ひなげし
2025-08-10 19:06:39
6968文字
Public 狛日
 

Apostate.③

天使悪魔狛日パロ。
怒涛のパロディと、ロウフルな世界観にご注意ください。狛枝が堕天するまでの話。全3話の予定でしたが、4話構成に変わりました。
キミの名前を呼ぶまで。

【すべての命は、正しき秩序に従うことで救われる】

茜色の空を流れてきた分厚い雲が覆い隠す。地を冷やす乾いた風が羽の隙間をぬい、耳元をくすぐり熱を奪っていく。冬の足音だ。
誰一人いない、アスファルトがほとんど禿げた道を狛枝はゆっくり歩いている。風の音に紛れ込ませるように、狛枝はため息をついた。無自覚についたため息にふと気がつき、苦く笑う。強く蹴ったつま先が、大きな石ころを弾き飛ばした。
狛枝がこの集落に来て一ヶ月近くが経とうとしていた。未だに宣教師は現れない。行商人にも出会えていない。ここまで長期化する任務は、初めてだった。
指先がずくりと疼く。
にん指定された地区の神にとって必要のない人間も、外敵である悪魔も、全員殺してしまえばさっさと帰れただろうに……
疼く指先を握り込み、溢れそうになったため息を飲みこむ。この非情な選択をしたとしても、きっと神は狛枝をお許しになるだろう。むしろ、狛枝の能力を考えると、そうなることを期待して狛枝をここに遣わせたはずだ。
俺は、お前に害意があると思われたくない。
ボクたちって……必要とされているのかな。
彼が蝋燭の揺れる薄闇の中で差し出した尊ばれるべき善意と、苗木がそっと吐いた憂いが、狛枝の腕を押さえていた。
甘いと思う。こんなもの、水にも熱にもすぐ溶けてしまう砂糖菓子だ。
それなのに、狛枝は見えない二人の手を振り払えないでいた。どうしてかはわからない。けれど、これは間違いなく狛枝の意志だ。自分の意志で、宣教師を探すという時間も労力もかかる方法を選んでしまった。
耳をすませば、風の中に土を掘り返すような音が聞こえた。
視線を前に向ける。
見慣れてしまった廃墟。聞き慣れてしまった質の悪い土を踏む音。呼吸の音。歩み寄ると、捻りのある対の黒い角を持つ彼が、額に浮かぶ汗を拭いふっと狛枝の方へと振り返る。狛枝を認め、丸いうぐいす色の瞳を見開き、それからゆるりと弧を作る。
「あ、おかえり。ははっ、その顔じゃ今日も成果はなかったみたいだな」
「うるさいな。そういうキミは……ああ、いいことでもあったみたいだね」
「ああ。見てくれよ! お前のいう通り、木に残していたりんごが赤くなったんだ」
彼が地面に置いていた籠を拾い上げ、差し出した。ころころと、籠の上で色づいた三つのりんごが踊る。
「色だけは合格、かな。キミが我慢できなくて早めにとっちゃうからだよ」
「ほ、ほら……、青いリンゴもあるって聞いたことがあってだな」
小さく咳払いをした彼が、籠を片腕に抱えたまま地面からふくれた網の袋をいくつか掴み取り狛枝に差し出した。
「で、これは何?」
「じゃがいもだぞ。なんだよ、お前ならそれくらいわかるだろ?」
「そうじゃなくて、なんでボクにじゃがいもがみっしり入った網を差し出してるのって聞いてるんだけど」
「荷物持ちぐらいちょっとは手伝え。お前も食ってるんだから」
いつのまにか白い手が伸びていた。じゃがいもがひしめき合うように入った網袋が三つ分。片手で握りしめていた。
彼は籠を地面に置き、土に汚れた農具を抱えて屋根の下の貯水タンクの元へ行く。水を汲み、洗い流す音が庭に響く。
「で、じゃがいもで今度は何を作るつもり?」
後片付けをしている彼にそっと近づき、話しかける。農具を洗っていた彼は、そのままの姿勢で答えた。
「にんじんと一緒にスープだな」
「また? キミ、それしか作れないの?」
「トマトや玉ねぎ、ベーコンがあれば絵本にあったみねすとろーねって料理が作れるのは知ってるぞ。残念だけど、俺の家には全部ないからな。ああ、そうだ。センターの知識を詰め込まれた素晴らしき天使様が、この環境でもっと違うものが作れるのだというのなら是非ともご教授願いたいものだな?」
「ボクは料理できないよ」
「ふーん。なんだ口だけか?」
「そうじゃないよ。ボクはちょっと、癖があって。どうしてか、料理はちっとも上手くいかないんだよね。火は暴発してセンターの研究室を燃やすし、刃物はハンドルからブレードが抜けちゃうんだ。ほんっとに生活には役立たずで嫌になっちゃうよ!」
「じゃあ、お前は何ができるんだよ」
驚きに丸く見開かれたうぐいす色が、土ひとつついていない農具を抱えあげ狛枝を振り返る。
「あはっ、何ができると思う?」
……俺と会話ができるな」
「あのさ、もうちょっと何かないわけ? 怪我の治療ができる……とか」
「なんだよ、不満か? お前はバカにしたけど、会話ができる。これってすごいことだろ。なんてったって暴力じゃない上に、俺以外に誰かがいる。天使や他の悪魔にとってどうかは知らないが、俺はすごいことだと思うぞ。それに、野菜は明確な返事をしてくれないしな。今でも不思議だけどな……俺が誰かと当たり前に一緒にいるなんてさ。それも相手が天使だなんて。はは、誰かとこんなに長く一緒にいたのはお前が初めてだ」
彼は淡く笑んで言った。そこには感嘆の響きが含まれていた。
「そうだね。ボクも……誰かとこんなに長くいるのは初めてかな」
狛枝は、凪いだ気持ちで頷く。こんなに長く誰か一人と共にいたのは、生まれて初めてだった。
彼のことは初めは取るに足らない悪魔で、排除すべきものだと思っていたはずだった。けれど今は、闘う意志を捨てず、生真面目に善意に生き、抗い、生き苦しさと闘っている彼を悪くないと思っている。生まれから悪魔の彼の努力は的外れで、愚かだと吐き捨てることもできたはずなのに、できなかった。言葉一つで切り捨てるにはあまりにも苦かった。胸に泡立つ彼への思いを言葉にすることは難しい。あえて言葉にするのなら、どうしようもなく惹かれていると言ってもいい。
ざわざわと木が枝を鳴らす。風が出てきた。
風は雲を追いやり、沈む夕日が地面を赤く照らし出す。
「でも……お前はいつか帰っちゃうけどな」
そっと呟かれた言葉に顔をあげる。それと同時に、彼はしゃがみ、地面に置いていた網袋と籠をそれぞれ拾い上げた。
「ほら、行くぞ」
夕日を後ろに、彼が一度狛枝を振り返る。燃えるような光が眩しい。逆光で彼の表情は見えない。
彼は狛枝に背を向け、足を前に踏み進める。はっとして先を歩く彼の隣に並ぶ。彼の声に一瞬滲んだものを、確かめられないままだった。
「あっ」
突然、隣を歩く彼の身体がよろめく。体勢を崩した彼が抱える籠から、色づいたりんごが三つ全て転がり落ちる。小さな影が、彼の身体の影から飛び出し、転がり落ちたりんごを小さな手がひったくった。子どもがそのまま走り抜けていく。
犯罪だ。暴力だ。頭の中が一気に熱くなる。
顎を引き、迷わず小さくなっていく背に銃を向けた。
「いい! やめろ、やめてくれ!」
腕に手が絡み付いてきた。照準がブレる。彼だった。青ざめた顔を歪めて必死に訴える。
「なんで止めるの」
「いいから、こい!」
腕をそのまま強く引かれる。彼を傷つけた小さな背中は小さくなり、遠くに影が伸びていく。未練がましく見つめていたら、もう一度強く腕を引かれた。
立て付けの悪い扉が引かれ、彼の住処へと連れ込まれる。空っぽの籠とたくさんのじゃがいもの網袋がテーブルに投げ出される。狛枝の手を離して、彼が振り返った。
「なぁ、お前にとって希望って何なんだ? 何を指す?」
高窓から差し込む夕日が彼を照らし出す。柔らかな光に照らされながらも、見つめあった顔は、硬く険しい。
「秩序そのものだよ。それがボクらの存在意義だからね」
「天使って、いいや神って何で人間にそんなに冷たいんだ?」
「冷たいって何? 悪意と暴力で世界を満たさないようにボクらは動いている。人間が愚かなことを繰り返さないために、ボクらは直接手を出し、人間という種が生き残れるように楽園を作り上げた。これは、人間全体への慈悲だよ」
彼が顔を歪め、苦しそうに大きく息を吸う。顎を上げると、両手の拳を握った。
「いいや、お前は冷たいやつだよ。秩序を守っても大切なものを守れないんじゃ、人間はそんなもの必要としない。秩序は豊かさがあってようやく機能する。法で腹は膨れない。人間は機械じゃないんだ。古くて錆びれた調整もされない厳格な法じゃ、今の厳しい現実を生きる人間は救えない」
「あの人間は罪を犯した! 今キミは明確に害された! あんな人間をだらだら許してきたから世界はこんなに荒廃したんだ! 悪魔が秩序を、法を説かないでよ! キミに一体何がわかるの?」
狛枝は奥歯を噛み締めていた。
神の手を振り払った愚かな人間は、ボクの好きだったものを全て壊していった。そして、たった今愚かな人間はキミも傷つけた。
自分だけが生き残ることができればそれでいい。自分だけの幸福。自分だけの享楽。
他者を踏み潰してでも手に入れようだなんて、なんて身勝手でおぞましい。神が良きものだけを生かすために選別し、劣った人間を火に焚べたがるのも頷ける。そして、これがかつて世界の全てを蝕んだ正体でもある。
「わかることもある」
彼がぼそりと呟いた。
「何か言った?」
「人間の苦しみぐらいはわかる。少なくとも、創世記時代から何一つ変わろうとしない天使よりはな。俺たち悪魔は、物語に堕とされた古き神話たちは、人間の感情、認知なしでは存在し得ない。その分、俺たちはお前たち天使より人間の近くに存在していた。わかるか? この長い月日を得て、正体を隠して人間と共存を始めた悪魔は多い。音楽が好きで、人と音を奏で心を通わすすごいヤツだっている。傷つけあわなくたって、俺たちには生きていく選択、自由だってあるんだ。戦うことしか能がない創世記時代の悪魔のことしか知らないくせに、偉そうなこと言わないでくれ!」
彼の握り拳が、ぼろぼろのテーブルを叩く。端に置いてあった網袋からじゃがいもがぽろぽろと転がり落ちた。
……わるい、その……興奮した。お前は、たぶん……俺のことも心配してくれたのに……
口吻は落ち着いていて、穏やかだった。決まりが悪いというように、うぐいす色の視線が落ちる。しゃがんだ彼の耳は、羞恥で真っ赤に染まっていた。
「そうやってキミは興奮するんだね。いいものを見れたよ」
「揶揄うなよ」
床に落ちたじゃがいもを、彼は一つ一つ拾い上げる。再び網袋にまとめられたじゃがいもは、扉の外れた棚に置かれた。
……ねぇ、今日は何も食べないつもり? お腹は空かないの?」
「俺は……いい。お前は?」
「ボクもすぐには必要ないよ。だって、天使だからね。最悪食べなくても人間の信仰心で最低限生きていける」
「それはよかった。……じゃがいもは明日で、今日はりんごを食べるつもりだったんだ。生地の材料もあって……パイにするつもりだった」
彼の視線の先には粉の入った袋と、計量器があった。
「あの人間に盗られたりんご。あれキミの持ってる最後のりんごだったんじゃないの?」
「ああ。今年最後のりんごだった。だけど、いいんだ。パイは来年食べられたらいいんだ。人間は、俺より身体が弱いからな。アイツの父親、地下鉱脈で鉄を掘ってるんだけど、この間の鉱山爆発事故で怪我をしてて、まだ治ってないらしいんだ。一緒に助けに行っただろ? その中の一人だよ。家族全員でりんご三つじゃ大した量にはならないけど、アイツらが今日を生きられたならそれでいい」
彼は狛枝に身体を向け、首を振った。
憎んでない。恨んでない。大丈夫だ。
そう訴えるうぐいす色の瞳に、薄らと影がさす。隠しきれなかったほんの少しの強がりを、尋ねる気にはなれなかった。黙したまま見つめると、そのまま沈黙が落ちる。
強い風が廃屋を揺らす。その音にまぎれて、ぐぅ、と腹の音が聞こえた。
「バカなんじゃないの、キミ」
「いいんだよ。だって、俺はここに帰る場所を作りたいんだからな。明日になれば、また働いて少しだけ食べ物を分けてもらえるさ」
頬が固まって、うまく笑えない。狛枝はそっとため息をついた。
「バカだよ、キミ」
「そうか? でも」
「混沌の中でも平和を、居場所を求める自由もある、でしょ」
……ああ。すぐには無理だろうけど、りんごは今度別の形で返してもらえたらいいんだ。平和のあり方なんて、いろんな形があってもいいんじゃないか? お前を見てたら分かったよ。お前たちが作る楽園ってやつは本当に平和で幸福で素晴らしいものだと思う。だけど、……どうしてもそこに生きられないヤツもいるということを俺は知っている。頼るものも救ってくれる存在もないけど、そういうヤツにも平和が、生きる場所があってほしい」
彼が遠くを見つめる。
そんなものはない。数日前救った人間に簡単に裏切られ、真実を突きつけられたばかりだというのに、まだそんな人間に期待し、依存し、信じるというのか。愚かで、醜くて、傲慢でなんて甘っちょろい。そう口にして嘲笑うことができたならどんなに良かっただろう。狛枝は、音なく唇を震わせる。思いあぐね、戸惑っていた。今までの自分を思うと、考えられないことだった。ここに長くいすぎたか? この青年に情が湧いたのか、わからない。
否定してやりたい。だけど、否定してしまえば、彼の生きたいという願いそのものを否定してしまうことになる。彼の本来秩序に尊ばれるべき善性が踏み躙られる様を笑うには苦すぎる。見捨ててしまうにはあたたかすぎる。小さな光だったが、狛枝を善意で包んだ、ゆらめく蝋燭が輝くあの夜をなかったことにするにはあまりにも眩しすぎた。
「なんだよ、悪魔らしくないってか?」
「うん、そうかも。キミ、幼い子どもにも押し負けてぜんぜん強くなさそうだし。悪魔っぽくないよ」
……お前。今の、俺以外の悪魔に言うのはやめろよ? 創世記から悪魔の在り方は少し変わったけど、今でも悪魔は力に誇りを持ってるヤツが多いんだ。そんなんじゃ袋叩きにあうぞ」
彼がベッドに腰をかける。
「ふうん。じゃあ、キミは力に誇りがないの? それとも誇りに思える程の力がないの?」
「ほっとけ」
彼が拗ねたように唇を尖らせる。そのままベッドに寝転び、狛枝に背を向けた。狛枝はそっとベッドに近づき、ベッドの縁に腰かけた。
「ねぇ、寝ちゃうの? 水浴び一緒に行かない?」
「悪い、……もう疲れた。明日洗濯するから許してくれよ」
「そう」
乾いた北風が廃墟を叩く。窓がガタガタと鳴り、建物の隙間から入り込んだ冷たい風が狛枝の頬を撫でていった。高窓から見える空を、雲が流れていく。きっと明日は晴れるだろう。
「わかってるんだ。……罪を犯した者は許されない。俺の言っていることの方が綺麗事だ。お前の方が絶対的に正しい。だけど、極限状態を生きるために罪を犯すことがないとはいえない。悪魔なんて……、存在さえ誰にも許してもらえないのに、一体誰が許してくれるって言うんだ? しんじて、いたんだよ。しんじて……みたいんだ」
毛布にくぐもった彼の乾いた声が、細く揺れていた。彼は、それっきり黙り込む。
振り向けば、毛布に潜る彼の頭だけがのぞいていた。思案に沈んだのか、失意に沈んだのかここからでは判断できない。彼の角の生えた頭に手を伸ばそうとして、白い指を握り込む。頭に触れる代わりに、毛布を引いて身体を滑り込ませた。背を向け毛布と彼の身体の間に自らの羽を差し入れ、彼の身体を羽で包む。
……なんだよ」
背を向けたまま、戸惑う声がぽそりと落ちる。
「一人じゃ寒いんじゃないかと思って」
「別に寒さに弱いわけでもないぞ?」
「満足に食べられなかったんだから、せめて寒さからくる体力消耗は避けたいでしょ」
「まさか、お前……俺がそんなにか弱く見えるのか?」
「それは違うよ。あのね、キミは自分の身を削ってでも弱き者に施しを与えた。……人を許した。いいことをしたのに、何も報われないのは虚しくならない? キミは悪魔だけど、ボクはキミの善意を、秩序にて尊ばれる良き行いを讃えたい。ただそれだけだよ」
背後で彼がそっと息を吐いた。
……なんだか天使みたいだな」
「だから、天使なんだって」
「わるい」
「違うでしょ」
……ありがとな」
「キミは悪魔だからボクらの主にキミの罪と人を許した素晴らしい行いを報告することはできない。だけど、キミの懺悔とささやかな願いくらいはボクが聴いてあげてもいいよ」
しばらく沈黙し、彼がもぞりと身じろぎした。
……帰る場所が欲しい」
そう呟いた声は、掠れて聞き取りにくかった。だが、確かに聞こえた。
「キミに、……日向クンにみ国が来ますように」
目を伏せ、両手を組み合わせる。
彼のために、日向のために初めて祈った。
神は、天使は“みんな”は救わない。
キミは悪魔だ。取るに足らない、世界の不純物。
どんなに良い行いをしようが、どれだけ正しくあろうと努力しようが、存在の無価値さは変わりようがない。キミが悪魔であることただそれだけで、キミは神の選ぶ世界に選ばれない。生きられない。
キミはどうあっても秩序の元──ボクの隣で生きられない。
ボクはそれが無性に、……悲しく思えた。