レノが席を立ってから、もう十五分になる。コーヒーを買いに行くと言い残して出て行ったが、自販機までは往復しても五分とかからない。消えた十分は、どうせ非常階段の踊り場で煙草をふかしているか、あるいは通りかかった誰かをつかまえて喋っているか。どちらにせよ、急ぐ気など毛頭ない。
主のいない隣のデスクには、蓋の開いたペットボトルと、乱雑に散らばった書類。いつもの光景だった。
扉が開く音がした。任務から戻ったばかりのシスネだった。自分の席へ向かおうとした彼女の足が、ふと途中で止まる。まるで磁石に引き寄せられるように、シスネはレノのデスクへと歩み寄った。
「……また、開けっ放し」
小さく溜息をひとつ。身を屈めてボトルの蓋を閉め、乱雑な書類をトントンと叩いて揃える。ついでに転がっていたペンを手に取り、インクの残量を確かめた。一度自分のデスクへ向かい、引き出しから替芯を取り出してまた戻ってくる。静かに差し替えて、ペン立てへ戻した。まるで、自分のものを扱うような手つきだった。椅子の角度をわずかに直してから、そのまま自分のデスクへと腰を下ろす。
「……甘やかしすぎだ」
俺が言うと、シスネはファイルを開きながら、目を向けることもなく返した。
「甘やかしてなんてないわ」
「あいつは六つ年上だぞ」
「知ってる」
預かっていた書類に目を落としながら、言い訳のように付け足した。
「視界に入ると落ち着かないだけ。私の美意識の問題よ」
口調こそ呆れたものだったが、その指先は違っていた。一連の動作のどこにも、義務感や面倒くささといった濁りがない。まるで、自分自身のテリトリーを心地よく整えるかのような、静かで、どこか弾むような自然さがあった。
再び、扉が開いた。
「よぉ。自販機、混んでて参ったぞ、と」
バレバレの嘘を平然と吐きながら、レノが椅子に深く腰掛ける。整ったデスクへ当然のように手を伸ばし、ペンを取って報告書の末尾に名前をスラスラと書き込んだ。しかし、最後の一行でぴたりと手が止まり、がさごそと引き出しを漁り始める。
「ルード、ハンコ見なかったか、と」
「知らん」
「右のキャビネット、三段目」
シスネが顔を上げずに言った。
「昨日、あなたが適当に押し込んだのを見たわ」
「おっ……あったあった。サンキュー、シスネ」
レノは悪びれもせずに笑い、朱肉をつけて紙に判を押した。そのままぬるくなったコーヒーを口にし、何事もなかったかのように次の書類へと手を伸ばす。
俺は手元から、ふと視線を上げた。シスネの横顔が、自然と視界に収まる。自分の仕掛けた小さな細工が、過不足なく、完璧に機能したことへの満足。それが彼女の口元に、ほんのわずかだけ滲んでいた。正面のレノからはモニターに遮られて見えないかもしれないが、俺の位置からはよく分かる。本人すら自覚していないかもしれない、微かな、しかし確かな綻びだった。
レノは、誰かが替えておいたインクで文字を書いている。シスネは、誰かに気づかれていない場所で小さく笑っている。
俺は手元の書類に視線を戻した。いつからこうなっていたのか、もう思い出せなかった。
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