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ひなげし
2025-08-01 00:10:48
10603文字
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狛日
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Apostate.①
天使悪魔狛日パロ。
怒涛のパロディと、ロウフルな世界観にご注意ください。狛枝が堕天するまでの話。全3話の予定。
【秩序なき者に安寧は訪れぬ】
指令邪教の芽を摘め。
討伐対象・性別不明・地区北部ダウンタウン外部。
狛枝は、長く無機質な廊下の先にいた。何重にもセキュリティーが施された重たい扉が、狛枝の生体情報を読み取り、鈍い音を立てて口を開ける。
静かに息を吸う。白い光が満ちる廊下から、一歩薄闇へと足を踏み出した。
「狛枝クン、来てくれてありがとう」
狛枝の足音に振り返った一人の天使が、ゆるりと若草色の瞳を緩ませた。
狛枝が同僚の苗木に呼ばれたのは、日も暮れそうになった時間帯だった。センターの中央司令室には苗木が一人、壁一面に設置された大型モニターとコンピューターの前に立っていた。朝から働く狛枝を呼びつけるには心苦しかったのだろう。柔和な雰囲気の少年は、輝く光輪の下で固い表情を浮かべ、彼の持つ柔らかな白い六枚羽はしょんぼりと下がり沈み込んでしまっていた。
「苗木クン。あは、キミから直々に呼んでもらえるなんて、ボクはなんて光栄なんだろうね」
狛枝は、緩やかな足取りで苗木の正面に立つ。にこやかな笑みを口元に浮かべ、己の身をそっと抱いた。そわそわと苗木と同じお揃いの白い六枚羽が擦れ合い、音を鳴らす。
「あはは
……
。あのね、狛枝クンに元老院から任務が降りてて
……
、どうやらセンターから出る必要があるみたいでさ」
苗木が背後を降り仰ぐ。巨大モニターの青白い光が苗木の顔を照らし出す。苗木の背後に浮かび上がる電子の地図には一点、赤い点が浮かび上がっていた。
センターの外、か。狛枝はそっと息を吐き出した。
五十年前、世界は蔓延した絶望によって人間の手で壊滅的な状況に追いやられた。そんな不毛な大地に、慈悲深い神は創世記以来初めて手を差し伸べ、センターを設立した。狛枝や苗木といった天使たちは、センターを中心に神の手となり足となり世界を守護し、維持する役割を担っている。
神と天使の住まうセンターは天高くそびえたち、首が痛くなるほど見上げても、地上から頂点を見ることはできない。そんなセンターの建物を中心として街は形成された。外は四つの方角に分けられ、一定の範囲までは綿密に管理されている。土壌汚染をなんとか免れた南部は、水耕を行いセンターの食料のほとんどの生産を担っていた。北部は針葉樹林と、山がそびえ立つ。山の内側のセンター管轄区域までは人間が生きられる水準を達しているが、山を超えてしまえば農作に向いていない不毛の大地となっている。
センターの管轄区域外では、人間は上手く生きられない。人類は限られた場所で、神の秩序の元生きていた。悪意と暴力で残された世界を破壊しないよう神を敬い、従うものだけに絶対の安全と、平穏が与えられる。人間は神により優れた人間を選び抜くためにより細かく管理され、把握されているのだ。しかし、それでもイレギュラーはよく起こる。悪魔の討伐、不道徳の萌芽、法の施行。時を選ばない任務なんてよくあることだ。なんたって、そのために神は天使を作ったのだから。
低く響く電子音。不安げに狛枝を見つめ、そっと息を吐く苗木の呼吸の音。たったそれだけの音しか聞こえない張り詰めた空気の中、狛枝は両手を広げた。何があったって、狛枝は天使だった。それなら、希望のためにやることは一つだ。
「ボクらの希望──偉大なる秩序のためなら喜んで。何だってするよ」
「うん、狛枝クンの実力なら大丈夫かな
……
って思ってるんだけど」
苗木は言葉を飲み、そっと視線を落とした。
「どうかした?」
「ううん、先に任務内容を伝えるね。邪教の芽を摘め。コンピューターにはたったそれだけが映ってたよ。それも、狛枝クンのみの指定でね。コンピューターが示してた地区はここ。センターのダウンタウンよりももっと先の、北の山を越えて少し離れた地区だよ。ダウンタウンよりも外側となると
……
、ボクらの管理統制から外れている場所だね。絶望のせいで人間同士の争いも耐えないみたいで、まともな行政の実施は期待できないと思う」
「ふうん。無法もいいところだね。ところでさ、神の法も遵守できない身勝手で信仰心のない人間に生きている価値なんてあるの? 彼らが悪魔の甘言なんかに騙されるからこんな世界になるんだよ」
人間は愚かだ。神から与えられた箱の中で、悪意と暴力で自ら箱も己も滅ぼそうとするのだから。秩序を──神を敬う事のない劣った人間を、神はいらないと告げられた。世界という身体がまだ動けるうちに、悪性腫瘍は切り取らなければならない。
「そう
……
だね」
苗木が曖昧に頷く。
「ああ、ごめんね。苗木クンはそんな愚かな人間も救いたいんだったよね」
「できたらいい、そう思ってるよ。人間は神が作った存在だ。それなら、ボクたちが導いて庇護すべきだと思う。頼る者なく生きることは酷く難しい。この大地は人間には厳しすぎるよ。だから、邪教の芽を摘むのもできたらあまり乱暴な手段をとってほしくなくて
……
」
苗木が両手の指を祈るように組んでいる。小さく震える手に、狛枝は小さく肩をすくめた。
「苗木クンの頼みなら、努力させてもらうよ。全ての人間が、神が守りたい人間であればいいのにね」
神の手先である身だが、共に秩序を守る者として連帯意識はある。狛枝は決して薄情なわけではない。最低限の約束はした。だが、庇護を煽るような子どもの面影を残した苗木の顔は、憂いを乗せたままだった。狛枝はそっと苗木の顔を覗き込み、柔らかく微笑んだ。
「ねぇ、こんなボクでよければ聴かせてくれないかな? キミの話を受け止める壁ぐらいにはなれるよ」
苗木は、ぱっと顔をあげ、苦く笑った。
「ああ
……
、ごめん。任務内容がちょっと気になっちゃってさ」
「何か気になるの?」
「うん。狛枝クン」
苗木の視線が落ちる。唇がはくりと震えて二、三度空気だけを吐き出した。
「ボクたちって
……
」
言葉が切られ、息が呑み込まれる。若草色の瞳が揺れ、泳いでいた。躊躇している。こんなことを喋っていいのかと、ためらっていた。
狛枝も、苗木の緊張につられるように息を呑んでいた。どれだけ時間が経っただろう。一瞬のようにも、一分にも感じる沈黙の後、苗木は唇を震わせた。
「人間に本当に必要とされてるのかな、って」
しんと静まり返った空間に、そっと密やかな呟きが落とされる。
じわりと背に汗が伝う。人間の形だけを模倣した身体が、嫌に脈打っている。狛枝はそっと息を呑んでいた。
「苗木クン。聞かなかったことにしてあげるよ」
吐き出された狛枝の声は、低く地を這っていた。
「まさか、キミがここでボクらの主人を疑う言葉を吐くだなんて
……
ボク以外の天使に聞かれてたら、何をされても文句は言えないよ。それに、もしキミに何かあったら、ボクは後悔してもしきれない。だって、ボクはキミに希望を感じているんだ。ここにいる天使の中でキミは最も公平で秩序そのものに近くて、なにより人間から支持を受けている。なんなら、キミが救世主じゃないことが残念に思うくらいに、ね」
「はは
……
、ボクを評価してくれてありがとう。でも
……
秩序って何だろうって、たまに思うよ」
「まさか
……
疑ってるの?」
苗木はゆっくりと、首を横に振った。
「ううん。全部を疑ってるわけじゃないんだ。でも、ボクらの教えを尊ばない人間が増えてることも事実だ。ボクらは天使だ。人間じゃない。センターと管轄区域の中は本当に平和そのものだ。だけど、センターの外を生きる人間に、ボクらは本当に寄り添えているのかなって
……
。そうじゃなきゃ、邪教だなんてものは生まれないんじゃないかな。だから、よかったら狛枝クンにセンターの外を見てきて欲しいんだ。ボクらの秩序以外に心の拠り所を作りたいって人たちが増えているのだとしたら、この邪教をひとつ滅ぼすだけで解決するとは思えない。本質を捉えなければ、もしかすると、人の心がもっとボクたちから離れていくかもしれない」
光を宿した瞳が、薄闇の中で狛枝を見つめている。眩しい。希望だ。理知に富んだ、泥の中でも全てを捨てることなく引きずり正しい道を歩もうとする力強さ。身体が震えていた。
狛枝は、目を閉じ大きく息をついた。
世界がキミのような人間だけだったのなら、ここまで荒廃することはなかっただろう。
胸の内にわきあがるものがある。できの悪い人間への嫌悪と、諦念と、苗木への深い尊敬だ。
閉じた眼裏に、好きだった景色が思い浮かぶ。真夏の
……
海。ゴミ一つないさらさらの土が足元を包む穏やかな浜辺。愛しい景色は、もう残っていない。土は荒れ、空気は核に汚染され、海は毒に侵された。
どうして人間はこんなに愚かなんだろう。なぜ、我欲と悪意と暴力衝動を抑えられないのだろう。ぐるりと胃が震える。胸焼けがする。本当に、劣った人間は害虫だ。素晴らしい世界の為の、踏み台にもなりはしない。
だがもし、あの時。絶望が蔓延しかけていたあと時に神の御心を伝え、人間のやり方で人間を導く救世主がいてくれたら。害虫もまともな人間になれていたのかもしれないという期待が捨てきれない。そしてきっと、この世は最悪を辿らず、希望に満ちたものになっていただろう。
神は、彼を間違えて天使として作ってしまったのだ。本当に惜しいことだ。
ため息を飲み込む。
「
……
本当に、キミが人間の救世主でないことが残念だよ」
「天使としては、失格かもしれないけどね。ボクからしてみたら、狛枝クンの方が厳格な天使だよ」
「やめてよ、こんなゴミクズに。そんなの過大評価だよ」
「ううん、ボクは狛枝クンほど神と希望を信じる天使を知らないよ。やり方は乱暴なところもあるけど、より良きものを見定めて尽くすその力は誰よりも天使らしい」
「神の教えに背く者たち。希望を信じない人間を、神は必要としていない。いてもいなくても変わらない有象無象と同じなんだろうね。信仰心のない人間で溢れかえっちゃうことは嘆かわしいよ。こんなんじゃ神の望む選ばれし人間だけを選定した楽園はいつ築けるんだろう。希望に満たされたより素晴らしい世界。あはっ、早く見たいなぁ
……
」
「信仰がなくなった人にも、ボクらの光を思い出して欲しい。この世界は苦難に満ちている。だからこそボクたちは彼らの側に立ち、共に苦難を背負っていきたい。なるべくたくさんの人が神に庇護されるべきだ。ボクはそう願っているよ」
息を吸い、狛枝は柔らかな声音でつぶやいた。
「キミは優しすぎる、かな」
「そうかな?」
「そうだよ」
ボクはそこまで信じられない。
言葉にすることはなく、狛枝はゆっくりと苗木に背を向ける。
「じゃあ、行ってくるよ」
「あっ、待って! 外には悪魔もいるから十分気をつけて。それから、これを」
苗木がモニター横のカウンターに置いていた細長い若草色の布を広げ、狛枝に差し出した。両手を広げた長さほどある布は、見覚えがある。苗木が先陣を行く際、掲げる旗布だ。彼の旗は見るものを鼓舞し、癒しを与える力がある。
「あれ、これ貴重なものなんじゃないの?
……
本当にいいの?」
「狛枝クンは強いし、ボクのこれはいらないかもしれないけど一応。狛枝クン、回復魔法苦手だよね。これは肩にかけてるだけでも加護がつくから、何かに巻き込まれて怪我しやすい狛枝クンにはいいのかなって」
苗木の手で、旗布が狛枝の肩にかけられる。長い布は狛枝の大腿部まで伸び、垂れ下がった。あたたかい。ふつふつと、力が沸いてくる。
「心配ありがとう。ボクには勿体無いくらいだよ」
「狛枝クン、いってらっしゃい。帰ってきたら外の話、聞かせてよ」
苗木がふらりと手を振る。
「荒野は悪魔がいるから気を付けて。生きて帰ってきてよ」
ここが帰る場所なのだと、声が追いかけてくる。
「あは、もちろん。吉報を待っててよ」
狛枝は片手をひらりと上げ、部屋を出ていく。分厚い鉄の扉が狛枝の生体情報を読み取り、ゆっくり閉まっていく。
清く正しい天使の気配が遠ざかる。それは鉄の扉に遮られ、闇に閉ざされるように消えていった。
【自由とは、痛みと共にある選択肢だ】
「おい、大丈夫か?」
芯のある声が、水底に沈む意識を揺らす。
「ボクは
……
あ、れ?」
目を開ける。
薄暗い。視界はぼやけて自分がいったいどこにいるのか、何をしているのか認識できなかった。寂しげな風の音が、近くで大きく鳴っている。風がガタガタと何かを揺らしていた。
「気持ち悪くないか? 痛いところとかはあるか?」
気分が悪い。
身体が鉛をつけられたかのように重い。
羽も水を吸ったように、重く鈍く少しも動きはしなかった。罪を犯した人間が独房に送られ、身体の自由を制限される時の苦痛はきっとこういうものなのだろう。
ああ、不愉快だ。
嫌なものも思い出し、胸の中で舌打ちをしていた。巡らせた思考を遮るように、ズキズキとあちこちが鈍い痛みを訴える。頭が痛い。手のひらが、腕が痛い。身体が痛い。
「頭、痛い。ここ
……
どこ」
身じろぎした身体が、ざらざらとした触り心地の悪い毛布に触れる。居心地が、悪い。狛枝はようやく自分が湿気を帯びた粗末な寝台の上に倒れ込んでいることを理解した。
「
……
悪い。お前の怪我、なるべく傷口は水で洗い流して処置はしたんだ。包帯とガーゼは残ってるけど、もう薬はなくて。少しだけ我慢して欲しい。ここは俺の家だ。お前は集落の入り口で倒れてたんだ。何も覚えてないのか?」
薄ぼやけた視界の中で熱を持ち、ジクジクと脈打つ手のひらを見てみる。やわらかな布とふっくらとした感触が、折り曲げた指先に触れた。ガーゼで保護され、丁寧に包帯が巻かれている。
「なにって
……
。ああ、いつものことか。気にしなくていいよ。少しツイてなかっただけだから」
狛枝は深く息をついた。センターの管轄外である北部の山を超えたあたりで、竜巻に巻き込まれたことを思い出す。強い風に力任せに揉まれながら、鋭利な木屑と、湿った土の匂いと、石や岩の礫に身体を打たれた。狛枝は、暴風で動かなくなった役立たずの羽に舌打ち、はるか上空から地面に投げ出された。
目を閉じ、両手で頭を庇う。一瞬強い衝撃をその身に受けて
……
、そこから記憶がない。そう、ちょっとした不運だ。つまり、いつものことだった。苗木にかけられた旗布が、ほのかにあたたかい。じんわりと痛みが引いていく。
しっかりし始めた視界は、ささやかな光が浮かび上がらせる薄暗い部屋を捉えていた。遠くに、蝋燭のささやかな灯りが闇を揺らしている。あたりは夜のようだった。大きな鍬。天井近くに一つだけある窓。傾いた脚の長いテーブル。風雨にさらされ、腐りかけた木の匂い。外にいる時と同じように聞こえてくる風の音。到底人が住む場所とは思えなかった。機能を失った建物は廃墟といって差し支えない。廃墟は風に打たれ、鈍い音を立てる。朽ちるのを待つ納屋のような、倉庫のような場所だった。
「そんなに怪我しておいて少しか? はは、天使なのについてないんだな」
声がからりと笑う。真夏の空に吹く風のようだった。
狛枝の上に落ちる影は、人間が作ったもののようだった。誰かがボクを上から覗き込んでいる。
目があった。
春を告げるうぐいすの色。
「俺の名前は日向創。お前は?」
くりっとした瞳。きりっと吊り上がった眉。平凡といえば平凡な、精悍な顔つきの青年が微笑む。人好きのする笑みだった。
けれども、一際目を引く彼の頭部に、狛枝は顎を引いた。悪寒がする。肌が引っ張られるかのようにぴりりとした感覚がした。嫌悪に顔が歪むのが分かる。唇からはひどく低く、冷たく、平坦な声が出た。
「それ、角? まさか、キミ
……
悪魔なの」
短い栗色の短髪。一箇所アンテナのように伸びた癖っ毛。それよりも、それよりもおぞましいものが目を引いた。側頭部から生えたヤギのような大きく曲がり、捻りのある対の黒い角。彼は人ではない──悪魔だ。
「ああそうだ。だけど、俺はお前に危害を加えるつもりはない」
「悪魔は嘘をついてなんぼでしょ。そんな甘言、天使が信じると思ってる?」
痛む身体に顔を顰めながら、ゆっくりと寝台から身体を起こす。手に馴染むものを毛布の下で探り当て、狛枝は右腕をゆっくりとあげた。
目の前の悪魔に、銃口を向ける。
「お、おいやめろ!」
悪魔の顔がさっと青ざめる。
「この世界は、この大地は神の箱庭だ。ねぇ、侵略でもしに来たの? 悪法を広めに来た? あはっ、ツイてるなぁ! 着いてすぐに任務が終わるんだから」
「待ってくれ! 俺は人間にもお前にも危害を加えるつもりはない! 集落のみんなが、お前を背負って帰る俺を見ていたんだ。お前を殺せば、俺はここで生きていけなくなる。こんな狭い集落で殺しなんてしてみろ。わかるか? お前を殺すことは、俺に何の得にもならない。天使のお前にわかりやすくいえば、悪魔は快楽主義者だがそれは恵まれたものに限られる」
「だから? キミはそうじゃないって?」
「そうだ。恵まれたヤツってのは力で人間も悪魔も天使もどうにかできてしまうヤツらのことだよ。そういったヤツらは地上で生活しない。地上で生きてるヤツは、人間の感情エネルギーを必要とするヤツだよ。憤怒、快楽、食欲、悪魔によっては求めるものは色々あるけど人間がいないと生きられない、そういう種族であることの方が多い。俺もそういう類の悪魔だ」
「そうだとして、ボクがキミを害さない理由にはならないよね」
「
……
っ、お前、人間から信仰心を失いたいのか? 神の教えから背くこと。人間から信仰を失うようなことをすること。どちらも禁忌なんじゃないのか」
「それだけ、キミはここに馴染んでるって言いたいの? 人間の集落が、悪魔のキミの帰る場所だって?」
「そうだ」
悪魔の彼が張り上げた声は、ほんのわずかに震えていた。人間と同じ形をした手が細く震えている。それでも、うぐいす色の瞳は一度も逸らされない。歯を噛み締め、狛枝の瞳をじっと力強く見つめていた。
虚勢だと、嘲笑うこともできた。
確証なんてないんでしょう、そうせせら笑うこともできた。
組み合わされる手のひらを思い出す。旗布を狛枝にかけた、同僚の願いが耳奥で響く。心の奥底にある、卑劣で愚かで神の庇護に値しない人間への泡立つ思いは否定しない。できるわけがない。けれど
……
、無闇に自らの手で大地を血で染めたいわけではない。
風の音が大きくなる。廃墟を揺らす風は、甲高い音を立てていた。
「ふうん。そう」
銃口を下ろす。狛枝が拳銃をホルスターに仕舞い込むと、悪魔は大きく息を吐き出した。
「怪我してるんだから大人しくしてろよ。治るまでいてここにいいから」
「あれ、ボクのこと追い出さないの?」
「ああ。初対面で銃口を向けたお前と違って、俺は怪我人を外に叩き出すほど非情じゃない」
悪魔があからさまなため息をついて、肩をすくめる。あまりにも人間じみた仕草に、狛枝は喉を震わせた。
「そうみたいだね」
寝台のすぐ近くに置かれた簡素な椅子に、悪魔は腰をかけた。沈黙が落ちる。揺れる蝋燭の光に合わせて、部屋の隅まで伸びる悪魔の影がゆらりゆらりと揺れる。風の音に耳を傾ける。
「なぁ、天使って帰る場所があるって本当か? そこでも人間は生きてるのか? どんな感じなんだ? 何を食べてるんだ?」
密やかな声が落ちる。
視線をあげると側に腰掛けた悪魔がほんの少しだけ身を乗り出し、視線を狛枝に寄越していた。
視線が絡んだ瞬間、うぐいす色の視線がぱっとそらされる。ほんのりと頬が赤く染まり、顎が震えていた。
「悪い、いっぱい聞いて。俺、天使にあったのも初めてだし、人間がみんな平等に救われるって話の天使が住んでる楽園って場所にも行ったことないから気になったんだ。みんながちゃんと救われる。お腹を空かすこともなく、孤独に震えることもなく、平和に生きられる
……
すごいよな。同族には絶対に言えないけど、ちょっとだけ、憧れるんだ」
「好奇心かな? それとも敵情視察?」
狛枝は唇を吊り上げにっこりと微笑み、小さな火に照らされる横顔をなぞる。悪魔は顔を顰め、とんでもないと手を振った。
「悪かった、答えなくていい」
「どうして?」
「どうしてって
……
、俺はお前に害意があるって思われなくない」
「殊勝なことだね」
片頬で薄く笑ってみる。悪魔はため息を吐き、背を向けて肩をすくめた。いくらか虫に食われボコボコの粗末なテーブルの上に乗せてあったカゴに、悪魔の手が伸ばされる。
「ほら」
悪魔が振り向き、何かを投げてきた。難なく片手で受け止める。
「なに?」
「これが今お前に示せる俺の精一杯の誠意だよ。こんなに駄話できるなら、少しでも腹に何か入れておいたほうがいい」
手のひらで受け止めたものを見下ろす。悪魔の影から避け、蝋燭のささやかな灯りに掲げた。それは、形も色も大きさも悪いりんごだった。
「美味しくなさそう」
鼻を鳴らす。
「うるさいな」
「で、これ盗んだの?」
「盗むわけないだろ! 偏見もいい加減にしろよ! お前、世間を知らない箱入り天使か? 創世記から何年経ったと思ってるんだよ」
悪魔の表情が歪んだ。牙を剥き、渋面を作る。ささやかな誇りを傷つけられた顔だった。
「そんなに怒らないでよ、ほら、深呼吸、深呼吸。でも残念だなぁ、もし盗んでたらボクにキミを害する正当な理由ができたのに。
……
不本意だけど、今日は殺さないでいてあげるよ」
「
……
はぁ。天使ってこんなんなんだな」
「なに? 幻滅でもした?」
「いや、もっと話を聞かないで堅苦しいかと思ってた」
「あはっ、キミの想像通り上はもっと堅苦しいよ。なんなら、機械みたいにね」
「ふーん、そうなのか」
悪魔が姿勢を崩し、視線を空にさまよわせる。うわすべりした声に、狛枝は目を瞬かせた。
「あれ、せっかく話してあげたのに。興味ないの?」
悪魔は眉を顰め、俯き黙り込んだ。続いていた会話がぷつりと切れる。音を出さず、唇だけ微かに動いている。思索の中で感情に触れ、ゆっくりと言葉を作ろうとしているらしい。待っていると、悪魔は頭をゆっくり横に振った。
「目の前にいない、見たこともないヤツのことを教えられてもな。想像もつかないし、あまりそそられない」
「それもそうか」
口角が上がる。軽いやり取りに、笑い出しそうになっていた。
うん、悪くない。
「ねぇ、疲れたから遠慮なく寝かせてもらうんだけどさ」
「いいぞ」
「寝る前に一つ教えて欲しいんだよね」
「ああ、俺に答えられることなら」
悪魔がゆるりと微笑む。
「この集落に、なにか宣教師みたいな人は来た?」
「せんきょうし?」
単語のイントネーションが正しくない。言葉に初めて触れるように、もごりと唇が何度かその言葉を繰り返す。ぱちぱちと瞬く瞳はまるで無垢な子どものようだった。
「法を教えたり、こうやって生きなさい。みたいなお話をする人、かな」
「うーん、月に何度か集落の外と交易はあるけどいつもの顔ぶれだったし、そういうおしゃべりなヤツが来たって話は聞いてないな」
「そう」
悪魔は嘘をつく生き物だ。
だけど、彼からは全く嘘の匂いがしなかった。何度もカマをかけ身構えていたというのに、愚直すぎて拍子抜けしてしまう。もし、本当に嘘をついているのだとしたら相当の曲者だ。口笛を吹いてやってもいい。あり得ない話だ。彼は嘘をついていないだろう。
「そもそも、そういう話を聞くヤツがいるのか?」
悪魔が腕を組み、首を傾げる。
「いないの?」
「
……
ここはそこまで恵まれてないんだよ。この土地は加護を知らない土地らしい。だから、みんな生きるために仕事で手一杯だ。数年に一回来るって話のセンターの偉い人とは違うんだろ。強制じゃないし、今すぐ生活が楽になるものでもない毒にも薬にもならない話に足を止めるヤツがいるのか?」
すとんと腑に落ちる。彼の人間考察は、正確に的をいていた。閉ざされた集落で厳しい大地に生きる人間に、見知らぬ人間の発する邪教の諫言など誰が耳を傾けよう。祈っても報われないことを知っている人間が、突然押し付けられる秩序に、法に人生を捧げ、尽くすだろうか。いいや、難しいだろう。できるとしたら、よっぽどの詐欺師か人格者だ。今回のターゲットは、名前くらい広まっていてもおかしくないのかもしれない。
「うん、そうだね。ボクもそれに賛成だよ」
「それがどうしたんだ?」
「いいや、なんでも」
湿気た毛布と布団を寄せ集め、悪魔に背を向ける。誠意には、誠意で応えるべきだ。今日はキミを襲わない。秩序に使える天使として。
「あれ、もう寝るのか?」
「寝るよ」
「なぁ」
ほんの少し、寂しげで構ってもらいたがりの人間の子どものような声が背中にぶつかる。
「
……
なに」
「寝るのに光ってる頭の白いそれ、眩しくないのか?」
飾らない裏表のない声だ。蠢く感情に名前をつけようとして、小さくため息をついた。諦めにも、受容にも似た気持ちで唇を開く。
「
……
別に。ボクらは生まれた時からこれだから何も感じたことはないよ。あは、ついでに教えておくとこれ消せないからさ、キミは頑張って眠ってね」
「ああ、蝋燭が減らなくて助かる」
ゆらめく灯りがふっと消える。光輪の薄明かりが、悪魔の顔を照らし出す。嬉しげな顔で、真新しい蝋燭の入った箱を閉じていた。
「
……
そう」
あまりにも、所帯染みていた。人間の生活に馴染んでいた。悪魔のくせに、ちぐはぐな光景だった。
軽く揶揄おうとして、唇を開く。けれど、狛枝の唇からは溢れる空気は意味のある言葉になることはなかった。
ああ、なんだろうなこれは。
わからない。わからないけど、悪くはないと思う。キミが悪魔だという、ただその一点を除きさえすれば。
狛枝は横になったまま出来の悪いりんごを一口かじる。酸っぱい。美味しいとはとても言えない。神に捧げる献上物になれるわけがない粗悪品だ。だけど、ほんのりとりんごがまとう感情だけは、悪くないものだった。毛布の中で小さく吹き出していた。
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