ひなげし
2025-08-30 11:18:00
4861文字
Public 狛日
 

幼さをすくう匙

未機パロ/狛日 第60回狛日版週ドロライ「夏バテ」 
夏バテの狛枝が、自身の苛立ちの原因となった願いや本当の望みに気づく話。(年齢操作あり/22歳くらい)

狛枝は夏が嫌いだった。
絶望により一度世界は崩壊し、一時的に電気の使用が規制されるような環境下に置かれた時期があった。当時、文明は長期間に渡り流通は滞り、使用燃料も抑制された。不便を強いられたからには少しは涼しくなってもいいものだろうに、近年の地球は涼しくなることを忘れてしまったかのように暑い。むせかえるような暑さと、クーラーの冷気を交互に浴びて神経がおかしくなってしまう。
そして、なんていったってうるさい。
窓から差し込む朝の光の筋は、まるで針のようでまぶたをうるさく刺してくる。
タオルケットを被り、逃げた先でもセミが朝から大勢で大合唱を続けて、本当にうんざりだ。それなのに、セミが鳴くことに喜ぶ人間もいる。
昨日、狛枝の同居人もそうだった。
「ああ、ここまで生態系も戻ったんだな。そう思うと、夏も悪くないとは思わないか?」
贖罪の意識が強いのか、深刻な環境汚染を乗り越え、取り戻しつつある日常のひとかけらを見つけるたびに狛枝の隣人は胸の上に手を置き瞳をそっと細め、そっと俯いた。
彼の浮かべる感傷的な表情は悪くない。
ただ、その後必ず俯いて自分の輪郭をなぞる仕草をする。彼は俯いた榛色にうっすら消せない後悔と嫌悪を滲ませながら、懸命に一途に自分自身に触れている。側にいる狛枝のことなんか忘れて、自分の内側にある罪と対峙しようと努めている。
あの冷たい常夏の島で、他人を信じたいと強く願いながらも、恐怖と他責に歪んでいた不安定な瞳はもう長らくみていない。彼は自分自身から逃げなくなった。
才能もない、ただの有象無象の一人だという自覚はあるはずなのに、愚かにも全てを一心に背負おうとしている。
自分から逃げずに痛みを耐え、愚直に向かい合い続けることは困難だ。
それは、自分にはない資質でもある。
だが、同時に呆れもしてしまう。彼は身の程を知らなさすぎる。自分の身体の大きさ以上に、分不相応に手を伸ばそうとする。自我が大きいのだ。全てを受け入れ、背負い、自分のせいだと思うこと。贖罪に全ての心を砕くなど、傲慢で愚かとしか言いようがない。
一度こうなってしまえば、榛色は狛枝をみてくれやしない。
言いようのない不快感に、身を掻きむしりそうになる。ぞくりとするこの感覚は、恐怖に等しい。彼にかける言葉が見つけきれない己が、余計に腹立たしい。じわじわと鳴くセミの音と、むせかえるような熱気。空っぽの胃から迫り上がる胃液。自分を映さない榛色。地面がぐにゃりと歪む。汗がぽたりとアスファルトの上に落ちた。
暑い。
そして苦しい。
だから、狛枝はうるさい夏が嫌いなのだ。
ため息を飲みこむ。
ああ、嫌なものを思い出した。
なんだかとても疲れていた。寝台から身を起こし、重力に抗う気力も身体的力も湧いてこない。
今日は休日だ。たとえ身体が動かずとも、なんの問題もない。本気でそう思っている。
このまま、朝寝をしてしまおうか。ふわりとあくびを……聞き慣れた足音。そして、ノック。間を開けず、すぐに扉が開いた。
「入るぞ。狛枝、起きてるか?」
同居人である日向が、部屋に入ってきた。
「あのさぁ、返事をする前に開けたらノックの意味ないと思わない?」
「お前、ちゃんと返事してくれたことあったか?」
「あるにはあるよね」
「そうだったか? 悪い、覚えてない」
「前キミが楽しんでるところを邪魔したこと、まだ怒ってるの?」
日向はベッドサイドまで歩み寄り、横たわったままの狛枝を見下ろした。眉が吊り上がり、唇はひくりと痙攣している。
「お前が掘り返さなければ許してたな。そろそろ起きろ」
ぐるりと不快感が胃の中を回る。嫌な光景がリンクする。過干渉に嫌気がさした年頃の子どものような気分だ。そして、ふてくされた子どものような気分でもある。
「今日はいいよ。放っておいてくれない?」
寝返りをうち、日向から背を向ける。
「ご飯ができてる。全部食べなくてもいい。じゃないと」
「はぁ。どうしてもっていうなら……キミが食べさせてくれたらね」
「わかった」
日向は背を向け、部屋を出て行った。大きくため息をつきそうだった。かろうじてこらえる。胸の奥が波立ち、苛立っていた。彼といると、たまにこうやって自分の心が、抑制から逃れていく。疲れているせいだ。
そう、ボクは今とても疲れているんだ。
すぐに足音がまた近づいてくる。
遠くからふんわりと焼けた香ばしいパンの匂いと、バターの香りが鼻につく。重だるい身体が、反射でえずいていた。
日向が何をやるのか、いつもは容易く予想がつくのに時々狛枝の手から離れてしまう瞬間がある。不意打ちのように、裏切るように。
そう。こうやって、彼はボクの思いの通りにはならない。だから、疲れる。
小さな音を立てて扉が開く。視線を向ければ、食器を乗せた盆を持った日向がそこに立っていた。
「なに」
「食べさせたら、食べるんだろ?」
日向が、盆を差し出すように見せてくる。
狛枝が比較的好んでいるバターの乗った黄金色のトースト。ケチャップの酸味の香る、少しそぼろになりかけたスクランブルエッグ。剥かれていない色が青めのバナナに、瓶に入った黄色のなにか。
いつもなら口角が上がるはずなのに、今上がるのはえずきと胃液だ。食べ物の匂いが受け付けられない。
「いらないって遠回しに言ったの伝わらなかった?」
冷たく、ぞんざいな口調になる。彼が過去できなかった、いいや、してくれなかったことを条件にあげた。できないだろうとけしかける、嫌味、または皮肉のつもりだった。けれど、日向は真面目な顔をしてぎゅうと朝食の乗った盆を握り、首を振った。
「何言ってるんだよ。食べないとそろそろ倒れるぞ。昨日昼も夜もほとんど食べてなかっただろ」
「ボクが食べたら日向クンは満足するの? キミのしつこいそれは保護責任から? キミはボクの親でもないのに」
吐き出すように言い募る。途端にくらんと天井が回った。ぐるぐると、世界が回る。血の気が引き、冷たい汗が噴き出る。開けていられなくて、目を閉じた。
沈黙が落ちる。キャスターチェアの転がる音が聞こえた。薄らと目を開ける。眩しい視界の中に、ベッドの側で椅子に座った、威勢のない日向の顔があった。
「暑いのは苦手、だったよな。去年話してくれたから、知ってたはずなのに……昨日は悪かった」
「なんの話」
「炎天下にお前をずっと付き合わせた。俺はいつまでたっても自分ばかりで恥ずかしいって話だ」
日向の目が瞬きせずに見つめてくる。狛枝はふっと息を吐いた。
「なんだ、日向クンの自分勝手な話か」
「そうだな」
そっと日向が目を伏せ、小さく頷いた。
……どうかしたの? 悪いものでも食べちゃった?」
「なんでそうなるんだよ」
「キミが簡単に認めてしまうなんてさ。自傷行為がボクより上手になっちゃったんじゃないかな」
日向の態度は狛枝の記憶にあるより、ずっと大人びていた。
焚き付けて燃え上がらないなんて、らしくない。その他大勢に向ける態度と同じものを、狛枝に向けている。その殊勝な態度が余計に気に食わない。
ボクの知っている彼と同じ人間かと、違和感を覚えてしまう。
彼が優しいのは変わらない。こんなボクに手を伸ばして友達になるくらいに変わっていて、諦めの悪いところも変わらない。だけどキミはもっと、直情的で、素直で、怖がりで、見栄っ張りで、自分本位だったはずだ。
狛枝の言葉に拗ねて、唇を引き結ぶことひとつぐらいするはずだったのに。
「あのなぁ、俺だって何も思わないわけじゃないんだぞ。俺は……みんなとは同じクラスでもなんでもなかったけど、みんなと一緒に生きてる。そう、思いたいと、思うようになりたいと思っている。そのために……真実を見ないふりも、自分ばかりでもダメだって学んだんだ」
「三つ子の魂百までって知らない? キミのそれは、そう簡単に治るものでもないよ。ボクが言えたことではないけど、キミって存外、友達甲斐がないよね。自分は承認欲求強めで、構ってもらいたがりなくせにさ」
「お前に言われなくたって知ってるさ。だけど、俺だって」
縋るように伸びてきた手のひらを、指で弾く。
「キミの自己満足に付き合わされるくらいなら、付き合いたくないんだよね。放っておいてくれる?」
「自己満足なんかじゃ、ない。いくら言っても今のお前には分かってもらえないかもしれない。だけどな」
日向が膝の上の盆から瓶を掴み上げ、蓋を剥がした。ふわりとバニラエッセンスが香り立つ。
「もっとましな顔してから嫌味でもなんでも言ってくれ。じゃないと、謝れないだろ」
剥がされたプリンの蓋を見て、狛枝はあからさまなため息をついて見せた。
無造作に剥がされた蓋には、滅多に手に入らないと機関の人間が羨望の目を向ける店の名前が入っている。どういった経緯で彼の手に渡ったか分かりはしない。だが、物資の流通の不安定さからこういった嗜好品を手に取れる機会が多いというわけではない。
顎を上げ、奥歯を噛んでいた。
ほんとうに、冗談じゃない。
失いたくない。彼はボクの幸運の手の先にいるというのに。どうして、なんでも全て分け与えてしまうんだ。どうして、自分に頓着しない。どうして彼は自分を大事にできないんだ。
失いたくない?
胸の内に不意に出てきた言葉に、息を呑む。
ボクは、キミと繋がっていたいのか。
言葉は急速に狛枝に理解を促した。
ボクは、キミと心を通わせたいのだ。
責任。罪。罪悪感。自己嫌悪。ボクが初めて好ましいと思った彼が、周囲や彼自身の手によって過剰にすり潰され、歪んで変質していくところをこれ以上見たくない。
ボクは、キミが気に食わず、大事にできず、存在そのものを認めたくないであろうその醜さ、傲慢さ、直情的で愚直なところを存外気に入っているということらしい。
馬鹿らしいとも思う。環境が変われば、人も変わる。適応していく。それぐらい、わかっている。人は、思う通りにはならない。
それに加えて、自分自身さえコントロールできなくなってしまうような予感。不快感と熱に不意に襲われる。そんな危険なものだと分かっている。だけど……
ボクは彼と繋がっていたいのだ。
重たい言葉だ。ようやくたどり着いた言葉と、その言葉の重さに、狛枝は押し開けるように唇を開いた。
「あのさ、日向クン」
「なんだよ」
「今、いろいろ言いたいことがあるんだけどさ」
「ああ」
ぐるぐると回る感情をなんとか呑み込み、努めて冷静に言葉を探る。視線をあげると、榛色の視線がぶつかった。
「キミさ、友達とする喧嘩の仕方って知ってる?」
「いいや。知らない」
「ああ、知ってるくらい他の誰かと付き合いがあったなら、頭なんて開かないもんね」
「お前調子いいのか、悪いのかどっちなんだよ。だけど、まあ……喧嘩の仕方は九頭龍に教えてもらうか。俺だって、お前に言いたいことなんてたくさんあるんだぞ」
きゅっと、唇が強く引き結ばれる。
それは、狛枝がよく見慣れた日向の顔だった。
思わず呆けていた。狛枝の空いた口に、冷たいスプーンが無遠慮に差し込まれる。
「お前、頭いいのになんでこんなに簡単なことがわからないんだよ」
日向は唇を尖らせ、狛枝から視線を外した。
スプーンをぎゅっと握った手が、再びプリンをすくう。その手つきは、他人の目に晒される食事会の時のような優美さのかけらもない。まるで、親という理解者に理解されなかった子どもが意地になって親の前でご飯を食べる時のような、粗野なものだった。
なるほど。手放し難いものは、幻のように消え失せてなどいないらしい。
人間はどんな環境に置かれようとも、全てが塗りつぶされるものではないのかもしれない。絶望に塗りつぶされても、次第に日常の色を取り戻しつつある現実と同じように。
狛枝は舌の上で滑らかに溶けていくプリンを飲み込み、深く息を吐いた。