ひなげし
2025-01-18 18:19:51
4385文字
Public 狛日
 

霞色の約束

狛日/本予備
狛日版週ドロライ第28回「こたつ」「矛盾」「明晰夢」
術前の日向と、引き留めたい狛枝の話

やわらかな音が、意識を揺する。
繰り返し日向を揺する音は、人間の言葉の形をしていた。
「あれ……、ねぇ、ボクの話聞いてた?」
ゆっくり目を開ける。橙色の光が、夕陽が日向の目を刺す。目を細め、ようやく慣れた視界の中に、教室で前の机の椅子を横に引き、日向の机の上に片手で頬杖をついた男が一人。彼は真正面から日向の顔をまじまじと見つめていた。
「こ、狛枝……
目を見開く。声が出なかった。血の気が引いていく。
ふわりと炎のようにゆらめく白い髪。白い肌。人をいたぶるのに躊躇のない、人の傷跡を抉るような冷たい灰色の瞳。憧れの……茶色の本科の制服。
たった数時間前、日向の傷を抉り、日向の矜持をへし折り、日向の希望を否定したその男が目の前にいる。あの何もかも見透かして、人をこき下ろす灰色の目を見ていられなくて、頭の中を怒りで真っ赤にしながら逃げ帰ったばかりだというのに。
身体が冷たくて、燃えている。気分が悪い。
今、一番見たくない顔だった。
ぎゅうと、机の下で拳を握り込む。皮膚に爪が刺さっているというのに、不思議と痛くはなかった。
「そんな怖い顔しないでよ」
狛枝は、ふっと息を吐き、人好きのする笑みを浮かべた。表情がどこか、大人びている。それが余計に、いらだたしい。まるで知らない人間を相手にしているようだった。
「だからね、もうちょっと自分を大切にしなよって言ったんだ。まぁ、ボクが言えることじゃないけどさ」
狛枝が日向に向かって指を指す。
白い指が指した先。日向の机の上に広げられた夢への快速切符──明日施行される手術同意書だった。
「ねぇ、明日。ほんとうに行っちゃうの?」
「行く。これが俺にとっての希望なんだ。みんなにとっての、希望にもなれるんだ」
数時間前と同じ言葉を吐き出す。
声は震えていなかった。
たとえ、あのぶっきらぼうな超高校級の神経学者が飲み込んだ言葉の通り自我意識の死を迎えるのだとしても、迷いはない。徒労と無力感に感覚が鈍麻する。生きているかもわからない、誰かに存在を認知してもらえているかもわからない日々とはこれでおさらばだ。
自分は特別な人間で、誰かに必要としてもらえる自分になれる。胸を張って生きていける。目の前の男に、嫌味を言われる日々からも解放される。いいことずくめだ。
視線を落とす。ここ数年で見慣れてしまった、綺麗な字を書けなくなってしまった自分の生みの親の名前と、迷いのない丁寧でやや右肩上がりの几帳面な筆跡が、白い紙の上で並んで踊っている。
これが正解だと、日向は心から信じていた。
……行かないでほしい、って言ったら?」
狛枝が、ぼそりと呟く。意味が理解できない。
「あのね、この後ボクは……あの日傷つけたキミに謝りたくて、これからずっとボクは校舎をさまようんだ。希望ヶ峰学園が崩壊して立ち入れなくなっても、ずっと。だから、今、そうなってしまう前のキミに会えたのはすごく幸運なんだろうね。もしかしたら、取り返しのつかないほどに傷つかなかったボクらの形もあるのかもしれない」
「嘘を言うな!」
思わず大声を出していた。
「俺のことなんてどうでもいいくせに。憂さ晴らしのできるおもちゃがいなくなるのがそんなに惜しいのか?」
息が詰まる。酸素が欲しい。息ができない。
目の前の男の、常日頃の言葉を思い返す。この男はどこまで日向の覚悟を、決断を侮辱するのだろう。馬鹿にするのも大概にして欲しい。
日向は顎をあげ、灰色の瞳を睨んだ。
「違う! ボクは、キミが! ……日向クンが気になっていたんだ。たとえ、キミが予備学科だったんだとしても。認めるよ。ずっと、キミのこと見ていたんだ。……ボクはずっと前からキミと、友達になりたかった。だから、いなくなってほしくなかった。キミに価値がないんじゃない。その手術に価値がないんだって、あの時のボクは言いたかったんだ」
狛枝の顔は、苦痛に歪んでいた。
初めて見る表情。
初めてその声で聞く、日向の存在を肯定する言葉。
彼の顔は必死そのもので、だからこそ、あまりにも現実味がなかった。目の前の男の顔を、顔を上げて見つめる。榛色の瞳が自身を捉えていることに気がつくと、色白の顔は嬉しそうに微笑んだ。違和感がぐるりと喉を締め付ける。
「ははっ、……くだらない。これじゃ、都合のいい夢だな」
「夢かもね。でも、夢じゃないといいと思ってるよ」
日向は自分の手を見下ろした。強く握った拳を開く。三日月型の跡が三つ手のひらにくっきりとでき、真ん中の跡には血が滲んでいた。痛みは、ない。
大きく息を吐き出した。
「やっぱり夢だよ。なあ、知ってるか? 俺の知ってるお前は、そんなこと言わないんだ。お前は、俺の言って欲しかった言葉をくれる、俺の夢が言わせてるただの幻だ。いいんだ、もう決めたんだ。もう……。なんだったって、お前なんだよ」
「キミに生きて欲しいのは、ほんとう。ボクのほんとうの気持ちだから」
「夢だって、幻だって、分かってるのに。お前は俺の知ってるお前じゃない。ははっ、もうなんなんだよ、お前のその手」
狛枝の左手は、機械の手がついていた。
昨日の彼は両手とも生身だったはずだ。
彼は、自分の知っている彼では、ない。
「いろいろあったんだよ、ボクも」
ゆったりとかすかに穏やかな微笑みを浮かべる。
言葉にし尽くせないだろう、思い出があるのだろう。自分の知らない何かを持っている。自分とは関係のない繋がり。それが、今の日向に生きて欲しいと願う熱源なのかもしれない。
そして、どうしようもなく、理解させられてしまった。
結局自分は、どこにも、誰とも繋がっていないのだ。
……そうか」
日向は同意書を折り、ポケットにしまい立ち上がる。彼とはどうしようもなく、平行線だ。もう、語ることはない。教室から出て行こうとした。
「待って!」
白い手が日向の手首を掴んだ。白い手は、汗をかいていて、ひんやりとしている。
「ねぇ……、一緒におでんでも食べにいかない? キミと行ってみたかったんだ。ほら、キミもあの時言っていたでしょ、夜になったらいい匂いをさせている屋台があるって。一人じゃ勇気が出ないからまだ行けてないってさ」
どうしてそんなこと、知っているのだろう。
そう、いつだったか。なんでもない時に、世間話として話したことがある。
あの時狛枝は、日向の方を一度も見てくれやしなかった。あの狛枝とは、どこにも一緒に行ったことがない。口内は渇き、ざらりとしている。
ひどく、虚しい。
「明日、早いんだ」
狛枝の唇が、きゅっと引き結ばれる。
……あーあ、やっぱりボクじゃ日向クンを止められない、のかな? ううん、分かってるよ。起きてしまった過去は変えられないって。今、あの時そっくりのキミに謝ったって、ボクは許されるわけじゃないし、これは……ボクが楽になりたいだけだ。ずるいってわかってるけど、だけど夢の中だからこそ見たいものってあるでしょう? それなのに、夢の中でも日向クンに許してもらえないし、死ににいくキミを止められないなんて。夢だと知っていても、……絶望的な気分だよ」
狛枝は長く息を吐き、黙り込む。落とされた灰色に視線は、日向のポケットを──手術同意書を睨んでいた。端正な顔が、苦痛に歪む。
「な、何言ってるんだよ。……やっぱりお前、俺の知り合いに姿形は似ているけど、俺の知らない人間だよ」
「ううん、違うよ。ボクは狛枝凪斗だ。信じてほしい。ボクはキミを心から愛している」
低い声がささやいた。
目の前の灰色には温度があった。柔らかで、希求するような、見たことのない色をしていた。
日向は言葉を飲み込んだ。
目の前で起こっていることが、信じられない。現実とは思えなかった。それでも、心が揺れる。動揺する。
都合のいい夢だと分かっていても、少しだけちっぽけな自分が、ほんの少しだけ救われたような気がした。
これは、現実じゃない。
だって、あいつは俺のことを名前で呼ばない。
そんな大切なものに触れるような温度をした目で見ない。
……そうだったらよかったのにな」
狛枝の手がそっと日向の手のひらを握り、握手の形を取る。
「ねぇ、やっぱりボクには日向クンを止められないのかな? 止まってくれないの?」
「無理だよ。俺はお前のこと知らないんだ。見ず知らずの人間のために、自分の希望を捨てるなんて馬鹿みたいな真似、俺にはできない。これが、俺にとっての最後のチャンスなんだ」
「そっか、残念だな。それならさ」
狛枝が言葉を切る。
灰色の瞳が、日向を見つめる。口ごもり、言葉にならない言葉を吐いていた薄い唇が、開き大きく息を吸った。
「日向クン。ボクはキミと会えるのを待っているよ。ずっと。ちゃんと生きて、また会おう。だから……、それまでキミも元気で。ねぇ、日向クン。キミは知っていると思うけど、ボクは友達が多くなくってさ。友達とする約束ってこれであってる?」
白い生身の手が、日向の手のひらを強く握る。日向は手を、握り返せなかった。
冷たい機械の手がそっと日向の手に添えられ、包まれた。
これが夢じゃなかったなら、どんなによかっただろう。
目の前の彼は自分の知っている彼とは程遠い。けれど、目の前の彼となら友達になれる気がした。虚しいひとり遊びのように思えて、ため息が出てしまう。まるで自慰だ。恥ずかしい。ほんとうに、どうしようもない。
なのに、このぬくもりから離れることが、少しだけ、名残惜しい。
目を閉じる。
「さあな。忘れたよ、そんなこと。……さよならだ。……狛枝」
縋るように握ってくる白い手から、自分の手を引き抜く。
自分の知っている彼によく似ている男の顔を、日向は最後に見ることはできなかった。
けれど、最後まで灰色の視線を感じていた。
教室のドアを開けた。
肌を刺す、冷たい風が頬を撫でる。
日向の視界が、ぐにゃりと歪んだ。


薄暗い空っぽの部屋で目を覚ます。喉が渇いていた。この部屋でただ一つ残った、こたつの中で日向はひどく汗をかいていた。大きな家財道具はもう処分してしまった中で、最後まで残ったこのこたつ。好きな家具だったけれど、寝心地がいいとは言えなかった。
左手をそっと開く。そこには何一つ跡など残っていなかった。
奇妙な夢を見ていた。
内容はすでに朧げになりつつある。
カーテンをそっと開ければ、街は霞色に沈んでいた。静寂が早朝の街を包む。
一人残されて、そのまま立ちすくむ。息を吸う。
術前で緊張してしまったのだろうか。未練だったか、はたまた望郷か。霞となって消えていきそうになっている灰色の記憶に手を伸ばそうとして、やめた。もう、意味がない。
日向は、ゆっくり窓から背を向けた。