ひなげし
2025-07-13 22:15:00
3651文字
Public 狛日
 

名もなき祈り

2025.07.13 悪意の証明無配
狛日/未機パロ
茅の輪くぐりをする二人の話

 起きたての太陽がジリジリと地面を焼く。
 雨上がりの濡れた大地が乾いていく重さのある湿度が、身体と鼻にまとわりつく。近くの市場から物売りの声と、それを求める人々の喧騒は狛枝にとってあまり心地の良いものではない。
 目の前を歩く足が止まる。狛枝を先導するように歩いていたぴんとはられた姿勢の良い背筋が、道の外れに向いていた。
「何かあった?」
「いや、別に危ないものじゃない、と思う。ほら、あれ」
 日向の視線の先には、黒ずんだ石の鳥居がひっそりと佇んでいた。よく見れば、割れた石畳の隙間からは枯れた蔓草が伸び、何本も巻きついている。表から見える境内は崩れた壁が、大小の岩屑となってあちこちに散乱し、拝殿前の賽銭箱も見るも無惨に破壊されて、腐敗した木屑と成り果てていた。再生は遠く、雨風にさらされ、過ぎゆく時間に身を任せるだけの残骸たちは廃墟という言葉が相応しい。絶望が跋扈し荒らし尽くした後の世だ。こんなものなんてことない、どこにでもよくある光景だ。
 そんな崩落した灰色の廃墟に、ただ一つ青々とした緑の大きな輪が狛枝の目を焼いた。狛枝の身長を優に越す輪は茅の葉を丁寧に紡がれたまま、誰の手にも荒らされていない。風が舞う。木々の緑、茅の葉の緑の匂いが鼻腔をくすぐる。廃墟であるはずなのに、ここだけは確かに生きていた。
「違和感があるようなものを忽然と置いて興味をひいて、子供を狙ったりするテロの手法があるだろ? でも、あの意図のわからないオブジェじゃ対象者がわからない。無差別にしたってあんな大きな輪の一部分に触れるなんてぬいぐるみに爆弾を入れるより不確かだし、結ってる草の中に爆弾が入ってる可能性は低そうだ。不審物といえば不審物だけど、機関に報告は別に必要ないよなって」
「ふうん、茅の輪か。こんな時勢に酔狂だね」
「茅の輪?」
「日向クン知らないの? 夏越の祓といって、茅の輪をくぐることで穢れを祓って、残りの半年を無病息災でいられますようにって祈願する神事だよ。けど、そんなくだらないことやる前に、作物の苗をひとつでも植えるほうが先だとは思うけどね」
 狛枝は日向の目の前で、手のひらをひらりと振った。
「そうか」
 日向が黙り込む。群がる木々と瓦礫の山が音を吸い込むのか、音は何一つ聞こえなくなった。精悍な顔が静かに茅の輪見つめている。凪いだ日向の表情は、感情を一つも読ませてくれない。
 狛枝はゆるくかぶりを振り、そっとため息をついた。ほんの少しだけ、息苦しい。少し前まで、彼はもっとわかりやすかった。混乱、困惑、不安。取り繕うことを知らなかったくせに、こんな顔ばかり上手くなってしまって、気に食わない。
 榛色と紅色の瞳には、ただ茅の輪だけが映り込んでいる。
 後悔、悲嘆、絶望……
 一体何を祓いたいのだろう。
 なにも祓えやしないというのに。
 この世界にとって、ボクら自身が厄災のようなものだ。
 平穏で、平凡で、つまらないようで、あたたかな生活なんてものは所詮、夢物語だ。そんなツマラナイものを望んでもいない。自分自身の才能からは逃げられない。犯した罪からは逃げられない。厄まみれで、運命にぐちゃぐちゃにされたまま、血濡れた足跡を残しながらこの惨すぎる現実を無様に生きていく。贖罪のためではない。ただ希望の──未来のために。
 恐怖はない。怯んでもいない。ただ、それがボクらの真実だからだ。ボクとキミは似たもの同士だ。キミもそう思っているのだと思っている。
 祈りなんて意味がない。祈りなんてボクらには不要だ。
 日向が狛枝の目を見る。
「なあ、一緒にくぐってみないか?」
 日向が茅の輪を指差し、無邪気に笑う。狛枝は指を強く握り込んでいた。緩く首を横に振る。
 ああ、キミはボクと違うのか。
「あれをくぐったら、ボクは……
 ボクは、……なんだ?
 自分は厄災だ。
 厄を祓いたいだって?
 いやだ。
 一緒にいられなくなる。
 誰と?
 キミと。
 狛枝の内部で大事な何かが軋む音がした。息苦しい。頭の中が熱く、赤くなって自制心が薄れていく。
 あーあ、ほんとうにどうしようもない。
 どこか冷静な自分が、ため息をつき独りごちる。日向だけだ。時々、日向だけに対して感情が噴き上がる。うまくいかなくなる。
 髪の毛をぐしゃぐしゃとみだしながら、頭皮をかきむしる。胸の中で舌打ちをしていた。
「遠慮しておくよ。くぐってどうなるの? まさかあんな輪っか一つで、全世界から指をさされる厄災のボクらが綺麗になって赦される、報われるとでも思ってる? だとしたら、日向クンってなんて愚かなんだろうね。ああ、一回頭を開いたせいかな」
 狛枝の口吻が尖る。言葉には棘が含まれていた。
「過去は消えない。俺たちはどこに行ったって孤独で、報われることは少ないと思う。それを俺たちは知っている。だけど、知ってるか狛枝。祈ることは自由なんだ」
「ふうん。祈りなんて意味がないよ。そんなもの、お腹の足しにもならない。ほんとうに、神なんていると思っているの?」
「神? 何言ってるんだ、いるわけないだろ」
「それでも祈るんだ?」
 日向が狛枝の顔を覗き込む。まっすぐな、まっすぐな迷いのない視線だ。
「あのな、祈ることは無意味じゃない。別に、神や誰かに頼む為にやるんじゃない。自分の意志のために、自分の信念のために、自分自身の信仰のために祈るんだ。お前だってよく知ってるだろ。それがお前の行動力にもなっていたんだから」
「信仰? あっさり踏み躙ってくれちゃったのによく言うよ」
「俺は、そんなつもりじゃ」
「ああ、もう。うるさいな。キミが、キミが祈るんだ。確かに意味はあるんだろうね、ボクの幸運なんかよりも」
「おい、狛枝。お前言ってることがめちゃくちゃだぞ。気がついてるか?」
 狛枝は、奥歯を噛み締めた。
 何を言っている? ああ、分かっている、こんなのただの八つ当たりだ。
 胸の内でちらりと考えたことが、霧の中からぬるりと姿を見せようとする。
 孤独だ。
 もう、誰にも置いていかれたくないと、キミだけにはと、惨めにも小さな自分が喚いている。無様に惨めったらしく生きているのは、キミのせいなのに。……ああ、吐き気がする。
「なぁ、拗ねるなよ」
 日向がそっとつぶやいた。
「俺はお前が厄だなんて、お前を祓いたいなんて一言も言ってないだろ」
 日向の口元がきゅっと固く結ばれる。日向と目があった。釣り上がった目尻。強い意志を宿した二色の瞳が、朝日を受け生き生きと燃えるように輝いている。そっと息を呑んでいた。
 腕が伸びてくる。振り払う前に、手を掴まれる。狛枝が声をあげそうになるほど、強く握られた。
「今更、どこにも行ってやるかよ」
……そう」
 狛枝はそっと目を閉じる。波立っていた心が凪いでいた。
 日向に手を引かれ、足が自然に動いてしまう。大きな茅の輪を左足で跨ぐ。跨いでしまった。
 狛枝の手を握る熱い手に、ぎゅっと力が込められる。つられるように視線をあげた。神社は、相変わらず人から忘れ去られたかのように荒れ果てたままだ。厄を落とし祈ったとしても、何一つ現実は変わらなかった。当たり前だ。なんてことない、あっけないものだった。
 隣から密やかなため息が聞こえた。
「誕生日は日本酒を飲んでみたいんだよな。せっかく成人したのに、飲んだことがないんだ。……あと半年。何事もなくすごして、お前と飲めたらいい。ただ、そう思っただけだ。それくらい、祈ったっていいだろ」
 声は深く、柔らかい。凍えるような飢餓感が満たされていく。日向に視線を向ければ、地面を見つめる彼の唇は尖っていた。ほんの少しだけ残された子どもっぽさに、狛枝は口元がわずかに歪むのがわかった。
「覚えてたらね」
「ああ、それで十分だ」
……あのさ。そんなに飲みたいならとりあえず今夜、ボクの部屋に冷えた発泡酒があるけど飲みこない? ホテルの自販機でコーヒーを買ったつもりだったんだけど、出てきちゃってさ」
 狛枝は、繋がれたままの手を小さくひく。日向は訝しげに瞬きをし、やがて小さく肩をすくめた。
「なあ、狛枝。もっと身近な約束が欲しいってわかりやすく言ったらどうだ?」
「あーあ、キミってほんとうにおめでたい頭なんだね」
「で、本当のところはどうなんだ?」
 日向がにやりと笑う。
……性格悪い」
「ははっ、お褒めに預かり光栄だな。お前もその癖直さないと友達できないぞ」
「別に、いいよ。もういるから」
 狛枝は日向の手を離し、欠けた石畳の上に足を踏み出した。
 風が髪を撫でる。柔らかな空気。灰色の神社に差しこみ、揺れる木漏れ日。そのどれもが美しい。後ろから駆けてくる聞き慣れた足音に、頬が上がる。木漏れ日に紛れて二つの影が並んだ。
 ままならない日々にも存在する、珠玉の光景に、狛枝はそっと息を吐き出した。