのが見える。彼が呼吸をするたびに、膨らんで萎んでいる。それは、自分の身体の下で、彼が肌を上気させて揺れる淫らな踊りを連想をさせた。
ほしい。
急激に熱を自覚する。頭の中は既にくつくつと茹っていた。慈愛を滲ませた手を掴み、全体重をかける。日向は小さく息を呑み、布団の上へ倒れた。
「狛枝?」
見上げる日向が、訝しげに瞬きをする。
「
……
なにするんだよ」
「ん、ああ
……
。したくなっちゃった」
「こんな状態でどうしてしたくなっちゃうんだよ!」
「うーん、日向クンの身体。すごくそそるなって」
「
……
そそるのか?」
「うん」
日向の喉がこくりと動く。ぽかんと口を開け、榛色は狛枝を見上げている。
狛枝は上体をかがめ、目の前の体躯を指先でするりと撫でる。汗ばんだ肌。しっとりとした薄いシャツ。指を下へ下へと這わせていくと、急に首の周りに両腕が回った。そのまま抱き寄せられる。
「だめだ」
ほんのりと熱に浮かされた声が、耳元に吹き込まれる。蕩け始めた本能と、生真面目な理性がぶつかりざわめいている声だった。
「どうして」
「
……
帰って涼しいお前の部屋でしてくれ。本当は、俺もしたいけど
……
お前が倒れたら、たぶん助けてやれない」
「あ
……
うん。
…………
へぇ、帰ったらいいんだ?」
「なんだろうな。お前に望んでもらえるって、けっこう嬉しいんだ」
「そう」
「
……
俺はお前の恋人なのに、お前のこと何も満たしてやれなかったら虚しいだろ? 才能とか色々あるのは知ってるけど、お前が何かを望めるようになって、よかった」
日向の指が、狛枝の白髪を優しく撫でる。
「
……
そう」
「もうちょっと欲張ってもいいんだぞ。ずっと何も言わないだろ、お前」
狛枝の身体の下で、日向が身体をずらす。狛枝もずれて、そのまま日向の隣に転がった。熱い手が狛枝を追いかけ、触れてくる。指を絡めて、手を繋がれた。
「本当は、何か言いたそうな顔をしているお前のことを全部わかってやりたいんだ」
青白い光の中で、日向がそっと笑む。
わかりたい。そう溢した日向の瞳の中には恐怖などは微塵もなく、ただ静かに希求するような光を湛えていた。日向は、狛枝の呑んだ言葉があることを知っていた。
ぞくり。
身体が震える。
どうでもいい、そう思ってきた。そう思うように生きてきた。欲しいもの全部は手に入らない。それでもいい、それでいい。そう思っていた。しかし、
……
揺らがないわけではない。
ほんとうは、と緊張に声を振るわせて手を伸ばし、叫ぶ愚かな自分を不運なことに狛枝は知っている。
「
……
というのは建前だな」
日向はくすりと笑い、微かに肩をすくめた。
「建前なの?」
「本当のところは、俺のわがままなんだ。お前から飽きられる前に捕まえておこうかと思って、だ」
「はぁ?」
「最初お前が旅行に誘ってくれて、本当に嬉しかった。あのお前がだぞ? だから、ちょっとは期待したけど、お前は結局何も言わないじゃないか。だけどあのなぁ、そろそろ三十路なんだよ俺たち。俺は体重も、少し増えたし」
「ああ。キミ、肉が少し増えたよね。それでもまだほんの少しだとは思うけど」
「それに
……
お前のせいで後ろでしかイけなくなっちゃったんだぞ。ごちゃごちゃ考えられて今更手放されても、困る」
赤らんだ顔で日向が唇をふるわせる。羞恥に歪んだ眉と、瞳。優しく微笑もうとした。うん、大丈夫。いつも通りに笑える。
「あはっ。日向クンって、貧乏くじみたいなボクのことが欲しいんだ?」
「悪いかよ」
「気持ちはわかるよ。差し出したら、差し出しただけ見返りが欲しいもんね」
「
……
なぁ、狛枝。あんまりよくないこと考えてるだろ。
……
それ、どうしても俺に言えないか?」
日向は狛枝に向かってほんの少しにじり寄る。鼻先を近づけ、顔をのぞいてきた。
「聞きたいの?」
「ああ、こんなに暑いんだ。気がおかしくなったっておかしくない。そろそろ言ったっていいだろ」
小さく息を吐く音がした。
それから、沈黙が落ちる。
互いの呼吸の音と風が回る音だけが、世界を包む。静謐な夜を割くように、狛枝は口を開いた。
「
……
はぁ。頭も心もだれかれ構わず配り散らして、ボクにはこれっぽっちも残そうとしてくれないのによく言うよ。これがきっと不運なんだろうね。ボクが言うのもなんだけどさ、酷い男に引っかかっちゃった」
「無傷な脳はもうないけど、その残りと俺の遺灰はお前に丸ごとやるよ」
「はぁ
……
最悪。ボクの遺産でキミは平和で平穏でつまらない田舎に隠居でもしたら?」
二人で黙り込み、そろりと身じろぎをする。目をつぶり、胸の奥深くまで入り込んでいた熱い空気を全て吐き出した。閉じていた目を開くと、自然と視線が絡む。柔らかな榛色の瞳だ。
「なぁ、狛枝」
「なに」
「今の
……
酷いプロポーズ、みたいになっちまったな。
……
これ、やり直さないか?」
「デリカシーのない告白だもんね。暑すぎて頭が茹だってどうかしちゃってるんだよ。これ女の子には絶対好かれないんじゃない、日向課長?」
「いや、お前はもうちょっとロマンがあるのが好きだろ」
「は?」
榛色に強い光が宿る。
「言っただろ。ちゃんと捕まえておきたいんだよ、お前のこと。なんでお前なんだって思ったこともあるけど、俺はお前といっしょに、いたい。そのためなら、俺はなんだってするさ」
お前といたい。
嘘じゃない。
ただ、それが今の自分にとっての真実なのだと、日向は噛み締めるように囁いた。
彼の性質を思えば、彼の言葉を信じ切ることは難しい。日向は、目的のために自分を殺してしまえる人間だ。彼の言葉通りに、なんでもしてしまう。馬鹿馬鹿しいと吐き捨てたくなるような手術に、彼は尊厳と脳みそを差し出した。最後まで起きなかった狛枝のために、何度も何度もプログラムを繰り返し、手を伸ばし続けて数年を棒に振るくらいは平気でしてしまう。そんな男だ。
たとえ今、狛枝を望んでくれたのだとしても、世界のために、自ら犯した罪のために簡単にころりと変わってしまう可能性は十分にある。
全部を掴ませてくれないくせに、こちらばかり求められるだなんて酷い話だ。欲張りで、わがままもいいところだ。
だけど
……
日向の今の望みも、本当なのだろう。
本当だといい。
どこまでも不安は付きまとうのに、そう信じたくなるような、熱がそこにはあった。
「自覚のない
……
たちの悪いのに捕まっちゃったなぁ。あのさ、ボクは全部が欲しいんだよね」
狛枝を見つめ続ける日向のとがらせた唇あたりに、頑なで、挑むような少しだけ出会った頃の姿が重なる。なんとなく、おかしい。少しだけ、なつかしい。受容にも似た気持ちに自然と口元を緩めていた。
「そうだな。俺もだ」
繋いだ手が強く握られる。
手のひらの熱。男らしく骨ばった手の感触。遠くの波の音。月明かり。ファンが風を送る音。
溶けてなくなってしまいそうな熱の中、狛枝は意識が波にさらわれるまで白い光を湛えた瞳を見つめ続けた。
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