ひなげし
2025-01-27 12:18:37
6435文字
Public 狛日
 

流れ者の行き着く先

狛日/しょたおに(10歳差)
大きくなって我慢できずに関係を迫る狛枝と、気づきたくなかった本音と罪悪感で自縄自縛に陥る日向くんの話
※そのうちゆっくり受け入れてハッピーエンドになる


とっぷりと夜も深まり、足元には闇が這い寄っていた。
ひどく寒い。日向は身震いを一つし、白いため息をついた。右腕を少しまくる。学生時代から使い続けて擦り傷の入った腕時計の針は、二十二時半を指していた。最近定時で帰れていない。大学を卒業し、入社して五年。中堅社員になってから、ただ、部屋から職場へ、職場から部屋へ往復するだけの日々になりつつある。疲労が胸に、手足にじんわりと染みる。この身の震えは、ただ空気が冷たく寒いせいだけではない。孤独だった。あまりにも、誰とも喋っていない。人であることを忘れてしまいそうだった。
マンションの自室の前で、日向の足が止まった。
「狛枝?」
茶色いジャケットとスラックス。遠い昔、日向の憧れだった希望ヶ峰の高校の制服を着た人間が、日向の部屋の隣の玄関前にしゃがんで座り込んでいる。夜も遅く、人のいない通路だ。日向の小さな声は、コンクリートを跳ねて思ったより通った。白い髪の毛に顔まで真っ白にした男が、ゆるりと日向を見上げた。
「あれ、日向クン。またこんな時間に帰ってきたの? 最近遅くない?」
灰の瞳がぱちくりと瞬きをする。幼い頃から変わらないその仕草に、鼻から笑みを含んだ息がそっと抜けていった。
狛枝の血の気を失って白い鼻がひくりと動く。
「酒じゃ、ないね。……何かあったの?」
「新人が入ってきたからその指導と、真っ白だったからマニュアルを作ってるんだよ」
「そっか。じゃあ、日向クンはマニュアルなしでずっと頑張ってたんだね!」
「はは、そうだな。俺はともかく、そういうお前はそんなところでしゃがんでどうしたんだよ。高校生が外にいていい時間じゃないぞ?」
日向は眉を寄せ、狛枝の顔に視線を向ける。へらへらしているが、色白の顔は普通紙のように白い。春もまだまだ先だ。雪が夜更けごろから降る予報も出ている。十も年の離れた昔馴染みの青年は、いつから扉の前で膝を抱えていたのだろう。
「学校から帰ってる途中でバスが事故っちゃってさ、それでようやく帰り着いたと思ったら今度は鍵がなくなっちゃってて。いや、ほんとまいっちゃうよね」
くすりと、変声期を終えて仄かに艶が入った小さな笑い声が空気を揺らす。
日向は肩をすくめる。
「相変わらずだなお前の体質は。せっかく引っ越すなら、学校の近くに住めばよかっただろうに」
「やだよ。ボクは日向クンの近くに住む。それにほら、日向クンが引っ越した時に隣が空いていたのはやっぱり幸運、いや──運命だったと思うんだよね」
日向は今の会社に勤めるにあたって、実家を出た。それを当時もお隣さんだった狛枝は追いかけてきた。幼い頃、両親がいなくなったこの子どもが、日向を拠り所としてしまうのは想像に難くない。それだけ、孤独を抱えた少年を大事にして、甘やかしてきた自覚が日向にはあった。
高校二年生になった今でも彼は、日向にとってはやわらかで、かわいい狛枝だ。
……はぁ、とりあえず無事でよかった。でも、それじゃ寒いだろ」
日向は、狛枝に近づき腰をかがめた。コートのポケットに入れていた、熱源に触れる。最寄駅で電車を降りてからすぐに自販機で買った熱すぎたコーヒー缶は、ようやく人が触れられる温度になっていた。それを取り出して、真っ白な頬に当ててやる。灰色の瞳は大きく見開かれ、緩やかに微笑んだ。氷のように冷たい白い手が、缶を当てる日向の手を上から包む。
「おい、冷たいぞ」
「あは、日向クンはあったかいね」
図体は大きくなったのに、人間の手に甘える子猫のような仕草に日向はそっと息を吐いた。
「管理会社は?」
「対応明日になるんだってさ……。だからそれまで待機しようかなって」
「お前に行くところがないなら、俺の部屋入るか?」
日向の一言で、狛枝は瞬きを繰り返す。
「いいの?」
狛枝が身を乗り出す。顔が近づいた。
「ああ。ほら、こいよ」
狛枝は氷が溶けるような喜色満面の笑みを浮かべる。日向が立ち上がれば、狛枝もつられて立ち上がった。
「ありがとう、日向クン。大好き」
日向より大きくなった上背が、日向の身体に擦り寄る。
狛枝は昔から変わらない。日向に懸命に親愛を差し出す幼い仕草に、日向の凍りついていた胸はゆるりと溶けた。
「今日と言う日がとことんついてなかったのは、日向クンに拾ってもらうためだったのかな?」
「はいはい。いいから静かにな」
鍵を回して扉を開ける。
背に引っ付く熱源に、日向の頬は自然と緩んでいた。久しぶりに、心の底から笑っていた。


彼との出会いは十年前の夏の終わりだった。
風の音が大きい。夕暮れの都心の小さな公園を吹き抜ける風は、どこかわびしい気持ちにさせた。
帰ってきた定期考査はそこそこいい成績を収めていた。けれど、一人歩く日向の足は重い。どんなに頑張っても、得られないものは、……ある。それが日向にはどうにも飲み込めなかった。まだ、そこまで大人になれない。誰かが、自分のことを認めてくれる、唯一性。じわじわ焼け焦がすような飢餓感を癒す、愛のようなもの。不幸にも日向は他者に対して求め方を、知らなかった。
いつのまにか足を向けていた、公園。記憶が朧げながら、自分が唯一愛をくれる人間から興味を引けていた頃の最後の記憶がこの場所だった。
きぃ、きぃ、と錆びた金属が擦れる音が鳴る。ブランコが揺れている。真新しい黒いランドセルを地面に置いて、小柄な子どもがブランコに座っていた。
彼の曲げられたやわらかそうな足の頭頂部、膝からは真っ赤な血が垂れ落ちていた。感情の色がない灰色の瞳に、親近感を覚えた。
彼に手を伸ばそうとして、少しだけ、吐き気がする。
それでも。
「なぁ、大丈夫か?」
日向は二歩分離れて、少年に声をかけた。
…………あ、ボク?」
少年の視線が、初めて日向に注がれる。
「足、怪我してるぞ?」
「うん、いつもの、ことだから」
少年が視線を落とし、自分の膝を見つめた。血が流れる膝以外にも、あちこちに治りかけの傷跡が隆起していた。
「泣かないの、強いんだな」
……泣いたって、仕方ないでしょ」
温度のない小さな声が、風に乗って日向に届く。少年の高い声は、無力感、無為感に濡れていた。胸が痛む。目の前の少年と、似たような傷口から鮮血が滴るのを感じる。今の自分に、何ができるのだろう。
……手当、しよう。ちょっと待ってろ」
日向は少年のブランコの前で膝をつく。じゃり……と、膝の下で砂が鳴った。鞄を下ろし、中から水筒を取り出す。
「えっ、えっ」
初めて戸惑いという感情を乗せた大きな灰色が、ぱちぱちと瞬いた。年相応の反応に日向は、少年を安心させるように意識して微笑んだ。水筒の中の真水を、血と砂に汚れた膝にゆっくりかけ、洗い流す。ポケットに入れていた皺のついたハンカチを濡れた膝にそっと当てた。
「よし、できた」
「あ、ありが、とう」
「どういたしまして。あんまり、遅くなるなよ?」
日向は、ふらりと立ち上がった。背を向け一歩踏み出したところで、くん、と引っ張られる感覚がした。
視線を向ければ、小さな白い紅葉が日向のジャケットの裾に皺を作っていた。
「えっと」
「おにいさん……
灰色の瞳に、初めて感情がのる。ささやかでも、他者から希求されることの、……優越感。背筋が快感でぞくりとした。
……わかった。俺も少し遊んでいこうかな」
少年の表情が、ふわりと花開いた。季節外れの、春のような顔は日向の網膜に焼きついた。
「俺、日向創って言うんだ」
「はじめ、おにいちゃん」
小さな唇が、何度も何度も日向の名前を噛み締めるように呟く。
「ああ」
「ボクはね、なぎと。こまえだ、なぎと」
少年が微笑む。まろい頬が上気して、日向の腰に抱きついた。
なんて愛らしいのだろう。
「綺麗な名前だな」
……うん!」
ぐいぐいと、遠慮なくジャケットの裾を引かれる。
「はじめおにいちゃん」
下から見上げる子どもの視線。首が痛そうで、日向は腰を下ろした。正面から視線が合う。
「なんだ?」
笑い方など、とうの昔に忘れていた。錆びついた筋肉がぴりっと痛みを訴えた。うまく、笑えているだろうか。
「すき」
ふわりと、やわらかな腕が日向の首に回る。あたたかな肢体が、日向に全力で体重を寄せていた。
「ありがとな、なぎと。俺も、……好きだぞ」
小さな子どもの、混じり気のない親愛を抱きとめる。日向の胸は、やわらかな、なまあたたかいもので満たされていた。


「何かな、ボクの顔に何かついてる?」
やわらかな声が、日向を現実へと抱き寄せる。ソファーに座っている狛枝の灰色の瞳と目が合った。日向の前で青年が湯気の立つカップを両手に持ち、首を傾げている。風呂上がりの彼の白い肌は、薄らと上気して色付いていた。
「あ、いいや……。お前の顔、久しぶりに見たなと思って」
日向はゆっくり首を横に振った。
狛枝にソファーを譲り、自分はダイニングテーブルの椅子にかけたまま、ぼおっとしていたらしい。
……いいや、見惚れていた。
彼のまろい頬は、すっかりシャープになり柔らかさを削ぎ落としてしまった。すらりとのびた長い四肢。変声期を終え、低くなってもこもったようなあたたかさと、柔らかさを残した声。あのちいさな子どもがこんなにも大きくなっていた。
日向は眼を細め、微笑む。頬は痛くなかった。
「ふふ、そうだね。日向クンってば最近忙しそうでボクとなかなか会ってくれないんだもん。ほんっとに不運だよね」
「はは、恨むなら俺の会社を恨んでくれよな。……かっこよくなったな、狛枝」
……え、ほんと?」
灰の瞳が幼い頃を思い出させるように、まあるく見開かれる。声が喜色に富んでいた。
「あ、ああ」
「今のボクも、日向クンの好みかな?」
狛枝が、上目遣いに日向を見やる。大きな身体に似合わない、けれども可愛らしい仕草に、日向は思わず吹き出した。
「ふは、もちろん」
「そう」
狛枝の口から、吐息がそっと漏れた。
この男がどんな学生生活をしているか、興味が湧いてきた。自分より、いい生活をしていてほしい。彼の日々が波乱なのは知っているが、それでも彼が幸せであってほしい。少しだけ身勝手な思いが、日向の唇から滑り出る。
「今、二年生だよな。好きなこ、できたか? お前、こんなにかっこよくて美人さんになったんだから、いるだろ? 長い付き合いなんだから、誰にも言わないし隠さなくていいんだぞ」
沈黙が落ちる。狛枝の反応が、ない。日向の口にじんわりと苦いものが広がった。
話題選びを失敗したかもしれない。生活に接点がないと、どうしても話題がない。違うコミュニティで自我を育てる年頃の青年に寄り添う方法なんて、今の日向にはわからなかった。だって、その頃の日向は常に独りだったから。人にどう触れていいか、見当もつかなかった。
狛枝が静かに立ち上がる。
「狛枝?」
ふらりとした足取りで、狛枝は日向の正面に立つ。
日向の顔に、影が落ちた。
見上げた顔は静かで、彼の灰色の瞳は見たことのない色をしていた。
激情? 寂寥? 子どもの癇癪のようで、少しだけ違う。いくつもの強い感情を混ぜて混ぜて、混ざりすぎて無に近くなったような。そんな色を浮かべていた。
狛枝の生暖かい吐息が、頬に触れる。
日向の唇に、あたたかいものが触れた。ぬるりと、濡れた柔らかなものが、皮が剥けた日向の唇を濡らす。
そっとぬくもりが離れた時、濡れた音が部屋に響いた。
日向の網膜に、艶やかな灰色が映り込む。
視線が、合った。
「お前、なに、して……
日向の唇が動く。しかし、言葉が出てこない。触れた温もりに、言葉が溶かされているかのようだった。束の間の静寂。吐息が触れるくらいの距離で、狛枝が息を吸う音が聞こえた。
「あは、やっちゃった……。でもさ、日向クンが悪いんだよ? あんなこと言うから。……ボクが好きなのはキミだよ、日向クン。ボクはキミのことを、愛してる」
なんだ。なんなんだこれは。
奥歯を噛み締める。
首を振っていた。
「あんなに、あんなにかわいかったお前がっ! こんな、こんなことするなんて」
「あは、……ボクは今もかわいいでしょう? 創おにいちゃん」
成長して細長くなった灰の瞳が、日向の眼前で恍惚とした色を乗せて細まった。
「まさか、ボクが気づかないと思ってる? 日向クンはずっと、ボクのこと見てくれるよね。どんな色をしているか知ってる? ああ、そういえば鏡持ってるよ。見る?」
「い、いい……!」
ちがう! ちがう!! ちがう!!!
「そう。ボクに愛されたいって顔してて、すっごく色っぽくて、幼くて……ゾクゾクするのに」
熱い、熱い、熱い。
灰の瞳に、見てはいけない色が乗ったのを見た気がした。子どもが、持たない、持つはずのない色。あわてて、眼を逸らす。
肩に乗っている白い手が熱い。焼けてしまう。白い額が、日向の額に触れた。
視線が、逃げる日向を追いかける。
ああ、ああ!
どろりと蕩けかけた灰色の瞳に映る、自分はひどく怯えていた。
やめて。やめて、くれ……
「たとえキミが小さなボクにくれた優しさが、自分自身を慰めるためだったのだとしても、ボクは受け入れるよ。キミがボクに捧げてくれた利己的な愛も、傷だらけの臆病でかわいそうなキミも、全部全部愛してあげる」
熱っぽくかすれた声が、日向の見て見ぬ振りをしていた膿んだ傷を容赦なく暴く。
ああ、酷い。
醜い。
あまりの羞恥に頬が焼ける。
あの頃の日向は子どもで、未熟だった。彼を大事にして、彼を通して自分を慰めていたのかもしれない。今思えば、醜い自慰のようなものだったのかもしれない。自覚した当時は、ひどく自分を嫌悪した。
独善で、傲慢。醜悪で、薄情だった。
あの日、彼に差し出した手が正しい選択だったかどうか、日向は今でもわからない。
たとえそうだとしても、高校二年生になった今でも彼は、日向にとってはやわらかで、泣くことを忘れてしまったかわいそうで、かわいい狛枝だ。かわいい子なのだ。
自分は、昔とは違う。自分と彼を分けて、親のように年上として彼を大事にしていける。子どもの彼をちゃんと正しい形で慈しめる。日向はもう、大人になったのだ。
だから、そんな、自分勝手な欲なんて。持ってない。持っていいはずがない。だから、持っていないのだ。
手が、身体が震える。
見たくない。みたく、ない。
「いい。やめろ……。俺が、わるかった、から」
「ううん。やめない。今度はボクが、日向クンを大事にするよ。ボクは日向クンより大きくなった。ボクはもう日向クンの思うような子どもじゃない。だから、大丈夫。お願い……ボクを受け入れて。ボクを求めて」
ふわりと、長い腕が日向の首に回る。そっと、大きな身体に抱き寄せられた。
「愛してる。日向クン。ボクはキミがいるだけでいいんだ。他の誰よりも、キミがいい」
かすれて熱を持った声が日向の耳をくすぐる。
熱に包まれている。あたたかい。
小さな少年は、今や日向より大きくなっていた。
自分の口は綺麗事ばかり吐くくせに、身体が拒めない。諦めに似た気持ちで彼の背に手を回す。薄いながらも、青年の程よくついた背筋が、ぴくりと反応した。
嬉しそうに、日向を包む身体が小刻みに揺れる。
笑っているのだ。日向の知らない笑い方で。
「ねぇ、日向クン。ボクが高校卒業したら、もう一回言ってあげようか? そしたら、認めてくれるよね。受け入れてくれるよね。キミがくれるなら、ボクはどんな愛だっていいんだよ……
日向は深く息を吐いた。
なぜだろう。彼の腕の中では息がつけた。
ゆっくりと眼を閉じる。
涙は出なかった。
言葉なく擦り寄った日向の身体を、大きくなった白い腕はそっと包んだ。