ひなげし
2025-04-13 03:57:42
4597文字
Public 狛日
 

瞳が映すもの

未機パロ/狛日
狛日版週ドロライ第40回「瞳」「照れ隠し(微量)」
自己証明と、淡い愛情と執着の話。

 日向がノートパソコンをタイプしていた指をふと止めた。
 静かな横顔。日向と狛枝以外誰もいない、誰もに忘れ去られたかのようにひっそりとした会議室に細く入り込む昼下がりの光。ささやかな光を受け止め煌めいていた榛色が、まぶたの裏に隠れた。
 ああ、残念。
 狛枝は肘をついて、ただそれを見つめていた。
 今まで無表情だった日向の眉が、困ったように下がっている。
「なあ、狛枝」
「なにかな」
「気が散るんだが」
 日向がカップに手を伸ばし、中身をほんの少しだけすすった。湯気はもうとっくにあがっていないコーヒーだ。
 最近復興が進み、ようやく市場にちらほらと流通し始めた。けれど、まだまだ贅沢品かもしれない。狛枝も久しぶりにその芳香を嗅いだ。
「別に何もしていないじゃない。キミを見てるだけなんだけど」
「それで何が目的なんだ?」
「理由が欲しいの? 小さいこと気にして疲れない? もしかして上に詰められちゃった?」
 狛枝はひらりと手を振る。
 日向が息を吐き出す。それから、ちらりと狛枝を見やった。残念なことに、視線が合わない。狛枝は肩をすくめる。
「一人でどこかにいく日向クンが誰からも怪しまれないように、監視してあげてるんだから感謝してくれてもいいんじゃない? それとも、一人でこっそり贅沢してるのがバレちゃうのが心苦しいのかな?」
 冷え切ったカップに指をさす。日向は唇の端だけをあげて、苦い顔をした。
「そうともいう。お前も飲むか?」
 カップが差し出される。
 狛枝はゆっくりと首を振る。共犯の誘いを断った。
「ボクは熱いのが好みかな」
「そうか」
 静寂が訪れる。壁にかかっている古い時計の針が、時を進める音が聞こえてくるほどだった。
 日向がカップを差し出した時、ぴくりと彼のまぶたの筋肉が痙攣していた。日向は嘘をついている。
 ざわざわと心の奥が波立っていた。
 そろそろ長い付き合いだ。人目を避け、一人で居たがる彼に何があったのか、予想はつく。狛枝はため息を飲み込んだ。どう心を開き、言葉を差し出せば日向の糧になるのか全くわからない。
……なぁ」
「なに?」
……そんなに見ても何も出ないぞ。見惚れでもしたのか?」
 ひくりと鼻が動く。日向の硬い表情の中に、ほんのりと浮かぶ羞恥。なるほど、軽いお遊びみたいなものだ。向こうからチャンスが勝手に転がり込んできた。
……ふふ、うん。そうだけど」
 狛枝は素直に頷いた。
「はぁ?」
 彼が彼であることを証明する色が、戸惑いの感情を乗せる。
「日向クンの右目、いい色してるよね。過ごしやすい気温の午前の……、春の色みたい」
「今日のお前、なんか変だぞ。俺に嘘なんかついて何がしたいんだ?」
 日向が腕を胸の前で構える。
「心外だなぁ。ボクは嘘なんてつかないよ。それは一番キミが知っているでしょ」
「でも何か企んでいる、と」
「キミにそんなに信頼してもらえるなんて、嬉しいよ」
 探るような視線が狛枝の顔をなぞっていく。
 疑心。信頼。狛枝の言葉が本当ならいいなと願う、ほんの少しの期待。人間味がある日向の露骨な視線に、狛枝は胸の中で小さく息をついていた。身体の中から力が全て抜けてしまうような感覚。これは安堵だ。
 キミもはやく、気づけばいい。ボクらはまだ、こんなにくだらないことを話せている。
「別に深い意味はないよ。企みなんて大層な名前もつかないかな。ただ慌てふためくキミが見たかっただけだから。久しぶりにいいものを見せてくれてありがとう」
 視線を感じる。
……何?」
「いいや。ちょっと嬉しかっただけだ」
 日向が目をつぶり、緩く首を振る。
「お前が褒めてくれるならコンタクトでも作ってみるかな」
「いいんじゃないかな。ね、作ったら? そしたら、いつでも鏡が見れるようになるかもね」
 知っている。知っている。
 存外真面目に部屋を掃除するキミの洗面台の鏡が曇っていることぐらい知っている。どうしてそこが綺麗にできないかも、想像がつく。それぐらいずっとキミを見ていた。
 怖くて眠れない日があることも知っている。そんな日は、喫煙なんてしないはずの日向の部屋のベランダからわずかに煙草の臭いがしている。
 早くもっとわかりやすく、ねをあげてしまえばいいのに。緩やかな自傷じみていて、いらいらする。
…………お前、俺のこと案外好きなんだな」
「今更気づいたの? 前に言ったじゃない。日向クンのこと、好きだよって」
「そうみたいだな」
「ボクの目を見たらすぐわかるのに」
 そろりと、日向の視線が上がる。何ヶ月ぶりだろうか。二色の虹彩に狛枝がしっかりと映り込む。
 ああ、目をつぶってしまいたい。恥ずかしいぐらいに自分の瞳は柔らかく、喜色に富んでいた。
……お前の目、静かでいいな」
 日向が覗き込んでくる。逸らさず、受け止めた。
「そう」
「うるさかった頃のお前の目しか知らなかったから」
「何年前の話をしてるのさ。ボクだって大人になるよ」
「まぁ、変わらないところもありそうだけどな。昨日のお前見た左右田が怖がってたぞ」
「キミもね」
 言葉を切る。
「キミも変わらないよ。キミが気に食わない時も、キミを好きになった時も、ずっとずっとボクはキミのことを見てきたんだから。キミは日向創。そうでしょ」
 榛と紅の瞳が大きく見開かれた。
 自分が自分でなくなるかもしれない、なんて恐怖はボクにはわからない。だって、人生はなるようにしかならないからだ。ボクは、自分自身の才能によって巻き起こる運命を受け止めているつもりだ。
 似ているところはあっても、考え方が違う。どう頑張ったって、ボクはキミの胸に巣食う恐怖に寄り添うことはできない。
 だけど、今ボクが見ているキミは初めて会ったあの電脳空間の時と変わらず、ほんの少し憎らしくて愛しいボクが知る日向創のまま。
 ただ、それだけだ。
 それだけが、ボクにとっての真実だ。
 日向は肝心なことを忘れている。本当に、初歩的なことだ。学級裁判で指摘されたら逃れられないくらいのミスとも言える。
 自分は自分である、なんてこの男は自分一人でどうやって証明するつもりだったのだろう。
 偶然狛枝がふらつく日向の背中を見付けなければ、日向は今頃たった一人で深淵に向き合っていたはずだ。たった一人で会議室にこもり、その希少な嗜好品ぽっちでキミはキミを証明できるとでも思ったのか。片腹痛い。キミがその嗜好品で心を揺らして確認しようとしたところで、自分が自分じゃなかった瞬間にどうやって気付けるというのだろう。そんなことでは、証明になりはしない。
 たとえば、絶望が起こした同時多発的現象がなく、社会が今も生きていたとしよう。公的書類、住民票、免許証。色々あったけど、それらが証明してくれるのは上部のキミだけだ。記憶が歪み、認知が歪んだ時、今のキミの精神までを証明してくれる便利な“もの”なんてこの世にどこにもない。
 結局のところ自己なんて不確かなものは、他者との繋がりか、他者と共有する思い出でしか証明できない。他人と触れ合ってようやく自分という形がはっきりとわかるようになる。
 だから、ボクは意地でもキミを一人にさせてやるつもりはない。
 大丈夫。キミは、キミだ。
 そうでないと困る。
 キミが、全てを投げ出して希望に殉じたボクを叩き起こしたのだ。キミがボクの経典を破り、ボクの手を引き、余計なことに人間の温度を教えてしまった。
 ボクをめちゃくちゃにしてくれちゃった責任くらいとってもらわないと割に合わない。
……ああ、そうだ。俺は日向創だ」
 日向がゆっくりと、つぶやく。噛み締めるように、確かめるように。
「今日、何があったか詳しく知らないけど。見ているから。キミのこと」
……ありがとな、狛枝」
 日向の唇が、緩く弧を描く。そして、一つ息をついた。
「じゃあ、とりあえず今日俺をカムクライズルだと詰めてきた、隣部署の巨漢の髪の毛が全部なくなって、椅子に座ったタイミングで尻の生地が破れることを一緒に祈ってくれるか?」
 けろりと変わる日向の表情。それはまるでくだらない悪戯を考える子どもだった。
 顎を引く。瞬きをしていた。あたり半分、はずれ半分。
 あたりは今日、日向がぶつかったであろうと予想した出来事が想定通りだったこと。
 はずれは日向の安定の速さだ。
 堪えきれない。
 ひとつ噴き出してしまう。
「ふうん、どうせそんなことだろうと思ってたけどさ。祈る内容は本当にそれでいいの?」
「ま、俺とお前が祈るんだ。それぐらい軽いもんじゃないか?」
「ボクとキミが祈るんだよ? 足の骨一本ぐらい容易いと思うけどな」
「物資が勿体無い。あの男は鼻をつまみたくなってしまうくらいには虚飾に満ちてるんだから、周りに見栄が張れなくなるくらいでちょうどいいんじゃないか?」
 日向の指先で、白いカップがするりと机の上を回る。口元には笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、ボクが言うのもなんだけどさ。性格悪くない?」
「誰のせいだろうな?」
 含みのある笑みが狛枝に向けられる。
「まさかボク? やだなぁ、計画が緻密で現実的って言ってよ」
 狛枝は露骨に顔を顰め、手を軽く振った。色違いの瞳が正面からぶつかる。浮かべられた笑みはなく、真剣な眼差しだけがそこにあった。
……ありがとな」
 日向のささやきのような小さな声は、万感が胸に迫っているかのように少しだけ滲んでいた。
 なみなみと、何かが狛枝の胸を満たしていく。どこかで覚えたような感覚だ。ああ、そうだ。あの平和なつまらない夏の夢で、最後に心を開いてキミに言葉を差し出した時と同じだ。
「それなら、そろそろボクに好きって言ってよ日向クン」
 ぱっと、日向の頬が上気する。
 初めてみた。息を飲む。喉が渇いていく。どきどきと、心臓が鳴っていた。日向の二つの色の瞳がゆるりと弧を描き、笑みを作る。
「いつか、な」
 往生際の悪い男だ。酷い男だ。
 ずるい。ひどい。いくじなし。
 ボクはもう、キミを縁として生きていく覚悟を決めたというのに。
 思わず頭を抱えて呻いていた。
「あーあ。ボク、悪い男に引っかかっちゃったな」
「ははっ、そうだな。諦めてくれ。たぶん、俺も、お前と同じなんだろうけど……自信がないんだ。そんなことぐらいお前ならわかってるだろ? お詫びといったら怒られそうだな。俺の飲みさしで悪いけど、コーヒーくらいやるよ」
 目の前に、まだ半分ほど残っているコーヒーの入ったカップが置かれた。コーヒーの芳香が鼻をくすぐる。
 のろのろとカップに手を伸ばし、コーヒーを口に含む。
 ほんの少しの違和感。眉を寄せる狛枝に、日向が微笑んだ。
 日向の微笑みの意味を理解する。香ばしくて苦い。そして少し水っぽい。そして、後を追うように人工的な甘味が舌の上を撫でていった。正直に言ってしまえば、前時代の缶コーヒーにすら遠く及ばない。
 それでも、このコーヒーはうまかった。
 いずれキミとの思い出と一緒に、この味を何度でも思い出すと分かるぐらいには。
……甘いね」
 息を吐き、小さくつぶやく。
 日向が小さく噴き出した。