ひなげし
2025-05-31 17:11:25
7004文字
Public 狛日
 

風の音が変わるころ

本予備/狛日 狛日版週ドロライ第47回「交換」「友達」「泣き顔」 言いすぎた一言から、やり直す話

狛枝は広場のベンチに腰をかけていた。
夕焼けの中で、そっと息を吸う。膨らむ胸に押されて、胸ポケットに入れた映画のチケットがかさりと音を立てた。
何度目かのため息をつく。どのくらいここで時間を無為にしただろうか。狛枝の待ち人はまだ来ない。
才能のないどうでもいい人間の通う校舎側に、狛枝はいた。狛枝の座るベンチを避けて、帰路に着く才能のない有象無象の人間たちがすり抜けていく。不躾な視線が、狛枝をなでていく。そんな人間の奇異の目など無価値だ。見る価値もない。不快なことばかりだ。
でも、悪くはなかった。有象無象からとびきり狛枝の目を引き、名前がついた人間の顔が浮かぶ。彼の気難しそうな表情が、素朴にささやかに笑む、その綻ぶような瞬間が好きだった。彼の笑みは少しだけ、胸があたたかくなる。いつのまにか、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
突然流星のように現れたイレギュラー。彼には才能はない。希望なんてない。
いまだに飲み込めないものもある。
だって、それが今までのボクの人生だったからだ。だけど、彼はボクの唯一の友人だ。彼はボクの小さな不運をため息一つで済ましてしまう。差し伸べられた手は、固くて大きくてあたたかい。彼の側は、存外ここちがいい。深く考えなくても、今はそれでいいじゃないか。
初めてできた友人の、ちょっと申し訳なさそうにする顔と、遅れたことに対する狛枝の嫌味を仕方ないよなと受け止めてくれるその形式ばってきたやりとりを、どこか楽しんでいる自分がいる。彼と交わすささやかな約束を果たしていくことに、満足感を感じている。決して、不快なことだけではないのだ。
「こ、狛枝。どうしてテメーがこんなところに」
聞き馴染みのある声が、狛枝の意識を叩く。
この区域に見合わない、茶色の本科の制服。くりっとした大きめの瞳が一つ瞬いた。傾いた太陽が、狛枝の前に立った青年を照らし出す。眩しい姿に、目を細める。
「あれ、九頭龍クン? 才能あるキミがどうしてこんなところに?」
「あん? オレはこっちに妹がいんだよ。あんまいい顔はしねーけど、鍵忘れたっつーから渡してきた帰りだ。それよりテメーがここにいる方が意外だわ」
好奇心を隠さない視線が、狛枝をなぞる。
覚えのある視線だ。どくりと、鼓動が大きく音を立てた。形にならない言葉が、狛枝の気道を塞ぐ。
「ボクは、その」
「日向か?」
息が止まった。
「最近仲良さそうじゃねーか。左右田が言ってたぜ、二人でいるのを外で見かけたってよ」
にっと、目の前の極道が唇の端を吊り上げる。
ぞわりと胸を何かがくすぐっていく。ぴくりとまぶたが痙攣していた。かっと頭の中が真っ赤になる。
見られていた。見られていた?
ボクとキミを? 
ボクがキミを? 才能のないキミと?
いいや、ちがう。知られたくない。認めたくない。
そう、だってキミはボクにとってどうでもいいはずの人間じゃないか。
「はは、仲良くなんてまさか。ボクが“才能のない人間”と仲良くする理由、あると思う? まぁ、予備学科は才能がない分どうなってもいいから付き合いやすいよ」
狛枝は、吐き出すように呟いた。
強い視線を感じた。引き寄せられるように、榛色と視線が絡む。
ごっそりと表情が抜け落ちた顔。
健康的な色をしているはずの日向の顔は、血の気が失せていた。狛枝を映した榛の瞳はなんの色も乗せず、表情は固まっている。まるで木偶のようだった。息がつまる。生唾を飲み込んでいた。日向のそんな顔を見るのは、初めてだった。
空気が動く。くしゃりと、紙が潰された音が風に乗って聞こえてくる。狛枝の胸ポケットに入っている映画のチケットと同じ色の紙が、日向の手の中で無惨にもひしゃげていた。日向が踵を返し、離れていく。
視線が合ったというのに。
キミを、キミだけをずっと待ってたというのに。
後ろ姿が遠ざかっていく。
「あ……
思わず声が出た。ぞっと、頭の中が冷えていく。指が熱を失い、こわばる。
寒い。痛い。くるしい。
わからない。わからないけれど、心が悲鳴をあげていた。そうだ、彼はどうせ予備学科だ。ボクにとってなんの価値もなくて。それなのに、それなのに。
どうしてこんなに痛いんだろう。
大きなため息が聞こえた。腕を組んだ九頭龍が無言で狛枝を見つめていた。
「そんなツラすんなら、さっさと行ってくりゃいいじゃねーか」
「別に、ボクは」
ちっ。舌打ちが一つ落とされる。狛枝は胸ぐらをつかまれ、揺さぶられた。
「テメー、ダチ泣かせるなんてダセー真似してんじゃねーぞ!」
「落ち着いてよ。まだ、泣いてるって、決まったわけじゃ」
「うるせぇ! テメーの初めてのダチなんだろうが! いいから行って謝ってこい!」
狛枝の耳元で、声がはじける。頬を打たれたかのようだった。身体が声に従うかのように、びくりと立ち上がる。
肺に空気が入った。開けた視界の遠くに栗色のつんつん髪が見える。彼が、予備学科の校舎へ駆け込んでいく。
彼は予備学科だ。
だけど、それだけが全てじゃないことぐらい、言われなくたってわかってる。ため息を一つついて彼がボクに差し出してくれたものに意味がないなんてことはない。友達だと無理やり握られた手に、ボクは……価値を見出している。希望を感じてしまった。それぐらい、わかっている。
今まで飲み込めなかったものが、じわじわと明確に形を得ていく。何かが自分の中で壊れていきそうで、酷く恐ろしい。
ボクはこれを見るのが嫌だった。向き合うのが嫌だった。だけど……
不意に強く背を叩かれた。身体が前につんのめる。つられるように足が勝手に前へ動いていた。
前へ、ともかく彼の元へ。
全ての音が絶たれていく。
自分の呼吸も、有象無象の囁きも、素晴らしい才能のある九頭龍の声すら聞こえない。
静かだ。ただ、底をすり減らした靴で地を叩く、日向の足音だけが道標のように聞こえていた。
狛枝が走り去った空間に、満足げなため息が落とされる。
「へっ、やればできんじゃねーか」
狛枝を見送った極道は、にやりと笑っていた。


「っ、日向クン! 待って」
白い壁を焼く茜色に目を細めた。ひとけの薄い校舎内を、足音を追って走る。時折、すれ違うまばらに残った黒い影が、狛枝に温度のない視線を向けている。
普段なら、不快なはずのそれが今は全く気にならなかった。階段を駆け上がり、飛び出た廊下の隅で大きく音を立てて閉められたドアを見た。廊下を進み駆け寄ると、ドアから背を向けた彼が、すぐそこに立っていた。ドアを叩く。
「日向クン!」
……気にしてない」
ドアの向こうで、日向がそっとつぶやく。
「嘘つき。じゃあ、なんでボクから逃げたの?」
日向は答えない。
狛枝が身じろぎした瞬間、乾いた音が胸の付近から鳴った。落とさないように、奥に奥にしまいこんだ映画のチケット。キミでも楽しめると思って、選んだ長年続くミステリーものの劇場版。どんな不運に塗れても、笑っていられたのはこの小さな約束があったからだ。狛枝は、眉根を寄せた。
「キミさぁ、ボクとの約束……破る気?」
……悪い。そっとしておいてくれないか」
日向のくぐもった声が、ほんの少し濡れていた。
息がつまった。
木偶のような顔。翻された足。遠ざかる背中。
ぞくりと悪寒がした。底が抜けるような、虚脱感と心臓を撫でる冷えた感覚を思い出す。冷や汗が吹き出る。
「嫌だ」
感情が乱れる。揺らぐ。
勢いよくドアを開けた。
手を伸ばし、目の前の日向の腕を掴んでいた。それでも、日向は振り向かない。
「意地が悪いな。……どうでもいい人間くらい放っておいてくれたらいいだろ」
落とされた声は静かで、ほんの少し棘が含まれている。
胸の奥が波立つ。いつもの自制心が薄れ、狛枝の身体の奥で何かが大きくうねっている。激しい情動だ。日向といると、時折自分自身さえ見失うような情動の波に、襲われる。どうしてかわからない、友達になる前からそうだった。日向といる時だけだ。
「なんのつもり? 言いたいことがあれば、いつもみたいに言えばいいでしょ」
狛枝は、日向を揺するように語勢を強める。
わけがわからない。
日向は狛枝に遠慮したことなどなかった。最初からそうだったはずだ。榛色はまっすぐに狛枝を貫き、狛枝の傍若無人っぷりに口吻を尖らせていた。どんな時でもそうだった。それが、自分たちのコミュニケーションだったはずだ。
なのに、なぜ。
……別に、怒ってるとかじゃないんだ。だから、お前に言いたいことはない」
日向が微かに首を振った。
……さっきの、ボクの、聞いたんでしょ」
「別に怒ってないって」
「じゃあ、なんでボクのこと見てくれないの?」
……ちょっと疲れたんだよ」
「何に?」
小さく息を吐く音がする。日向はようやく狛枝に身体を向けた。
息を呑む。
そこには、なんの表情もない。虚だ。ただ、目元を潤ませ肌を湿らせているその場所だけが、茜色の光を蓄え輝いていた。
「お前に期待することに。それと、お前に期待した馬鹿な自分に、だよ」
目を伏せて吐き出された日向の言葉が、まっすぐ耳に届く。歪んで、捻れて、どこか諦めたそんな声だった。
背筋が震える。ゾッとしていた。
窓ガラスがかたりと音を鳴らす。教室がほんのり薄暗くなった。風が運んできた薄雲が、夕焼けを覆う。
くらりと、眩暈がしていた。バラバラと足元が崩れ落ちていく感覚がする。
なんとかしなければ。なんとかしなければいけない。
奥歯を噛み締める。
「期待、してたの? ボクなんかに?」
「そうだよ。笑えよ。お前はそういうやつだったって知ってたのにな。お前と友達になれたと思ってた自分が馬鹿らしい」
日向が口元を歪ませ、せせら笑う。
「友達、でしょ。ボクたち」
「物知りのくせに世間知らずだな。いいか、教えてやるよ。どうでもいい人間は友達って言わない。赤の他人って言うんだ」
狛枝は無言のまま、日向を見つめる。いつもならよく回る口が、何一つ動かない。言葉が出てこなかった。
とっさに、日向の言葉を違うと言い切れなかった。
狛枝にとって、日向が初めての友達だった。
キミはボクの友達だ。
今、そう告げたところで、どう信じてもらえるというんだ? 日向はたった今狛枝の裏切りを見たばかりだ。口先だけのこの言葉に、何程の価値があるというのだろう。日向にとっては、おぞましいものでしかないはずだ。
「満足か? もう離してくれ」
「い、いやだ。なんで予備学科のいうことなんか、ああ……いや、違う。そうじゃ、なくて」
「何が違うんだ? お前は何も間違ってない。俺はお前にとってなんの価値もない予備学科だぞ。俺には才能がない。それは変えようのない真実だ。それに、学園も才能のない人間にはリソースを割きたくないんだろうな。授業もたいしたことない。学科の名前から違和感を覚えるべきだったな。お前の言う通りだ。所詮予備学科の人間は才能ある人間の研究費のための踏み台でしかない。価値のない人間の巣窟だよ」
冬の始まりを思わせるような、冷え切った木枯らしのような声だった。虚な深い榛色が、ぬるりと狛枝を撫でる。いつもは温度のある瞳が、温度を映さない。首に何かが巻き付いているみたいで、呼吸が苦しい。じっとりと、手に汗をかいていた。
嫌だ。嫌だ。
「もう、やめなよ」
「何がだよ」
「いい、聞きたくない」
目をぎゅっと閉じる。
「お前がいつも才能のない他人に言ってたことだろ。価値がない、身の程を弁えろ。思い上がりもいいところだね。全部お前がよくいう言葉だろ。それの何が聞きたくないんだよ」
日向が不快そうに眉をひそめた。
棘だらけの言葉は、狛枝の皮膚を刺し、血を滴らせる。自分の言葉は、あまりにも軽く、醜く、そして愚かだった。
ふらつきそうになる足に、力を入れた。日向と視線を合わせる。今度は、逸らさない。
狛枝はおそるおそる、口を開く。──価値。口に何度もしてきた言葉、概念なのにまるで初めて言葉にしたかのように口慣れない。耳の奥で日向の歪んだ低い声がこだまする。寒い。虚しい。
彼の手を、彼のぬくもりを、彼の隣の居心地の良さを否定したくはなかった。キミがボクに教えてしまった諸々は、無為や虚無とは真逆のものだ。ボクは、それが価値のあるものだと知っている。
唇を強く噛み締めた。
「価値……。ボクは、……ボクは、本当はキミに価値を感じてたんだ。なのに、キミがキミ自身を否定しないでよ」
言葉を切り、息を呑み込む。吐いた息が小さく震えていた。変わってしまう。決定的に今までの自分が崩れ落ち、変わってしまいそうで、躊躇ってしまう。
予備学科の彼に価値があるのなら。希望となり得るのなら。──ボク自身は? 
息が詰まる。どくりと、心臓が大きく脈を打つ。ボクに価値が? そんなわけない。ひりつくような焦燥感が身を焼いている。だけどそれ以上に、日向が自分自身を蔑ろにして見せたことへの虚しさが勝つ。
重たい色をした榛色と視線が絡む。そこに浮かぶのは、失意、諦め、それに嫌悪だろうか。いつも鮮やかに感情を映し、生き生きとした美しさは見る影もない。
どうしてこうなった? ああ、ボクのせいだ。
狛枝は、血の気を失った唇を震わせた。
「ボクがボクじゃなくなりそうで、変わってしまいそうで、認めたくなかった。誰かに突きつけられると、否定したくなってしまう。だけど、ちゃんと認めるよ。日向クン、キミのせいで変わってしまったボクがいる。ボクは、たとえ予備学科だったとしても、キミに価値を感じているんだ。キミが無理やり握ってきたその手に。キミがボクに割いてくれたその言葉と時間に、ボクは価値を感じてる」
「なんだよ、それ」
日向が天井を仰ぎ、息を深く吐き出した。
「キミがボクのことを友達だって、言ってくれて本当は嬉しかった。キミを待っているボクを見つけて、キミが申し訳なさそうな顔をするのを見るのが好きだった。小さな約束を叶えてくれる、キミが好きだった。だから、キミもボクに期待してよ。いつもみたいに、ボクのこと怒ってよ」
……怒られて嬉しいのか? 変なヤツ」
感情の色が乗った榛色が狛枝を映す。くしゃりと眉を寄せ、口の端だけを歪ませた、下手くそな笑みだった。
狛枝は日向に向かい、微笑んだ。
「キミにそんな顔されるよりは、よっぽどいいよ」
手を伸ばす。日向の濡れていた目元を、そっと拭う。
日向は瞬きして、狛枝の顔を見つめる。
「そうか」
「うん。あんなこと言って、……ごめん」
「もういいよ」
「本当は違うのに、認めたくなくて。自分のためにキミのことを否定して。自分ばっかりで愚かで劣悪で、ウジ虫なボクが悪くて」
「わかったから」
日向がゆっくりと首を横に振り、狛枝の腕を叩いた。
「う、うん……
日向の唇がもぞりと動く。けれど、言葉が出てこなかった。束の間、教室に静寂が訪れる。遠くにざわめきを感じた。狛枝には日向が言葉を迷っているのか、躊躇しているのかわからない。けれど、胸の内の激しい情動を言葉にするのも、明瞭な音にするのも困難だ。たった今、自分もそれを味わった。
キミのことを、もっと知りたいと思っている。
だから、待つ。
深呼吸を何回かできるくらいの時間の後、日向がそっとため息と共に言葉を吐き出した。
「お前が変わっていきそうなお前自身を認められない時があってもいい。だって、俺だって人のこと言えないからな。でも、たまにでいいから、お前にとって本当のことを教えてくれ。俺は、お前が俺に直接差し出してくれたものを信じるよ」
「ボクのこと、許さなくていいよ」
日向は目をつぶり、肩をすくめた。
「まあ、いつかは許してやるよ。その代わり、俺の酷いところも秘密にしておいてくれないか? こんな情けないところ、本当は誰にも見せるつもりはなかったんだ。だけど、お前が追ってきたせいでこんな……
「キミが情けないことくらい、随分前から知ってるよ。でも、才能がなくて不安で、それでも何かあるはずだって手を伸ばさずにはいられない、求めてやまないその視野狭窄で鬱屈としたところはキミらしくていいと思うよ。それになによりお似合いだね、ボクたち」
「最悪なところがおそろいって話か?」
「キミなら、どうしようもないほど自分がクズで劣悪で矮小であることを知っていながら、心がどこか認められなくて、愚かにも希望を求めてやまないボクのことを分かってくれそうだから、期待ちゃうし好きだなって話」
「どうだか」
日向がさも呆れましたと言わんばかりに、長い息を吐き出した。
なんだか、おかしい。小さく噴き出していた。
「あのさ」
「なんだ?」
「とりあえず、今ボクはと、友達と約束していた映画に行きたいと思っているんだけど……どうかな」
手を差し出す。
確か、あの時キミが伸ばしてくれた手の角度はこうだった。
日向が目を何度も瞬かせる。
カタリと窓が大きく音を立てた。風が強くなる。
部屋いっぱいに茜色の光が満ちた。
「ああ、もちろんだ」
手に温もりが触れる。
狛枝の眼前には、大切な友達の珍しく穏やかな笑みが広がっていた。