ひなげし
2025-06-07 19:13:59
5478文字
Public 狛日
 

手を引く理由

本予備卒業後/狛日
狛日版週ドロライ第48回「初デート」「一途」
うまくいかないことが、ちょっとだけ愛おしくなる話。

白い洗面所は、朝の光に満ちていた。細い高窓から差し込む日差しはやわらかく、心地が良い。
日向は顔を上げ、鏡に映る自分の顔を見つめた。
いつも通りだ。いつも通りの自分の顔だ。
これから出て、狛枝と遊びに行く約束をしている。
狛枝は刺激的とも言える、あの高校を卒業した後も変わらずに、何かと縁がある男だ。
高校を卒業し、各方面に名を馳せる同級生とは違って、社会の片隅で大学に行き、アルバイトに勤しみ、時々夜に映画を見る。淡々と変わり映えのしない日々を続ける日向の日常に、この男はよく顔を出した。なぜか同じ大学に通い、共に食事に連れ立ち、映画を観て、各々好みの本を買う。狛枝は日向に対する皮肉も、揶揄も、声の柔らかさも、学生時代からほとんど変化しなかった。
彼と自分は、決して変わらないと思っていた。
だけど、そうじゃないのかもしれない。

数日前のことだった。
そう、あの時、あれは大学の講義が終わった帰り道。心地よくなるような風が吹く日だった。一日中勉学に就活に没頭し、薄らと身を蝕んでいた疲労感。気だるい足先をゆったりと前に運ぶ。充足感はあるというのに、どこか自分が不確かなままでぼやけた日向の心に夕焼けは酷く染みた。
「日向クン」
耳馴染みのある声が隣から聞こえた。急速にぼやけていた自分自身の輪郭が確かになる。
「ねぇ、ボクの話聞いてた?」
隣を歩く狛枝が首を傾げ、日向を見つめていた。
「え? あ……悪い、ぼーっとしてた」
「ねえ日向クン、ちょっと活動減らしたら? キミこのままだと、いつか間違えて他人の家に帰っちゃうんじゃない?」
「さすがに、さすがにないだろそれは」
「そこまでしてなにかを探す必要なんてあるの? 日向クン、キミならわかっていることだと思うけど、残念なことだけどさ、ボクら凡人には手を伸ばしても届かないものの方が多いよ」
「お前のそれは聞き飽きた。言われなくたって、わかってるって。でも、情けないけど、何かしてないと不安なんだよ」
拳を握りこんでみる。少しだけ伸びた爪が、痛みと共に自我の輪郭を訴える。不安で揺れてぼやけていきそうな時の癖だった。
「ふうん。……まだ治ってないんだ、それ」
「持病みたいなもんだ」
「そっか。ならさ、これお守りがわりに持ってなよ」
珍しく柔らかな表情をした狛枝が、日向に向かって手を伸ばす。
「ん、握手か? なんだよ、改まって」
顔を上げる。息を呑んだ。
夕焼けでもわかる、ほんのりと上気した端正な顔が、眉を下げて小さく微笑んでいた。
「あのね。……ボクはキミが、日向クンが好き」
狛枝がささやく。
やわらかな風が狛枝の言葉を運び、日向の耳にまっすぐ入ってきた。胸を射抜かれる。
引き寄せられるように絡んだ視線の先には、熱のこもった揺れる灰色。息がつまる。胸がぎゅうと絞られる。
無意識に手が伸びていた。中途半端に浮いていた手を、白い手にそっと重ねる。白い冷たそうな印象の手は、少し熱いくらいで汗にほんのり湿っていた。
思わず、小さく頷いていた。
しがみつくように、手を両手で握られる。
「わかってくれたらいいんだよ。才能なんかない、自己開示が下手くそで、湿っぽい話を悲しい話なんかじゃないって明るく言って爆死してるようなキミも、ちゃんとボクの知ってる日向クンだよ。ボクはキミを愛している」
心は乱れている。それなのに、からからに乾いていた大地にじんわりと染み入る雨のように、満たされていた。じわじわと胸の奥で湧き上がる。紛れもない歓喜だ。
「あ、お前とは本当に色々あったけど……でも、今はお前の隣が一番落ち着く」
「本当に? うれしいなぁ。あのね、本当のことを言うと、認めちゃうのは本当に癪で、ボク自身がどうにかなっちゃうと思った日もあったんだ。キミのせいでままならなくて、キミに八つ当たりしてた酷い時もあるのに、なぜかキミの隣が一番心地がいいんだ。変な話だよね」
凪いだあたたかな視線が日向の顔をなぞる。
自分はひたむきな想いに、なんと応えればいいのだろう。頭の中を必死に言葉を探す。狛枝はこうやって自分の形が、想いの形がわかっている。それなのに、自分ときたら何もかも曖昧だ。狛枝への気持ちはおろか、自分のことさえもままならない。
……さすがのキミでも困らせちゃった?」
狛枝が、笑う。
笑みの奥で、ぴくりと唇が震えていた。
ここで黙ってたらだめだ。ちゃんと応えなきゃいけない。狛枝にとって、他人と関わることがどんなに勇気のいることかわかっている。よくわかっている。
湧き上がる感情のままに、白い手を握り返した。
わからないことばかりだ。だけど、彼の気遣いと差し出された感情はうれしかった。時折胸を苛む、徒労感や無為感さえ忘れてしまうくらいに。これだけは、今の自分が彼に差し出せる精一杯の曲げようのない真実だった。
「うれしかった。きっと……俺も、だ。お前のことすき、だと思う。なんでだろうな。それに、なんでお前なんだろうな。わからない。だけど、すごく嬉しいって思う俺がいる」
「あは、……今ここに隕石が落ちてきても文句が言えなくなっちゃったよ」
狛枝が唇を震わせる。ほとんどつぶやきのような小さな声と共に、深く息を吐き出した。手を引かれて歩き出す。
繋いだ手は、日向が使う駅の近くまでそのままだった。
目に染みるような美しい夕日。包み込むような柔らかな空気。他愛ないのに、どこかあまやかな会話。夢のようだが、そのどれもが今も鮮やかに胸に焼き付いている。

あの日、ああやってまがいなりにも、日向は狛枝と互いに胸の内にある好意を重ね合った。今日はその直後の遊びに行く約束の日だった。
日向は、顎を引いた。
これって……初デート、ってやつだよな?
肌がそわりとした。
鏡の中をよく見れば、後ろの髪が少しだけ跳ねている。手櫛でなでつけた。視線を落とせば、自分の服が目に入る。襟のついた黒いシャツにジーンズ。今すぐ大学にでも出ていくような、着飾りもしない普段通りの服だ。
この服でいいのか?
一瞬の迷い。
そうだ、そうだ。いいに決まっている。
あの狛枝だぞ? アイツと関わってしまって、もう何年目になると思っているんだ。アイツにとっては、ほんの少し友達のもう少し先まで手を伸ばしてみただけだ。根本的に、自分たちの関係は大きく変わってしまうようなものではないはずだ。
日向は咳払いをし、首を横に振った。
好き。ボクはキミを愛している。
ただ、その一言だ。だが、差し出された感情は彼にしてはまっすぐであたたかく、胸を甘やかにくすぐるものだ。だからこそ、落ち着かない。自分が思っていた以上に歓喜に舞い上がっているようで、恥ずかしい。頬が熱い。
蛇口を捻り、顔を洗う。
日向は赤みの引いた顔で、息を吐いた。


太陽がアスファルトを照りつける。
夏になりきってもいないのに、汗が滲むほど暑い。
待ち合わせの駅から徒歩五分の花屋の前。ようやくまばらになり始めた人並みをそっと避けるようにして、背が高くて白いふわふわとした髪の男が立っていた。
頬があがった。わかりやすくて助かる。手を上げて駆け寄る。
「狛枝? もう来てたのか。悪い、待たせた」
「おはよう、日向クン。今日も希望に満ちた素晴らしい朝だね」
狛枝がふらりと手を振る。
日向は目を見張った。薄灰の生地が薄めのジャケットに、細身のパンツに革靴。いつものごてごてしたチェーンはなく、細身のシルバーアクセサリーに変わっている。初めて見る服は、細く背丈のある狛枝によく似合っていた。
狛枝は笑みを湛えて、首を傾げる。
「どうかした?」
「いや。なんでも」
「もしかして、気に入ってくれた?」
「なにがだよ」
「ボクの格好だよ。すごく見てくれるから」
日向は瞬きし、ぽかんと口を開けた。ほんのりと身体が熱くなる。
「わかるのか?」
「うーん。べただけどさ、キミこういうの好きそうだなと思って」
「自覚は、なかったな」
「あはっ、自分を発見できてよかったね」
「とんだロマンチストみたいだな。そういうのはどっちかというとお前の方だと思ってたのに」
唇を尖らせ、狛枝から視線を外す。
日向の呟きに、狛枝は目を瞬かせた。
「そう? でも日向クンの映画の感想は、だいぶポエムみたいだよ?」
頬が熱い。日向は視線を落とし、肩をすくめる。
「それほんとか? ちょっと、直に言われると、その……恥ずかしいな。……それに、お前がそんな気を回すとは思わなかった」
狛枝がくすくすと笑う。
日向の眼前に突きつけられた白い指先がくるりとまわる。指先につられて上げた視線の先で、細められた灰色と絡む。狛枝が覗き込んでいた。
「キミが最近頑張ってるのはわかるけど、いろんな人に尻尾振っちゃうからさ。だから、ボクも打てる手はちゃんと打っておかないとね?」
日向が不安に駆られて、夢中で何かを追っていることを言っているのだろう。
「別に……尻尾振ってるわけじゃないぞ」
口の中が苦くなる。狛枝がそう言うほど、大層なものではない。自分と新しく関わってくれた人間の名前も覚えられていないくらいだ。自分ばかりで嫌になる。そのくせ、自分すら見えていないのではどうしようもない。
遠くなっていたはずの焦燥感に、身じろぎをする。
狛枝が小さく息を吐いた。
……そうかもね。とりあえず、どうでもいいことは置いておいてそろそろ行こうか」
うなずく。
口が自然と動いていた。
「どこから行く? お前が欲しがってた小説の発売日、昨日じゃなかったか?」
「うーん、それもいいんだけど日向クンこの間、大学の抹茶のパフェ食べたそうにしてたでしょ。抹茶と団子で美味しいところ知ってるからさ、そこ行かない?」
「まさか、お前のおすすめか? それ、本当に美味しいのか?」
「花村クンに聞いたところだけど」
狛枝が頬を歪め、にやりと笑う。
「疑って悪かった」
日向は両手を上げた。降参のポーズだ。
「じゃあ、決まりだね。とりあえずそこに行って」
突然、頭の上に冷たい何かが降り注ぐ。身体がびくりと跳ね上がった。
水だ。
スプリンクラーが壊れたかのように、日向と狛枝の上に水が降り注いでいた。飛沫をあげる密度のある水が、小さな虹を作りながら二人の服を濡らしていく。
冷たい。身体に張り付いたシャツが気持ち悪い。
「きゃあ、どうして! 誰か設定いじったの?」
女性の高い声が耳に刺さる。悲鳴は花屋の中から聞こえた。花屋の水やりの機械が壊れてしまったのだろう。店舗の中から大きく水が外に向けて噴き上がっていた。
日向は手を伸ばし、狛枝の腕を掴んだ。呆然とした表情の狛枝を引っ張り、局地的雨の渦中から抜け出す。
「も、申し訳ございません、大丈夫ですか!」
エプロンをつけた店員が、血相を変えてタオルを持って走ってくる。ひたすら謝る店員を制して、日向はタオルを受け取った。
「は、はは……
狛枝の顔は地面をずっと見つめ続けていた。情けない顔のまま固まっている。真新しいジャケットがびっしょりと濡れている。ふんわりとした髪は顔に張り付き、萎んでボリュームを失ってしまっていた。まるで、濡れてしょぼくれた犬のようだった。
「くっ、はははっ!」
堪えきれない。
噴き出してしまった。
沈んだ狛枝の隣で一人、肩を震わせる。
訝しげな視線が日向の顔をじっとりと撫でる。日向は息を吐き、かぶりを振った。
「あ〜あ、お前ってかっこつかないなぁ」
……そこまで露骨に言わなくても良くない? ボクは日向クンにそこまで言わなかったのに。あのさぁ、最近ちょっとは頑張ってたのわからない?」
きゅうと、薄い唇が硬く横に引き結ばれている。まるで、不貞腐れた子どものようだ。
「あ〜悪い。なぁ、そこまで拗ねるなよ。少しは喜んだらどうだ?」
「どういうこと?」
「まさか、俺に説明させるのか? お前の才能の話に決まってるだろ。つまりだな、ここにお前の策通りにまんまと喜んだ人間がいるって話だよ」
「え?」
灰色の瞳が大きく見開く。
視線が合うよりも先に、柔らかな白いタオルを狛枝の頭に乗せ、かき混ぜてやる。タオルは、水分を吸いすぐにしっとりとしてしまった。
「このままじゃ、風邪ひくな」
「あっ……でも」
狛枝の手が日向の手首を掴む。ぎゅうと、強く込められた力に日向はそっと息を吐いた。
考えていることが、手に取るようにわかる。
存外、お前の隣を気に入っていると伝えたばかりだというのに。
信用がないのも、考えものかもしれない。
「なぁ、一回俺の部屋に来ないか? 服着替えてからまた出よう。身長はほとんど同じだし、俺の服着れるよな?」
「いいの?」
「予定通りにいかないのもまぁ、楽しいだろ?」
手首を捻り、白い手の拘束を抜け出す。
自由になった手で、白い手を握ってやった。
「そんなこと言うの、日向クンだけだよ」
頭にかけてしまったタオルのせいで、狛枝の顔は見えない。
けれど、日向の耳をくすぐった、くぐもった声は喜色に富んでいた。
狛枝の手を引いて、来た道を歩き出す。
人並みは、びしょ濡れの二人を避けて歩いていく。
お互い何一つままならない。
だけど、お前の隣は悪いものじゃない。
嘘じゃない。
信じて欲しい。
自分さえあやふやで、ままならないものばかりの世界で、ただこれだけは互いにとって真実だった。
小さく笑う二人を風が撫でて過ぎていった。