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ひなげし
2025-01-25 01:07:11
6895文字
Public
狛日
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臆病者たちとはじまりの足音
狛日/本予備
狛日版週ドロライ第29回「映画」「特権」「恋は仕勝ち」
進路に悩む日くんと、悩んでる日くんに気がついて連れ出してくれる狛の話。
「ひーなーたークン」
少しだけ甘さを含んだ声が教室に響く。全授業を終えてホームルームを待つ雑多な声で溢れていた教室が、一気に静まり返った。
「日向、
……
あれに呼ばれてる」
小さな手に身体を揺らされる。日向はぼんやりと視線を落としていた、何一つ記入ができていないプリントから顔を上げた。隣の席にいた金髪の少女が顔をしかめながら、少し遠い教室の入り口に向かって顎をやった。
茶色の制服を着た、白い炎がゆらめくような髪をした男──狛枝が教室を覗き込んでは、日向に向かって小さく手を振っている。黒い制服の海がさざめく。悪名高い予備学科嫌いの狛枝が、予備学科の巣窟まで入り込んで一人の生徒に手を振っている。心配そうな視線がいくつもおり重なって日向の肌を撫でていった。
「アンタ、なんかあったら呼びなよ?」
少女が日向の顔を覗き込む。意志の強そうな瞳に、日向の顔が映り込む。少しだけ、憂鬱そうな顔。そして、疲れてもいる顔をしていた。取れかけている仮面を被り直し、笑う。
「大丈夫だ。ありがとな九頭龍」
「べっ、べつに
……
」
照れた少女の横をすり抜け、問題の男の元へと向かう。
「狛枝」
日向がささやく。少し教室から離れろ、日向が言葉にせずとも意図を汲み取り狛枝が身を引く。好奇の視線を背に受けながら、廊下側の窓に背をつけた狛枝と相対する。
「あのな、狛枝。悪目立ちしてるぞ」
「別にボクは気にしないよ。希望の踏み台、有象無象の視線なんてないものと同じだからね」
「おい! お前ここをどこだと思ってるんだ? いい加減にしろよ?」
「
……
そうだね。ごめん。今のは、まずかったね」
「
…………
あ、ああ」
日向は、言葉を詰まらせた。狛枝が日向に素直に謝るのは珍しいことだった。だからこそ、呆気なくて自分の言葉だけが空間に浮いてしまう。強く言いすぎた。みっともない。恥ずかしい。思わず視線を廊下に落とす。ワックスがけがうまくいっていない汚れた床だ。
「日向クン」
狛枝がそっと息を吐き出す。うろ
……
と、一瞬さまよった灰色の視線が日向の顔を見る。
「このあと、ついてきて欲しいところがあるんだけど」
「なんだよ? そんなことのためにここまできたのか?」
「そう。そんなことのためにボクは来たんだよ、日向クン」
狛枝は頷いて、スラックスのポケットへ手を入れる。白い手が何かを引き抜く。日向の目の前に、皺の入った二枚の券が差し出された。
「ね、日向クン。このあと付き合ってよ」
それは、日向がつい最近、何気なしに観たいと呟いた映画のチケットだった。
「だから、あの男がそんな理屈で犯行に及んだのが理解できないんだよな」
日向は、口の中のポテトを噛み下してから、腑に落ちないとばかりに唇を横にひいた。夕方の上映時間後、とっぷりと夜に浸かったファーストフード店は、様々な客で混雑していた。小さな机を狛枝と二人で分け合って先ほど一緒に観た刑事ものの映画に思いを馳せる。
「しかもだぞ? ずっとアイツは相棒の隣にいただろ! と、なるとアイツは隣にアイツを想ってくれる友達がいても、意味がなかったってことか
……
?」
「まぁ、終わり方は胸にしこりが残るシナリオだったね。映像の情報だけで状況的には消去法で犯人が絞り込めたから、その点は優秀、なのかな? ああ、でも日向クンは犯人外したんだっけ?」
「っ
……
! 信じたくなかっただけだ! トリックと場面描写は確かによくできてたけど、俺は」
日向は、狛枝の顔から目をそらし、小さく泡を立てるドリンクをストローで吸った。一人の男の選択が、彼の今までが無為に終わったのがさみしかったのかもしれない。笑われてもいい、日向はどちらかといえばハッピーエンドの方が好きだった。
「あは」
狛枝が小さく笑って、日向を見つめる。
「
……
なんだよ」
「ううん。キミは映画は一人で見るのも二人で見るのも変わらない、なんて言っちゃうけどさ、ボクは日向クンと映画見るの飽きないや」
「そうか?」
「そうやって、ただの映像だったとしても他人に深く入り込んじゃってムキになるところ。ボクは見てて飽きないよ?」
「
……
喧嘩売ってるのか?」
日向の唇の端が痙攣する。
「まさか。ボクはただ映像は映像、仕掛けられたお話の仕組みは楽しく読むけど、ただそこまでなんだよ。だけど、日向クンはボクと違う楽しみ方をするよね。理解できないものを放置できなくて、作中の誰かにまで深入りして感情豊かになる日向クンは、いつ見てても面白いし嬉しくなるってだけだよ」
日向は肩をすくめる。照れ隠しからのポーズだった。人と関わることに不器用だった狛枝に、いたくお気に召した趣味ができたというのなら、それはきっといいことだ。誰かと観る映画の相手も、誰でもいいわけではなく、日向を見て選んでいるようだった。悪い気はしない。
誰かに求めてもらえる。少しだけ、くすぐったくて甘い優越感に日向はそっと息を吐いていた。
「ねぇ、気分転換になった?」
狛枝がささやく。
「えっ」
思わず声が漏れていた。
狛枝が手に持っていたコーヒーをテーブルに置き、日向の目を見つめる。確信を持って微笑む顔。日向は、ふぅと重たい息を吐いた。ずっと張り付けていた心の仮面を外し、格好を崩す。どうしようもない自分を晒すことへのほんの少しの羞恥。それと同時に、少しだけ息がしやすくなる。
「ああ
……
。なんだ、気づいてたのか」
「当たり前だよ。日向クンって、分かりやすいからね。それに最近全然本科に遊びに来てくれないし」
腕を組んだ狛枝が、大きくため息をつく。
「えっと
……
、もしかして心配、かけた、か?」
狛枝の威圧的なため息に、思わず身を縮こませる。ここ数年で得てしまった悲しき条件反射だ。そろりと視線を上げ、灰色を覗き込めば狛枝はにこりと微笑んだ。
「で? 大丈夫かと思って放っておいたら、気づいたらよくないこと考えて煮詰めて一人でどこかに行っちゃいそうな日向クンは何に悩んでたの?」
「なんだよその印象は。
……
進路だよ」
いまだに埋められない、進路希望の紙。周りの人間はもう提出し終わってしまっているその紙。数ミリグラムしかないだろうその紙は、今の日向にとってはとても重たいものだった。
わかりやすく才能は人生において一つの指標になる。日向の周りは明確に自分がどこに向かいたいか、わかっている人間だらけだった。
けれど、特別何かに特化した才能がなかった日向は偏った嗜好に恵まれなかった。生きて十と数年。好きなものがいまいちわからない。明確に何になりたいという希望も言葉にできない。将来のイメージ像も朧げだ。それなのに、この選択で大きく自分の人生の進路が傾くことになる。
いまだに自分に自信がある、と胸を張って言うことは難しい。才能が全てではないと知ることができた。自分に誠実に、ちゃんと生きていきたいと、思っている。願えるようになった。
だからこそ、寝不足になるくらいにずっと悩んでいた。
「ふーん、進路?」
「あー、本科はそういう話出てこないのか。あ、でも狛枝は
……
。狛枝は、悩んでないのか?」
「特には。そもそもボクはこの才能だからね、まともに働けるとは思ってないよ」
「はぁ? 一生モラトリアムするつもりかお前」
「まさか! でも、実際腐るほどお金はあるからね。リモートで働けたらなぁとは思ってるけど、そんなことより日向クンと一緒にいられる方が大事かな。で、日向クン。大学どこ行くの?」
日向の目の先で、長くて白い指がくるりと回る。
「ま、まさかお前、ついてくるつもりか?」
榛色の瞳が大きく見開いた。
「ボク、友達と一度も同じクラスになったことないんだよね。そりゃ一回はなってみたいじゃない?」
「お、おい、その動機で大学の専門分野学ぶつもりか?」
狛枝がうなずく。
「そのまさか、だよ。それで、進路希望の紙に日向クンはどこの学校と学部を書いたのかな?」
狛枝の無邪気な声が日向の胸を刺す。口の中が苦かった。
「
………………
ない」
「ん?」
「まだ、書いてない」
「どうして?」
「大きな選択だろ? ここで選んで、思ったような未来を選べなかったらって思うと
……
」
「キミならどこにでも行けそうな成績してるのにね。
……
ああ、選択が怖いんだ?」
「ああ
……
。ちょっとだけ」
白い紙を見ると、胸が不安に駆られる。失敗できない、と足がすくんでしまう。少しだけ前向きになれたと思ったらすぐこれだ。時々、自分が嫌になってしまう。
「ふーん。キミのしたい通りにすればいいじゃない。今じゃ、大学出た後でも入り直しとかあるみたいだよ?」
「そんな悠長に生きてられるか!」
「ああ、そういえばキミお金ないんだっけ? でもさ、いい加減キミのその視野の狭さなんとかしたら? だからいつも犯人惜しいところで当たらないんだよ」
「うるさいぞ狛枝」
無意識に唇を噛んでいた。楽観的なこいつが羨ましい。視線を上げれば、穏やかな風のない湖面のような静かな色が日向を撫でる。
これは、こいつなりの励ましだ。下手くそすぎてどうかと思うけど、ちゃんと俺は知っている。
「
……
でも、怖くても、悩んで、考えて選んでいくしかないんだよな」
ようやく導き出した答え。日向が徒労感に肩を落とせば、目の前の男が息を吸う音が聞こえた。
「見ていてあげるよ、日向クン。どんな道を選んでも、その先で苦悩して虚勢を張っても、ボクだけはちゃんと本当のキミを見つけ出して見ていてあげる。もし、キミが一人でどこにもいけなくなっちゃったら、その情けないお尻を蹴り飛ばして引きずってあげるし、キミのためにいつでもボクの家も半分空けてあげる。ボクはキミのためにできることはなんでもしたいと思ってるってこと、ちゃんと覚えておいてね」
狛枝の言葉が、まっすぐ耳に届く。深くて柔らかな言葉が、日向を包む。背中がじんわりと熱くなる。体温が上がる感覚がする。狛枝のそれは無意識なのだろうか。友達に向けるにしては、やや重すぎる親愛かもしれない。だけど、悪い気は、しなかった。
それにしても、後半のそれはやりすぎだ。ただひたすら与えられすぎるのも苦しい。それができるのは、自立していない子どもを養う親だけだ。決して褒められたものでもないだろう。この男には、社会常識を教えてやらないといけないかもしれない。
「いや、いくらなんでもそこまでしなくても」
「しないとわからないでしょ」
「何が」
日向は首を傾げる。そんな日向を見て、狛枝はやれやれといったように息を吐いた。目の前のささやかな湯気をあげるコーヒーのカップを、白い手が包んだ。白くて細長い指が組まれる。祈りを捧げる信者のようだ。
「第一印象が最悪だったもんね、ボクたち。それに加えて最初の頃の、ボクの話し方が悪かった自覚はあるんだよ」
狛枝は日向から目を逸らし、コーヒーのカップに視線を落とす。含みのある言葉だ。先ほどから彼の言葉は、要領を得ない。
「なんだよ、結局お前は何が言いたいんだ? もっとわかりやすく言えよ」
日向は、汗をかいている紙カップに触れ、音を立てて最後の炭酸を飲み切った。そのまま口を尖らせ閉口する。狛枝が回りくどい物言いをするのには、ずいぶん慣れてきたようにも思う。きっとこの男の本題は、ここからだ。
狛枝が両手を祈るように組み、その上に顎を乗せて日向を見つめる。灰色の瞳が、柔らかい光を持った。
「うん、そうさせてもらおうかな。ボクにここまでさせておいて、それでも何一つ気づかないもんね、キミ。で、どう? 弱ったところを虚勢なんかはっちゃってみんなに隠してたのに、ボクにあっさりバレてアプローチされちゃう気分は。ちょっとは意識してくれた?」
「は?!」
どきりと、胸が強く鼓動を打つ。
意味を、測りかねている。
狛枝との付き合いはもう三年目。暴かれて罵られて色々あったが、この男の隣は日向にとって存外心地よいものになった。自分とこの男は、これほどまでに違う世界の見方をしていて、それでも少しだけ似ている。それを身に染みてわかった上で、こんなに仲良くなれていたのか、と感慨深いものを先ほど感じたばかりだった。
見つけてくれるお前に甘えてしまった自覚は、まあ、ある。逆に、狛枝に甘えられてるなと思うこともないとは言えない。気負わなくていいお前の隣は息が楽だった。最近たまに、狛枝は殊更に言葉を選んでいる節があったけれど。
いいや、まさか。こいつに限って、そんなはずは。
少しだけ甘い優越感に身が震える経験。仄暗い自分を暴いて、受け入れてくれたなまぬるく、やわらかな安堵感。狛枝が不器用にも日向にくれる特別は、自分が彼にとって初めての友達だからだと思っていた。
でも、そうじゃなかったら。この先は、見ていいものなのか、わからない。
わからない。わからない。
……
ほんとうに?
身体の内側が、うるさい。周りの音さえ置き去りにして、耳元で鼓動だけが鳴っていた。
白い手がするりと伸びてきて、日向の手首を捕まえる。手首が、熱い。
「あは、よかった。喜んでもらえてさ」
「はあ? なに言ってんだよ。喜んでなんか!」
「本当に?」
弧を描く灰色の瞳。背がひやりとして、頭の中が騒めく。黙ったままのこの男が、何か企んでいることだけは、もう聞かなくてもわかる。自分の身体も店内も煩雑としてうるさいのに、意識が目の前の男に集中していく。くすりと、吐息のような笑い声が日向の耳をくすぐった。狛枝の視線を追う。灰色の瞳は、日向の握られた手首を見ている。狛枝の熱い親指が、日向の橈骨動脈を捉えていた。
「あ、バカお前!」
どくり、どくり。
目の前の男の薄い唇が弧を描く。確信を持って人を追い詰める、そんな意地の悪さを感じる笑みを浮かべているくせに、灰の瞳が浮かべる色はどこかあたたかだ。
「ねぇ、日向クン。そろそろ観念したら?」
柔らかな声が、日向の耳をくすぐる。
見て見ないふり、知らないふり、得意だよね。でもね、キミはちゃんと知ってるよ。
見て見ないふりをしていたものを、無慈悲にも眼前に突き出される。
「でもね、ボクはそんなキミのことを愛してるよ。日向クン」
引きずり出される。同じ温度に染められる。はくりと、息を吸おうとして失敗した。熱を自覚した。自分も、目の前の男と同じものを持っている。
「別に、同じものを返してもらおうとか、そういうのじゃないんだ。ただ、ボクをこうもめちゃくちゃにして半分憎らしいまであるのに、それでもボクはどうしてもキミのことを気にかけちゃうってことだけ知ってくれらいいよ」
「
……
返してもらえなくていいのか?」
「愛ってそういうもんじゃない?」
灰色はやわらかで穏やかな色を湛えている。
頭がひんやりして、同時に沸騰するみたいに熱くなった。
くやしい。くやしい。ばかみたいだ。
俺を同じ場所に引きずり出して、火をつけておいて逃げるだなんて──許さない。
「ふーん、
……
さみしいヤツだな、お前」
捕まえられていた手首を捻り、逆に狛枝の手首を捕まえる。親指でそっと白い手を撫で、力が抜けてされるがままの白い手の指と自分の指を絡めた。
「
……
あ」
溢れる狛枝の密やかな、声。そっと力を込めてみる。密着した色違いの肌。温かいコーヒーを握っていたせいだろうか。組み合った白い指の股が、少しだけ汗ばんでしっとりしている。力が入らない白い指に、湧くこの感情はなんだろう。
そっと、自分から組んでいた指を離す。混じり合って同じに染まっていた手が、ひんやりと冷えていく。
さみしい。
きっとその言葉が正しいように思えた。
「ごちそうさま。お前にちょっと応えたくなった俺がバカみたいで可哀想だろ。勝手に逃げて、置いてくなよな」
日向が盆を持って立ち上がる。さらに混み始めた店内を、縫って外へと向かう。
惚けていた狛枝が、大きな音を立てて立ち上がる。
「えっ
……
、待って、待って待ってよ日向クン!」
狛枝に慌ててあげられた盆の上でカップが倒れ、茶色い液体がこぼれた。狛枝の細く、長い足が店内に設置された大きなゴミ箱にぶつかる。
「いって!」
日向の後ろで、大惨事を起こしかけているのが手に取るように分かった。
「はははっ!」
階段の前で日向は立ち止まる。振り向き、狛枝に笑いかけた。清々しい気分だった。
「日向クン! ねぇってば!」
盆の上をゴミ箱前で片付けながらも、行き交う人の合間から白い頬を真っ赤に染めた男の灰色の瞳が日向を強く射る。灰色の瞳は、日向と同じ温度の熱を湛えていた。
日向は正面を向き、一歩踏み出した。ゆっくり階段を降りてゆく。
愉快だ。とても。少しだけ頬が痛い。最近動かしてなかった頬が自然と上がっているのを感じていた。予感がする。ざわつく店内で、ただ一つ。まっすぐに日向を追いかけ、近づいてくる足音に、何かがはじまる予感が。
きっと、悪くないものだろう。
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