ひなげし
2024-12-19 02:28:55
3954文字
Public 狛日
 

夜半の子守唄

狛日/本予備
熱を出した狛枝と、看病する日向の話。
熱に弱った狛枝のささやかな望みについて。

狛枝は穴の中にいた。
四肢は溶けた鉛が流し込まれたように重く、熱い。頭は鈍く、思考はぼんやりしている。
ごくりと、唾を飲む。腫れ上がった喉に思わず咳き込む。ひゅう……と、か細い音が喉から鳴った。
まるで吹雪の中にいるようだ。さむい。体が震え、体温を上げようとする。狛枝の身体は抗い、醜くも生にかじりつこうとしていた。
大丈夫。だいじょうぶ。
このままこの巣穴で丸まって、じっとしていれさえすれば。少し休んでいれば、大体は治る。
狛枝はいつもそうやって生きてきた。飢えに凍える冬も、茹だるような夏も、命を刈り取る形をしている季節を何度も乗り越えて。親戚の家をたらい回しにされて結局帰り着いたこの空っぽの家で、一人で生き抜いてきた。
頼れる人は、誰もいない。救ってくれる人もいやしない。誰かが助けに来てくれるわけがない。
信仰も人を救わない。人間を作った神も、やがて自立した人間を捨てた。
唇を噛み締める。
ああ、このまま眠ってしまえ。はやく、はやく。闇が狛枝の頭を掴む。ぬるりと引っ張られ、頭から泥に沈むように、──意識が暗転した。

暑い。熱い。眠い。苦しい。

ここはどこだっけ。
燃え盛る炎。
連鎖する爆発音。
爆炎。
充満する煙に喉を締めつけられる息苦しさ。
人間が生きながら燃えていく、死の匂い。
周囲に満ちる、いくつもの断末魔のうめき。
小さな自分の手から、白くて細い懐かしさを覚える手がゆっくりと滑り落ちていく。
ああ! ああ!
これは夢だ! 悪夢だ!
理性が叫んでいる。
母親は死んでいる。父親も死んでいる。おまえと、手を繋いでくれる人間はもうこの世にはいない。だから──。
この蠢く炎も、人の形を成していたものがいくつも折重なり合うこの生々しい地獄も。
これは全て夢なのだ。
自覚は覚醒を促す。狛枝はたまらずに目を見開いた。頭がガンガンと痛みを訴える。跳ね上がるように起き上がった身体はくらりと強い目眩を覚え、再び巣穴に落ちた。
視界に入った時計の針は一周しか回っていなかった。目の奥が熱い。目が痛くて開けられない。閉じた瞬間、涙が頬に線を描いた。
湿気た毛布と羽毛布団でできた巣穴から、手を伸ばす。

だれでもいい。
だれでもいいから。
ボクの手を掴んで。

空気が揺れた。目の前に薄闇がぼんやりと広がる。闇じゃない。黒い服を着た……誰かがいる。
「あ、起きたか?」
少し高めの、柔らかい声。
無意識に手に力を込めれば、柔らかなものを掴んでいた。覚えのある形。もう何年と触っていなかった形──狛枝の手は誰かの手を握っていた。誰かの手は、戸惑うように間を置いて柔らかく握り返す。湧き上がる安堵に、細く息を吐き出した。
……おかあさん」
「だれが母さんだよ。……寝ぼけてるのか?」
狛枝の目の前の人物が空いた方の手で、栗色の髪をかき上げる。少し困ったように下がった眉。
キミは……
言葉に詰まる。まぶたを数回瞬かせても、困った顔の男は目の前から消えなかった。
……ひなたクン?」
「ああ。俺だよ。……大丈夫か、狛枝?」
日向は狛枝に微笑んだ。ちょっぴり、目の奥が熱くなる。息を吸おうとして、腫れた喉がいがつき、ひくつく。たまらず、反射で身体が大きく咳を繰り返す。
日向が、慌てて狛枝の身体を慰めるように擦った。
「おい、水飲むか?」
日向が水の入ったカップを差し出してくる。狛枝はゆっくりと首を振った。動くにつられて、頭に痛みが走る。たまらず、顔をしかめた。安堵と共に、混乱していた。目の前の人間は、幻の母ではなかった。生きた、人間。狛枝のただ一人の友達だった。
そうだ、神はもうとっくにいないはずなのに。どうして、ボクの願いはかなったの?
神がいるのであれば、どうしてボクはこんな。
「どうして?」
「水は?」
「いらない。ねえ、どうして」
握ったままの日向の手を強く握る。日向は小さくため息をつき、カップを床の上に置いた。
「どうしてって、お前なぁ〜。お前が呼んだんだろ?」
「よんだ?」
「えっ、だってメール……
「みせて」
送った記憶はない。そもそも、端末を触った記憶がない。痛みに細められた目に、スマートフォンのブルーライトが突き刺さる。
“きて“
画面に映る文字はたったそれだけ。
光が消える。緊張していた目の周りの筋肉が弛緩した。
「お前がこれ送ってきたから、来たんだよ。電話してもお前出ないし、探し回ってみんなに聞いたら今日お前来てないって言ってたから。これを使って。その、間違えてたか?」
日向がスマホの代わりに左手の人差し指にリングを引っ掛け、握りしめたもの。指の間から覗く銀色に見覚えがあった。数日前、狛枝が日向に押しつけた合鍵だ。
日向は無意識で送った、こんな文脈も何もない、意味のわからないメール一つで狛枝の元へ来てくれた。
誰かに助けて欲しかった。
誰かにそばにいて欲しかった。
神様の導きとかそんなものじゃなくて、狛枝の声に、自分に応えてくれる人間がいてくれた。
……ちがわない」
満たされる。胸になにかがいっぱい詰まって、溢れそうになるのをかろうじて息に乗せて吐き出す。
「そうか。あと、今更だけど……勝手に入ったけど、お、怒るなよ?」
狛枝の長めの吐息に、日向は肩を一瞬跳ねさせた。狛枝は眉を寄せる。悪寒に身体が震える。訂正する気力は、ない。声さえ出すのも億劫だ。
今は最低限、伝われば。
……いいよ。かぎ、あげたんだからひなたクンのすきにして」
「わかった。……鍵くれた時に言ってくれよな。ああ、お前が起きてるうちに。一応買い物してきたから、冷蔵庫に入れてるぞ。スポーツ飲料は枕元にある盆の上」
「うん」
一定の変わらないトーン。日向の言葉は子守唄のようだ。思考がうとうとする。
「あとはゼリーもあるし、お粥のレトルトもある。それが食べれない時のために、カロリーのあるパウチゼリーもある。茶碗蒸しもあるけど、他に俺に何かして欲しいことはあるか?」
榛色が狛枝を見つめる。やわらかな光は星のようで、綺麗だ。
ふと、気づく。息がしやすくなっていた。
首元が、脇が、冷たくて心地よい。発熱と発汗でこもっていた熱が息を潜め、久しぶりに涼を感じる。狛枝が首を横に動かすと、耳元でじゃり、と氷が身を崩す音が聞こえた。こんなもの、自分の家にあっただろうか。
「きもちいい……
……よかったな」
鼻から息が抜ける音が聞こえる。日向が小さく笑ったのだ。
繋いでいた手が、離れる。
日向が立ち上がり、狛枝に背を向けた。
「まって」
思い切り手を伸ばす。
白い手はかろうじて、黒いジャケットの端を掴んだ。
「ほら、ちゃんと薬飲んで寝ろよ」
首だけで振り返った日向が眉を下げる。聞き分けのない子をあやすような、そんな声がジャケットをひっぱる狛枝を叱る。
「まだ、いる?」
日向が身じろぎする気配がする。
「ねえ、……ひなたクン」
願う。懇願する。
言葉は素直に、狛枝の口から飛び出ていた。
以前、話したことが、あっただろうか。
ちょっぴり怒って殺風景な個室から出ていくキミを幻視する。
いや、こんなこと。ないはずなのだけれど。
「わかった。もうちょっとだけいる。お前がちゃんと寝るのを見てるよ」
「やだ。……ボクがおきるまでいて。……ボクのて」
「手?」
日向が首を傾げる。
「にぎっていて。おねがい、おいていかないで。いなくならないで」
誰かに、隣にいて欲しい。
ささやかな、ささやかな望みだ。
叶えられる人はもういなくなったはずの。愛しくて穏やかな、掠れて再生がもう難しい、記憶。
キミに願っても、いいだろうか。
……わかった。ここにいる。お前の隣に」
日向は目を少しだけ見開いて、微笑み、頷いた。
「ねむい……。ねえ、て」
もう一度、手を伸ばす。今度は起きて。
お願いだから、握って欲しい。今度こそ、滑り落ちないで。
「ああ。でもその前に」
「なに」
日向がしゃがんで、狛枝に顔を近づける。榛色が目一杯近づいて、どくりと胸が音を立てる。一気に血流量が増した気がした。
……なに、する、の……
額と額が触れる。冷たい。ここちいい。
いや、自分が熱いのか。
「やっぱりな。狛枝お前、熱ずいぶん高いぞ。抗生物質を先に飲んでからだ」
「いいよ……、もう、めんどくさい」
「あ、おい、狛枝」
揺り動かそうとする日向を無視して、もう一度彼の手を取る。繋がれた手は振り払われなかった。そのまま彼の手を引き、布の山に潜り込んだ。ぎしりと、ベッドが体重に軋む音を立てた。日向がベッドサイドにかけている。
狛枝はふふ、と小さく笑った。それと同時に、日向が諦めの色を乗せて息を深く吐き出す。
狛枝は日向のこのため息が好きだった。いや、いつからか好きになっていた。
だって、こんなボクを受け入れてくれた証のようで。キミのそれがみたくて、ボクは。
「ひなたクン、あったかい……
ああ、思考力がぐにゃりと弛緩しているのがわかる。身体はだるく、思考は遠い。
「おやすみ、狛枝」
戸惑うように、髪をまさぐられる。時折狛枝の髪に引っかかる不器用な手は愛しく、心地よい。
繋いだ角ばった手が、あたたかい。
安堵感が全身を満たし、柔らかく包んでいく。
ゆるりとまぶたがおちる。
大丈夫。だいじょうぶ。
たとえ繰り返される高熱で目が醒めたとしても、キミが隣にいてくれるなら。止まらないその鼓動を子守唄に、きっとまた眠れるだろう。
やがて、狛枝は繭に大事に包まれるような心地で眠りについた。

起きたら一番にキミの声を聞く。
ボクを朝に導くのはキミの声だ。
大丈夫。きっと、夢は見ない。