男は学校の廊下でため息をついていた。立ち竦んだ男を学祭という非日常に浮かれた喧騒が容赦なく嬲る。ただでさえ白い顔を青白くして、それでも男、狛枝は一人その場に残っていた。
かれこれ数分。きっと多くの即席麺類が食べ頃になってしまうだろう時間を使い、目的地の教室を目の前に完全に足は止まっていた。出番を待つコーヒーサービス券がポケットの中でくしゃりと音を立てる。
三歩離れて開き切った扉の先を廊下から覗き見る。喫茶店になっている教室は人影が多く、サービス券をくれた友の声さえ判別できないほど雑音で溢れていた。
けれど、唐突に、盆を持ち、ティーポットとカップを運ぶ一人の男に視線が吸い寄せられた。ツンツンと跳ねて、一本アンテナのような癖っ毛が特徴の狛枝にサービス券という招待状をくれた奇特な人間だ。本人は意識をしていないようだが、狛枝がこっそり憧れる男らしく目を惹く体幹と四肢が、今日は真っ黒なテールコートに包まれている。いつも背筋を伸ばしてまっすぐ歩く、姿勢の良さは人一倍衣装の雰囲気に合っていた。
ああ見えて器用貧乏な彼は、次から次へと声をかけられても、狼狽えたりせずにこやかに笑みを浮かべていた。
珍しいものだ。ここから動くのは惜しい気がする。だって、日向はまだ狛枝にあんなに穏やかな顔をたくさん向けてはくれない。まだ見ていたくて、動けない。
唇を僅かに開き惚けたままの狛枝に、不意に声がかかった。
「ん? あなたお客さん? って本科の……」
狛枝の本科の制服を見た瞬間、案内役の男は言葉をなくした。
はいはい、なるほどね。澱んだ目。隠そうともされない嫉妬。本科の養分とはいえ、本当に存在自体がくだらない。
狛枝は咄嗟に笑みを貼り付けた。全身総毛立つ。やはりここは汚泥なのだ。毒にも薬もなりもしない、生きているだけで無価値なゴミの巣窟だ。
だけど、だけど。……日向クンは? ボクを友達だと言って譲らなかった、一緒に夕立でずぶ濡れになっても、一緒に側溝に落ちて服を汚してもただ一人笑ってくれた日向クンは?
「なにつったってんの? 仕事しろし。ってそこのアンタは日向の客じゃん」
じっとりと汗の滲んだ狛枝の手を、どこかで見覚えのあるような態度をとる金髪で小柄な少女が捉えた。
「ち、ちょっと! ボクまだなにもいってないって」
問答無用で引っ張られる。たたらを踏んで、教室に踏み入った。そう、日向が毎日通っている教室に。
「日向ー! こいつ、アンタの客でしょ」
はつらつとした少女の声に振り返った大きめの榛の瞳が、溢れるかと思うくらいにまんまると大きく開く。驚きを隠さず表現する日向に、狛枝はわかりやすく眉を寄せた。胸は期待と不愉快をぐちゃぐちゃに混ぜたマーブル色だ。サービス券を渡してきたのはキミだというのに、来ないものだと思っているのなら心外だ。友達が来いって言ったら、行くのは当たり前のことなのだと、他ならないキミが言ったのに。
少女が動かない狛枝の背を押し、日向の前へ引き渡す。
狛枝。
日向の唇がそう音を紡ごうと動く。が、音になることは叶わなかった。
「わっ」
日向が突然前へつんのめる。
狛枝は日向の後ろで慌てている男がいることを初めて認識した。
日向の持つ盆から白いものが飛んでくる。
頭皮が、頬が、皮膚が熱い。
高く大きな音が狛枝の足元で鳴った。
「狛枝! 大丈夫か?」
日向が盆をカウンターにされていた机に置き、駆け寄ってくる。熱湯のように熱いコーヒーを頭から浴びた狛枝を確認して、日向は周囲へ声を上げた。
「おい、氷嚢あるか?」
「ある! 持ってくる」
表で案内役をしていた男が跳ね飛び、駆けていく。
「なあ、九頭龍! これ水で冷やして持ってきてくれないか?」
「わかった、行ってくる」
ポケットから取り出した日向のグレンチェックのハンカチを、金髪の少女が受け取り廊下へ飛び出した。
「すまない、みんな離れてくれ! あと、箒とちりとりを頼めるか」
「わかったよ」
日向の声で休憩していたであろうクラスメイトが次々に出てきて散り散りに散って行動に移っていく。その様を狛枝はぽかんと呆けたまま見送る。
日向はポケットからもう一枚、白いハンカチを取り出した。迷うことなくハンカチを狛枝に向け、その白を茶色に染めた。
「……日向クン、なんでハンカチ二枚も持ってるの?」
「言うことにおいてそれかぁ? ……お前、よく怪我するだろ」
「……うん」
日向から続けられる言葉はなく、ただそれだけだった。狛枝の胸に何かが詰まる。ぎゅうぎゅうと、あたたかいものを詰め込まれて、言葉になりかけた棘は音になることなく解けて胃に落ちた。
「日向!」
「すまん持ってきた日向」
二つの声が日向の背を叩く。
せっかく向けられていた視線が、逸らされる。
「ありがとな、手当は俺がやるから店任せて良いか?」
「わかった」
「ああ、その……すまなかった。その人のことよろしく……」
少女は掃除の手伝いに駆けていく。
そして、そそくさと案内役の男は逃げていった。
狛枝を椅子にかけさせ、床に膝をついた日向が狛枝を見上げる。眉を寄せて、唇をキュッと結んだ真剣な顔が、狛枝の視界いっぱいに広がった。知らない間に二つの腕が狛枝へ向かって伸びてきていた。光を遮り、狛枝を囲う。
動悸がした。どきどきと、鼓動が胸を突き上げて、呼吸が詰まる。一瞬のように思えて、永遠にも感じた時を、身体に触れた冷たさが狛枝を現実に連れ戻した。
ひんやりとした布が頬を、氷嚢が狛枝の頭を冷やしている。
「本当は流水で長時間冷やすのが一番良いんだけど、さすがに顔だからな……。今はこれしか思いつかなかった。ごめんな。どこか、痛くないか?」
「……うん」
「……? もしかして、酷いのか? 罪木に診てもらうか?」
「……大丈夫、大丈夫だよ。日向クン」
「本当か?」
疑心に満ちた視線が狛枝に突き刺さる。
握った手のひらはやっぱり汗をかいていた。酷く喉が渇いている。クラスメイトには「お前の舌は油を刺したばかりの機械か!」と言われるくらいよく回る舌も、今はひりつき、役に立ちそうもない。本気で喋ろうとすると、舌は急に重くなる。今、初めて知った。
──ああ、キミに触れてみたい。だなんて、書き下ろされ切って擦り切れたつまらない私小説のようだ。
そっと小さく息を吐き出す。冷やされたはずの頬が酷く熱い。
ここが汚泥だろうが、なんだろうが、日向の隣は胸を満たすものがある。否定するのは、虚しく、苦しく、恋しく、そして手放すにはあまりにも惜しい。
熱傷のようにぴりぴりと胸を焼くこの感情に当てはまる名前を見つけることは、乱読派の狛枝にとってあまりにも容易かった。
ああ、未だに視界に広がる自分だけを見てくれる友が永遠になればどんなにいいだろう。
狛枝は静かに目を閉じた。
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