umeyume32
2026-05-30 21:05:32
3626文字
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唯一のひと

トーマ夢(全年齢)

トーマは神里家の家司だ。
その役職に任命される前から親切にしてくれた若とお嬢に忠誠を誓っている。モンドの騎士がモンドのために行動することとはまた違う感情かもしれない。だが、トーマが神里家の人たちに向ける感情は、家族に向ける感情に似た温かいものだということは間違い無かった。
ある時、モンドや璃月で活躍した『旅人』が稲妻に来訪するため旅人一行を『もてなす』ように指示を受けた。当時、目狩り令に陰ながら対抗していた神里家は、旅人の資質を見極める必要があった。離島で最も顔が広いトーマがその役目を担うことは自然なことだった。
トーマにとって、神里家のために働くことは誇らしいことだ。
自分のために動かない、と思われているのかもしれない。だが、自分の感情を優先するよりも大切な人たちのために努力することをトーマ自身が選んだのだ。大切な人たちの喜ぶ顔を見ることが、トーマにとっての喜び。それは自分の感情を優先することよりも、ずっと価値がある。
そう、つい最近までそう考えていた。


第一印象は、旅人に向ける笑顔が可愛いということだった。

神里家の者から報告を受けた通り、旅人が稲妻にやってきた。
トーマからも旅人一行が船から降りてくる様子が見える。小さな精霊のような生き物と、黒髪の女性と話をしている。周りを見回しながら、桟橋を歩いてくる。女性が旅人に優しく微笑む。
(あ、可愛いな)
稲妻人に似た顔立ちの女性が旅人と共にいるとは聞いていた。特別に美人という訳では無い。ただ旅人に向ける表情がどこまでも柔らかかった。心を許している相手に向けるその笑顔が、可愛らしい。
トーマは、彼女のことが知りたいと思った。
職務とは関係なく、自然にそう考えたことが全ての始まりだった。

彼らが木漏茶屋に滞在し始めてから、彼女と話す機会は頻繁にあった。戦闘能力が無い彼女は故郷に帰るために旅人と一緒に行動していると淡々と伝えてくる。自分の子どもを守るために警戒する小動物にどこか似ている彼女は、トーマが旅人を傷つけないか気になっているようだ。

「トーマさんやトーマさんの後ろ盾になっている方にとって色々と思惑はあるのでしょう。あの子たちの心身を傷つけないならば、わたしはなんでも良いです。わたしを利用しても構いません」
水平線に沈む夕景から目を離さずに彼女が呟く。次いで、ため息をついた彼女は、トーマの目をじっと見つめた。
真剣な黒い瞳は、真摯な色をしていて息が詰まった。大切な人を守るためならなんでもするという覚悟をした彼女は、どこかトーマに似ているのかもしれない。
「返事は求めていません。わたしにはそうする覚悟があるというだけです」
欄干の上で握りしめた彼女の手が震えている。トーマは、今更はっとした。
彼女は、怖いのだろう。神の目も持たない只人であるのに、旅人を守ろうとしている。戦う力がないことを理解しているだろう。どんなに怖くても大切な人を守ろうとしている。
彼女はトーマと同じでは無い。トーマよりもずっと強い人だ。


……君に大切に思われている旅人が羨ましいよ」
いつかのように水平線に沈む夕景をトーマと彼女の二人きりで見ていた。
その時、ずっと考えていたことが、口から零れ出る。トーマがモンドから稲妻という異国にやってきた頃、誰も守ってくれる人はいなかった。神里家に拾われていなかったら、おそらく命は無かっただろう。
もしトーマがこの国に来たばかりの頃、彼女に出会っていたら。生活は苦しくとも心だけはずっと幸福に過ごせただろう。もしそうだったらどんなに良かっただろうか。彼女が旅人に向ける優しい笑顔が、当たり前のようにトーマに向かって降り注ぐのだ。過去に遡れない以上有り得ないことだと理解しているが、羨ましいと思う気持ちだけは止められなかった。
「羨ましい、ですか?」
首を傾げた彼女は出会った時よりも、優しい表情をしている。トーマや神里家の人々を信用するようになってから、時々笑顔を見せてくれる。もちろん旅人たちへ向ける表情とは比べ物にならないけれど。旅人はもちろん彼女が気を張らずに過ごせるようになったことは、トーマも嬉しく思っている。
旅人が羨ましい。
彼女にこんなにも大切に思われている相手は旅人だ。旅人のためなら身を呈すことを厭わないほどの愛情がある。旅人も彼女を守るためなら国を敵に回しても構わないと思っていそうだった。
(彼女と最初に出会ったのがオレだったらよかったのに)
じ、と彼女がトーマの顔を見ている。視界の端で彼女が目を瞬かせていた。
羨ましいとトーマが言うと思っていなかった、といいたげな顔をしている。
トーマも言う気は無かった。言ってもどうしようもないからだ。彼女が旅人を大切に想う気持ちを否定したくない。既に友人だと思っている旅人が彼女へ抱く気持ちも同様だった。
(好きだと自覚した瞬間から失恋決定してる、なんてね)
皮肉なことだ、と笑いが漏れた。トーマの表情を見て心配そうにしている彼女の表情でさえ可愛く見える。
いつから、なんて分からない。
彼女のことを知りたい、と思ってから彼女の全てが好ましい。旅人のことを守りたいと思う強い信念。優しい雰囲気。柔らかな声。トーマの名前を呼ぶ声が、親しくしていく中で少しずつ固さが取れていくこと。旅人やパイモンに向ける特別な笑顔。彼女と過ごした瞬間の全てが煌めいている。そう気づいた時には手遅れな程に彼女に恋をしていた。
彼女とトーマが出会った時には、既に彼女の一番は旅人だった。トーマは一番になることはできないし、彼女と旅人の間に入ることはできなかった。
(彼女が幸せなら、オレは)
トーマ自身の幸福よりも彼女の幸福の方が大事だ。なのに、彼女と過ごす時間を失うことを、神の目を失うことと同じくらいに恐れている。
手の届かない人に焦がれている自覚はあった。
いつの間にか太陽が沈んでいる。いつの間にか欄干を握りしめていた手に、温かいものが重なった。
彼女の小さな手が、トーマの手に重なっている。
「トーマくん」
つい最近呼んでくれるようになった呼び方で、彼女がトーマの名を呼ぶ。彼女はトーマのこと恥ずかしげに見上げる。
「あの……それは、トーマくんもわたしの『弟』になりたいという理解で、いい……の、かな?」
……え?」
「あ、いや!もともと旅人くんって外見上はわたしよりも歳下だから!旅人くんのことが羨ましいってことは、旅人のことを弟みたいに扱ってるのが羨ましかったんじゃないかなって!ならわたしがトーマくんを『弟』として扱えば解決かなって!!」
身振り手振りを交えて説明しつつ「変なこと言ってないよね!?」と彼女は慌てている。トーマはそれどころではなかった。
彼女は旅人のことを弟だと思っている、ということへの理解が追いついていなかった。確かに彼女が旅人に向ける表情に恋をしている熱量はなかった。
旅人と彼女が互いに想いあっていることは間違いない。ただし、それはトーマが思うような異性愛ではなく家族愛だったのだ。
「弟よりも大切にして欲しいかな」
「弟よりも大切……?」
難しい、と考え込んでしまった彼女の手は、いまだにトーマの手に重なっている。トーマの手よりも少し冷たい手のひらは、トーマの体温と混じり合い暖かくなりつつある。トーマのもう片方の手で温くなった手をとると、月明かりに照らされ始めた彼女の頬が少し赤くなった。
確かに、男として意識はされている。『弟』として扱われている旅人よりもずっと、トーマは彼女の『恋人』に近いのだろう。
トーマと同じくらいの感情を返して貰えなくても構わない。彼女がトーマの隣にいてくれるなら、どんなことでも耐えられるだろう。
大切な人のために動くことは苦ではない。どこまでも彼女のことを大切にして、愛で続ける。それが純粋な感情ではなく、トーマの自分勝手な恋心からくるものであろうとも。たとえ彼女の『故郷に帰りたい』という願いを奪い取るものだろうと。
トーマよりも少し低い体温を温めることができる、彼女にとっての最初で最後の男になりたい。

(まずは、オレに触れられる機会を増やして、もっと意識してもらわないと)
彼女に男として好きになってもらって、オレを一番に優先してくれるように選んでもらう。神里家のためならどんなことでもできるように、彼女の恋人になるためなら、なんでもできる。
一瞬だけトーマを見上げては、恥ずかしげに目を逸らす彼女。
トーマの世界で唯一の女性の思考が、今はトーマのことだけで満たされている。
それだけでいい。今は、まだ。

彼女と共に居るための努力をし続ける覚悟を決めたトーマ。トーマに恋をする未来しか残されていないことに全く気づいていない彼女。
二人を見ているのは、優しい月明かりと少し冷たい海風だけだった。