ひなげし
2025-06-04 21:58:58
5604文字
Public 狛日
 

酒は五杯、好きはふたつ

未機パロ/狛日 酔った日に甘えられて、狛の感情がこぼれる夜の話。

「ここ、か」
狛枝の前を歩く、日向の足が止まった。五階建てのビジネスホテルの廊下は、ひと気がなく静かだ。電灯が細かく明滅するように点灯しているせいで、薄暗い。床の絨毯は元の色がわからないくらいに変色しており、わずかに荒廃の雰囲気を漂わせていた。
絶望が起こした全世界同時多発事件を生き残ったのだと思えば、よくここまでの形を残して生き残っていたとも言えるかもしれない。
復興の手伝いを兼ねた現地調査で、実際赴いてみなければわからないこともある。今回の派遣先である北の地方都市は、血の匂いがしなかった。絶望の残党が潜んでいないのか、悲劇の音はどこか遠い。補修が追いついていないくらいの物資が少ない程度にとどまっている。そのおかげで人は理性を失っておらず、他と比べてずいぶんマシに感じた。こうなると、支援物資の選定は容易だ。早めに出張を切り上げることもできるだろう。
一日歩き回った疲労感が、じんわりと身体を侵食する。狛枝は息を吐き出し、目の前に立つ日向の背広を見つめた。
「あれ、鍵どこだ」
日向が荷物を持つ手と反対の手で、ぱたぱたとスラックスのポケットを叩いている。
「キミのジャケット。内ポケット」
「あ、あった。ありがとな、狛枝」
日向が扉に鍵を刺す。傷の入った古いスティック状のアクリルキーホルダーが、日向の手元でくるくる回っている。
狛枝は腕を組み、わざとらしく息を吐いた。
「さっき受け取ったばかりなのにね。物の位置くらい自分で把握しておくべきじゃないかな。任務もぜんぶ終わってないのに気が抜けるのが早すぎだよ。キミ、一応表向きは“常識人枠”で通ってるんだしさ。ボクなんかに世話されてどうするの」
「悪かったよ」
日向は肩を小さく上げる。日向の手が重たい扉を押し開けた。
とっくに日は沈み、そこには濃い闇が広がっていた。きょろきょろと見当違いの方向を見渡す日向をすり抜ける。廊下からの細い光を頼りに、狛枝は壁のスイッチを押した。
ぼんやりとオレンジ色の灯りが、ベッド元に灯る。ナイトテーブルを挟んでシングルベッドが二つ。一脚の椅子にデスク。デスクの下の稼働しているかもわからない冷蔵庫。壁に沿って置いてあるハンガーラック。たったそれだけの狭く、シンプルな部屋が二人を出迎えた。
ひくり。鼻をひくつかせる。ほんの少し埃っぽいだけで、なんの匂いもしない。薬も火薬も気配はない。聞こえる音は、狛枝と呼吸の音と日向の身じろぎする音だけだ。狛枝はようやく肩の力を抜いた。
日向が振り返る。目があった。穏やかな光を湛えた、榛色がゆっくり笑みを作る。
「思ってたより、綺麗だな」
「そうだね。前時代を思えば最悪なホテルだけど、今じゃこれが高級ホテルだ」
「そんなこと言うなよ。俺は、結構馴染み深いぞ。ほら、ハンガーラックが置いてある。中学の修学旅行の時に泊まったホテルにそっくりだ」
日向がジャケットを脱ぎ、ハンガーにかける。伸ばしてきた手に、狛枝は自身の着ていた深緑色のコートとジャケットを手渡した。
「ああ、日向クンいいところ泊まったことないんだ。それは残念だったね」
「うるさいぞ」
日向は唇を尖らせた。
思わず唇の端を上げて小さく笑む。足を進めて、ベッドに腰をかける。しっかりとした弾力が、狛枝の体重を確かに支えた。ベッドは悪くない。
「まぁ、こんなご時世なのに出張とはいえボクらなんかにこんなところを手配してくれるなんて、未来機関も慈悲深いことだね」
「今日はよくやった方だろ。俺は、そう思いたい」
日向がふらりと狛枝の向かい側のベッドに腰をかけた。日向は目を細め、己の手にある荷物に視線を落とす。一リットルもない、ほどほどの大きさのにごり酒の瓶はこの土地の地酒だ。
日向は現地のヒアリングついでに、カウンセリングもしていたらしい。現地の人間にずいぶん懐かれ、お礼と言って押し付けられたようだった。まったく、人に好かれやすい彼らしい。狛枝が酒を抱えた彼を見つけた時、日向は上目遣いに狛枝を見やると、困ったように眉を下げた。あれ実に見ものだった。
心地の良い疲労。心地の良い達成感。心地の良い空間。じんわりと身を浸していくもの。とろりと心が弛緩し、柔らかくなっていく。
「それには賛成」
狛枝は素直に頷いた。日向の口元がゆるりと笑みの形を作る。榛の瞳は、上げられることなく手元でくるくると回される酒の瓶を飽きずに見つめていた。
わかりやすい。
「ねぇ、それボクたちで飲んじゃおうよ」
「えっ」
腰を上げ、立ち上がる。背に日向の視線を受けながら、部屋唯一のデスクに足を向けた。深さのある引き出しを開ける。
ビンゴだ。
「日向クンのことだからそのお酒、どう分けようか悩んでたんじゃない?」
「ま、まぁそうだな。一本あるけど、みんなに分けるほどあるかは微妙だろうな。いや、度も強いだろうしほんの少しずつにすれば分けられるとは思うんだが、こう。分ける前に飲まれそうと言うか……
「そもそもなんだけどさ。そのお酒、持って帰ることも難しいと思うんだよね」
「はぁ?」
「あれ、日向クン。ボクの才能忘れちゃった?」
「あっ……。あ! じゃあ、これはお前にとって、嬉しかったってことか?」
日向の目がまあるく見開く。二度、三度。瞬きをするその姿に、狛枝は肩をすくめた。
本当におめでたくて、かわいい人だ。
「ボクの才能は誰かの好意を、無為にすることに長けているからね! 日向クンが肩を落とす姿は容易に想像できるよ」
「だから、なんで何かあるのがお前じゃなくて俺なんだよ」
「それ、飲んでみたいんでしょ?」
「そ、そりゃ……。まあ……
日向が目を逸らし、口籠る。
「じゃあ、ここで飲んじゃおう。これはボクたちだけの秘密ってことで」
引き出しの中から、曇りのないグラスを二つ取り出して見せる。
日向が噴き出すように笑った。
「なあ、狛枝。お前は飲んだことあるのか?」
「少しはね」
「ふうん、そうか。なぁ、狛枝。こっち座れよ」
健康的な色をした手のひらが、日向の隣のスペースを叩く。ぎしりと、身体が固まった。
「えっ?」
「ベッドの向かい側同士じゃ、話すにはちょっと遠いだろ」
……そう? じゃあ、お邪魔するね」
誘われて、日向の隣に腰をかける。ぎしりとベッドが沈んだ。
日向が枕元のナイトテーブルに瓶を置き、おそるおそる瓶の蓋を開ける。
見た目に反してさらりとした白く濁った液体が、並んだグラスに並々と注がれた。柔らかく、フルーティーな芳香が匂い立つ。
日向の手からグラスを受け取った。
「お疲れ様だな」
「今日、とりあえずは、ね」
「相変わらず、お前は興を削ぐやつだな」
日向が顎を引く。じろりと、視線が絡んだ。
「ごめんごめん。じゃあ、乾杯」
「乾杯」
グラスが重なり、軽い音が手元で鳴った。


瓶の酒はもうほとんどなくなっていた。何度か空にしたグラスを再び満たす。グラスをゆらし、口に含んだ。にごり酒は甘味の後に、すっきりとキレのある後味が立ち上る。おいしい。肉料理があればもっといいかもしれない。もしくは香辛料の効いた料理がいいだろう。
現実逃避していた思考を、右腕に触れた熱と重みが引き寄せる。
狛枝は、小さくため息を一つついた。
「ねぇ、重いんだけど」
「んー?」
「日向クン、聞こえてる?」
「おいしい」
狛枝に寄りかかった日向は、赤らんだ顔で満足げに微笑む。
「そう。よかったね。日向クンところでさ、何杯飲んだの?」
「おまえもみてたろ? よん?」
「五杯目だよ」
「あー、そうか」
並々に注いであった白濁が、日向の口の中に消えていく。グラスを飲み干した日向はもぞりと身じろぎをする。重い。
「キミさぁ、いつもこんなになるわけ?」
狛枝は露骨に顔をしかめ、深く息を吐いた。
二人で腰掛けたベッドには、皺だらけの黒のネクタイが無造作に置かれている。日向は、シャツのボタンをいくつか外してしまい、豊かな胸元を無防備に晒していた。酒精に肌が薄桃色に染まっている。
そっと目を逸らす。酷く口が渇いていた。狛枝は抱えていたグラスの中身を一気に飲み干した。酒が喉を焼く。目の前の景色がぐらりと揺れた。
「見苦しいと思わない? ……まさかとは思うけど、他の才能ある職員のみんなにもそんな姿、見せてないよね? 凡人のキミが才能ある人たちの時間をそうやって削ってたら、コストに見合わないってわかるよね?」
「んー、いつもはあまりのまない。のむのはいっぱいだけなんだ。おれのことしってるひとなんてごまんといるし、なにされるか、わからないしな」
日向の手の中で、グラスがくるくると回る。
「ふうん、そう。まぁ、ボクらは何やったって悪名高いもんね」
「んー。でもほんとは、いろいろのんで、みたくて」
「そう」
「おまえなら、いいかなって」
いつもより濡れている榛が、狛枝を見上げる。
そっと息を呑んだ。
「ボクみたいなゴミ虫なら迷惑かけてもいいって?」
「そうはいってないだろ。おまえがさそってくれてうれしかった。こんなにおいしいのにふたりでのんじゃうなんて、なんだかわるいことしてるみたいだ」
「こんなことが悪いことだと思うの? 全くバカらしいよ」
狛枝は首を横に振り、顔を歪めた。
ふと、狛枝の右腕を温めていた熱が離れる。存在を伝え続けていた重みが消える。狛枝の背を何かが掠めて、ベッドが大きく揺れた。
飛び跳ねるようにして、背後を振り向く。
じわじわと、頭の中が白くなっていく。
日向が狛枝の後ろに倒れ、横になっていた。日向の空のグラスを持つ手が、完全に脱力している。
「どうしたの?」
伸ばそうとした手が、小さく震えていた。強く握りしめ、もう一度伸ばした手で日向の背に触れる。
「かたいたい」
細い声が狛枝の鼓膜を叩く。
日向の口元に耳を寄せれば、かた。ともう一度囁く声がした。
「肩?」
自由に動くようになった手で、日向の肩を撫でる。覗き込んだ顔は普段通りで、どこにも不自然な筋運動はない。榛色の瞳は、ぼんやりと狛枝を見上げていた。
「頭痛くない?」
「んー、ない」
「吐き気はある?」
「んぅ……
ゆっくり首が横に振られる。
「ボクの名前、言える?」
「こまえだ」
「ボクの手、両手で強く握れる?」
生身の手を日向の手に差し出すと、日向の両手が伸びて狛枝の白い手を包んだ。ぎゅうと力任せに握られる手は熱い。
少なくとも、脳血管障害ではない。であれば、ただのアルコールの海に落ちた酔っ払いだ。狛枝はいつのまにか詰めていた息を、そっと吐き出した。
「はぁ……。あのさぁ、水飲みなよ」
手を振り、日向の手の拘束を解く。備え付けの水のペットボトルに手を伸ばしキャップを捻った。
「んへへ」
「なに?」
「こまえだ、やさしいな」
くすくすと、笑い声が部屋に落ちる。
「別に、優しくないよ」
「いまのおまえ、けっこうすきだぞ」
にっと、日向が酒に赤らんだ顔で笑みを作る。とろりと細められた二つの榛色が、狛枝の顔をするりと撫でた。
どくりと胸が鼓動を打つ。頬が熱くなったのがわかる。
「ねぇ、キミ明日死にたくならない?」
「なんでだよ。でも、そういうおまえもおれのことすきだよな?」
一瞬、息が止まった。
日向が瞬き一つせずに狛枝を見つめる。
穏やかな熱がこもった瞳が、真っ直ぐに見つめている。
どくどくと、うるさい何かが耳元で主張するように音を立てていた。
「いい加減にしなよ、この酔っ払い」
日向の肩を掴み、仰向けに押し倒す。空いた手で、日向の頬をつねった。
「あははっ、こまえだ、いたいって。ふへへ」
「ねえ。これ、楽しいの?」
「ああ、たのしい。はは、いまのおまえのかお、おれ、すきだな」
顎を引く。今、自分は一体どんな顔をしていたというんだ。顔の筋肉がこわばっている。うまく、笑えない。
「冗談じゃない。ボクは馬鹿みたいな真似は勘弁かな」
「そんなこというらよ」
日向の手が、狛枝の手を握る。ぐるりと巻き付く熱は、酷く熱い。
「もう呂律が回ってないじゃない。はぁ……、さっさと酒の飲み方くらい覚えなよ。……ま、どうしてもキミが飲みたいって言うなら、付き合ってあげなくもないけど。こんなにめんどくさくなっちゃうキミを見張るのは、ボクくらいがちょうどいいでしょ?」
返事がない。やけに静かだ。
穏やかに胸が膨らみ、沈む。
日向は、小さな寝息を規則正しく立てていた。
「あ〜あ。一人であっさり寝ちゃってさ」
日向の側で、肩を落とす。

好き。

耳の奥で、日向の声がぱちぱちと弾けている。
「日向クン」
名前を呼んでみる。
溢れた声は、柔らかく甘ったるい。
日向からの返事はない。帰ってくるのは穏やかな呼吸のみだ。にじり寄る。日向は身動き一つしない。上から覗き込むと、日向の顔に自分の影がかかった。日向の唇が緩く開いている。誘われるように、軽く唇を重ねた。
そっと離れ、自分の唇を指先でなぞる。
「はぁ……、馬鹿はどっちなんだか」
返事をする人間は今いないというのに、思わず呟いていた。
じわりと胸の内に溢れ、満たしていくものがある。あたたかで、しょっぱくて蜜のようにあまい。酔っ払いの戯言だと水に流すのがいいとはわかっている。わかっている。
だけど……
いつか、この感情の答え合わせをしてみたいと柄にもなく思ってしまっている自分もいる。
もぞりと日向が寝返りを打つ。狛枝は自分のベッドから毛布を引っ張り、日向の上にかけてやった。
嫉妬、親愛、憎悪、愛情。
日向といると自分がゆらゆらと揺れる。戸惑ってしまう。
でも、悪くはない。
オレンジ色の光に、ゆらめく影が一つ。
膝を抱え俯いた影は、小さく息を吐いていた。