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ひなげし
2025-04-01 23:15:54
4249文字
Public
狛日
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桜雨の喜笑
本予備/狛日
気鬱を晴らす友のぬくもりと、友達初心者の青春話
雨が降っている。
細い雨だ。優しく降り注ぐ雨は、ぱらぱらと軽い音を立てて傘から滑り落ちていった。
偶然目を引いたビデオレンタル店の前で、日向は傘を閉じた。足先が冷たい。スニーカーが濡れてしまっていた。春先の優しい雨とはいえ、あまり心地の良いものではない。雨雲のせいで暗くなるのも早いだろう。
帰りたくない。ああ、このまま暗くならなければいいのに。
もったりと胸を押す気鬱を払うように、首を振った。
どうしても、春は気が重たくなってしまう。天気も、気温も安定しない。アップダウンの激しさは知らず知らずのうちに心を蝕む。普段考えないようにしていることも、水生植物がぷかりと小さな泡を吐くように溢れ出てきてしまう。
勉強にただ一つ打ち込んで、果たして自分はこれでいいのかと気弱にも迷ってしまう。まだ何になりたいかも、好きなものすらもわからない。
何か一つの輝き──夢を見つけた時、動けるために筋力をつけているのだと何度も言い聞かせているつもりだ。いつか報われる日が来る。誰かがきっと見ていてくれている。だから、考えない方がいい。無駄なのだ。
そうわかっているのに、やめられない。そういう時はただ足を動かす。そうしないと、深い思考が揺り起こすさざ波に足を取られてしまいそうになる。
思考を振り払うように、足を踏み出した。自動ドアを抜ける。日向は息を深く吐き出した。湿気のない、あたたかな空気が胸を満たす。強いLEDの照明が目を刺した。
「あれ、日向クン?」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
「狛枝?」
白いシャツに黒い細身のパンツ。紺色のエプロンをつけた狛枝が、腕に映像のパッケージをいくつか抱えてそこに立っていた。
「こんなところに来てどうしたの?」
「いや、その
……
暇だったんだよ」
「へぇ、そう」
狛枝は顎を引き、日向をじっと見つめてくる。心なしか探るような視線に身じろぎした。
「
……
あ、えっと。エプロン似合ってるぞ」
「え、ああ。ありがとう」
居心地の悪さにつぶやいた日向の言葉に、狛枝が一呼吸おいて反応した。返ってきた言葉はぼやけていた。狛枝は自分の芯が一本ある人間だ。自分が信じたいものを持っているし、自分が何を成したいのか道を明るく持っているともいえる。だから、ブレることがない。そこが憎たらしい時もあれば、羨ましいと思う時もある。そんな彼の迷うような言葉は珍しい。
「えっと、狛枝。何かあったのか?」
狛枝は息を吐いた。
「うーん。あのね、日向クンにちょっと聞きたいんだけど、いいかな?」
「あ、ああ。お前に時間があるなら」
「ならよかった。ボクにはちょうど時間があるからね」
「おい、仕事中じゃないのかよ」
「今お客さん、日向クンしかいないんだよ。文句は言われないと思うよ」
狛枝が顎をしゃくる。
促されて周りを見渡す。棚の隙間から見える影はひとつもない。遠くで新作ゲームのコマーシャルが微かに聞こえてしまうぐらいにあたりは静かだった。
「閑古鳥が鳴いてるのか
……
。で、お前は俺に何が聞きたいんだ?」
狛枝が息を吸う。
「キミと今出会ったことが、ボクにとって“幸運“なのかってことだよ」
「はぁ?」
白い指が抱えていたパッケージを一つ取り、歯抜けの棚に差し込む。
「見ての通りボクは今バイトをしてるんだけどさ、幸運の課題のレポートに使うことになるデータの一つになるんだよね」
「ああ。それがどうしたんだ?」
「いいことが今のところ一個もないんだよ。お客さんは一人も来ないし、今日入る予定だった新曲のCDは運搬しているトラックが横転して来なくなった。トイレは詰まるし、地震は起きていないのに本棚から本が雪崩のように落ちてきてね
……
。ほんと、まいっちゃうよ」
狛枝が大きくため息をつき、肩をすくめた。
一瞬気が遠くなる。唇からは苦笑が漏れていた。
「相変わらずだな」
「幸運の研究をしているのにこの有様じゃ、課題にならないでしょ」
「まぁ、そうだな。実験の前提条件から洗い直しになるか
……
」
本科の人間は、予備学科と比べて特殊な試験や研究が課されている。幸運なんて才能、測ること自体が難しいものだろう。どう単位がもらえるのか想像もつかない。うまくデータが取れなければ、一から何度も課題をさせられているのかもしれない。その中でも、狛枝はちゃんと真面目に課題に向き合っている。
いつもふわりとした白い癖のある髪が、ぺたりと重く頬や額に張り付き落ちている。今日一日の頑張りを表していた。
「うん。でさ、たった今ボクは日向クンに会えたんだけど。日向クンはこれについてどう思う?」
「どうって
……
」
狛枝の顎が上がった。何か大きなことを挑むように、眼差しが真剣な色を浮かべた。
「
……
時間はあるかな?」
「ええっと、暇だから来たんだが」
「そうじゃなくてさ。あと少しでバイトが終わるんだ。だから、
……
この後に、キミの時間をもらえるか聞いてるんだけど。もし具合が悪いなら断ってくれていいよ」
にこりと、狛枝が笑む。口元が僅かに歪み、白い指が新しく掴んだパッケージ落ち着きなく揺らしていた。
ああ、そうか。お前は。
日向は目を閉じ、満足げにため息をついた。
さざ波が引いていた。偶然だったのかもしれない。だけど、不器用に投げ渡された他人の温もりは空虚だった日向の胸を満たした。
「いや、偶然にも誰かと話したい気分だ。相手になってくれよ、狛枝」
白い頬が上気する。
「
……
よかった。よろこんで」
狛枝の硬い笑みが解け、口元をほころばせた。
「あのなぁ、もっと普通に誘えよ」
「やり方なんて知らないよ。だって、これが初めてだったんだから」
白い指はくるりとパッケージを回し、カタンと音を立てて立てかけた。
「ごめん、日向クン。待たせちゃったね」
狛枝が裏口から駆け寄ってくる。水たまりに足を突っ込んで裾を盛大に濡らしているが、まるで気がついていない。まるで喜び跳ねるように飛んでくる大きな白い犬のようだった。
「別に気にしてないぞ。で、今からどこにいくんだ?」
傘を開けば、腕にかけた黒い小さな布袋から乾いた軽い音が鳴った。
「
……
日向クン、何か借りたの?」
狛枝がのぞきこんでくる。
「ああ、最近天気も悪いし寒いだろ? 映像流してると気分が晴れる時もあるからな」
「でも、図書館で借りなくてよかったの? そのタイトルなら来月入れてくれるって昨日お知らせで見たよ?」
「いいんだよ。お前がせっかく頑張って働いたのに、売り上げが全くないのは可哀想だろ? 疫病神扱いされるお前を見るのはちょっとな」
頑張っていたのに何も成果がないことは悲しいことだ。そのことを何よりも、自分が知っている。
糧を得たいのだ。わずかな報酬でもいい。そこに誇れる何かがあって欲しい。自分が誇らしいものであると、誰かに、社会に証明してもらいたい。
自分は、狛枝の不器用ながらも戦う頑張りを見た。
そこにちょうど、観たい映画があった。
微々たるものだろうが、それだけで自分がここでディスクを借りる理由になる。
「うーん、日向クンの気持ちは嬉しいけどさ。そういうことあまりやらない方がいいと思うよ。キミってだいぶ生活大変そうにしているのに、人のことばっかりしてさ。そのうち、付き合いの薄い困った顔した顔見知りから頑張ってるからって壺を買っちゃいそうだから」
狛枝の口調にほんの少し揶揄の響きが混じる。
「き、気をつける
……
」
「ああ、ごめん。水をさしちゃったけど、今からボクの家はどう? 一緒にその映画、観てみない?」
「お前の家か」
「何が起こってもいいように、だよ」
狛枝が指を立て、日向の目の前でくるりとまわす。
「
……
何か起こるのか?」
「可能性の話だよ。ボクの才能のことは日向クンも知っているでしょ。今日の不運は全部、キミと出会うためだったかもしれない。だって、キミはボクの友達、だからね。
……
もしかして、怖くなっちゃった?」
灰色の瞳に一瞬だけ影が走る。
指をぐっと握りこんだ。彼の才能は本物だ。本物だけれど、それを理由に断ることはしない。お前がわからないから怖いと言って自分から近づいたのに、今更それを反故にする気はない。
「いいや、別に。お前の手当くらいはできるから、頼りにしてくれ。罪木にこの間教わったんだ」
「
……
そっか」
日向の眼差しが眩しいかのように、狛枝はそっと目を伏せる。
「ん? なんだよ」
「いいや、なんでも」
「課題のレポート埋まるといいな」
「うん、そうだね。ああ、日向クン、帰り道に老舗の和菓子屋があるんだけど寄ってみる?」
「本当か? 寄らせてくれ」
思わず身を乗り出していた。
「あるといいね、草餅」
「春だぞ? さすがにあるだろ」
「わからないよ? だって、ボクがいるんだから」
「
……
まさか、俺にまでお前の幸運が影響してくるっていうのか?」
「せっかくだし、試してみようか。レポートに書けるかもしれないしね。あはっ、お店に桜餅だけが並んでたらどうしよう」
血の気が引いた。
狛枝の言葉を借りると、希望とは到底思えない光景だ。頭を抱え込む。
「お前が嬉しいのはなんとなくわかったけど、どうして何かあるのが俺限定なんだよ。俺から草餅を取るのはやめてくれ」
狛枝はさもおかしそうに肩を揺する。
「楽しみだなぁ。それくらいで済むならかわいいものだよ
……
」
「俺は当然草餅があるほうにかけさせてもらうからな」
胸を張る。
「狛枝、お前は知らないかもしれないが春は草餅が看板商品になる季節と言っても過言じゃない。お前の幸運だの不運だのに草餅が負けるわけないだろ」
狛枝がどんなに嬉しかろうが、たかが俺だ。
狛枝の軸といってもいい絶対的な希望ですらない、平凡なただの友達だ。
草餅が負けるはずがない。
そんなわけがない。
だけど、そうじゃなかったら──。
「そうこなくっちゃ。ほら、行こう」
白い手が日向の手首を掴む。手を引かれて、たたらをふんだ。
傘がぽろんぽろろと、雨を受け止め始める。
「お、おい!」
狛枝は人と共に歩くのに慣れていないのだろう。でたらめに手を引かれる。ぱしゃぱしゃと、バラバラに足音が鳴った。
前を向く。
日向の手を引く男の白い耳が、ほんのりと朱色に染まっていた。
息を吐いた。
重い雲から降り注ぐ雨が、ぱたぱたと手を濡らす。
つられて上がる体温に、心地の良い冷たさだった。
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