ひなげし
2024-09-21 17:09:06
6363文字
Public 狛日
 

さよならと振る手を捕まえて

ハピ軸本予備狛日。カムプロ施行直前if。
狛の日くんへの好感度がかなり高め。
ドロライお題:「お月見」「忘れ物」から描いた絵の小説書き下ろしです。

闇を薄青緑色が照らす。塵一つない床は人の気配さえ感じさせない。いっそ無機質なまでの新校舎は近未来を予感させる。そんな廊下に、引き摺るような足音が一つ響く。
狛枝は深くため息を吐き出していた。
今日は朝からツイていないのだ。圧倒的に。
階段から転けた。バイクにぶつかりかけ、避けられたと思いきや荷物が引っ張られて転倒。食堂で定食はおろか、購買部でパンすら目の前で売り切れる。そして、才能の定期試験前の打ち合わせで教師が外回りから帰ってくるのに事故に巻き込まれて遅くなり、もう満月が見えやすい位置へ登っているような時間だ。
普段なら、自動販売機の当たり一つぐらい来ていいものだが今現在何一つリターンが来ていない。幸運が狛枝に愛想を尽かして裸足で逃げ出しているとしか思えない。
やる気のない教師は「どうせ君が最後だろうし、研究棟の鍵閉め頼んだよ」と、呑気な一言と共に鍵を寄越して去っていくのだから、酷いものだ。定期試験の結果はもうわかっているようなものなのかもしれない。
幸運のない、不運。希望も絶望もない、不運なだけの、ただの一般人──煩くなり始めた思考に頭を振る。誰もいないことを確認して、帰る。ただそれだけでいい。

光が漏れだし、廊下の床をオレンジに染めている。人気に狛枝はもう一つため息をついた。やっぱり厄日だ。
ノックを二回。物音が一つもしない。
「ねぇ、誰かいる?」
中途半端に開いていたドアを開く。中は卓上に小さなランプがひとつだけ点されていて薄暗い。コードがあちこちに散らばり、それらは全て医療機器のような物へと繋がっていた。煩雑な印象を受ける。保健室にあるようなベッドが一つあり、カーテンがぐるりとベッドを囲んでいた。ベッドの足元には便所スリッパのような、ボロボロに使い古されたスリッパが見えた。誰かいる。
部屋の中へ一歩踏み出して、足元でがさりと音が鳴る。足が勝手に前へ滑り出る。体の重心が足先からずれ、臀部に鈍い痛みが走った。
「痛って」
生理的な涙が滲み出る。ついていない不運な男の上に、先ほど踏んだであろう書類が一枚降ってくる。手に取った何気ない、紙切れひとつ。
吹き出るように嫌な汗が流れた。
心臓が大きく音を立てる。
言葉が詰まって出てこない。
手が酷く震えている。
目を閉じて開いても、それは変わらなかった。

『手術同意書』

才能を付与する手術同意書。健康な人間の脳を弄る、悪魔の手術。人格の喪失。脳損傷の危険性への同意。学費の免除。協力金。本科への転入。一番下には走り書きされた保証人の名前のサイン。
そして何よりも。
少しだけ神経質で、どこかで文字を習っていたような丁寧な文字で日向創のサインがあった。
理解してしまった。
全てを悟ってしまった。
わかりたくなかった。
わかってしまった。
視界の端がじわじわと暗くなる。酷い眩暈がした。髪を掴まれて闇に引き摺り込まれるような、そんな衝撃が走った。
落胆? 悲嘆? 虚脱感? ──絶望?
この感覚には覚えがある。家族、愛犬。愛しいものたちがこの両手から滑り落ちていくあの感覚だ。叫び出したくなるような苦痛がどろりと体を巡り、四肢は冷たく重くなる。
狛枝には彼が手術を受け、何の後遺症もなく、無事に生きて帰れるとは一ミリも思えなかった。ロボトミー手術。心理学の歴史を紐解けば、精神疾患患者へ行われた非人道的な治療法だと本を開けば簡単に出てくる。症状が軽快したのはごく少数だ。多くは深刻な高次機能障害を患ってしまう。もう数十年行われていない技法をもとに更に膨大な情報を、才能を脳へ与えようというのだ。人間に耐えられるわけがない。彼は自分と関わったのだ確実に、確実に彼は逝く。
唇が震え、小さく彼の名前を呼ぶ。狛枝に唯一手を差し伸べ、いつまでも付き纏い、狛枝に怯えながらも立ち向かって理解を示そうとした稀有な人間。何度振り払っても、日向は狛枝を知ることを、手を伸ばし理解を試みることをやめようとしなかった。
あの日、狛枝が気まぐれで綺麗なものが好きだと話した時、日向は初めて微笑んでくれた。「どんなものが綺麗だと思うんだ?」と嬉しそうに言葉を続けてくれたことを狛枝は今でも鮮明に思い出せる。
あの時は言えなかった。一番綺麗だと思ったもの。隣に並んで、ムキになってつきまとう日向と一緒に雨降る中濡れた道を歩いて。大きなトラックが目の前を通った時、二人で一緒に跳ね飛んできた水でずぶ濡れになった。
あの時、ボクは初めて不運を不運だと思わなかった。
だって、あまりにも面白そうに笑う、日向クンの顔が眩しかったから。この事実を認めるには二週間もかかった。高鳴った胸の鼓動と、雨に濡れてもあたたかいと感じた理由を、小さな萌芽をボクはもう知っている。
だけど、自分は彼の何を知っていたのだろう。
自分のクラスメイトみんなに慕われ、仲良くなれるような彼が、自分を殺してまで悪魔と契約するような狂気を誰一人にも悟らせず胸に潜ませていたこと。何かに、思い悩んでいたかもしれないこと。
狛枝は何ひとつ気づかなかった。
それもそうかもしれない。だって、自分は日向が草餅を好きなことを知っているけれど、どうして草餅が好きかまで知らない。狛枝の中には日向のエピソードが圧倒的にない。
日向を知らないまま、日向が喪われる。
それも明日。
「おい、そこのドブネズミ」
カーテンの奥から低い声が聞こえた。
……ボク?」
「俺は、何も見ていない」
「え……?」
「二度も言わせるな、お前がそのノータリンアホ学科の忘れ物をどうしようが、俺は何も見ていない」
姿の見えない男に心当たりはあった。この口の悪さ、手術内容。同期の、超高校級の神経学者──松田だ。
「術前日まで提出期限伸ばすとは、悪趣味なもんだ。慈悲があるふりをして手術室を丸一日抑えているんだから、本音は見え透いている。アイツらは逃す気はない。貴重なモルモットだ。だが、まだ上の連中にそれは手に渡っていない。その存在は俺しか知らない」
「これもしかしたらさ、松田クンの定期試験なんじゃないの……。素晴らしい、才能の成果の、キミの希望が見られる貴重な機会をボクがみすみす潰すなんてそんな真似」
「よく喋る口だな。それだけ喋っていて自覚はないのか? 今のお前の言葉、一体誰が信じるというんだドマヌケ」
チッ。カーテンの向こうで舌打ちが鳴る。
狛枝の声は震えていた。呼吸は早く、いつもより饒舌だった。肩が痛い。身体に無駄な力が入っていて、まるで自分のものではないかのようだった。
手に握った『手術同意書』がくしゃりと音を立てる。
理由はわからない。
松田の経緯もわからない。
わかることは一つだけ。彼は自分の学園との機密事項を狛枝に露呈させてまで、狛枝に機会をくれようとしている。松田が日向と狛枝の友好関係を知っていた? 日向と松田がどういう関係だったのか。狛枝にはわからない。当たり前だ。日向から日向のエピソードを聞く機会がなかったのだから。
だけれど、狛枝は今日の不運の積み重ねが導く幸運の答えを掴みかけていた。
…………いいの?」
……好きにしろ、さっさと行けノロマ」
「わかったよ」
ゆっくり立ち上がる。拳に込められた力の先で、同意書は大きく皺を作った。
「アイツは零時まで自由時間だ。人生で最後の、な。出て行ったのは五分前だ。運が良ければ会えるんじゃないか? ……俺は手出ししない。別にアイツが帰ってこようが、来なかろうがいいんだ」
木枯らしのような声だった。焦燥と疲労。めっきりと老け込んだそれはおよそ高校生がしていい色ではない。ここからは姿は見えないが、彼は暗く澱んだ目をしているかもしれない。
「鍵、頼まれてくれるかな?」
「置いていけよ」
「ありがとう」
痛みを訴えるほどに騒ぐ心臓を抑えるために、深く長く息を吐いた。
踵を返す。時間がない。月光が中天に上がり切る前に彼を探し出さなければならない。
ボクは、ボクに眠る希望の欠片を見つけた今一番近い隣人に、会いに行かなくてはならない。
彼がボクヘ理解を示そうとしたように、今度はボクがそうして、彼の中に眠る希望に手を伸ばす番なのだ。彼がそうしたように、言葉を交わして。
恐怖に従い機能障害を訴え始めていた身体は生理的に狛枝に感情を理解させた。

彼がこの世からいなくなっては、困る。

ボクは彼のことをあまり詳しくしらない。ボクのことは包み隠さず過去まで話していて、これでは不公平だ。
それに、ボクが一番綺麗だと思ったものを、まだ彼に伝えられていないのだから。
ドアに手をかけ、狛枝は月光が照らす廊下へ迷わず飛び出した。

「くそったれ」
闖入者が忘れ物を持って去った研究室に、小さな声で罵倒が落ちる。大きく息を吐き出し、寝台の上で力を抜いた。握りしめた拳には月型にいくつも血の跡がついている。
母親の治療のために何をしてもいいと思っていた。けれど、学園に入り、最先端の技術に囲まれて蓋を開けてみれば松田は逃げようもない蟻地獄の中にいた。松田の小さな願いを踏み躙るように、血の匂いのする権力者どもが群がる。アイツらはみんな声にまで血を滲ませていた。
医療倫理を大きく踏み越え、安易に目の前にぶら下げられる禁忌。
平然と行われる非人道的な会話に松田の心は擦り切れ、摩耗したギリギリの良心が絶叫を上げていた。
弱々しい言葉にうっすら滲んでいた厭世的な独白が頭の中でフラッシュバックする。未成年の手術には大人の、保護者の同意が必須だ。しっかりと記された同じ苗字を持つサインを見た瞬間、松田は言葉を失った。空っぽの胃から戻しそうになった胃液で食道がひりついている。
俺もお前も子供なのに、歪に大人になりかけている。羽化に失敗した蝶のように死にかけている。
だから、悪い大人につけ込まれるんだ。
俺も、お前も。
もう、何も考えたくない。
帰ってきて欲しくない。
湿った居心地の悪い枕と布団は、明日死刑執行を待つ大罪人へ与えられた牢のようだ。迷い込んできたドブネズミに鍵を与えたのは気まぐれだ。モルモットの視線の先によくいたあのドブネズミが、松田の幸運になるかは賭けだった。
どうにでもなれ。
自分は牢の中から出る術を持たない。メスを握らなくて済む明日が来るのが一番だ。
指先がベット脇に置いていたスツールの上の企画書に触れる。カウンセラー、メカニック、プログラマーに発明家。誘いに来たのは一番ビビりのメカニック。これだけ多くの人が関わるのであれば、最低限の医療倫理を弁えた立案をするはずだ。もう一つ垂らされた糸に蟻地獄の底から手を伸ばすのは許されるだろうか。
音は遠い。窓の外には明日手術が行われる附属医療機関の建物が見える。
松田はただひたすらに、闇を見つめていた。

狛枝は拳を固く握り込んだ。
どうしても、気が急く。松田の部屋は薄暗く、時計の針は狛枝の目にはどこを指しているか捉えることはできなかった。満月はもうほぼ中天まで登っている。時間はあまり残っていない。
彼のいきそうな場所。
唯一心当たりがあった、よくベンチにかけて彼が夕焼けに染まっていたあの中央の噴水広場は窓から見下ろしたけれど、人影一つなかった。
わからなかった。
頭の回転のいいやつだなんてクラスメイトに恐れ多く褒められたことはあるけれど、その頭さえ情報がないんじゃ役に立ちようもない。悔しさに歯噛みをする。足首の痛みは全く感じなかった。
思考を乱すべきではない。
迷うべきではない。
一刻を争うのだ。はやく、はやく。
でも、冷静に。
狛枝の頭の中で彼がはにかむ。あれはいつだった? クラスメイトの集まりで作ったクッキーをお裾分けしたときだ。花村のせいで割と洒落にならない事件が起きたのだが、彼は「やっぱり楽しそうなクラスだな。どんな教室なんだ? 席順とか、めちゃくちゃやってる話しか聞かないけど、どんな生活してるんだ?」なんて、嬉しそうに聞き返してきた。狛枝が不用意に握りしめすぎてくしゃくしゃにしたクッキー袋一つでこんなにも話を引き出すのだ。
お前の教室に行ってみたいな。
憧憬? 寂寥? 彼が浮かべた穏やかな笑みに、言葉にならない感情を覚えて、だけど狛枝に踏み込む勇気はなかった。
足が自分の教室へ向かう。本科の松田の研究室に入れて、自由時間を黙認してもらっているのなら。十分可能性はある。
息も絶え絶えで、たどり着いた自分の教室。
するはずがない、風の音がする。
ドアに手をつき覗き込んだ先。
月光を浴びる後ろ姿に、狛枝はただ泣きたくなった。
「日向クン」
酸素が足りない中、絞り出した小さな声。風にカーテンが大きくはためく音。彼に届く前にかき消されたと思って、もう一度狛枝が唇を動かそうとする前にちらりと振り返った榛色が狛枝を貫いた。
……! 狛枝?」
ゆっくりと、日向が振り返る。
狛枝は息を呑んだ。狛枝の手の届かない窓際でたっぷりと月の光を浴びた彼はひどく美しく、眩しかった。胸が軋む。左手に握りしめた紙が大きく音を立てた。
日向は眉を下げ唇を引き結び、穏やかな笑みを保っていた。何もかも諦めた中、小さな喜びを見つけたような顔で。
「会えて、よかったよ。お前の幸運に感謝しなきゃな」
狛枝は黙って窓際まで歩く。
日向は逃げなかった。消えなかった。幻ではない。まだ、ここにいる。
「なぁ、俺」
「帰るよ」
言葉を被された日向は虚をつかれたような顔をする。狛枝は右手を伸ばし、日向の左手首を捕まえた。狛枝の指の下でドクドクと脈を打っている。あたたかい。言葉を交わし、まだ生きている。
それなのに、日向から返事がなければ、抵抗もない。狛枝の胸がチクチクと痛みを訴える。ガラス片でも飲み込んだかのようだ。
どうして返事をしてくれないんだろう。
どうして、そんなに泣きそうなのに、キミはボクに何も語ってくれないの。
握った手を、自分の方へ引く。狛枝より体格が良い日向の身体が簡単に傾いた。思わぬ力にたたらを踏んでバランスを崩した身体を狛枝は両手を広げて受け止めた。このまま身体に腕を回す。
それでも日向は無抵抗で、狛枝に何一つ語らなかった。
「ボクと一緒に卒業しない気?」
耳元で日向が息を呑む音が鮮明に聞こえる。
ボクは知っている。
キミの隠していた大きな秘密を。
闇に蹲る牢から出られないぶっきらぼうな男から、鍵を授かった。
「話しなよ、自分のこと。ボクが聴くから」
身じろぎする身体を強く抱きしめた。
きっと、キミが抱えてきてどうしようもなくなった退屈で鬱屈した誰にも見せられない醜い話を話し終えるまで、ボクは何度も夜を明かしたって構いやしなかった。
このままいなくなるなんて許せない。
あたたかさと、綺麗な思い出だけを残して、両親や愛犬のようにいなくなるなんて認められない。これから先の未来と希望を語り、ボクにそれを信じさせたキミが、ボクの未来に居ないなんてことはあってはならない。
彼は、自分の姿がちっとも見えていないのだ。
自分の手札を認知できていなければ、生き方もまだ決められていない。
彼はボクの腕の中に留まったままだ。まだ勝ち筋は残っている。
今日のとびきりの不運は、この為にあったんだ。
これから先起こることも不運だなんてことはあってはならない。負けられない。
置いていかれないように、手を伸ばす。
自分がわからないというのなら、ボクは、キミと一緒にキミのことを知っていきたい。キミと一緒に生きてみたい。

だから、──ボクと勝負してくれるよね、日向クン。