ひなげし
2025-08-22 21:36:08
7122文字
Public 狛日
 

ロングアイランドに沈む灯

未機パロ/狛日 第59回狛日版週ドロライ「両片思い」「作戦」 初恋を諦めた日向と、初恋を拾いに行く狛枝の攻防戦。(年齢操作あり/30歳)

カウンターに並ぶ琥珀色のボトルをぼんやり眺めながら、日向は自分のグラスを小さく揺らした。
カツカツと氷を砕く音。グラス同士が触れ合うカチリという音が、静かな夜の空気を小さく震わせる。
夜を切り取ったような小さな箱のバーは、一人の夜を楽しむ数名の客がいるだけだ。遠くから流れるジャズのゆったりとした音に混じって、バーテンダーがグラスに氷を入れていく音を立てる。
カウンターに一人かける日向はそっと、ため息をついていた。目の前のレモンを飾ったコリンズグラスの中身は紅茶の色をしている。バーテンダーに予約の名前を告げたところ、サービスだったのかすぐに用意されたものだ。じわりとアルコールと氷が模様を作りながら混じっていく。静かな中で心地の良い音が雑多に交わる。こういう場所にいると自分の中の未練も、ほんの少しだけ溶けていく気がした。
誰かに気持ちを預けるなんて、もうできないと思っていたのに——不思議なことに、胸の奥がちくりと疼いた。
この店に入ってもう何度目だろうか。店の外に続く重たい木の扉を見つめる。依然として開く気配はない。約束の時間を過ぎても待ち人が来ない。それにどこかほっとする自分に、奥歯を噛んだ。
グラスの酒を口に含む。
アイスティーのような味と飲みやすさの割には胸を焼き、身体が火照る。
三十歳になってまで、滑稽で、情けない。誰かに期待して何かを求めるなんて、もう散々だ。他人に自己をさらけ出し寄りかかり、のめり込むとどうなるか、自分でもわかっている。そうだろ?
何度見ても画面は変わらない。通知を一つも知らせないスマホをカウンターに伏せる。日向は俯き、詰まっていた息を吐き出した。

あの時、あの場面をちゃんと見届けて約束を無かったことにできたなら……そう思ってしまう。あの時──八時間前。人気の少ない廊下で偶然耳にした狛枝に告白し、夜ご飯に誘う一途で頑なな女性の想いを俺は最後まで聞くことができなかった。結局どうなったかは知らないが、もしすぐに良かったじゃないかと友人の背を押すことを選んでいたら。俺は元から取り付けていた約束を反故にできたかもしれないし、こんな場所で感傷に浸り、見苦しい未練を直視しなくて済んだのかもしれない。未練など、早く殺してしまえばよかったのに。これは後悔だ。
俺は狛枝が好きだった。
言葉には一度もできなかったが、一時期寄りかかるならこの男だというような、甘やかで柔らかい関係になったことがある。だが、夢から覚めて真実を知った彼との間には、甘やかさなどは一切なくなった。狛枝は日向に口先だけの優しさや労りを与えることは一切ない。日向と狛枝はまるで鏡合わせのようだった。狛枝は同族嫌悪なのか日向の卑劣さ、愚鈍さ、偽善に傲慢さに苛立ち、真実を突きつけ、言葉は常に針を含んでいた。
本気で向かい合って、本気で分かろうとして、どれだけ心が血を流そうが分からなかった。十年は経った今でさえ、日向と狛枝の間には溝が横たわっている。
それでも、どこか心惹かれていたのだろう。
一度与えられた他人の柔らかさ、親愛、愛情を忘れることはできなかった。凍土で繋がれた手のあたたかさを簡単に忘れることはできなかった。
もう二度と関係が戻ることはないというのに、穏やかな熱を忘れられない。散り散りになった縁を不器用につなぎ合わせて、かろうじて友人でいられることに満足すればいいのに、未練がましくて嫌になる。
人はそう簡単に変わらない。
胸の内で繰り返す。
どれだけ表面を取り繕えるようになろうと、狛枝は変わらない。俺だってそうだ。俺は俺だ。大人になっても、結局根っこの部分までは変われなかった。それを認めて、今も惨めに生きている。ほんの少し変えられたとしても、所詮変えられるのは自分だけ。
期待するだけ、裏切られる。あの男は期待をするだけ無駄なのだ。
柔らかな音が聞こえた。
店内に響くジャズピアノは静かに柔らかく、あたたかい。柔らかな音色は、心の奥底に置いてきた感傷をそっと撫でていく。暗い夜に迷子になった人間を慰めるように、優しく愛撫する。
心地がいい。
身体が重くなり、深海にゆったりと沈んでいく。
そんな音だった。

「ねぇ、起きてる? 日向クン、ねぇってば」
意識が海流に揺らされる。海の底から押し出されるように、意識が浮上した。
ぼやけた視界の中で、曇り色が日向を覗き込んでいる。
瞬くと、目があった。
狛枝は日向の前でゆるりと手を振る。
……ん、あぁ。おつかれ」
「先に飲んでたの?」
「悪い、一杯サービスなのかわからないんだが、もらって飲んでた」
「別にいいよ」
狛枝は、日向の隣のカウンターチェアにかけてから、日向に顔を向ける。視線が合えば、白い顔は柔らかく笑んだ。日向は、狛枝の顔から目をそらし、ため息を一つつく。言葉と共に口元を引きつらせた。
「で、どうしてお前はそんなにぼろぼろなんだ」
淡い暖色のライトの下、狛枝の炎のようにゆらめく髪がいつもより乱れている。不思議な雰囲気を醸している白い顔には荒いコンクリートに擦り付けたような赤い線が入り、白いワイシャツは濡れてぺったりと肌に引っ付いていた。
「あはっ、笑ってよ。昼間ちょっと色々あって断ったのに後輩には付き纏われるし、泣かれちゃうしやっと解放されたと思ったら、知らない誰かに押しのけられちゃって壁に衝突。ここにもうすぐ着くって時に、閉店間際の花屋に水をかけられるしでもう散々だよ」
「これで拭いたらどうだ」
スラックスのポケットから、少し皺の入ったハンカチを差し出す。
「日向クンさぁ、ボクの用事が終わるまで待ってくれてもよかったんじゃない?」
濡れたワイシャツを日向のハンカチで叩く白い手をぼんやりと追う。日向は、ほとんど氷に溶けた紅茶のような味の酒を飲み干した。
「そのまま帰ってもよかったんだぞ」
「つれないなぁ。さすが元予備……自分が言ったことを忘れちゃうのは不義理じゃない? 先にキミがお礼に奢ってくれるって言ったのに」
狛枝がすんと鼻を鳴らして、日向をじっとりと見つめる。
「不義理もなにも、別に今日じゃなくてもいいってだけの話だ。前にもよくあっただろ。連絡くれたら日程くらいずらしたぞ」
別にいつものことだった。どれだけ約束していても、この男の手にかかれば時として、全てが無駄になることがある。確かなものなど、ほとんどない。恨んではいない。日向は持つことが叶わなかった才能には人間はどうしても抗えないのだと、そういうものだと知っている。
「そうじゃなくてさ。ボクが今日、来たかったんだよね。待たせてしまったからさ、ボクにも一杯奢らせてよ」
「友達なんだから、何もそんなに気にするなよ。いつものことだろ」
「友達だからって、それはキミを蔑ろにしていいって理由にはならないよね」
……お前、もうどこかで飲んできたのか?」
狛枝の表情に思わず呟く。
「何いってるの? 素面に決まってるでしょ。はぁ……日向クンさ、少し仕事減らしたら? キミが正常な神経でいられることを心から祈っているよ」
狛枝が眉間に皺を寄せ、肩をすくめる。その横顔をちらりと見やり、日向は苦く笑った。
日向は、狛枝という男をある意味信頼していた。何よりも希望を信奉し、才能がある人間が好きな人間は、どうでもいい人間の軽口を聞き流してくれる。そういう意味で、信頼していた。
狛枝という男から正論が返ってくるなんて、居心地が悪い。それが、日向が無意識に自分を蔑ろにしていることを咎めてくるのだからなおさらだ。
話題を変える。
「なぁ、飲むのはいいけどお前ご飯食べたか?」
「食べたよ」
「いつ」
「七時間前かな」
「なんだよ、ボクに食べられるなんて食料がもったいないよってことか? 随分と謙虚なんだな」
「罪木さんが教えてくれたけど、これ夏バテって言うらしいよ」
「知ってる。そんなんじゃ、不健康まっしぐらだぞ。いいからサラダくらい食べろ」
「いらないって。すみません、ジントニックを二つ」
狛枝の注文をとりにきたバーテンダーと目が合う。
「すいません、コールスローください」
口元だけで小さく笑ったバーテンダーは、足元の冷蔵庫からすぐに深皿を取り出し、狛枝の前に置いた。
「ちょっと、勝手に頼まないでよ」
狛枝が目元と口元を歪め、日向をじっとりと睨んでくる。
「俺の奢りだ。大人しく食べろ」
あんまりなしかめ面に、日向はからからと笑っていた。
なんだか楽しい。心がほんの少し浮き立つ。
狛枝は押し黙り、コールスローをフォークで刺して口に含んだ。
しゅわしゅわと音を鳴らすタンブラーグラスが目の前に置かれる。十分に冷やされたグラスはすでに薄く曇っていた。
「無理に飲まなくてもいいからさ」
白い指先がグラスに触れる。
「いや、飲むよ」
「嬉しいな。じゃあ飲もうか。お仕事お疲れ様、乾杯」
差し向けられたグラスに、日向は自分のグラスを触れさせた。
「乾杯」
ジントニックの芳香が匂い立つ。ラベンダーやカモミールの豊かな香りはまるで香水のようだ。
口に含む。
ライムやオレンジ、フレッシュな爽やかさが広がった。口の中で弾ける泡は清涼感があり、塞いでいた心を押し流していくようだった。飲みやすい味と爽やかさは、心身を心地の良い場所に連れていく。
いつのまにか、あの常夏の島のレストランの窓際で、夜ひっそりと冷たい水を二人で飲んでいた瞬間を思い出していた。
視線をあげると、同じ飲み物を静かに楽しむ横顔が目に入る。口元にほんの少し浮かんでいる笑みには、見覚えがあった。あの頃と比べたら、彼の顔からは柔らかさが取れてしまったし、左手は義手だ。日向へ無垢な表情は向けなくなったけれど、静かで知性を感じさせる灰色は変わらない。
お酒を提供する夜の静かな店だからだろうか。なんとなく、あの甘やかさがあった頃の夜を思い出していた。
「何?」
瞬きをした灰色が、ゆるりと視線に絡む。
「いや、俺たち……色々あったけどいい友達にはなれたよな」
日向はグラスを置き、狛枝の瞳を見つめる。
自分がこぼした呟きには、感嘆と望郷の響きがこもっていた。
大きな環境に飲まれて変わったものもある。壊れてしまったものもある。久しぶりに見つめた彼の顔。口元には無邪気な笑みはなく、しっかりと大人になっていた。だけど、決して全てがなくなったわけではない。
沈黙が落ちる。
グラスの内側から泡が弾ける音と、店内のざわめきが伝わってくる。
狛枝が小さく息を吐いた。
「友達? ふぅん。ボクは少し物足りないけどね」
「ははっ、まさか親友だって? 俺たちが? あのなぁ、俺とお前はお互いに少し……いいや、露悪的すぎただろ。あれは親友って、言っていいのか?」
肩をすくめ、軽くからかってみる。口先だけの、いつものからかいだ。
「ああ、そうじゃなくてさ……。ボクがキミを愛してるって話なんだ」
「は?」
時が止まった。
日向は瞬きを繰り返して、狛枝のほんの少し赤らんだ顔を見つめた。視線が合う。灰色にはただ静かな光が浮かんでいた。淡々とした声は揶揄の響きが一つもなかった。アルコールで少しだけ、素直になっているのかもしれない。
唇が震える。しかし、うまく言葉が出てこなかった。
束の間の静寂を、ジャズが撫でていく。空気を吐き出すだけの日向を、狛枝はずっと待っていた。狛枝の皮袋をつけた左手が、半分ほどになったグラスを揺らす。あたたかな光を反射するグラスが、夕日を反射する海のようだった。じわりと染みる感傷に深く息を吐く。
……今更、そんなこと言うなよ」
日向は俯き、ゆっくりとかぶりを振った。まるで拗ねたような物言いに、思わず舌を打ちそうになる。あまり感情がうまく制御できていない。
「あれ、やっぱりまだ脈ありそう? 今からでも間に合うのかな」
「いいや、それはお前の勘違いだ。残念ながら脈の在庫はないぞ」
狛枝がカウンターに肘をつき、日向の顔を覗き込む。
「そう? 誰よりも見て欲しがりで、寂しがりやなくせに」
思わず眉をひそめていた。
「大体お前が愛だって? 誰が信じるんだ。そもそもどの口が言ってるんだよ、どの口が」
「あはっ、弁明の機会をもらえるなんて光栄だなぁ……!」
「あのなぁ〜、やるとは言ってないぞ」
「本当に? 気にして眠れない日もあったのに?」
「別にお前のことだけじゃない」
「そう。……うそつきだなぁ」
白い指が立てられ、日向の目と鼻の先でくるりと回る。
「やけに自信過剰だな。何か根拠でもあるのかよ」
「キミのソウルフレンドに苦情を言われたんだけど」
狛枝がにやりと笑う。日向は全ての言葉を飲み込み、こめかみを押さえて深く息を吐いた。
この狐男。全く頭が痛い。わかっているならさっさと言え。
「それで? お前は俺にどんな懺悔を聞かせてくれるんだ」
狛枝は真顔になり、中身がほとんどなくなったグラスを見下ろした。
「うん。プログラムから起きた頃のボクはね、こんな希望もない世界にボクを引き摺り出したキミを確かに恨んでいた。そして、嫉妬していたんだ。なんの才能もない、他人に頭を差し出した愚かでどうしようもない無価値なはずの予備学科のキミが、自己実現をしているように見えたから。ああ、ごめんね。あの時のボクにはそう見えたってだけだよ。キミのことを何にも知らないまま、知ろうとしないまま見えたものだけでキミに嫉妬していた。どうして無価値なはずのキミがみんなに必要とされて存在しているんだ……ってね。でもこれは、裏を返せば……なんの価値もない愚かでゴミクズのボクだって希望を持っていたかった。そんなどうしようもない愚かしい望みが浮き上がってくることを、ようやくボクは人に話せるくらいに飲み込めるようになったって話なんだけど」
「だから、それを嫉妬先の俺に言ってどうするんだよ」
「あんなにボク自身がぐちゃくちゃだったのに、それでもやっぱり日向クンからはどうしても目が離せなかった。ボクがいるのに、キミがちゃんと生きているか不安になるし、キミと目が合うとどきどきしちゃうから少し苦手で」
「残念ながら不整脈だ。健診をお勧めする。身体は大事にしろよ。俺たちもそろそろいい歳だぞ、狛枝」
ふぅん、と言いたげに狛枝の眼が瞬いた。獲物を狩るような、捕食者の瞳だ。
ほんの一瞬息が詰まり、喉が渇いていく。日向はこの狛枝の表情が苦手だった。無邪気に容赦なく他者を痛ぶり、暴いていく。そういった残酷なことをこの男は平気でする。
得体が知れない。
だからこそ、何年経っても目が離せない。
口元を引き締める。
「もしかして、期待するのが怖いのかな?」
「なあ狛枝。さっきから人の話聞いてるか?」
「あのさ、日向クン。気がついてる? キミ、さっきからずっと早口だよ」
眩暈がした。
水に溺れていたかのように、深く息を吐き出す。今まで息を詰めていたことに、初めて気がついた。
決定的な未練。決定的な証拠。
狛枝は一つ一つ丁寧に、嬉しそうに日向の心を剥いでいく。日向が遠い昔に捨て去ったつもりで、置き去りにしたものに触れてくる。なんて残酷なことをするんだろう。
己の女々しく、そして脆弱な、この男に期待してしまった愚かな過去をいまだに忘れられない。そのことを、突きつけられる。
「今までごめんね」
カウンターの上で震える日向の拳を、あたたかなものが包み込む。白く、節ばった指が日向の手に絡んでいる。
……はは、なあ。冗談だろ」
かろうじて声を絞り出す。
「ねぇ、日向クン。ボクのお酒は全部美味しかった?」
「は?」
「二杯飲んだよね。ボクのことだから遅れると思ってお願いしていたんだ。こんな小賢しい真似をして卑怯でずるいかなと思ってたけど、使えるものは使わないとね。だってキミ、年々隠すのだけは上手になっていくんだから」
再び言葉を失う。
灰色の視線が、日向に注がれている。温度を持つ視線に身体の自由が奪われる。触れた部分はあたたかいはずなのに、ぎくしゃくと手も足も関節が思うように動かない。
上に重なる白い手を、振り解けない。酔いのせいにするには、白い指先に宿る熱があまりにも鮮やかすぎる。
苦い。口の中が、苦くてほんのりと甘い。
いまさらこの男を信じられるのか。
わからない。臆している。
だって、何度も振り払われた手を本気で握り返せるほど、俺は強くはない。塞がりきれない傷口を見て見ぬふりをようやく覚えたのに、また脆弱な自分に戻るのか? 勘弁してほしい。嘘偽りのない本音だ。
だけど、この男が嘘だけはつかないことを知っている。
この男は、俺には言葉を飾らないことを知っている。
そして、この男が平和な常夏の夢の中で最後の最後に願ったささやかすぎる願いを知っている。
悲しい? 嬉しい? 苦しい? 腹が立つ?
わからない。頭の中がうるさくてたまらない。
からんと、空っぽのタンブラーグラスの中で氷が身を崩した。
ぬくもりが、きゅっと日向の手を握りこむ。
「あはは、その反応で今は十分だよ、日向クン。プログラムの中とは違って期限もゴールもない。時間はたっぷりあるからさ」
くすくすと、柔らかな声が空気を揺らす。
諦めを抱えて、大人になったはずなのに。
胸の奥で消えかけていた灯火が、そっと揺れる。
氷が小さく砕ける音が、ジャズの柔らかなメロディが、全て夜に溶けていく。
まるで、彼の温度に飲み込まれてしまうようだった。