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ひなげし
2025-03-10 00:10:35
13957文字
Public
狛日
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よるべのうた
狛日版週ドロライ第36回「ホワイトデー」
未機パロ/バレンタインデー/ホワイトデー/さらりと同居
狛枝をよるべとしていいか悩む日向くんと、よるべとしてほしい狛枝の一悶着。
足を止める。
昼を少しすぎた機関内は、どこか騒がしい。昼ご飯を求めてざわつく雑踏の中、パステルカラーの柔らかなディスプレイは、食後の日向の視線を惹きつけた。食堂の隣の購買部は、どうやら模様替えをしているようだった。ピンクや白、茶色を基調として、ハートの形をした飾りが店舗を彩る。
首を傾げる。ここは特別雑多で賑やかな区域だが、こんなにも色めき立っていることがかつてあっただろうか。
「日向クン、興味あるの?」
不意にすぐそばで、穏やかな声が耳をくすぐる。跳ねた日向の身体の側には、頭に思い描いた通りの男──日向の同居人が立っていた。
「あ、ああ、狛枝か。いや、珍しいディスプレイをしているなって思って」
「ああ、あれね。ねぇ、日向クンって今日の日付覚えてる?」
「二月十日。月初のイベントが終わったばかりだろ。お前が心配しなくてもまだ耄碌はしてないぞ」
「ああ、うん。そうだね。日向クンの頭はその調子でいて欲しいところなんだけど、ボクが言いたいのはそうじゃなくってさ。簡単な話だよ。もっと別にイベントがあったでしょ。ね、ここまで言えば分かるよね?」
白くて長い指が立てられる。挑むような、揶揄うような灰色の瞳が日向の顔をなぞる。少しの緊張と、奮い立てられるようなその仕草。顎を引く。一瞬の逡巡。
「
……
ああ、バレンタインデーか」
言葉が溢れでる。日向は、自分の唇から飛び出たかわいらしい答えに、ほっと息を吐く。忘れていた。ずいぶんと久しい。
狛枝はさも哀しげに、長く息を吐き出した。
「かわいそうに、日向クン。ご飯はちゃんと食べてるみたいだけど、今何連勤目だったっけ? 十はいってるよね。もうそろそろガタが来てるんじゃない? みんなに迷惑かけちゃう前に、もういっとき休んだら?」
「生憎だが、身体はすこぶる快調だ」
「そう、残念」
狛枝が肩をすくめる。薄い唇が少しだけ歪んでいた。狛枝が浮かべるものにしてはずいぶん幼い。まるで拗ねた子どもだ。小さく噴き出してしまう。
他愛ないやりとり。柔らかな空気。心が久しぶりに充足感を得ていた。
上がった頬がほのかに痛みを訴える。どうやら久しぶりに、笑ったらしい。ああ、ここ最近忙しかったのだ。記憶のない頃の自分が社会に作った傷は大きい。ただただ、圧倒されてしまう。過去を償うべく前に邁進する日々に、娯楽も文化も忘れかけていた。目の前の光景が眩しい。思わず目を細める。
「ねぇ、買うの?」
狛枝が顎をしゃくる。
通路の先の店舗では、社員が忙しそうに走り回っている。けれど、彼らはみんなどこか笑みを浮かべている。立ち働き、活気付く光景はいつか見た在りし日の街のようであり、染み入るものがある。その中心には花村がいた。彼は食のこととなると、いろんなところに引っ張りだこだ。せっかく、友が盛り立てて文化を思い出させてくれる催しをしてくれているのだ。
人間は文化を紡いでこそ、生活が豊かになる。
少しぐらいは、羽目を外してみてもいいかもしれない。
「少しくらいは乗った方がいいのかもな。せっかくの機会だ。ほら、こんな世の中だし、持ちつ持たれつって言うだろ? みんなにありがとうって気持ちで買ってもいいかもな」
「ふうん。日向クンらしい、パッとしない平凡な考えだね!」
「あのなぁ〜。意外とこういうものが当たり前のようで当たり前じゃないんだぞ。
……
よくわかってるだろ、俺たちは」
「
……
そうかもね」
「それにほら、バレンタインデーってこんな世の中になる前から男だって買うものだったんだ。ご褒美チョコとか、友チョコとか。意味合いは色々生まれてたはずだ。男が買ったっておかしくないとは、
……
思うぞ」
「つまり、日向クンはずっと恥ずかしくて買ったことがなかったんだね」
「狛枝。お前、人の話聞く気はあるのか?」
「あは! もちろん。日向クンがチョコを買うってことはわかったよ」
狛枝がけろりと微笑む。
「なあ、そういうお前は買わないのか?」
「うーん、ボクはいいかな。あまりいい思い出がないんだよね」
狛枝が小さく息を吐く。
「
……
そうか」
この男が言うのであれば、そうなのだろう。きっとろくな目にあっていないのだ。無理にすすめるのも酷かもしれない。
「でも」
「ん?」
灰色の瞳が、日向を見つめる。少しだけ揺れているように見えた。はくりと動く薄い唇。どこか、柔らかな熱を持った縋るような視線。
露骨に向けられる期待に、日向は小さく息を吐いた。この男が望むものにしては、可愛すぎるささやかな望みでしかない。
自分の頬がほのかに上気しているのがわかる。
望まれて、応えられるのが自分だけだと言うのならば。
悪い気はしない。
互いに期待して、勝手に裏切られて、失望して。
再びやってきた機会。あの繰り返された常夏の夢で、俺たちは熱を持った瞳で見つめて、手を繋いだ。目の前の砂を積み上げても、結局俺たちは砂山一つ完成させられなかった。
夢から目が覚めてからは、コロシアイをしていた時の人格を統合したせいかあの時のような熱や言葉はめっきりなくなった。今はもう、何もかも忘れて過ごした蜜月ではない。あの時でさえ、彼が結局頬を染めながら選んだ言葉は“友達”で、互いにそれ以上を直接言葉にすることはなかった。
けれど、なんの縁か今も共にいる。保護観察期間。その理由がなくなったあとは、家賃の節約。又は生活費の節約。理由を並べて契約の更新までしてしまっていた。ずっとこうやって、不器用に伸ばした手を握り合ってこの男に応えている。まるで、黙ったまま連れ立って、二人で完成しない砂の城を作り続けているかのようにも思えてくる。
言葉にはしていない。
今後もできないかもしれない。
あの繰り返された夏から追い出されてはや数年。未だ互いに曖昧なままだ。この関係に名前をつけられる気は、まだしない。自分にそんな日が来るのだろうか。狛枝もそれを望んでいるかも、わからない。わからないことは、怖い。そして、厄介だ。
けれど、こんなに曖昧なのに不思議なことに人肌恋しくて時折、閨を共にする相手にまでなってしまっていた。この男の隣では、自分は今更飾り立てる必要は何もない。ただ、息がつく。その息のしやすさや、ぬくもりは手放すには惜しく、直視するには恥ずかしく思うほどに情もある。
狛枝の灰色の瞳に、わかりにくいながらも多少の情があるのも知っている。
もし、俺をお前が望んでくれるのなら。
情のかけら一つでも、寄越せと言葉に出せない駄々をこねているのだとしたら。
そんなことでいいのなら。
「
…………
まぁ、考えといてやるよ」
灰色の瞳が大きく見開かれる。
雪のような白い頬がほんのりと上気している。
日向は、狛枝に背を向け歩き出す。
後ろの方で、誰かの驚きのような、悲鳴のような声が聞こえた。
硬質な──いいや、プラスチックだ。床に落ち、跳ねる音がする。聞き慣れた低い声が、小さく呻いた。
背後で何が起きたか、手に取るようにわかる。
もう一度、息を吐いた。少しだけ息が熱を持っている。
振り帰り、後ろを見やる。
スーツに機関の社章をつけた名前も知らない社員が、可哀想なほど平謝りしている。その隣で、味噌汁を頭から被り、炊き立ての米粒をスーツに食わせたままの惚けた男が日向を一心に見つめていた。
「あのね
……
」
聞き慣れた声に、日向は足を止めた。
昼休憩もまだあと一時間も先の時間帯で、通路を通る人はまばらだ。
お手洗いを出た先の通路。自販機の影から、見慣れたパーカーの色が見え隠れしていた。
「ボクは甘いのがそんなに好きじゃないし、そういうの困るかな。仮にもここは未来のために仕事をしている場所でしょう? それなら、なおさらボクなんかに時間を取るべきじゃないよ」
狛枝が露骨に深く息を吐いている。
日向はそっと身を乗り出した。予想通り、狛枝は渋面を浮かべ、腕を組んでいる。後ろ姿からじゃどこの部署かわからない女性が、狛枝に何かを差し出していた。
うっかりしていた。もうこの日が来たのか。
「それにさ、こんなボクでも一応好きな人がいるんだよね」
小さく息を飲む。
「キミにとってはどうでもいいことかもしれないけれど、こんなボクの側にいてくれる大事な人なんだよ。やっと応えてくれるところなのに、こんなところを見られて、勘違いされたくないんだよね。お願いだからどこかに行ってくれないかな?」
どくりと、胸が鳴った。
彼の仕草。彼の言葉。彼の瞳の色。
そのどれもに覚えがある。
目が覚めて、姿形をひそめてしまったもの。
一夏の夢、幻のように鮮やかに消え失せたとばかりに思っていたもの。
ああ、あの灰に映る色は、あの繰り返された夏の島で浮かべていた熱そのものだ。じわりと手に汗をかいていた。少しだけ高揚している。自惚れじゃなければ、それは。
心が判断しかねている。うれしい? 優越感? 戸惑い? あの終わらない夏への望郷? わからない。
狛枝に言い募る女性の声が、意味を解する間もなく耳をすり抜けていく。
いつのまにか、周りが静かになっていた。
「あの
……
」
濡れた声が日向を揺する。悲壮に潤んだ瞳が、縋るように日向を見上げていた。可愛らしい薄ピンク色のラッピングされた箱を両手に抱えている。視線を前方に向ければ、狛枝の姿はもうそこにはなかった。狛枝に受け入れてもらえなかった好意。ぷっくりと柔らかそうなピンク色の唇が震えている。濡れた瞳が次第に光を、明確な意志を宿す。柔らかそうな唇が強く噛み締められた。声を聞かずとも、彼女が次に何を言うか予想はついている。簡単なことだ。
どうしてこんな役割が回ってくるんだろうと頭の片隅は考えているのに、少しだけ羨ましいとも思ってしまう。一途で頑なで。激しいのに、ひたむきだ。ああ、なんて眩しい。自分もこうあれたなら。もっと、変わった人生を送れていただろうに。
ああ、本当に。
こういうのをなんていうんだったか。
ついてない。
お前はそういうだろうか。
日向は深くため息をつき、まぶたを閉じた。
ソファーにかけた狛枝が、ローテーブルを見下ろす。
眉間にわずかな皺がよっている。
「ねぇ、これなに? もう一回言ってくれる?」
珍しく日向より遅くに仕事から帰宅した狛枝の剣呑な光を持った灰色が、日向を見上げ突き刺した。
「だから、それはお前宛の贈り物だよ」
正面に立っている日向は、視線を灰色から逸らし机の上に落とした。色とりどりの華やかなラッピングをされた箱やメッセージカードたちが、ローテーブルの上を彩っている。どれも優しい色合いだ。それなのに、部屋の空気は冷え切っている。手に持っているカップの中身も冷えてしまいそうなくらいだ。
「なんで受け取っちゃったの?」
「
……
泣かれたら、受け取るだろ。渡すだけでいいんだって、そう、言ってたから」
日向は想いのかけらを瞬きせずに見つめていた。狛枝から突き放された好意の伝書鳩をさせられた。コイツはそれに静かに怒っている。一つ受け取ったら、どこから聞きつけたのか増えてしまった。どれもが善意で、ささやかな好意だ。嫉妬しないかと言われたら、もちろんする。いい気持ちにはならない。
それでもやはり、自分の善意を、好意を、ささやかな気持ちをほんの少しでも受け取ってもらえなかった時。汲み取りもせず、突き放された時。行き場のない想いを抱えて、酷く悲しくなってしまう。冷え切ってしまった灰色はあまり思い出したくない。今でも夢に見る、苦い思い出だ。口の中がざらりとする。
してはいけないことだったかもしれないって、そんな気はしている。だけど、明確に自分たちの間には理由がない。
「
……
そう」
狛枝の歪んだ唇から吐息が溢れた。狛枝が腰を上げる。白い手が伸びる。狛枝が、想いのかけらを無造作に腕に抱えた。
「
……
お前、何してるんだよ」
長い足が数歩で、目的地に辿り着く。
悪寒がする。
湯気が上がるカップを持つ手が、細く震える。
今の自分は、血の気の引いた顔をしているだろう。
狛枝の両手が広がる。カラフルな箱や袋、メッセージカードたちは、うめくような鈍い音を立てて、ゴミ箱の中へ落ちていった。息をのむ。
「何って、処分だよ。危ないからね」
「なんだよ、それ
……
」
狛枝が振り返る。いつもの穏やかな顔を浮かべ、ふっと息を吐いた。
「もしかして、日向クンってチョコレートあんまりもらったことないのかな?」
「あるけど、
……
ちょっとは」
「ああ、ボクなんかに見栄を張っちゃうキミを考慮できなかったボクの聞き方が悪かったよ。じゃあ、直接関わりのない、相手の名前も知らないような人からもらったことは?」
「
…………
ない」
「あのね、日向クン。どんなものが入ってるかわからないのに食べるなんて、ボクには到底できないよ。
……
まぁ、キミになら何をされたって構わないけどね」
灰の瞳と目が合う。静かに澄んでいる。
「押し付けられる好意ほど気持ち悪いものなんてないよ。もちろん、ボクも当然気持ち悪い人間だってことは承知の上だよ。だって気持ち悪いんでしょ? 知ってるんだよ。
……
ボクだって知ったんだ。だから、ボクは
……
」
狛枝が言葉を切る。頭の回転が早く、聡明な男が、こうも言葉に迷うなんて珍しい。
何が言いたいのか、探している言葉には多少想像はつく。表面だけを切り取って、相手を好きだと慕い、褒めそさえ、尊敬する。数年前までの狛枝を思い出す。相手を見ようともしない他者との一方的なやりとりになんの価値もない。ただ、滑稽で、独りよがりで、おぞましいだけだ。日向の見ていないところで、左右田に何度も言われ続けて平行線だったそれ。
狛枝は数年かけて、逃げずに自分を見つめている。社会に適応しようとしている。長いモラトリアムを一歩先に脱しそうになっている男は、日向よりよっぽど強かでしなやかで勇敢だ。
相手への配慮を忘れ、一方的に押し付けられる好意ほど気持ち悪いものはない。確かにそうだ。その通りだ。そんなこと、わかっている。そうだとしても、狛枝は極端だ。
言葉が重たい。舌がうまく動かなかった。
なら、どうやってお前という人間と向かい合えばいい。
どうやってお前がいいんだって伝えたらいい。
どんな感情の渡し方をしたらいいんだ。
「
……
ねえ、日向クン。あのさ。さっきから持ってるそれ、ボクにくれるんだよね?」
見上げる狛枝の眼差しと言葉が、柔らかく甘えの含んだものになる。常夏の夢で心の内を開き切り、幸福を享受していた時のような、深くて、純粋で、熱のある愛のようなものが見え隠れする。
湯気をあげるカップ。飾り気のない、シンプルなホットチョコレート。砂糖を少なくして、チョコレートもビターなものを選んだ。いいや、ちがう。仕事ばかりしていて、気がついた頃には甘くない板チョコしか残っていなかった。日向の手の中にあるものは、あまりものの寄せ集めだ。
「あ、ああ。こんなのでよければ」
ゆっくりと頷く。ぎこちなくなっていないだろうか。
伸びてきた白い手に、まだ湯気の上がるカップを手渡した。狛枝がホットチョコレートを口に含む。白い喉がこくりと動く。
「
……
あは、ボクにぴったりだね」
狛枝が柔らかく微笑む。海に誘ってくれた時と同じように、カップを持たない白いあたたかな手が日向の手を引いた。体温が伝わる。導かれるように、狛枝の隣に腰をかけた。
あたたかな熱が寄り添う。恐怖も苦痛も自己嫌悪さえもなくなる、安心して眠れる場所のはずなのに。息が苦しい。呼吸が浅い。少しだけ眩暈がする。胸がキリキリと痛みを訴える。
この男は、人の好意を、善意を、想いを簡単に切り捨ててしまえる。
自分だけは狛枝に切り捨てられないってどうして言える?
いつか、自分があの想いのかけらたちのようにゴミ箱の底に沈まないってどうして言える?
この男を、よるべとしていいのか。
わからない。わからない。
急に何もわからなくなってしまった。掴めなくなってしまった。
日向はゆるりと首を振り、細く息を吐き出した。
昼過ぎの機関を、狛枝は足速で歩いている。次から次に問題は降り注ぐ。向かい側から歩いてくる人とぶつかり、舌打ちをされた。なんてついていないんだろう。危うく昼ごはんを食べ損ねそうだ。
食券を買う列は、食堂の外まで飛び出ている。こうなってしまえば、購買部で軽食を買った方がいいかもしれない。足を止めて行き先を変える。
「あ」
水色に白色。爽やかな色合いのリボンが視界に飛び込んでくる。いつのまにか、購買部が衣替えしていた。
ああ、そうか。ホワイトデーか。
ゆるりと、唇が緩むのがわかる。
日向クン。
名前を呼びたくなってしまって、衝動を抑える。この間のように、都合よくあの男はいない。
そうだ。お返しをしなくてはいけない。少しだけ、不快なことはあったけれど、自分が望むものが与えられた。望めば、与えられる。人によっては当たり前で、ささやかかもしれない。けれど、親との記憶さえほとんど残っていない狛枝にとっては新鮮だった。信頼と期待に応えようと自分のために動いてくれる人間がいる。胸をなみなみとと満たすあたたかなもの。安堵、安寧、親愛、愛情。あえて名をつけるならば、そうなるだろうか。自分も彼に同じものを与えてあげられたらいいのに。
日向は隠したがるが、快活とした笑みの下に屈折してしまった性質も持っていることを狛枝は知っている。持っていなければ、彼は自分を傷つけてまで、ああはなっていなかった。ボクらは、恥ずかしいほどまでに未熟な人間性を全て晒した後だ。今更隠すものはあってないようなものだ。彼もそうなのか、時折細い呼吸を整えるためだけにボクを求めてくる。それも、ボクにだけ。
ほんのりと感じる繰り返された夏の残り香。それがキミから感じられることの、なんと満たされることか。
キミと同じように、ボクもあの繰り返された夏が愛しく、キミをよるべとして生きてしまっているのだと。手放せなくなってしまったのだと。
今更どうやったら伝わるだろう。
知ってもらえるだろう。
信じてもらえるだろう。
どうすれば、彼の慰めになるだろう。
「そんな難しい顔しちゃってどうしちゃったの?」
思いがけない声が、狛枝の背を叩く。
「花村クン」
振り返れば、級友が首を傾げて立っていた。
「ぼくの企画やってるお店の前でそんなに、思い詰めちゃった顔見つけたらね」
「こんな、ドブみたいな顔出しちゃって申し訳ないよ」
「ナンセンッス! もうっ、ちがうからね! そうじゃなくって。ぼくは、ぼくの料理や企画でみんなに楽しいとか、幸せな気持ちになって欲しいんだ。もちろん、狛枝くんにもだよ。ここで足を止めて悩んでたってことは、誰かへのプレゼントだよね?」
得意げに人差し指がくるりとまわされる。
「うん。さすが花村クンだね。そうだよ。今お返しに悩んでいてね」
贈り物一つで、あの、人の感情に鈍いところのある男が気づいてくれるとは思っていない。だけど、とびっきり自分のことを考えて贈られる贈り物の持つあたたかさは、あの夏でたくさん知った。彼がしてくれたように悩んで、同じように特別なものを差し出したい。
自分は誰かの特別なんだと、ふと思い出した時に優しく包んでくれるような、慰めてくれるような記憶の贈り物をしたいのだ。
「特別なものがちゃんと特別だって伝わるようにあげたいんだ。ほら、ボクっていっぱいいろんなことやってきちゃったでしょ? 花村クンにもそう」
「
……
うん」
「ボクは、希望は才能だけじゃないって知ってしまった。ボクの中にも希望はあることを知ってしまった。ボクだって信じられなかったんだ。本当に予想外だよ。でもそれを、ボク以外の人間に信じてもらうってすごく難しいことだよね」
「
……
そうだね。やってしまったことを変えることはできない。だけど、だからといってそのままでい続けるのも健康的じゃない。大丈夫だよ。日向くんにもいつかきっと、狛枝くんの気持ちも伝わるよ」
にこにこと、元超高校級の料理人が微笑む。眉を下げて、見上げる顔は手のかかる人間を見つめる、そう──日向クンがボクを見つめる顔にとてもよく似ていた。
「あれ、
……
ばれてた?」
「ンフフ〜。ぼくは顧客の望むものを汲み取ることがずっと得意だよ。なんたってプロフェッショナルなシェフだからね!」
「そっか。じゃあ、もう全部ばらしちゃおうかな」
「ウェルカムだよ!」
花村が身を乗り出す。
「あのね、烏滸がましいかもしれないけど、ボクは日向クンのよるべになりたいんだ。日向クンはわからないなりにボクにずっと向き合ってくれた。そのおかげで、ボクは今こうして生きていられている。だから、ボクも日向クンのめんどくさいところをちゃんと見ていてあげたい。それを知って欲しいんだ。どうしたら、伝わると思うかな」
ここ数日、いつもに増して日向の顔がひどい。口元に笑みが浮かぶことがほとんどない。彼は自分の顔を鏡で見ているだろうか。それなのに、狛枝の隣に眠りに来ない。だから、何度でも伝えなくてはいけない。
キミのめんどくさいところを、足掻いても埋め切れないかもしれない隔たりを認めて、共に生きていきたい人間がここにいるのだと。
溢れそうになる吐息をなんとか飲み込み、冷静を装う。
「燃えちゃう内容だね。それならさ、狛枝くんが好ましいと思うもの、綺麗なものを形作った飴細工とかどうかな? 感謝の形の小さなブーケとか、手間がかかるけどその分ちょっと本気に見えたりするんじゃないかな? 狛枝くんの中に、そういったモチーフになりそうなものとかあったりする?」
「えっと、もしかして手伝ってくれるの?」
「もちろんさ、お手伝いできて光栄だよ!」
「ほんっとうに素晴らしい才能のキミに手伝えてもらえて、どんな不運がくるか恐ろしいなぁっ!」
花村が頭を抱え込む。
「いやいやいや、それはダメだからね。なんのためにぼくが手伝ったかわからなくなっちゃうよ」
「あは、ごめんね。癖なおらなくて。お礼、どうしたらいいかな」
「それなら、嬉しい知らせをくれたらいいよ」
「それじゃあ、素晴らしい才能をボクなんかに使ってくれた対価にさえならないよ」
「ううん、それだけでいいよ。ぼくだって、いつもぼくらのために頑張ってばかりいる日向くんに少しでも嬉しくなって欲しいんだ。バレンタインデーの企画を立てて店舗改装をしていた時、日向くんが立ち止まってくれてすごく嬉しかったんだから」
「あははっ、花村クンも見てたんだ! あの時の日向クンさ、あれ幽鬼みたいだったよね!」
「ほんとに心配だからさ、よろしく頼んだよ。ぼくだって日向くんと一緒にたくさん働きたいけど、どうしても働く場所がちがうからさ」
花村が肩を落とす。やっぱり毎日日向を見ていない仲間から見ても、今の彼はおかしい。
なんとかしなくてはいけない。なんとかしなくては
……
。
日向クンとボクの希望を象徴するもの。
心に引っかかるものがあった。それが少しでも、様子がおかしな彼の慰めになればいい。
「うん。えっと
……
、期待に応えられるようにがんばるよ。で、デザインなんだけどさ。あとでメールを送るから、見てもらえるかな」
「オッケーイ! じゃ、熱い連絡待ってるよ!」
級友が鼻歌を歌いながらスキップで駆けていく。忙しそうに戻っていく姿に、自分もぼんやりしていたことにようやく気がついた。どうやら、世話焼きな人間に囲まれているようだ。
狛枝の背後で、ガラガラと大きな音が鳴った。食堂の配給口に、シャッターが降りている。
「あ。ごはん、食べ損ねちゃった。
……
日向クンにバレたら怒られちゃうかな」
狛枝にとっては取るに足らない、軽めの不運。
うるさいぞ狛枝。ご飯は食べろよな。もちろん朝もだ。
日向の声がよみがえる。彼はあの時、日の光を背に受けて、眉を吊り上げ、口元を固く引き結んでいた。頑なな表情。強い意志を秘めたその顔。
わざとじゃないんだよ。
日向の言動を模倣する型紙が、心にいつのまにか居着いてしまった。狛枝は口元に小さな笑みを浮かべる。首を一つ振り、自分の部署へと足を向けた。
外は細雨が降っていた。
春がすぐそこにあるとはいえ、細くとも雨の降る夜はまだ少しだけ肌寒い。
汚染された大地でも、春の芽吹きを待つ力強い草木はきっと嬉しそうに濡れたことだろう。
今日も残業でこってり絞られてきたであろう日向が、ゆったりとした部屋着と毛布に身を包みぼんやりと空間を眺めている。どこへトリップしているのやら、狛枝が正面に立っても視線が合わない。
「日向クン」
「ん、どうした狛枝」
ようやく視線が絡む。日向がわずかに首を傾けた。
「あのね、これ。受け取って、くれないかな」
言葉がかすれる。マグカップのような筒状の榛色のラッピングをされた包みに、巻かれたリボンが震えている。いいやちがう、狛枝の手が震えているのだ。
見栄を張る余裕はなかった。だってこれが、精一杯だ。簡単に生き方なんて変えられない。変えられたら、ボクらは出会ってさえいなかった。
「日向クン、今日の日付わかる?」
「三月十四日、だろ? あ」
日向の口が開いたまま固まる。
一ヶ月前、今と同じようなやり取りをした。ボクとの記憶が今のキミを構成している。実に愉快だ、心地がいい。
「そう、大正解。一ヶ月前は好き嫌いのあるボクの趣向に合わせるの大変だったでしょ。そのお礼、だよ」
勢いに任せて、固まっている日向の腕に包みを押し付ける。
「
……
開けてもいいか?」
「
……
っ、もちろんだよ!」
日向の手がそっと包みを剥がす。
「あ
……
」
瓶の中に、水色の菱形の飴が六つ。
そう、自分たちに馴染みのある希望のカケラを模して作ってもらった。
「あの、さ。ボク達もう遅いかもしれないけど、ボクはちゃんと覚えてるよ。あの長い長い夏の日のこと、全部」
日向との交流で、揃い集めた希望のカケラ。これは、穏やかに繰り返された幸福な夏の夢を象徴するものだ。起きてすぐ、混乱していたせいで彼との関係に余計に名前がつけられなくなってしまった。まだ、あの夏はふとした時に希求するほどに狛枝の胸の中であたたかな熱を放っている。それを知ってもらうには、これが一番手っ取り早かった。
そっと息を飲む、ささやかな音が聞こえた。
「
……
今日はどうしたんだ。何かあったのか?」
榛色と赤色の瞳が探るような視線を向ける。起きたばかりの頃、狛枝の底を見るようで少し怖かったその瞳。愚かで劣悪で何をしたってダメなろくでなしの自分をそのまま映す鏡のように思えて、ひどく錯乱した日もあった。
けれど、そうじゃない。
ああ、怖くない。大丈夫。怖くないから、逃げるな。
彼の前にしっかり立て。
その色違いの瞳は彼の、日向の誠意だ。
信頼を傾け、本当に真剣に向き合いたい人間にしか向けない眼差しだと、もうボクは知っている。
もう裏切るわけにはいかない。
「信じてくれとは言わないけど、知ってて欲しいんだ。ボクは才能以外にも、キミという希望を見つけたことを」
「
……
人間は決して普遍じゃないぞ。ついでに言うと、俺はお前の言う希望には当てはまらない。忘れたのか? 俺は絶対的な良きものじゃない。そのことを俺は一番よく知っている」
乾いた瞳が狛枝を静かに見つめる。
「そうだとしても。キミがボクの希望であることを否定しても。ボクは見ているよ、キミを。醜い傷を晒せない可哀想なキミも見ていてあげる。そして、そんなキミを愛している。狂った世界で最後までボクを信頼してくれたキミをね」
言葉が重い。だけど、これがボクの真実だ。
どくり、どくりと心臓が音を鳴らす。心臓が飛び出して行かないように、きゅっと唇を引き結んだ。
「
……
わかった。知っておいてやる」
そっと息を吐き出すように、呟かれる。
「うん。
……
ねぇ、いつか信じてくれるよね」
はくりと、日向の唇が動く。しかし、言葉は出てこなかった。沈黙が横たわる。けれど、悪くはない。だって、日向が真剣に考えてくれる証だからだ。
ボクだってボクのことがうまく掴めないこともある。理解し合えないことだって確かにある。キミが今飲み込んだ言葉も、ボクは一欠片だってわからない。
だけど、今は昔とは違う。
背負ってしまった過去も、見つめている未来も、今はもう知っている。平々凡々なはずのキミが、ボクに色鮮やかな世界と才能以外の希望を教えてくれた。だから、埋められないものがあると分かった上で、ボクは今を生きるキミの隣を選ぶ。キミの選ぶ未来を生きて、見ていくのだと決めた。
キミもそんなボクのことを見て、考えてくれるというのなら。それはきっと幸福という名前がつくものだろう。
「もっとお前が、上手に生きられるようになったらな」
日向が目をつむり、肩をすくめる。
「あははっ、それボクらには難しいんじゃないの?」
「俺も見ていてやるよ、お前のこと」
まっすぐに、色違いの瞳が見つめてくる。
ああ、たまらない。
この湧き上がる感情はなんというのだろう。
愛しい。
口慣れない言葉だけれど、これが一番近いと思った。
「
……
っ! ねぇ、日向クン」
「ん?」
「明日の朝、ボクがコーヒー淹れてあげるからさ。ね、今日どうかな」
日向の目がみるみると大きく見開かれる。
「お、お前! ようやく朝ごはん食べる気になったんだなっ!」
日向が満面の笑みと共に、歓声をあげる。
思わず、表情が歪んだ。やっぱり上手く伝わらない。どうにも手が届かない。
一周回って滑稽であり、面白い。
笑みを噛み殺し、あえて呆れたポーズを取る。
「
……
はぁ。分かってたけどさ。ねぇ、日向クン。もうちょっと本でも読んだら? ちょっとがっかりだよ」
「何ががっかりだよ。お前が朝ごはん食べるってもう大きなニュースだぞ? 花村と罪木が喜ぶ。それに本は読んでるぞ、これでも。お前が借りてきてそこら辺に置いてるヤツとか。たくさんものを知らないと、自分が何が好きかわからないからな」
「ああ、あれ。キミが持ってたんだね」
「悪かったよ」
「いや、いいんだけどさ」
まだ真意がわからないと、首を捻っている日向に答えを教えてやるために口を開く。
「ねぇ、日向クン。あのね、さっきボク、キミにセックスしようって言ったんだけど」
「は、はぁ?」
ぽかんと口が開く。
「えっと、なんで驚くの。何度もしてるし、今更じゃない? 明日休みだし、断らないよね?」
「そういう、意味かよ」
じわじわと、日向の頬が上気していく。こんなことで安堵の息をそっとついた。どうやら、嫌われてはいないらしい。
「うん、そうだよ。よかったね、また一つ詳しくなって」
「いや、その
……
、今日は、あんまりだ。多分落ちる。あんまり見てて気持ちいいものじゃ、ないだろ? いくらお前でも、迷惑はかけたくない」
ああ、心の方が調子悪いのか。
それもそうだ、彼は全然休めていない。
「ねえ、もっと自信持ったら。キミが思っているより、ボクはキミが好きだよ。わかるまでボクのベッドの上にいてくれてもいいんだけど」
目の前の男に手を伸ばす。狛枝は目を細め、日向を見つめる。榛色の瞳と、前髪をかきあげ、罪の跡に唇を落とす。日向は身じろぎはすれども、逃げはしなかった。
「どんなにむき出しになっちゃっても、どれだけ落ちちゃってもいいよ。ゆっくりするから。それで、一緒にくたくたになって隣で眠ろう。一緒に夜を越そう。ボクもキミと似てめんどくさいんだ。ボクはキミしかいらないけど、キミはキミがいらなくなっちゃう時があるんだもんね。こんなにキミにお似合いな人間、ボクしかいないでしょ。
……
ね、こんなボクも許してくれるよね、日向クン」
自分よりあたたかな手が、白い手に重なった。身体が引き寄せられて、ソファーに座る日向の隣にかける。肩口に頭を擦り付けられた。つんつんとした髪の毛が首に刺さってくすぐったい。なんだか昔飼っていた犬みたいだ。
「
…………
簡単に捨てるなよ」
「捨てないよ。でも、ボクの幸運を赦してね。何かあったら、ちゃんとボクも後を追うからさ」
「追ってくるなよ。だけど、
……
よ、よろしく、たのむ
……
」
消え入りそうな、くぐもった声。
「任せてよ」
狛枝は重ねられた手を、力強く握った。機械の腕で、日向の身体を抱き寄せる。互いに、深く息をついた。
キミだけがありのままのボクを見てくれた。そんなキミが望むなら、ボクはいつだって夜を運ぶ。キミのよるべになれるといい。
今以上に才能が上手く扱えなくなって、役立たずで平凡な人間になってしまう日が来てしまう、その日がキミに訪れても。
自分のことが好きで嫌いで、揺れてたまに人前に出られなくなるキミも。
今でも罪の意識に苛まれ、うなされて泣いて飛び起きて、うまく眠れないキミも。
おそるおそる、寄り添いにくる甘え下手なキミも。
別に嫌いじゃないよ。
むしろ、誰にも見せられないその醜い姿をボクにだけ曝け出してくれるキミの信頼と、そんな意外にもかわいらしい一面を持つキミ自身を愛してさえいる。
好きなだけ、キミはそのままでいたらいい。
生きることはとても難しい。
経験の少ないボクらにとって、他者に言葉、考え、願いを自分の思いのままに伝えることは困難だ。
ボクの全てをキミに伝えることは、きっと難しい。
だけど、いつか知って、信じてくれたらそれでいい。
種はいつか芽吹くものだ。
互いに重ねる言葉を細雨として、いつか訪れるその時を待つ。
時間をかければかけるほど、希望は大きな光を放つだろう。時間はどれだけかかったって構わない。
キミがキミのままで選ぶ未来に、ボクは命ある限りずっと共にいるつもりなのだから。
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