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ひなげし
2025-08-03 20:16:55
9094文字
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狛日
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Apostate.②
天使悪魔狛日パロ。第2話。
怒涛のパロディと、ロウフルな世界観にご注意ください。狛枝が堕天するまでの話。全3話の予
定。
庇護の外の生活と、価値観の揺らぎについて
【神に従えば、誰もが救われるのか?】
青い空は、雲ひとつなく光に満ちていた。太陽の柔らかな日差しは、程よく暖かく心地がいい。ガラリとした秋の風が、実を数個つけたりんごの木の葉を揺らし、日向の額の汗をそっと拭っていく。
日向は小さな畑の畝の前に立ち、乾いた土に水を撒いた。
等間隔に並ぶ葉が愛らしい。畝からほんの少し覗く橙色に、口元を綻ばせる。たくさんの枯れた葉たちや、芽を出さなかった種子を見てきた。その分、今実りを迎えている野菜がこんなにも美しい。そう感じる。
「何してるの?」
柔らかな声が日向の背にかかる。振り向けば、もう一つの太陽のように輝く白い光が目を焼いた。
ぎゅっとつぶった目をそっと開く。白い光輪。白い六枚羽。ゆらめく炎のような白い髪。整った顔立ちと白い肌。包帯が取れ、ガーゼとテープだけになった右手の甲。ある日突然日向の世界に転がり込んできた、ぼろぼろだった一人の男──ようやく見慣れてきた天使が、日向の背後に立っていた。
「おはよう」
「
……
おはよう。何してるの?」
長い足が数歩歩いて、日向の隣に並ぶ。日向は、縁の割れたジョウロを傾ける。小さな雨が光を反射しながら、ぱたぱたと土に水玉のシミを作った。
「見たらわかるだろ? 農作物の世話だよ」
「
……
それが農作物?」
「まさか、天使って野菜を知らないのか?」
日向が目を剥くと、天使は顔を逸らし日向を見下した。
「はぁ
……
バカにしないでくれるかな。あまりにも出来が悪いから、雑草かと思ったんだよ」
「出来が悪い? 枯れなかったやつだぞ。ちゃんとよく見ろよ、オレンジの身がついてる」
優しい秋風に吹かれて、緑の葉がゆらりと揺れる。畝からひょっこり身をのぞかせる愛らしい作物。このにんじんたちは、厳しい発芽不良を乗り越えて、秋までりっぱに生き延びてくれた。ひとりぼっちの日向にとっては、ここ数ヶ月を共に過ごした家族のようなものだ。日向が眉を寄せ、唇を横に引き沈黙する。
天使はそっと息を吐き、その場でしゃがみ、指をさした。
「よく見てみなよ。この時期でその葉の大きさなら痩せてるし、ほら、こっちを見て。これは色もダメみたいだよ。ねぇ、これにんじんでしょ? 実の頭が青くなってる」
「あ、ほんとだ
……
。これ、食べるのダメか」
「食べれないわけじゃないと思うけど、市場には出回れないね」
「一応食べれはするんだよな?」
「まあね。これは、光が当たって葉緑素ができちゃって緑色に変色してるのが原因だから、一番最後に間引きする時に株に土を寄せて盛るんだよ」
ガーゼのついていない白い手が、濡れた土に触れる。周囲から土をすくい、にんじんの頭が隠れるように土を寄せていく。
「へぇ
……
、詳しいんだな」
日向の目が、何度も瞬く。
「センターじゃ食料頒布計画は重要項目だったから、南部だけじゃなくて中央区にも人工プランターがあったんだ。なにもボクが特別なわけじゃない。基礎知識くらい天使はみんな生まれた時から持ってるよ」
天使がくすりと笑みをこぼした。
「まぁ、土を寄せても、ここじゃたいして意味がないかもしれないけどさ」
「
……
なんでだよ」
「あのね、キミは知らないかもしれないけど、センターから山を越えた地域は土がダメなんだ。ここはそもそも農作に向いてないんだよ」
白い手が濡れた土をすくい、ほぐすように触る。土はぱらぱらと形を残さず空気に解けていった。
「
…………
そんな」
自分でも、肩が落ちたのがわかる。足元に視線を落とした。すうと、力が抜けていく。酷い虚脱感だ。努力が身を結ばない時の、徒労感。息が詰まる。天使の口から淡々と事実を教えられる、その衝撃は大きかった。
「ねぇ」
遠くで小さく音が跳ねる。
「ねえってば」
耳元で音が弾け、意識が引き戻された。
「あ、悪い。なんだ?」
「あっちの畝はいいんじゃない?」
白い指が隣の列を指す。上部の青々とした葉と、下部の黄色くなり始めた葉がゆらりと揺れていた。
「ほ、ほんとか?」
天使はゆっくりと立ち上がり、隣の畝の土に触れた。
「柔らかい。へぇ、色も違うしここだけ土が違うみたいだね。こっちはじゃがいも?」
「じゃがいもって聞いたぞ。土は行商人からもらったんだ。南部の土らしい。街の鉱石資産でみんなは食べ物と交換してたけど、どうやって育てたんだ? って聞いたら少し分けてもらえて」
「ふうん。南部から行商人
……
ね。彼らは本当に南部の人なのかな?」
「ああ、そう言ってたな。定期的に南部から食べ物を売りに来てるぞ? 次は、冬になる前にもう一回来てくれるだろうな」
「もうこの世界でまともに作物ができる場所は、神の管理下のみのはずなんだけど、他所に行商できるほどの収穫量があるとは思えないな。もしかして、収穫量虚偽申請された違法作物だったりするのかな?」
日向の動きがぴたりと止まる。
「
……
俺は、そんなこと知らないぞ」
「まぁ、そうだろうね」
天使は呆れたような口調でそう言った。ぞっとする。余計なことを言ったかもしれない。
この集落では、日向のように作物を育てようとする酔狂な人間はほとんどいない。普通は潤沢な鉱石資源を交換することで食い繋いでいる。南部から来る行商人からの仕入れは、この集落が冬を越すには必ず必要だ。ほとんど食べ物がない状態で冬を越せるほど、日向はともかく人間は強くない。
日向の顔から血の気が引いていく。色の違う地面を見つめながら、おそるおそる唇を開く。
「お前がそれを報告したら
……
もしかしたら、南部から野菜も、穀物も、全部こなくなるのか?」
「
……
さあ?」
「なくなったら
……
。なくなるまえに、俺がなんとかできたら
……
」
天使は、束の間、日向の顔を見つめる。
「どうしてそこまで頑張っちゃうかな。土地がこんなだし、頑張っても無駄ってわかるよね。キミもみんなと一緒に鉱石を掘ればいいのに」
「同じことをしても、誰にも見てもらえないだろ?」
「へぇ、承認欲求?」
天使の灰色の瞳が、ゆるりと細くなる。微笑む顔には、揶揄の色が滲んでいた。
日向はあっさりと頷き、拳を握りしめた。
「
……
認められたいんだ」
「誰に?」
「集落のみんなに」
「人間に? 悪魔のキミが?」
「ああ」
顎をあげる。挑むように、天使を見た。
「俺は、帰る場所が欲しいんだ」
日向の言葉は、くっきりとした強い声音になった。
ふいに、天使があごを上げて笑い出した。狭い畑に、青い空に、かわいた嗤い声が吸い込まれていく。
「なんだよ」
「ふっ、
……
あははっ、っ、ふう。キミってすごく愚かだね。神の箱庭に、悪魔の居場所があるとでも思ってるの?」
「俺たちは確かに混沌の中を生きている。だけど、そういう平和を求める自由もあるんだ。神なんて存在は俺はどんなものか知らない。それで悪魔と呼ばれるなら、別にそれでいい。暴力に満ちた地底には、俺の居場所はないんだ。俺は、帰ることのできる場所が欲しい」
生きていたい。
帰る場所が欲しい。
ささやかな、ささやかな望みだ。
だけど、なかなか叶わない。
悪魔であるが故に地上に居場所はなく、悪魔のくせに力がない故に悪魔の巣食う地底にも居場所はない。どこにいたって、日向の理想は、夢はあっけなく潰えてしまう。雨や風、波にさらわれる海辺に作られた砂の城のようなものだ。
だけど、望む自由を知っている。悪魔であるが故に。
帰る場所は自分で作ることができる。
純粋で強固な、生きるための願い。それは、まるで祈りのようなものだった。
「無知って愚か
……
いやここまでくると哀れ、かな」
日向のかたわらでそっと温度のない声がささやく。
「何度でも言うが、望む自由はある。求める自由もある。自由のために力を使う。それが悪魔の生き方だ」
「自由? この神の箱庭で?
……
はぁ、理解できないな」
天使はわざとらしく、ため息をついた。日向は眉間に皺を寄せて、天使を見る。
「別に、
……
天使のお前にわかってもらおうなんて思ってない」
「甘っちょろいなぁ、水をかけたら溶ける砂糖菓子みたい。あのね、神は絶対だ。人間一人、悪魔一体どっちもちっぽけだけど、誰一人逃してなんかくれないよ。まぁ、それ以前にキミは人間どころか悪魔だしね」
「
……
わかってるさ。俺は悪魔だ。どう頑張っても、天使になんてなれっこない。生まれつきそうだって、そんなことお前に言われなくたって」
天使が言葉に潜ませた棘が──事実が胸をえぐり、血が滴る。強烈な痛みに、音が遠くなる。自分の喋っている声が、ひとつ透明な膜を通したかのようにくぐもって聞こえた。視線が漂う。強い灰の瞳とぶつかって、思わず逸らしてしまった。
落とした視線の先で、薄い唇が小さく震えているのが見えた。
聞こえない。
視線をそっとあげると、白い顔が眉を寄せていた。
耳を傾けようとした瞬間、音がした。地鳴りのような、心の淵をざらりと撫でるような不安になるような音。続けて日向の家の方から、乾いた家鳴りがする。慌てて振り返ると、家の壁に立てかけてあったスコップがカランと音を立てて倒れた。
「な、なんだ、今の」
「あのさ、天使だからってなんでもわかるわけじゃないよ」
わかってるさ。幼い子供のように、口を窄めてしまう。
「日向さん!」
日向の家の裏手、山の方から大声がした。
薄灰色の上下の作業服を着た中肉中背の男が、顔に土をつけ、額に汗をびっしりと浮かべて日向の畑に転がり込んでくる。
「どうした?」
「手を、手を貸してくれないか? 鉱山で事故が起きたんだ。一部崩落して、トロッコも使えそうにない。頼む、人手が欲しいんだ怪我した人間を運んで欲しい」
「わかった!」
息も絶え絶えの男に、力強く頷く。
「おい、行くぞ」
「
……
まさか、ボクに言ってる?」
天使の顔が、ゆっくりと日向に向けられる。
「当たり前だろ? お前、集落から食料を分けてもらっておいて、戦力にならない気か?」
目を剥くと、天使は顔を顰め、渋面を作った。
「ボクに食料を勝手に与えたのはキミでしょ。信仰心のない人間に、どうしてボクが手を貸さなきゃいけないの? ボクはそのためにここに来たわけじゃないんだけど」
どういうことだ? 天使は、悪魔はともかく、人間は救う存在だろ? こいつは人間が悪法に騙されないように来た。目的は違うけれど、人間のために来たんじゃないのか。違いがさっぱりわからない。
「お前、それでも天使か?」
「あのね、キミ天使のこと勘違いしてるよ。ボクたちはすべての人間を平等に救うわけじゃない。ボクらが救うのは、信仰心のある神の秩序に従う優れた人間だけ
……
って、ちょっと!」
腕を伸ばし、黒い手袋から覗く白い手首を握る。腕をそのまま強く引いた。
「うるさい! 俺は見たことないけど、お前は宣教師ってやつに対抗するために来たんだろ? 人間に理解してもらいたいなら、お前の言う神の秩序ってヤツを受け入れて欲しいなら、ちょっとは役に立って人間からお前の言う信仰心とやらを勝ち取るのもお前の仕事だろ!」
簡単な話だ。
お前の信仰が、お前の秩序が、どこのヤツとも知れないペテン師のいかさまな言葉に勝てばいい。ただそれだけの話だ。
「
……
っ! キミ、屁理屈だけはうまいんだから!」
天使は首を横に振り、日向を力強く見据えた。
気怠さと、嫌悪が混じった雰囲気は払拭され、代わりに不服そうな、不貞腐れたように薄い唇が横に引かれている。それなのに、灰の瞳は強い光を持ち、日向を刺していた。人間がよくする覚悟の決まった顔だ。心のどこかで、どこかほっとしていた。きっと多分、日向がなんとなく信じていたかったものが守られたからだろう。
「ほら、行くぞ」
「わかったよ」
手を引けば、天使が今度は素直に歩き出す。白い手を離し、日向は畑を飛び出してすぐの足場の悪い山道を駆け登る。風を切る音が、日向の背後を離れずついてきていた。
緑が豊富な山を登りきった先。そこは人間の手が入れられ、むき出しの岩肌がそびえ立つ鉱山採掘場が存在していた。
一部崩落したのだろう。土の匂いを含んだ重たい淀んだ空気が身にまとわりつく。
苦痛に歪んだうめき声が当たりを包む。みしりと音を鳴らす、今にも崩壊しそうな作業小屋は使わず、怪我人は地面の上に均等に並べられていた。衛生管理なんて、言葉すら霞んでしまうくらいに程遠い。
狛枝はバケツから清潔な水を深皿に汲み、土に薄汚れた患部にそっと注ぐ。目の前の怪我人に手をかざし、そっと祈りの言葉を囁いた。小さな光が収束する頃には、ぱっくりと身体の内部を晒していた傷口の表面は綺麗に塞がっていた。
「俺は、身体が丈夫なことだけが取り柄で
……
。みんなが無事で良かったです」
悪魔の青年の声が遠くから聞こえる。視線をあげると、彼は一人の作業員を背負い、作業服の男たちに頭を下げられて頬を赤らめていた。
あの様子だと、今いっときだけは彼の望むものが手に入ったことだろう。賞賛、感謝、彼がここにいることの承認。果たして光と闇、本音と建前、裏と表を併せ持ち生きる複雑な人間がどれほど彼を受け入れるかまではわからないが。
「
……
ありがとな」
細い声が感謝をつぶやく。狛枝がたった今治療した、目の前の怪我人の声だった。
「え、あ
……
ボク?」
「ああ、そうだよ。まさか助かるとは、思わなかった」
人間は、先ほどまで鮮血を滴らせるほどの怪我をしていた腕をふらりと振る。狛枝は、横を向き息をついた。
「完全に助かったって思わない方がいいよ。ボクは天使だけど
……
治癒魔法は得意じゃないんだ。確かに表面の傷は塞がって治っているように見えるけど、皮下組織は傷ついたままだから気をつけて。荷重をなるべくかけないほうがいい」
「傷が塞がるだけでも、感染症を避けられる。本当にありがとう。
……
神も天使も、やってることが過激だからな
……
。底辺の俺たちのことなんかゴミクズだと思ってるだろうし、助けてくれないと思ってたよ」
答えようがなかった。肯定も否定もできないからだ。
確かに、ボクは優れた人間以外は救うべくもないと思っている。神の庇護を外れた愚かな人間は、優れた人間が次の輝かしいステージに進むための踏み台、もしくはそれにもなれないゴミクズだ。この人間の覚える感覚は正しい。
だけど、ボクがこの人間を助けたのは事実だ。この人間たちに、神や秩序への信仰はない。だけど、この混沌とした鉱山の救援場は秩序だっていた。ルールはない。規律もない。それなのに少ない医療物資の奪い合いは一度も起きなかった。ただ、その仄かな秩序の萌芽には手を貸してやってもいいとボクの背を押した。
「
……
ねぇ、助けたついでに教えてほしいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「キミたちはすごく真面目で、隣人を助けようと道徳的だ。それは、ボクたちの秩序で尊ばれることでもある。キミたちはみんな、センターに選ばれる資質はある。なのに、どうして
……
ボクたちに救われようとしてくれないの?」
ここだけの話にしてくれ。そう、男はゆっくりと言葉にした。おそるおそる、上がった視線が交わる。揺れる瞳には、狛枝の光輪と怯えが映し出されていた。
狛枝は頷く。そして、待った。
「
……
俺は昔、センターにいたことがあるんだ。あそこは平和で誰もが傷つかない場所だ。だけど、完全に管理された社会だ。人間も動物の数もすべて数を把握されて、神に忠誠を誓わされる。それが息苦しくてたまらない。才能があるやつは重宝されて出世もできる、できることが増えるって聞いているが、だけどそれはほんの一握りだ。そして、何かあった時には処分しちまうだろ? ここは、汚染された地域のすぐ近くだし、守ってくれる存在もない。話の通じない悪魔もいることも知っている。力のない人間には生きられない、厳しい場所だということはわかっている。だけど、ここは自分たちに責任があって自由なんだ。もちろん、混沌とした世界からここまで立て直したセンターがすごいことはわかってるさ。だけど、俺はそういう生き方があってたってだけなんだ」
「
……
そう」
「あんたの期待に添えない人間で悪かった。きっと俺たちは天使にとって救うべき人間ではないんだろう。でも、助けてくれてありがとな、天使さんよ」
これ以上正しいものを見つめるのは耐えられない、と言わんばかりに男が狛枝から目を逸らす。
「ううん
……
。聞かせてくれて、ありがとう」
男が背を向け、歩いていく。特徴のないその人間の姿は、同じような人間に紛れて狛枝には見分けがつかなくなった。
言葉が耳奥でこだまする。
息苦しい。
生き方が合わない。
望む自由はある。
求める自由もある。
狛枝は奥歯を噛み締めた。錆びた何かが軋む重い音が、身体の奥底からする。無心で治療を続け、最後の人間の治療も終えた頃、あたりは日が傾き薄暗くなり始めていた。
賑やかな声。生きていたことを喜ぶ歓声。そして、調子外れのお調子者の歌声。友人同士。恋人同士。家族。日が傾いたというのに、救援現場には色んな人間が集まり入り乱れ、その場で祭りのようになってきていた。いつのまにか炊き出しまで始めたのか、辺りは出汁の匂いがする。小さな集落だというのに、押し寄せてくる人間の喧騒が狛枝の頭を揺らす。
生にかじりつき、足掻き、その日を生き延びる。何も命の保証がされないこの土地で、その日を生きながらえたことを喜び、そしてまた明日を必死に生きる。この場所は、人間のいきいきとした眩しい生体エネルギーに満ちていた。センターではこんな熱量を一度も感じることはなかった。それもそうだろう、生まれるはずがないものだ。センターの中で人間が危険な目に遭うことは一生ない。そして、こんなに無秩序に宴会のような催しは起きない。享楽は禁止さえされている。
なぜなら、人間は神を敬い、敬虔な祈りを捧げ生きるべきだからだ。限りある食料は、遺伝子改良や栄養計算によって正確に分配されていた。無計画な浪費は、感情の暴走とみなされ、秩序の本懐に反する。少なくとも、センターではそうだった。
センターのプロジェクターで映し出された映像を見るように、自分と世界がまるで切り取られたかのように感じる。ある程度のことはそつなく処理できる。それが天使として当たり前のことという、自負があった。それなのに、目の前の情報が処理できない。ただ、圧倒されていた。
「お疲れ。大活躍だったって聞いたぞ。
……
どうしたんだ?」
柔らかな笑みを浮かべた悪魔が、狛枝の顔を見るなり目を瞬かせ、凝視した。
「いや、
……
なんだろう、これは」
手のひらで胸を押さえる。苗木の旗布に触れても、胸の奥で起るさざなみは一向に引かなかった。鈍く重たい音が、身体の奥底で鳴り続けている。
「身体痛いか? 苦しいのか? 悪い、怪我完治してなかったのに無理させたよな?」
不安気な彼に向かって、かぶりを振る。
「どっちでもない、かな。むしろ悪くないんだよ。このエネルギーは
……
まるで、敬虔な信徒の
……
、祈りを浴びた時
……
みたいだ」
「えっと
……
、それって人間から俺が感情生体エネルギーをもらえるみたいに、いいことか?」
「でも、これは
……
神への
……
秩序への信仰じゃない」
言葉にすると、どんと身体に衝撃が走るようだった。センターへ向かって走る、前時代でいう車検切れのトラックにはねられたような衝撃だった。鈍い音を立てていた違和感は、次第に細かなガラス片となる。小さな痛みが、胸を刺す。
いたい。痛い。
両手から力が抜ける。ぶらりと垂れ下がった腕をどうする気も起きなかった。
「えっと
……
、な、なあ」
「
……
ボクたちの秩序が一番素晴らしくて、希望で
……
」
狛枝は目を閉じ、大きく息をついた。
地面がぐらぐらと揺れている。じわりと胃液が喉を焼く。人間をおおよそ模して作られた身体が、吐きそうなほど気持ちが悪かった。
どうして、どうして。
素質はある。それなのに、庇護を、ボクらの希望を受け入れない人間がいる。
それはいい。それはいいとして。
秩序から離れ、現実から目を背け、享楽的に一瞬を生きているのに、彼らは光を持っていた。その色鮮やかな生命エネルギーは秩序への、希望への静謐な祈りに勝るとも劣らない。狛枝の感覚を焼いた。
あたたかな熱が、手首にぐるりと巻き付いた。そっと手を引かれる。
「帰ろう。なぁ、今日は一人で俺のベッド使っていいぞ」
話題を変え、言葉が重ねられる。
「じゃがいも、収穫してスープにでもしてみるか? ちゃんと塩もあるんだ。なぁ、いいと思わないか?」
狛枝を覗く顔は頬を上げ、笑顔を作りだす。手持ち無沙汰に、やわやわと皮膚が押されて反応を見られている。無反応な狛枝に、作られた笑顔が次第にほろりと崩れる。彼は眉を下げ、心配そうな、ああ
……
同僚の苗木が良く浮かべていた顔とよく似た顔つきになった。
そんな質素なスープを食べるだなんて、キミこそ創世記から何も変わってないんだね。
じゃがいも、もう少し根本が黄色になって枯れてからが収穫時期でしょ。
狛枝は口を半ば開けたまま、頭に湧いた言葉の何一つも声にすることはできなかった。
失望でも虚無でもない。恐怖でも興奮でもない。ただ、言葉にしようのない情動の奔流にただ流される。熱くて冷たくて、視界がぐにゃりとマーブル状に歪んで、額に汗の粒が浮かぶ。喉が渇いてたまらない。
じっと狛枝を静かに見つめていた彼が、静かにもう片方の手を伸ばしてくる。目をつぶれば、寄り添うように、気遣うように純粋な“善意”が狛枝の身体に触れた。腕を肩に回され、身体を支えられて歩き出す。
秩序ってなんだろう。
ボクたちって
……
必要とされているのかな。
耳の奥底で、耳慣れた柔らかい声が響く。
狛枝は目を閉じたまま、唇を噛む。貧血をおこしたみたいに、手も足も羽の感覚も全てがあまりにも鈍かった。
導かれるように足が動く。
すぐ傍に、狛枝を支える体温と息遣いがある。両手いっぱいに“善意“を差し出した彼が、一体なんなのかまで
……
目を開けて確認したくはなかった。
目を開ければ、きっとぐにゃりと世界が変質してしまう。二度と戻れなくなってしまう。そんな予感は、混乱を呼び、恐怖を増幅させ思考を凍らせる。
狛枝は彼に支えられてただ、足を動かし続けた。
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