揺蕩っていた意識が浮上していくのに合わせ、ぼんやりとした視界を現実へと結いつける。目がくらやむくらいに明るかった世界には暖色系の色が混じり始め段々と視界が開けてきた。
目の前に二十代後半くらいのやたら見目の良い男がいる。
聴覚も戻ってきているのか中年男性の声も聞こえた。特徴的なテンポで紡がれるその音はまるで誓詞奏上のようだと思った。
――声……、ああ、結婚式か?
頸椎付近から温かな熱が伝わってくる。それが酷く心地よく感じて、また目を閉じてしまいそうになったが、上野ツカサは瞬時に目をおし開いた。
——誰だコイツ?
近すぎる程の距離に男の姿があり、思いっきり眉間に皺を寄せる。全くと言っていい程に今の状況を飲み込めなかった。
「では誓いの口付けを…………」
――は? 誓いの口付けっ⁉︎
柄にもなく慌てる。考えるよりも先に体が動き、寸でのところで手を差し込んで口付けを阻止した。右手の甲に嫌な感触が押し当てられているのは不愉快極まりない。
――あっぶな!
危うく男に口付けられるところだった。回避する事が出来て安堵の吐息を漏らすも、起きた瞬間から不穏な空気が流れている。目覚める前までしていたやり取りがまるで嘘のようだった。
上野ツカサ、享年二十六歳、前職は極道……三ヶ月で破門されたが。
――おい、さっきまで居た神とやら……さすがにこれは想定外だぞ。
結婚式なのに己だけベッドの上にいて、その結婚相手に上体を支えられている格好だった。もっと現状を把握しようと、自身の力で上体を起こしたのと同時に男の体を手で押しやって見つめる。嫌味なくらいに端正な顔をしている男と目が合った。ウェーブを描いたホワイトグレーベージュの髪色をした男だ。
――ハリウッド俳優かなにかか?
珍獣でも眺めるような目で興味深そうに見つめられるとどうも落ち着かない。
――それよりあの女……どこに行った?
見える限りの範囲内には見当たずに舌打ちする。
それはほんの数分前までのやり取りだった。
車に轢かれて死んだと思った瞬間、暗闇の中にいるのが分かり唖然とした。
「上野ツカサ」
声がした方角には見知らぬ女がいる。白いドレスに身を包んだ、腰まである長い黒髪の女だ。毒々しいくらいの赤い瞳が印象的で否応なく惹きつけられてしまう。
「誰だアンタ」
「霊体で間違いはないが真偽不明だ。幽霊なり神なり好きに呼んでくれて構わない。生と次元を司っているのは確かだ」
女にしてはしっかりとした重さのある声音で淡々と告げられた。
「生? 死じゃなくてか? その前にどこだここは。俺はマル公……犬の代わりに車に轢かれただろ? どうしてこんなところにいる?」
「ああ、間違いなく死んだ。しかし、何故かきみは死ぬ予定に組み込まれていない。そこで提案なのだが、とある人物の体に憑依し、残りの寿命を消費してくれないか? きみが入らなければその人物はそのまま死んでしまう」
身も蓋もない言い方をした女を正面から見つめる。
「憑依……? 俺がその体に入っちまって大丈夫なのか? その体の持ち主は?」
「心配無用だ。毒を飲んだ際に自分は本当に死んだのだと錯覚し、既に昇天している」
――俺とは逆って事か。
ため息しか出ずに、乱暴に自分自身の髪の毛をかき乱した。
「きみの性分を気に入っている。個人的なエコ贔屓だ。まあ、そのせいできみは極道を破門になったようだがな。でも君なら助けてやれるかもしれん」
「助けるって、誰を?」
女は何も言わずに一度視線を伏せる。今にも闇に溶け込んで女が消えそうな印象だったために、一番気になっている質問を口にした。
「一つ聞かせてくれ。俺が助けた犬はどうなった?」
「端的に言えば助かった。あの犬は先天性の病を抱えていて、それが理由で飼い主に捨てられたようだ。それをきみが拾って助けたが後一週間も持たない。寿命だ」
「そうか……」
どちらにしてもマル公は死ぬ運命だったのかと思うとやりきれない思いになった。それが寿命だと言うのならば己にはもうどうにも出来ない。現状に頭を切り替えて鷹揚に頷いて見せた。
「良いぜ。どうせ一度は死んだ身だ。どこだろうが行ってやる。現実世界に戻ったところで俺の居場所なんてどこにもないからな。そのまま野垂れ死ぬだけだ」
「話が早くて助かるよ。では世界を移動させる」
女の言葉の直後、突如地面が抜けたように体が落下していった。真っ暗だった世界が七色に明るくなり、今度は目が眩むほどの無色透明な空間に放り出される。
――まるで色のないスカイダイビングだな……。
人ごとの様にそう思ったのは、あまりにも現実離れしすぎているという要因が大きい。何かに引き寄せられるように、上下左右に回転しながら落下し続けていったかと思えば突然様々な色が飛び込んできた。見覚えのある海や木々が遠くに見え始める。しかし建物だけは外国の街並みのようで、馴染みのないものばかりだ。地に近付くにつれて大きくて立派な西洋風の建物の真上にきた。
——ぶつかる!
条件反射的に身構えた瞬間、体は建物を透過して一人の青年の体の中に吸い込まれていった。
そして冒頭に戻る。
少しでも早く状況を把握する為に視線を走らせる。高い天井に全体的に白を基調とした木造の柱があるシンプルな建物、横並びに腰掛けられる椅子、ステンドグラスがはまった窓を見て嫌な予感が脳裏をよぎる。教会だ。今行われているのはやはり結婚式と呼ばれるもので間違いない。
――もしかして女に憑依したのか?
男の体に入った気がしたので疑問に思った。女を象徴する部位に触れてみたが、ペタリとしていて何もない。しかもウエディングドレスどころか着ているのはタキシードだった。
――男なのに何故男の嫁に行かされそうになっている?
ベッドから降りて床に両足をついてみたが靴を履いていない。仕方ないので素足で立った。男は随分と身長が高いようだ。見上げなければ顔が見えない。
「アンタ……誰、だ?」
見上げて問うと漆黒の瞳が瞬きもせずに見つめ返してきた。
「もしかして君記憶がないのか?」
全くの別人なのだからあるわけがない。が、ややこしくなりそうなのもあり記憶喪失で通す事にした。
「俺は……、誰だ」
やたら声が出しにくい。喉が焼けついたようにひりついていて、無理やり押し出そうと手を当てる。ガタンと大きな音が耳に届く。音源に視線這わすと初老の男が歓喜で震えているような表情をしていた。
「アレス様、お目覚めになられたのですね⁉︎」
「アレ……ス? だれ……だそれ?」
――ああ、もしかして女が言っていた体の主の名前か。
妙な女と会話をしたのを思い出して辺りを見渡してみたが、その姿はどこにもなかった。
「近、いっ。アンタは、もっと……っ離れろ」
男を睨みつける。自分の意に反して力が入らずに体は床に弛緩していくのをグッと堪えた。
——何でこんなにも体が怠い?
呼吸もうまく出来ずに何度か深く息を吸って吐き出す。自身の体に触れれば、以前の肉体よりも随分と頼りない骨格をしているのが分かった。目線も低い。日本にいた時は百七十五センチはあったのを記憶している。そこから計算して目線の高さを考えると百六十センチあるかないかだろうと推測できた。慌てて肩に触れて腹筋に手を当てるも、肩幅のサイズも腹部への筋肉のつき方までもがまるで違っているのに気がついた。
――おいおい、コイツ頼りないにも程がないか?
視界に入る指先も細くしなやかだ。新しい人生を送るかもしれない体に対して急に不安を覚え、鏡を探すために部屋の中を見渡していく。
「あの……アレス様? どうかなさいましたか?」
様子がおかしいと思ったのか、駆け寄ってきた初老の男がこちらの顔色を伺ってくる。
「鏡……鏡はどこだ?」
「鏡でしたらあちらにございますが?」
一部の壁がアーチ状にくり抜かれていて隣の部屋へと繋がっていた。歩き出そうとしてよろめく。隣にいた男に縋り付く形になってしまい、慌てて手を離す。
「大丈夫かい? 私が連れて行こう。大人しくしているといい」
「必要、ない」
伸ばされた男の手を弾く。邪険に扱ったというのに、男がフワリと笑んだ。
「今日結婚したばかりだというのに、随分と主人に冷たいものだ」
態とらしい男のセリフを聞いて、フンと鼻で笑った。
「誓いのキス寸前……っ、だったのを考えると式は終わった、わけじゃねえ。だから正確にはまだ結婚してねえ……そうだろ? あと……っ、その作り笑いやめろ。俺はアンタんとこに、嫁ぐ気なんて……っ、ない」
息絶え絶えに言うと一拍の沈黙が流れた。
男がくつくつと喉を鳴らして笑う。一瞬にして纏う空気が変わった。先程までの好青年の皮を剥ぎ、挑発的で冷徹な笑みを浮かべていた。色で例えるなら澄んだ青色が唐突に化学反応を起こし黒色になった。そんな印象を受ける。久しぶりにゾクリとした悪寒が背筋を走った。
――何者だ、この男。
一般的な人物ではない。前職に居た時に関わり合った闇側の人間の匂いがする。極道とは違う黒い組織。しかも幹部クラスとかの下のメンバーじゃない。人を支配する側の人間だ。体に圧がのしかかってくるようだった。それも数秒の間だけで、男はまた作り笑いを浮かべる。
「例え君の記憶が無くなろうが私の妃であるのは間違いないよ。アレス・シュグナイザーくん」
アレス・シュグナイザー。これが憑依した体の正式名称らしい。
「だから願い下げだって……言ってんだよ」
鼻を鳴らして笑ってやれば男は更に興味が増したと言わんばかりに双眸を細めた。
ザワザワとした雑音が空気を揺らしている。先ほどからやけに周囲が騒がしい。余りにも耳障りで、背後に視線を走らす。
「オリバー様に何て無礼な」
「いくら公爵家のご子息とはいえ度が過ぎているのでは?」
「あまりにも目に余ります」
「結婚を破棄されて困るのはご自身でしょうに何を仰っておられるのか理解に苦しみますわ」
「お相手はこの国の第三皇子。立場も弁えられないのかしら」
声を顰めもせずに囁かれている。聞き覚えのない名称が出てきて、思考を巡らせた。目の前の男がまたニコリと微笑む。
――第三皇子のオリバーというのがこの男か……?
という事は公爵家の子息というのは、今のこの体の身分なのだろうと推測出来る。
「はっ……っ、皇子か。なのに、なんで血生臭い仕事なんざ……してやがる? アンタ……暗殺者か何かだろ。この国はそんなに物騒なのか? アンタの何もかもが、胡散臭過ぎる」
周りには聞こえない程の音量で言葉を紡ぐ。男は顔色一つ変えずに口を開いた。
「どうしてそう思ったんだ?」
「当たりかよ」
体が鉛のように重く息苦しい。そういえば毒を飲んだとかと言っていたなと思い出し、大人しく床に膝をついた。
――服毒? それとも暗殺か?
「アレス様、そんな弱った体で動くなど自殺行為です。一度聖女様に来ていただきますので、そのままお待ちください」
慌ただしく初老の男が出ていき、やがて一人の女を連れて戻ってくる。
白い魔法陣が展開し、己の体を覆っていく。
――魔法って凄いな……。
深く息を吐く。随分と楽になった。息もしやすい。治癒魔法というものを目の当たりにし驚いたのも正直な所だが、一つ疑問が生じた。
――でもこれ、さっきも感じたな。
目を覚ました時に感じた心地よい熱と同じものだった。初老の男にコソッと耳打ちする。
「この治癒とやらは、誰にでも使えるのか?」
「いえ。わたくしの知る限りでは聖女さまだけでございます。アレス様……ご様子がおかしいですが本当に大丈夫でしょうか?」
「平気だ。悪い。少しの間……離れててくれ」
初老の男が距離を空けて待機する。
治癒魔法は聖女しか使えない。しかし先ほど感じた熱は恐らく治癒と呼ばれる物だ。魔法陣を展開させずに詠唱破棄して、誰にも悟られずにひっそりとかけられるくらいにはこの男は手慣れている。にもかかわらずに、この男は治癒を使えるのを周りに秘密にしている。口付ける直前で目を覚させようと己へのちょっとした嫌がらせだったのか? 腹が立った意趣返しにツッコんでみる事にした。
「このタイミングで……ッ、俺を癒した理由は何だ? アンタ、治癒を使えるだろう? 隠す理由は何だ?」
「言ってる意味が分からないな」
戯けてみせた男を再度睨みつける。飄々とした様子が癇に触り追求した。
「目が覚める前に……、アンタが俺の体を支えていた所から熱を感じた。聖女とやらが……っ、さっき使った治癒と同じだった」
また息が苦しくなってきて、途切れ途切れにしか話せないのがもどかしい。喉に手をやって何度も喘いだ。
こちらが察するよりも早く頸椎に手刀を入れられる。
「どうもアレスくんは目が覚めたばかりで混乱しているらしい。せっかくご出席いただいたのに申し訳ありません。式は彼の回復を待ってからにします」
――この腹黒タヌキ野郎……!
戻ったばかりの意識が遠くなり、ブラックアウトしていく。
お開きとなるのは願ったり叶ったりだ。落ちそうになっている耳元で「面白くなってきた」というオリバーの声がした。
***
再度目を開けた時には何処かの室内にいて、不安そうな表情で式場にいた初老の男がこちらの顔を覗き込んでいた。
「誰だ?」
「アダリーと申します。お生まれになった時からずっとアレス様にお仕えしておりました」
アレスの従者か何からしい。
「あの、つかぬ事をお伺いしますが、もしかしてご記憶を……?」
「悪い。教会で目覚めるまでの記憶がないんだ」
言葉が通じているのは自称神とやらの計らいなのかもしれない。それなら最低限の記憶だけでも残しておいて欲しかった。
あって困る記憶でもあるのだろうかと思案する。目が覚めたばかりでぼんやりする頭で考えるも、上手く考えが纏まらなくて額に右手を押し当てた。
「コイツ……、いや、俺は今いくつだ?」
「二十一歳になられたばかりでございます。先ず医療魔法師の診察を受けましょう。それから今後の話をしましょう」
アダリーから敵意は感じない。それどころか本当に寄り添って心配している気配が伝わってきたので大人しく従う事にした。
「分かった」
短く返事をするとアダリーは足早に部屋を出ていく。ザッと見渡した寝室らしき部屋は少なく見積もっても二十畳はありそうなくらいに広かった。ここにもアーチ状の通路があるのでもう一つ隣に部屋がありそうだ。洗面所や風呂場かもしれない。
一人で寝るには大きすぎるベッドに、白い壁と濃い茶色の凝ったデザインの家具が設置されている。ここがアレスの部屋なのだろう。左右に見える範囲内だけでも迂闊に触りたくないくらいには値段も高そうだ。もう一度目を閉じかけた時にアダリーが医療魔法師の男を連れてきた。
体調が回復したのは丸二日経った後だった。
軟弱すぎる今の体に辟易としてくる。全身鏡を見て盛大なため息をつき一人呟いた。
「何だよこのナヨナヨした体。しかも貴族とか……憑依した早々無理ゲーじゃねえか?」
サラサラのショートカットの黒髪に、赤ワインレッドの瞳。姿勢の良い細身の体躯とくる。服装も堅苦しい事この上ない。見目も以前の方が男らしくて良かった。意気消沈せざるを得ない。
貴族の生活というのは起きた直後から身支度やらが大変だ。思っていた以上の労力を要するので馴染めそうにない。
――面倒くせぇ……。
室内なのだから寝る時みたいな軽装で良いだろうというのが率直な感想だ。
これからテーブルマナー、家庭教師による授業、政務、魔法の使い方、この国や周辺の歴史、全てにおいて始めっからやり直しらしい。今日から専属の教師がつく。小学生からまともに学校へ行っていなかった己には地獄としか思えない始まりだった。執務室にあるデスクに腰掛けていると扉をノックする音が響く。
「アレス様、よろしいですか?」
「ああ」
アダリーの問いかけに答えるとまた見知らぬ男が入ってきた。初めての教師だ。言われた通りに資料を元にインクを含ませたペンを紙に走らせる。
——あれ? 読めるし書けるし分かる……。もしかして気がついていないだけで、アレスとしてある程度の記憶や知識があるのか?
体はアレスなのだから脳が無意識下で働いていてもおかしくない。それなら楽だ。内容がスラスラ出てくるのが不思議で逡巡した後に仮説を立てていく。間違いない。覚えている事も多いようだ。それならこの国でも生活も出来る気がしてきた。
「アレス様、ご記憶がお戻りになられたのですか?」
「いや、全然。でもある程度の知識はどうやら記憶にあるようだ」
「では国名などは覚えておられますか?」
「分からない」
素直に答える。
「ここはユラリアーナ帝国です。スレイド領域内にある二国の内の一国、隣国はカザルカ国となりますが、昔から両国の仲はあまり良好とは言えない状態です。政務もそれに関わる問題の書類が多いでしょう」
「政務……」
政務をせねばならないという事に頭痛がする。存在するかもしれない記憶を思い返そうとして出て来ないのは、人物、名称、土地名、世界観、魔法、アレスにまつわる記憶だ。靄がかかったように朧げで上手く脳内処理出来ない。
「それなら日常生活を送る上では支障がないかもしれませんね。私の授業は不必要かと思いますので一度アダリー氏に報告してきます」
教師が執務室を出て行く。勉強をするという展開にならずに胸を撫で下ろした。ストレス過多でどうしようかと思っていただけに安心したからだ。
教師と入れ替わるかのようにアダリーが執務室に戻ってくるなり頭を下げた。
「アレス様、ご記憶にない事はございますか?」
「無意識下で出来るようだから、上手く説明出来ない。世界の事、地名はさっき教えて貰ったから後は魔法か? 人物や名称などもサッパリだ。政務は出来る気がしない。今まで考える機会もなかったしやった事もねえからな……」
最後らへんはつい素で話してしまい唇を引き結ぶ。が、アダリーは気にしている様子もなかった。
「では先に魔法を覚えましょう。以前は独学でもそれなりの使い手でしたのでアレス様なら教師をつければすぐ習得出来ると思います」
——それなりかよ。
喧嘩も弱そうなのに魔法もそれなりだったら取り柄は容姿だけになりそうだ。そう考えて、ふと容姿だけは良いあの胡散臭い元婚約者を思い出した。
「そういえばあのオリバーて男は何者だ?」
「我がユラリアーナ帝国の第三皇子でアレス様の婚約者です。とても気さくでお優しいお方ですよ」
——アイツが? それはない。絶対腹黒タヌキだ。
心の中で断言する。
「主に何の任務についてるんだ?」
「アレス様と同じように執務室で政務に就いておりますが……」
「それ以外の人目を忍ぶ仕事とかは?」
「あの、申し訳ございません。そのご質問はどう解釈すればよろしかったでしょうか?」
言わんとする事が分からないといったように、アダリーが困ったような顔をしている。演技でなければこの表情は本当に知らないのだろうと推測出来た。
「いや、いい。妙な事を聞いた。忘れてくれ」
「かしこまりました。では魔法師の先生をお呼びしますので、一緒に中庭へ行きましょう」
「分かった」
腰を上げてアダリーと共に部屋を後にする。
——あの男が政務しかしていない? そんな筈はない。
益々胡散臭くなってきて思考を巡らす。
——表向きには存在しないとされる仕事決定だな。となると、やはり暗殺系だろ。
結婚式が中断されて正式な婚約破棄の発表は来ていない。書面だけで通告して貰えると一番有り難いが、オリバーは去り際に「面白くなってきた」と言った。あの言葉の真意がどうあれ、書面通告だけでは済まさない気がした。何者なのかは気になるがあまり関わり合いにはなりたくない。自分からは婚約破棄を告げずにこのまま放置しておこうと心に決める。考えに耽っている内に中庭についていた。
「すぐにお呼びしてきます」
アダリーが去って行った直後どこからか監視するような視線を感じて振り返った。
——誰もいない?
どこにも姿はとらえられないが、近くに誰かが居る気がしてならない。
「誰だ?」
問いかけに返事はなかった。目を凝らしてよく見てみると十メートル先にある廊下を繋ぐ壁の影に紛れて、人の影があるように見えた。こちらの能力値に合わせ、気付くか気付かないかの絶妙な加減で気配の露出度をコントロールされている。それが頭にきた。
——こんな事をするのはアイツくらいだろ!
壁に向けて思いっきり叫ぶ。
「今度同じ事をやってみろ。その国宝級のご尊顔をぶん殴るぞ!」
「ははは、君は本当に面白いね。今日はたまたま寄っただけだ」
高々に笑う声が響く。思っていた通りだ。オリバーが壁の影から日の下に姿を現した。光に照らされたホワイトグレーベージュの髪が以前見た時以上にキラキラと輝いている。
「用があったからね。またね、アレスくん」
「来なくていいって言ってんだよ!」
寧ろ永遠に来るな、と内心悪態をついたところでオリバーの姿が背景に溶けるように消えていく。
——あれも魔法なのか?
もしそうならば習得しておきたいところだ。魔法に対して興味が湧いてくる。
「アレス様、今オリバー殿下のお声がしましたが……」
「用があったらしい。もう帰った」
「さようでございますか。長居出来ずに残念でしたね」
——いや、しなくていい。残念でもない。
「では、始めましょうか。こちらが魔法師の方です」
この時から魔法を覚えるようになった。
***
執務室にこもるようになって二週間が経過していた。文字と数字を追うばかりで息が詰まって仕方ない。魔法師の指導は週に一回程度だ。仮眠を取ろうと寝室に向かう。
「ひっ、アレス様。掃除は終了いたしましたのですぐにお使いいただけます。次回からはこの時間には寝室内に居ないように尽力いたしますのでご容赦くださいませ」
「……」
寝室を整えていた侍女と鉢合わせてしまったがどこか怯えたように頭を下げ、言葉を捲し立てて逃げていく。
——何だあれ……。
とは言え、今日が初めてではない。この屋敷の連中は何故か〝アレス〟という人物にどこか怯えていて、会話さえ成り立たないのが分かった。廊下で鉢合わせても深々と頭を下げられて去られてしまう。話しかけた従者は驚き過ぎて近くにあった花瓶を誤って割ってしまい、その日以降屋敷内で見かけなくなった。
一眠りして執務室へと戻り、書類整理を進めて行く。アダリーがある程度やり方を教えてくれたのもあり、ちゃんと熟せている。
「アレス様、紅茶をお持ちしました」
「んー、ああ、悪いな。ありがとう」
ウッカリと返事をしてしまい目頭を揉む。しまったと思った時には遅かった。
「え……アレス様が礼をっ⁉︎」
普通に礼を言っただけなのに、瞬き一つもせずに従者の男に見つめられる。「大変申し訳ございませんでした。失礼いたします」と脱兎の如く去ってしまった。礼を言って謝られた意味が分からない。深く椅子に腰掛ける。
――来て早々だが、この世界はつまらん。
調理師を合わせて十名の従者や侍女を名前も出さずに紹介されたっきりだ。昨日は廊下ですれ違っただけでも、怪物に遭遇したような表情をされてしまった。あの怯え方は何だと問いたい。そんな事件が、目覚めてから立て続けに起こっている不可解な現象だった。
それに両親も分からない。一度も顔を見せに来ていないからだ。厄介な確執があっても面倒なのでアダリーに問うてもいない。唯一日々普通に接してくれる人物は、教師陣を除いてアダリーだけだ。彼だけは同じ人間としての会話を嗜んでくれる。
こんな屋敷に一人で住んでいるのを考えれば、もしかするとアレスはこの見目で極悪人だったのでは? と考える様になり今に至る。
――どうしたもんかな、これは。
前世同様ここでも味方はいないに等しいらしいというのは理解できた。
アレスはアダリー以外には好かれていない。それどころか厄介な嫌われ者だ。
「ムリだわー……ストレス溜まる。飲みに行きてえ」
一人ボヤく。アレスとしての記憶がないのに、周りからの援助や支援もないとくれば仕事などスムーズに出来ない。それに加えて周りのあの態度じゃ、しっかりやれと言うのは無茶振りもいいとこである。割り当てられている執務室の机の上で頭を抱えた。
現在必要とはいえ、政務など一切してこなかった分野だ。現代人をしてきて政務に携わるのはごく一部の人間で、間違いなく己は当てはまらない。
完全にキャパシティオーバーだった。どうせなら頭を使うよりも体を動かしたい。卓上時計を見ると夜の十時を少し過ぎていた。
――気晴らしにどこかに飲みにでも行くか。
城下街へ行けば居酒屋やバーくらいはあるだろう。有り難い事に〝アレス〟は公爵家の子息なのもあり金には困っていない。
資金の入っていた皮の袋をポケットに捩じ込んで、こっそりと執務室の窓から抜け出した。覚えたての風魔法で体を浮かせて二階から一階の地に降り立つ。警備隊をかわして外に出る。気配や足音を殺すのが得意で良かった。顔がバレないように持ち出してきた黒いフード付きのローブを頭からすっぽりと被ったまま、城下街にあった居酒屋っぽいバーに足を踏み入れる。
席に座ってメニューに目を通していく。アルコールの種類や料理名はよく分からなかったのもあり、適当に頼んで料理が届くのを待った。
「本当にちんけな店だな。もっと質の良いアルコール出せよ」
「申し訳ございませんが、うちは小さな飲み屋でして……、質の良いお飲み物は置いておりません」
「ああ? 客に口答えしてんじゃねえよ!」
「こっち来い、姉ちゃん」
「きゃっ!」
「困ります、お客様!」
店主らしき中肉中背の男が頭を下げていた。柄の悪そうな数人の男たちが周りの迷惑も顧みずに騒いでいた。
正直腹は立つが様子見をする。すぐ出て行く可能性も捨てきれなかったからだ。注文していた料理とアルコールが届いたのもあって、アルコールに口をつけた。上質のワインよりもよほど馴染み深い味がしている。
――ああーー、これこれ。
つまみが運ばれてきたのでフォークを手にする。アヒージョに似た食べ物で、どこか懐かしい味だったので気に入った。
――それにしてもああいう輩はどこの世界にでもいるもんなんだな。
蹴られたテーブルが壊れる音とワインボトルが落ちて割れる音が響く。先ほどよりも剣呑な空気が流れ始めていた。
「お客様、おやめくださいっ!」
——ああ、ムカつく。
良い気分で飲んでいるのを邪魔され頭に来た。今にも泣きそうに顔を歪めている従業員を見ているのも不愉快だ。席を立って男たちの元へ向かい、女を抱き寄せようとしている男の手首を掴んだ。
「女子供には優しくしろって習わなかったか? こういうのはセクハラって言うんだぜ?」
「セクハ……? 何言ってんだてめえ……、ぐっ」
風魔法で男三人を天井スレスレまで浮かせて思いっきり床に叩きつける。
「それとさっきからうるっせえんだよ。文句があるならとっとと帰れ。迷惑だ」
強かに腰を打ちつけたのか、腰を摩りながら男たちがこちらを睨んできた。
「最近魔法ってやつを覚えたもんでな。手加減が出来なかったら悪い」
炎を纏わりつかせた手で思いっきり殴り付けて、同時に発生させた風魔法で店の裏口を解放させた瞬間男を外に吹き飛ばす。周りにいる男たちの衣服に飛び火した。続いて追い討ちをかけるように火球を投げつける。
「あちぃー! コイツ魔法が使えるぞ!」
「裏口の川に飛び込め」
送り出すように突風を起こして男二人の体を吹き飛ばした。
「この野郎がっ」
残った男一人が背後から殴りかかってきたのを吹き飛ばそうとしたが、何処からともなく展開された防御魔法壁に包み込まれる。
――この魔法の波動……。
逡巡している間に男に逃げられそうになっていたので、慌てて言葉をかける。
「おい、食った分金払ってけ!」
風魔法で浮かせたまま逃亡を阻止しズボンの中を漁って財布を探す。意外と中身は入っていた。
「店主、幾らだ?」
「ご、五千八十八ミルです!」
「はいはい、じゃあ壊れた備品とワインボトルの代金、迷惑料も加算してこれな」
充分過ぎるくらいに多めに取ってその金をそのまま店主に渡す。財布は持ち主のポケットに戻しておいた。
「おら、置いてかれんぞ。お前も仲良く水浴びしてけよ」
仲間同様水浴びさせてやろうと、今度は浮かせたままの男を川まですっ飛ばしてやった。
「覚えとけよ!」
――はぁああ……、ウザ。
どの世界でも悪党の去り際のセリフは同じらしい。川から上がっても戻って来ない輩たちに満足した。
――これで邪魔されずにゆっくりアルコールが飲める。
またテーブルに戻って、新しいつまみとアルコールを注文していく。
「あの、先程はありがとうございました。今回で三度目でしたので、本当に困っていたんです。助かりました」
店主に頭を下げられる。アダリーや教師以外の人物とこういう会話するのは初めてだった。新鮮な気持ちなりどこか面映い。
「いや、いい。せっかくのアルコールが不味くなりそうで俺が不愉快だっただけだ。気にしないでくれ」
昔から女子ども、弱い者に手をあげる輩が嫌いだった。父に暴力を振るわれていた母を見て育ったのもあり、記憶に重なるのか嫌悪感が増す。
前世の見てくれは悪くなかったものの眼光が鋭く喧嘩慣れしていたのもあって、巻き込まれるように極道の世界に引き込まれた。けれど、はじめっから水と油。組には己が求めるモノも居場所もなかった。
それどころか嫌悪する対象そのもので、何度不正に取り立てられていた人たちをコッソリ逃したか分からない。それがバレて三ヶ月も絶たずに破門されたが、表の仕事にも己の居場所はどこにもなかった。
この世界は少し違う。屋敷の中は前世を思い出すくらいには窮屈なものの、外に出てしまえば開放感に満ち溢れていた。今日は一人で飲みにきて正解だった。気の置き所が出来た気がして嬉しく思える。
――何かちょっと落ち着いたかも。
穏やかな気分に浸りながら飲み直していく。ふと背後から熱視線を感じて振り返った。
「……」
見なければ良かったと後悔する。そこには、ヒラヒラと手を振りながら愛想をふりまく婚約者のオリバーがいたのでゲンナリした。
――やっぱりさっきの防御壁はコイツか。魔法の波動が似ていると思ったんだよな……。
先程の騒ぎに便乗して入り込んだのだろうが、易々と背後を取られていた事に腹が立つ。飲み込みかけたアルコールを一気に煽って二杯目を頼んだ。
「何してんだ、アンタ?」
「飲みに来たところだ。奇遇だね」
――なわけあるか。どうせどこからかつけてきたんだろが! いや、監視か?
どう贔屓目に見ても大衆居酒屋やバーに顔を出す男じゃない。
「愛しき妃に振られた上に冷たくされて傷心だったものでね。一人で飲みにきたんだ」
息を吐くように嘯いた男を半目で見つめる。オリバーは一人楽しそうに微笑みを浮かべたままだ。まだ何も注文していないらしい。勝手に席をこちらに移動するなり、同じようにアルコールを注文していた。
「アンタはこんなとこ来て安い酒を飲むより、家で高級ワインでも煽れば良いんじゃねえか?」
「私はそんなものより君に興味が出てきてしまってね。現在進行形でこうして観察している。実に興味深いよ、君は」
――珍獣じゃねえんだが……。
現代だとそういうのはストーカーって言うんだぜ? と思いながら、適当に「へえ」と返事する。唇にグラスを押し当てて、二杯目も一気に押し流す。溶けた氷で冷やされたアルコールが胃の中に落ちていった。
――あ? 何だこれ?
グニャリと視界が歪み目が回る。腕で支えながらテーブルの上に突っ伏して堪えた。
――まさか俺が酔った? は? たかが二杯で?
オリバーも目を瞬かせて唖然としている。
「自分の限界値も把握していないのか?」
「だまって、ろ」
悪態をついたものの同意見だ。
このアレスという名の体はアルコールに弱かったらしい。初めて知った。
アルコール二杯で潰れるとかあり得ない弱さだったのもあって、オリバーに文句の一つも言えない。日本にいた時はザルだっただけに、こんなにアルコールに弱い輩がいるとは思いもしていなかった。
「はい、帰るよ」
——くそ、ムカつく。
一人で動けなくてオリバーに背負われて店を出る。会計も全てオリバー任せとなり、悔しさで歯ぎしりしたくなった。けれどアルコールで頭の中がフワフワしていて、段々と気分が上向いていく。
「ちゃんと屋敷に運べよ、オリバー殿下」
「名前はちゃんと覚えていたのか」
「胡散臭いやつの名前は忘れねえ」
「ああ、そういう意味」
おんぶされながらケラケラ笑うと、オリバーもフッと軽く息を吐くのが分かった。
夜の冷えた空気が頬を撫でて気持ち良い。極端に音のない世界にオリバーの微かな靴音だけが響いている。
この男特有の足音をあまり立てない歩き方は嫌いじゃないかもしれない。似たもの同士だからだろうと思考を巡らせた。
「あの式の日、まさか読み取られるとは思わなかった。君は毒を盛られる前と、目が覚めてからでは随分と性格が変わってしまったな」
――ああ、やっぱ盛られてたのか。
あの嫌われ具合では当然か、と腑に落ちていく。
「前の方が良かったって? そりゃ、残念だったな」
質問には答えずそれだけを口にする。
「いや、私は今の君の方が断然興味深い。前も悪役令息なんて言われて、やけに冷めた表情をした青年ではあったけれど、今はその噂に貫禄とミステリアスさが加わったというか、正直別人といるみたいだ」
――マジで別人なんだけどな。
音にはせずに答えた。
「もう平気だ。降ろしてくれ。背負わせて悪かったな」
段々と酔いが覚めてきているのもあって、地に降ろして貰った。
——こんな時間まで何してんだ?
視界の右端にある広場ではピエロが風船を持ちながら屈んで何かをしていた。日中の片付けでもしているのだろうか。木箱の中に何かをせっせと詰めている。それを尻目に見やり、オリバーに視線を戻す。
「悪いな。マジで覚えてねえんだわ。アンタの好きだった妃とやらはもういねえよ。俺には生まれてから教会で目を覚ますまでの記憶が一切ない」
その間は本物のアレスが生きていたのだから当然だが。
己は最近体に憑依しただけにすぎない。いわゆる紛い物だ、と自ら揶揄する。
「構わないよ。元々面識がある程度だったし、ちょっとした事情があってね。結婚はいわゆる政略結婚てやつだ。互いに恋愛感情もなかった。それに毒を盛ったのは私だからね」
「は? はっあ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまい、口を押さえつける。暗闇の中で声が反響していった。
どこに自身の妃となる人物に毒を盛る男がいる? さすがに目を剥く。
「て言ったらどうする?」
内緒話でもするように唇に人差し指を当てて、オリバーが綺麗に笑んでみせる。
「アンタな……」
遊ばれたのだと瞬時に理解し、また一睨みした。本当に楽しそうにされたので若干引く。ドMの知り合いは要らない。
「悪いがお前の性癖には付き合ってられん」
そっぽ向いてため息を吐き出す。
「そんな趣味はないよ。どちらかというと逆だろうな」
「俺はMでもないからどちらにせよアンタはお断りだ」
腕でバツ印を描いて見せ、眉根を寄せた。
「はははっ、それは残念だな」
お忍びで来ていたの帰り道なのもあり、歩きながらやり取りしていく。こちらがどれだけ悪態をつこうと、オリバーは終始機嫌良く接してくる。
――コイツ、皇子……なんだよな?
言葉遣い一つで腹を立てても良い筈なのに、小言すら言わないのが気になった。
「俺にこんなぞんざいな態度で話しかけられて腹は立たないのか? アンタ一応この国の皇子様なんだろう?」
こちらとしては楽で良いが些か不可解ではある。
「アレスくんならいいよ。というよりも、アレスくんの皮を着た何処かの誰かさんって言った方が良かったかな?」
腰を落として間近で視線を絡ませられた。剣呑な空気を滲ませて、にっと笑みを浮かべられる。
「っ!」
一瞬、呼吸が止まった。
「あ、ようやく少しだけ本当の君に近づけた」
右手を取られて甲に口付けられる。一連の動作があまりにも自然だったせいで拒否出来なかった。
「何で……」
「追求はしない。私はアレスくんじゃなくて今の〝君〟を気に入っているからね。これからも君の事をたくさん知っていきたい。さっきのは結婚式でいっぱい食わされたお返しだ」
こちらが言いかけた言葉を攫うように言葉を被せたオリバーに、したり顔で笑みを浮かべられる。
胡散臭いどころか本当に腹黒タヌキでもあったらしい。目を細めて薄く笑みを浮かべる仕草は、悠然としながらも威厳と貫禄があり、上に立つ者そのものだった。
――伊達に皇子はしてないってわけか。
爽やかな顔をしながら狙った獲物には確実にトドメを刺すタイプだ。
「君とは絶対結婚してみせる。例えどんな手を使ってもね。逃がさない」
「せいぜい頑張るんだな。俺は誰も好きにならない」
いや、なれない。これまでに恋愛を経験した試しがなかった。
「私は例外になるよ、きっと」
どれだけ自信があれば自分だけが例外になると言えるのだろうか。理解に苦しむ。
「ポジティブお疲れ様。という事で俺は屋敷に戻る。嫌われてるし見つかったらまた面倒事になりそうだ。アンタんとこの城はこの道を右だろ? 残念。じゃあな。もう会いたくない」
ここでお別れだと言わんばかりに手を上げて一歩を踏み出したが、オリバーは足までもが長いらしい。こちらの二歩を一歩で潰して隣を陣取られた。
「私もこれから君の住む屋敷へ行く予定があるんだ」
時刻はもう深夜を回り午前一時を過ぎている。帰ったら着替えてそのまま寝たい。正直迷惑だと内心思いながら、無言でオリバーを見上げた。
「部屋は一緒で構わない」
「俺が構うんだが……貞操の危機しかないわ」
「きちんと式を終わらせるまでは手は出さない。まあ、一人で外出してゴロつきをのせる体力があれば、延期になった式も直ぐに出来そうだ」
「あー……、急に体調が悪くなってきた」
「ふふ、アレスくんは嘘つきだからな」
この男が自分を見張りに来ていた理由を今になって知る。
「前々から思っていたが、俺と結婚するより女と結婚した方が後継ぎも生まれるだろうしいいんじゃないか?」
尤もらしい疑問を口にした。
「私は皇子は皇子でも継承権は持っていない。後継ぎが求められているのは長兄の王太子殿下だけだ。私は三男。それに相手が男でも問題ない。君は知らないと思うけれど、この国は医療魔法に関して他の国の追随を許さない。君の腹の中に擬似的な子宮をつくるくらい造作もない事だ。私でも数秒あれば出来る」
「は? はあ? 男の体にも……、子宮をつくれるだと?」
ニッコリと微笑まれてしまった。
マズイ。非常にマズイ。このままでは性転換どころか本当に男のまま孕まされてしまう。ここにきてようやく危機感を覚えた。
「それに前アレスくんは、とーーーーっても悪名高い令息でね、もう他の女性や男性へのアプローチは出来ないよ? 散々婚約詐欺行為を働いたせいもあって、王族間や貴族間ではその名は知れ渡っている。しかもよりにもよって隣国でね。うちの国との不仲加減は聞いてるかな? それを引き取ったのが私だ。感謝して欲しいくらいの気持ちだったんだが、今は私の方が感謝している。まさか目を覚ました君がこんな面白い事になっているなんてね」
指を絡めて手を繋がれてしまう。意外と力も強くて振り解けなかった。
――アレスーーー! 何してんだお前!
心の中で叫んだ。以前の体の主に文句も言いたくなる。
それよりも今現在のこの状況だ。オリバーとの距離感がバグを起こしていて、どうして良いのか困っている。
「鳥肌が止まらないから手を離してくれ」
「アレスくんさ、私と結婚しておきなよ。悪いようにはしない」
見事なまでに無視された。ここまで華麗に無視されるといっそ清々しい。
「いや、既に男に手を繋がれて口説かれるという最悪な事態に陥っているぞ……」
「ここまで私を拒否するのはアレスくんぐらいだよ。ああ、今の君って意味ね。以前の君は私に嫌悪感を抱いてるような節があったからね」
それだけは間違えていない、と一人納得して深く頷く。
「そうなのか? つーか、前のアレスがここまでクズだったとはな。マジでねえわ。アンタはアンタで闇しか無さそうだしよ。俺の先行きは明るいどころか、お先真っ暗の間違いじゃねえのか?」
まさか嫌われものの悪役令息だったとは思いもしていなかった。異世界に来た直後から人生は詰んでいる。胸の内を悟らせないように、オリバーに悪態の言葉を吐き出した。
顔を上げてオリバーを見つめる。ムカつくくらいには見目はいい。もし己が女なら落ちてる。が、今は同性だ。
「それなりに権力も金もあるし、君の力にもなれる。協力者は要らないか?」
表向き第三皇子、裏稼業はたぶん暗殺部隊の首領か何か……。味方分子として置いておくには確かに美味しい存在ではある。本当に信用がおけるかどうか問われると否だし、孕ませられるのもお断りだ。でも保険として考えればオリバー以上に頼もしい存在はいないかもしれない。大人しく頷く。単に面倒になってきたというのもある。過去からの経験上、諦め癖があるのは否めない。
「まあ、いいわ。あと呼び方もアレスでいい。今はまだ慣れないけど、俺はこのままアレスとして生きて行かなきゃいけねえらしいからな。アンタの名前もオリバーて呼び捨てで構わないか?」
「もちろん。では婚約関係は続行で良かったかな?」
生きろと女はそう言って、この体の中に己を入れた。郷に入っては郷に従え。それなら先にこの世界での生き方を見つけるまでだ。
「とりあえずはそれでいいわ、もう。俺を妃にして後悔するなよ」
これ見よがしにハアと大きなため息をついてみせた。まあ、腹黒タヌキだとしても、気を張らずに自然体でいられる相手というのは有り難い。
生きていくと決めたとは言え、こんな異国に身一つで放り込まれて、OKしてしまったのは早計だったか、と考えてしまうのも否めないのも本当の気持ちだからだ。オリバーは確かにイラつくが素面で居られるのは利点だと思う。裏の部分についても気軽に聞けそうで良い。今はこの世界にいる誰よりも一緒にいるのが楽だ。
「こっちだ」
屋敷について玄関から入らずに部屋の窓から侵入しようとしたら、オリバーに腕を引かれて玄関から入る羽目になった。
「抜け出したのがバレるだろう⁉︎」
「私と居れば平気だ」
迷いもなく進み出したオリバーに手を引かれて屋敷内を闊歩していく。責任は遠慮なく押し付けてやろうと思考を巡らせた。
「オリバー殿下、アレス様とご一緒だったのですね」
「こんな時間に悪いね。アレスと散歩をしていたんだ」
「いえ。恐縮でございます。すぐにお部屋へご案内致しますのでこちらへどうぞ」
「いや、いいよ。今日からアレスの部屋で寝るから」
——は? 今日から?
「っ! ではクッションや枕のご用意を致します」
もう殆どの人が就寝している時間だ。従者三人で最小限の足音を響かせて己の寝室を出入りしていく。ベッドの上に枕やクッションが増えていくのを半目で見つめた。一緒に寝るのが当たり前だと思われているのが面白くない。ソファーで寝ればいいのに……と思ってしまったのは己だけの秘密だ。
「必要な家具などは朝食後すぐにお揃えいたします。執務室にも作業机をご用意致しますか?」
――いや、何でだよ。要らねえだろ。
「ああ、よろしく」
――当たり前のように微笑むな!
己の預かり知らぬ所で何かが進行している気がしてならない。従者が部屋の中から出て行くのを確認してから口を開いた。
「どういう事か説明しろ」
「実は結婚式が無事に済むまで私もここに住むように手配したんだ。あと、君の教育係も自らかって出た。要約すると、今この瞬間から私たちは常に一緒だという意味さ」
思考回路が停止した気がした。ブーツを脱がせたオリバーをベッドの上に転がして、間にクッション三つ並べてスペースを開けるなり身を横たえた。
「中々手厳しいな。もう少し体の接触はあっても良くないか?」
「俺は他人に触れられるが嫌いなんだよ。手を繋いだだけでも充分譲歩したんだと思ってくれると有り難い」
「なるほど。何かトラウマでも?」
「違う。単に誰かと一緒にいるのに慣れないだけだ。ガキの頃から一人だったからな。寝るぞ、おやすみ」
返事も待たずに目を閉じた。
次の日、己の寝室にオリバーの家具や荷物が運び込まれるのをベッドの上で虚無を抱えながら見つめていた。従者たちの目を盗み、声を殺しつつも肩を揺らして笑っているオリバーの脇腹に肘鉄を入れる。まるで待ってましたと言わんばかりに手を取られて指を絡ませられたので、全身に怖気が走った。
「離せ……この腹黒タヌキ」
「仕掛けてきたのはアレスだよ」
声を潜めて言葉のやり取りをする。上機嫌なのが伝わってきたのもあって毒気を抜かれた。
——コイツなら深追いせずに聞けるかな?
思い立ったが吉日。それとなくオリバーに問いかける。
「アンタさ、アレスの両親って知ってるか?」
「前アレスくん個人よりは公爵家の方がよっぽど交流があるね。アレスくんは本館へは全く足を運んでいなかったみたいだけど。気になる事でも?」
「アレスと両親は仲が悪かったのか?」
「いや、仲は悪くない。前アレスくんがある日突然連絡を絶った。でも本館はこの屋敷から遠くないよ。今度行ってみるか?」
「それは遠慮しておく。俺にとっては他人だからな」
横並びで座りながらコソコソと会話していく。オリバーが顔を覗き込んできた。
「ふーん。私は〝俺にとっては他人〟て言葉に唆られるね」
「言及しないんじゃなかったのか?」
「本当に面白い程につれないな、君は」
「諦めてくれ。元々こういう性格だ」
アレスが両親と不仲ではないと分かったが、連絡を取り合わない理由が分からなくて逡巡する。疑問が生じたからだ。
——アレスはどうして距離を取っていた?
アレスという人物像が掴めそうで掴めない。もっと探ってみたい気持ちが膨れ上がった。
「何でアレスは婚約破棄詐欺なんてしてたんだ?」
「さてね、どうしてだろう。そこには興味が湧かなかったから調べていないな。調べようか?」
「ああ」
「報酬として君は私に何をしてくれる?」
「アンタ昨日は協力するって言ってなかったか?」
怒気を含めた口調で言うと、オリバーがまた笑った。
「私は前アレスくんより君に興味があるからね。君に関しての情報が欲しい」
情報かと考える。それだけなら己としては構わなかった。
「俺はこの世界の人間じゃない。別の世界から来た。記憶喪失は誤魔化すための嘘だ。寝る前に言った話と合わせて先行投資はこれでいいか? ま、アンタが俺の話を信じればの話だけどな」
「その話は実に興味深い。俄然やる気が出てきたよ。探らせよう」
繋がれている手を持ち上げられて口付けられる。喉から引き攣った声が出ていく。それを聞いたオリバーがまた楽しそうに笑った。
***
オリバーが家に来てから二週間が経過していた。執務室までもが同部屋となり、オリバーの存在にも慣れつつある。さりげなく手を繋がれるのにも慣れてきている自分が悲しい。楽しそうにしているのはオリバーだけだ。
「そういえば前アレスくんの件だけど背後で隣国の王族が絡んでいる節がある」
「カザルカ国のか?」
オリバーが頷いて自身の顎に手を触れる。
「少し大事になりそうだ。もし今入手している情報が事実ならば裏稼業としての私が駆り出される」
一気にきな臭くなってきた。アレスとは一体どんな人物だったんだ? 想像が膨れ上がる。
「何か分かったのか?」
「簡単に言えばアレスくんの汚名は濡れ衣かもしれない。しかも脅されていた」
「は?」
眉間に力を込めて皺を寄せる。隣国の公爵家の子息の名誉を脅かすのは容易ではない筈。理由を考え「人質か?」と思い至った。
「もう少し詳しい事情を調べてみるとするよ」
「ああ」
「で、次の情報は何をくれる?」
この男も厄介なものだ。嘆息する。
「俺が唯一心の拠り所にしていたペットの名前はマル公って言うんだ。そいつを庇って死んだ」
「死んだ?」
「ああ。はい、今日はここまで」
話はそこで終わり、時計の秒針を刻む音とペンを紙に走らせる音が室内に流れていく。次の書類を手にして目を通した直後に天を仰いだ。
「広場で幻覚……? 正気か?」
最近の陳述書はオカルトめいていて仕事が捗らない。途端に脳がシャットダウンしたように動かなくなってしまい、机の上に上体を倒す。
「あー、無理無理無理。幻覚? 知るかよ。病なら医療魔法師を訪ねてくれ」
書類の山を見て早々に根を上げて叫んだ。民間の医療魔法師もたくさんいる。値段も安価で統一されていた筈だ。
「視点を変えてみればいい。ここ最近街中で幻覚についての妙な噂が流れていてね。その噂について言及されているのがこの書類たちだ。魔法か、実在するモノか、未知なる遭遇か、それとももっと別の要因か……アレスならこれをどうみる?」
オリバーからの声かけに視線を向ける。
「どのみちオカルトくさい。幻覚というか見間違いとか気のせいなんじゃねえのか?」
「その可能性もあるね。場所は以前行ったバーの帰りにあった広場付近だ。実体のない人物や魔獣のようなものを見るという人が多数見受けられるようになったそうだ。私も足を運んでみたが、私自身はそんなものは見なかった。となると、見える人と見ない人に分類されるって事だろう? こちらとしてはその違いを明確にしておきたい」
顎に手を当て俯く。オカルトじみた物は信じていない。けど、ここは魔法があるくらいだ。今までかつて見た事がない物がいてもおかしくはなかった。
「実態のないものか……もう一度アンタみたいに見に行ってみる価値はあるな。俺は見える可能性があるし」
「では私も再度行ってみるとしよう」
オリバーが微かに笑んで見せたのには腹が立つが、こういう調査系なら好きだ。考えるより体を動かすのは性に合っている。
オリバーと二人で城下街へ降りると、広場では前に見たピエロが風船を手にし、戯けて単調なステップを披露していた。
観客がやけに楽しそうにしていて、座り込んで手を叩いてまでピエロに魅入っている。いつも来ているのならもう飽きていてもおかしくない。毎回別の技を披露すると言うのならば話はわかるが。
——あれの何がそんなに面白いんだ?
一定の距離を空けて見ていても、決まった動作を繰り返すだけで、特に変わった様子は見受けられなかった。
「あのピエロっていつからいるんだ?」
「三ヶ月くらい前からだよ」
「この国ではピエロって珍しいのか?」
「全く。どうかしたのか?」
――なら、尚更おかしいだろう。子どもでも飽きがくる。
珍しくもない存在が毎日毎日同じ動作しか繰り返さないのに、この盛り上がり方は異様だ。アドレナリンを強制的に上げたような……。どうしても薬物を疑ってしまう。
――まさかな。
医療魔法が発達している国でも薬物が出回るものなのかは疑わしいところだ。気が付かれないようにチラチラと横目で追いかけていく。男数人に風船と一緒に何か白い紙に包まれたモノを渡しているのが分かって、オリバーの袖口を引いた。
「おい、この世界にもコカインやヘロイン、大麻、覚醒剤とかの危険薬物は存在しているのか?」
「全部あるな。だが、この国で出回っていると聞いた試しはない。今は医療でも用いていないよ。どうしてそう思ったのか聞かせてくれるか?」
「さっきピエロが男数人に白い包み紙を渡していた。俺の住んでいた世界の薬物の売買に酷似している。そうじゃなくともピエロが何かの取引をしているのは確かだ。密談って可能性もあるけどな。その妙な噂話が広まったのはいつからだ? ピエロが来てからじゃないのか?」
「調べてみよう」
オリバーが左手を上に翳すと、忍びの如く黒色のローブを頭からスッポリ被った男がどこからともなく現れ片膝をついた。
「あのピエロについて調べてくれないか? あと——」
オリバーからの指示をしばらく黙って聞いていた男は「かしこまりました」と言いまた姿を消した。以前オリバーが見せた魔法と同じだ。唖然と見つめる。
「何だそれ。姿を消す魔法もあるのか?」
「あるよ。正確には地点と地点を結んだ空間の間を移動するんだ。転移魔法という。影に潜む魔法もあるよ。さっきの男は現れるまで私の影に潜んでいた」
「へえ、便利そうだな」
今度教えて貰おうと意気込む。魔法というのは、これまでに一切関わり合いがなかっただけに実に興味深い。
他の業務もそうなのだが、興味がある事柄だけには物覚えも良くなる。胸の奥がむず痒くなって踊り出しそうなくらいには楽しい気持ちになってくるからだ。
「さっきの男は普段は隠密に私の警護をしているんだ」
「一応アンタ皇子だもんな」
「ははっ、そんな雑に私を扱ってくるのはアレスくらいだ」
腹に手を当ててオリバーが笑った。
その時、一台の馬車が通りかかって止まり、男が馬車から降りてきたかと思いきや荷台を開ける。そこから鉄格子がはめられた檻らしきものが見えた。
「オリバー、あれは何だ?」
「ああ、獣人が入れられているのだろう。どこかの貴族の奴隷用だ」
「は? 奴隷?」
目を瞠る。
「ほら、降りろ!」
「離せ! 僕は会わなきゃいけない人がいるから行きたくない!」
人間とは体の成長具合が違うだけかもしれないが、身長百センチにも満たない大きさだった。
「子ども?」
「いや、獣人はあの大きさで成人なんだよ。私たちとは体の作りも仕組みも違う」
オリバーと会話をしながら見ていると、商人と獣人もやり取りがエスカレートしてきていた。
「奴隷の癖に生意気だな! お前の主人はもう決まっている。さっさと来い!」
「嫌だ!」
首枷を引っ張られながら抵抗している獣人は、明らかに栄養が足りていない成りをしていた。
「アレス?」
オリバーからの声かけを無視して足早に男の元へと歩いていき、鎖に手を絡ませる。
「嫌がってんだろ。何してんだ?」
売買しようとしている男が引いている鎖を手元に引き寄せた。
「こ、これは公爵家のアレス様、お見苦しい所をお見せして申し訳ございません。この奴隷が言う事を聞かない為、つい声を張り上げてしまいました」
「勝手に連れてきたくせに! 僕はツカサ以外のとこへは行かない! 僕の主人はツカサだけっ! だから行かない!」
「訳わかんねえ事をほざくな!」
――ツカサ? 今ツカサって言ったのか?
獣人と呼ばれた男は薄汚れていて、ボロ切れのような上下一体型の衣服を着ていた。しば犬を連想させる三角の茶色の耳と尻尾が生えている。耳の先端と前髪らしき毛が白くなっているのが特徴的だ。
その姿はいつも家に餌をねだりにくる野良犬そのもので、瞬きもせずに見つめた。
「お前……もしかしてマル公?」
獣人と呼ばれていた男が弾かれたようにこちらを見る。かと思えば、大きな目を更に大きくしてジッと見つめてきた。その瞳が動揺を隠しきれずに揺れている。
「ツカサ……? え、本当にツカサ? 夢じゃない?」
「そうだ。夢じゃない。久しぶりにその名で呼ばれたな。お前もこの世界に来ていたのか」
「女神さまがツカサのいる世界に飛ばしてくれたんだ。ツカサ会いたかった! ごめんなさいっ、僕のせいで死なせちゃってごめんなさい」
泣きながら思いっきり抱きつかれたので、その頭を撫でた。丸っこい小さな頭が愛おしい。丸っこいという言葉を捩り、マル公て名前をつけた。
「俺が勝手にやっただけだ。気にするな」
「この子は何だ? ツカサというのは?」
感動の再会に浸っているとオリバーに引き剥がされ、その間に割って入られる。
「アレス、私に説明を」
声に怒気を孕んでいる気がするのは気のせいだろうか……。
その一方でマル公も不服そうに頬を膨らませていた。そうしていると更に幼く見える。
「久しぶりにツカサに会えたのにー!」
「あ……あのすみません。オリバー殿下、アレス様、この獣人とお知り合いなのですか?」
男はさっきまでの態度を翻し、オロオロとしながらマル公とオリバーを交互に見やっている。
「知らないな。連れて行け」
――こら、このクソ皇子……。
急に向きになって突っかかってくるオリバーに驚きを隠せない。
「かしこまりました。ほら、こっちに来い!」
関係ないと分かった途端に強気になった男がマル公の首輪を引く。それをまた自分のところに引き寄せた。
「待て、俺の知り合いだ。コイツ幾らなんだ?」
「アレス様?」
「で、いくらだと聞いている」
「ひゃ、百五十万ミルでございます!」
――高っ、奴隷てそんなにするのか?
さすがに今は持ち合わせがない。
「オリバー……」
チラッと視線を向けると冷たい笑顔を張り付けた鉄仮面と視線が絡んだ。
「は?」
今までかつて聞いた事もない地を這うような声が響いた。
――やばい、なんか知らないが怒ってる。
それでも引くわけにもいかずにオリバーを見上げる。
「頼む。金は後でちゃんと返す。その代わりに何でもやる。俺に関する情報提供だって何でもだ」
オリバーの鉄仮面が少しだけ剥がれた気がして安堵の吐息を漏らす。
「ふーん、なんでも……?」
オリバーが嫌な笑みを浮かべた。
「ああ、何でもだ」
「なら、いいよ。忘れなるな。そこの商人、その小汚い犬を買い取りたい。今なら言い値の二倍出す。どうだ?」
「え、二倍? 言い値で二倍ですか? それなら……はい、このままお引き取りください。伯爵様へは別の奴隷を引き渡しますので」
「契約成立だな。請求書は私宛てで送ってくれ」
「承知いたしました!」
商人の男がそそくさと馬車に乗り込み去っていく。動物の姿になったマル公が以前の様に足のまわりをグルグルと回り絡みついてきた。しゃがみ込んで頭を撫でる。
「で、はじめに聞かせて貰おうか。そのツカサというのは?」
「ああ、それは〝今のアレス〟となる前の俺の本当の名前だ。正確には上野ツカサ。以前別の世界から来たと話しただろ? 俺とマル公はその別世界で生きていた。本物のアレスは毒で仮死状態だった時に、自分は完全に死んだものだと思い込んで昇天してしまったらしい。俺は事故で死んだ後、自称神と名乗る女にアレスの体へと憑依させられたんだよ。気がついたらアンタとの結婚式だったという流れだ」
日本でマル公を庇って車に撥ねられて死んだ事、自称神とやらにこの体に入って残りの寿命を全うしろと言われた事も全て説明した。
「というわけで、本物のアレスの代わりに俺が今アレスとして生きている」
信じられない、という顔をしていたオリバーだったが、どこか腑に落ちる部分もあったようだ。やがて事態を飲み込んだような表情へと変わっていく。
「でもまだ分からないな。何故私の裏稼業を当てられた?」
「ああ、それはツカサとして生きていた時に俺も裏側の仕事をしていたからだ。俺はガキん頃からはみ出しものだったからな。その時にお前と同じ雰囲気を持つ暗殺者に会った事がある。あいつらは良い身なりをしていても独特な空気感というか直感で感じる匂いがあるからな。お前からは同じ匂いがした」
「なるほど」
「内容については突っ込まない。お互いの為に知らない方がいい事もある。仕事なら仕方ない部分もあるし。綺麗ごとだけじゃ生きていけないのは痛いほど良く分かっている」
わしゃわしゃと自分の髪の毛をかき回していると、反対側の手を取られて繋がれる。何をしているんだ、と文句を言う為にオリバーを見上げると触れるだけの軽い口付けが降ってきた。
「お前こういうのやめろ。恥ずかしくないのか……」
「全く。それに、私たちは尚更お似合いの夫夫だなと思っただけだ」
「は?」
――裏稼業繋がりでか?
何も言えずにオリバーを見上げたままポカンとしていると、反対側の腕を引かれた。
「ツカサは僕の! 離せ! ツカサが困ってる!」
噛み付かんばかりに声を上げたマル公がオリバーを睨んでいる。意外と力が強くて、思わずよろめいた。
「また売り飛ばされたくなければ、バカ犬は黙っていてくれないか。〝ツカサ〟は私の妃だ」
オリバーがマル公の頭を掴んで揺らす。
「おい、お前ら仲良くしろ……」
「なんかこの人は敵の気がする」
「この犬を見ていると何故か腹が立つから断る」
同時に叫ばれた。息が合ってるのか合わないのかさっぱりわからない。頭痛の種が増えた気がして、目頭を揉み込んだ。
その時だった。空気が揺れた気がしてそちらに視線を向けると、オリバーの横に従者らしき男が現れ片膝をついた。
「オリバー様の仰られた通り、時期が重なっております。あと……」
言いかけてやめた男にオリバーが「良い。話せ」と続ける。
「見間違いかとは思いますが、広場近くの路地裏でそのピエロとアレス様が話しているのを見かけたという証言もあります」
――時期的に俺というか前アレスだな。
一気に雲行きが怪しくなってきたのもあり知れず舌打ちしていた。
「そうか。ご苦労だったね」
またその姿が音もなくかき消えていく。こちらまで聞こえていたのもあって、逡巡する。
「やっぱ危険薬物じゃないか? 薬で幻覚を見ているとか」
「可能性が高くなってきたな。私は薬物に手を出した事がないから、幻覚は見えなくて当たり前だったのだろう。とりあえずこのまま張り込んでピエロが再度誰かに薬を渡すのを待ち、現場を押さえよう」
オリバーからの問いかけに頷く。
三ヶ月も居続けたのならまだいるだろうと思っていたのが災いした。先程の騒ぎで何かを悟ったのか、ピエロが忽然と姿を消していたからだ。
「ああ、くそ。やられた!」
広場にピエロが居なくなり、男女数人がウロウロと誰かを探すように彷徨っていた。
「どこだ? ピエロはどこへ行った?」
その内の一人の肩を掴んで顔を合わせたが、視線が虚で瞳孔が開き、全く絡まない。
「ピエロ……ピエ……ロ」
やはり薬物だ。明らかに強い離脱症状が出ていた。
しかしこの状況を齎せた張本人がいない。小さく舌打ちすると、中肉中背の男に腕を取られた。力強く引き寄せられてしまい、正面から向き合う形になる。
「ピエロ……返せ、早く夢の薬をっ」
「バカ野郎が! あんなもん夢の薬でも何でもねえよ!」
「気安く触れるな」
オリバーに引き剥がされて、背中に匿われる。
「オリバー殿下、全員眠らせて収監施設に強制送還させますか?」
再度姿を現した従者が言った。
「ああ、頼んだ」
「かしこまりました」
楽しそうに歌って踊る中年男性がいて、楽しそうに何やら呟いている。短いスパンでアドレナリンを活性化させられているその様子から鑑みるに、コカインや大麻に近いものだと推測出来る。
それにしても誰が何の目的で行っていたのかがいまいちよく分からない。単なる金稼ぎか? それなら急に撤収する理由もない。頭の中は様々な出来事でたくさんだ。
「コイツら、何か変な匂いする」
「変な匂い?」
マル公が両手で自身の鼻を押さえていた。犬の嗅覚は人間の数千倍から数億倍ともいわれているからそのせいだろう。前の世界では麻薬犬もいたくらいだ。
「恐らくは薬物特有の匂いだ。動物と一緒で獣人も鼻がいい」
オリバーが淡々と説明した。その間に広場にいた全員の姿が瞬きをする間に消える。どうやら強制送還に成功したらしい。
ピエロ本人がここに居ないとなるともうどうしようもない。マル公を連れてオリバーと一緒に一旦屋敷へと戻った。
「さて、と」
マル公に視線を落とす。薄汚れていて髪の毛も毛玉が出来ている。先に風呂に入れようと、湯船にお湯を張って準備を終え風呂場に連れて行った。
「嫌だー!」
「こーら、暴れるな。お前は汚れすぎだからちゃんと綺麗にしないと駄目だ。目は閉じてろよ」
マル公を湯船に入れ、たっぷりソープをつけてガシガシと洗っていく。毛玉を丁寧に鋏で切って洗い流せば、元々の見目の良さも相まってどこかの貴族の子息にも見えた。
前アレスが幼少期に着用していた服を着せた後で爪も整えていく。その後で自身もシャワーを浴びた。
「今度は私が洗ってあげようか?」
――いや、いつから居たんだよアンタ。
既に裸で準備万端にしていたオリバーが両手を広げていたので浴室の扉を思いっきり閉める。
「少しくらい主人になる私にサービスしても良くないか?」
大人しく一人でシャワーを浴びてきたオリバーが拗ねたようにそう言ってくっついてきた。
――まさかとは思うが、マル公に妬いてるのか?
抱きつかれたり手を繋がれるのには慣れてきていたのでそのまま放置する。
「今この時点で十分サービスしているぞ? 俺は他人に触られるのが好きじゃないと言っただろ。拒まずに受け入れているのはアンタかマル公くらいだ」
人の股ぐらでスヤスヤと寝始めているマル公をベッド下に捨てたオリバーに、正面から抱きしめられて横になる。マル公はそのまま床で寝てしまった。
「ならその特権を堪能させてくれ」
重なる唇が角度を変えるにつれて深くなろうとしていたので、引き剥がす。
「式が終わるまで手は出さないんじゃなかったか?」
「はあああ、前言撤回したい」
「ザマァねえな」
軽く息を吐いて笑う。
「こんなに誰かに触れたいと思ったのは初めてだ」
返答に少し困った。似たような感情を抱き始めている自分がいて、全否定出来ないからだ。拒絶していた筈がいつの間にか手懐けられている気がして面白くない。けど何かしらの学びがあるのはオリバーが屋敷に来てからだ。悪い気はしなくなっている己に気がつき複雑な思い抱えている。
「男の嫁なんて嫌だとは思ってたけど、今はアンタの隣なら悪くないかもと思い始めている。気取らなくていいから……居心地いい」
「え?」
「相棒、みたいで……こんな気持ち初めてだ」
体温が心地よくて目を閉じると、程よい睡魔に襲われた。
朝起きたら何故かオリバーが視線を合わせてくれなくなっていた。
「オリバー、何かあったのか?」
「…………別に」
思い出せる限りの記憶を引っ張り出してみたが、何がオリバーを不機嫌にさせたのかが分からない。いや、不機嫌というよりも挙動不審な行為が目立つ。
昨日までは普通だったので、寝る前までのやり取りなのだろうが、これといって思い当たる記憶がなくて、朝から思考回路をフル回転させている。
「ああ、忘れるところだったね。その犬っころのお礼は、一日一回はツカサの方から私に甘える事でいいよ」
「アンタな……」
「何でもするんだろう?」
「あー、分かったよ」
鼻歌でも歌いそうなくらいに上機嫌になったオリバーが書類に視線を戻した。
「ツカサー、何して遊ぶ?」
机の周りをぐるぐる回りながらマル公がはしゃいでいた。
「マル公、俺はもうツカサじゃないぞ。ツカサは死んだからな。今はアレスって名前だ。だからアレスって呼んでくれ」
「分かったー!」
小さな子どもみたいに両手をあげて微笑む様は見ていて和む。
「アレス!」
「そうそう。それでいい。俺は仕事があるから、遊ぶのは終わったらな」
「分かったー!」
獣人族というのは動物としての本能も持ち合わせているのか、球体のものを見つけてくると動物の見た目に変化して一人でも遊び始める。こうしていると本物の豆柴にしか見えなくて思わず笑った。
「奴隷の分際でアレス様の私物に手をつけるなど言語道断! 即刻出ていけ!」
部屋に紅茶を運んできた従者が嫌悪感を露わにして声を荒げたのを見て、顔を顰めた。
「ちょっと待て。マル公は奴隷じゃない。俺の大切な友人だ。大切に扱わずに今度そんな口を聞いてみろ、出ていくのはアンタの方になるぞ」
正面から思いっきり睨みつける。
「しかし!」
「その犬は私がアレスに買い与えたものだ。アレスがそう言うのならそれなりの扱いに変えてくれないか。普通はどうとか、他所ではどうとか関係ない。今後、アレスの言葉は私の言葉だと思ってくれて構わないよ」
オリバー直々の言葉を貰った従者はどこか釈然としない様子だったが、暫しの沈黙をおいて渋々頭を下げた。
「大変……失礼いたしました」
お茶を入れ早々と部屋を後にした従者の後ろ姿を視線で追う。何かしら仕掛けてくるような様子は見受けられなかったので安堵した。
「なあ、オリバー。俺が入る前のアレスは何で毒を盛られたんだと思う?」
率直に意見を求める。
「前のアレスくんは色んなところから恨みを買いまくっていたみたいだからね。恐喝や詐欺、搾取……話すとキリがないくらいにはたくさんあった。今の君とは大違いだよ。それこそ薬をやってるのかと疑われたくらいには。だからこそ戸惑っている人間がまだこの屋敷内に多いんじゃないかな? まあ、今は別の疑惑が出てきているが」
「本当だったのならマジでクズだったってわけか……」
最悪だな。嫌悪してきた類いの人物の中に入るなど皮肉なものである。冗談抜きで頭が痛くなってきた。
「ツカサ……あ。アレスは優しいよ?」
慰めようとしていたのかマル公が近くまで寄ってきて、首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「ありがとな」
「ふふふっ」
マル公の頭を撫でてやってから書類整理に取り掛かる。昨日のピエロの件はどうするかと考え、オリバーに視線を向けた。
「この陳述書、あのピエロと関係あるか結局分からずじまいになっただろ? どうする?」
確認済み、もしくは解決済みの署名と判子を押すべきか悩む。
「一旦保留にしておくといいよ」
「分かった」
書類が混ざらないように左上に纏めて置いておき、別の書類へと目を通す。
昼食、夕食と終わらせ、オリバーに質問しながら進めていくと、授業を受けるよりよっぽど頭に入りやすくて、溜まっていた書類全て片付けられた。
「こんなに頭に入ってきたのは初めてだ」
「アレスは元々要領がいいんだろう。今は単に苦手意識を持ちすぎなだけだと思うね」
足元でマル公が丸まって寝ていたので、タオルケットを取ってきてかける。
「何か小腹空いたな」
「またあのバーでも行ってみるか?」
「それ、いいな」
「アレス。分かっているとは思うけど、君が飲むアルコールは一杯までだ」
「はいはい」
項垂れる。言いたい事は分かるので大人しく頷いた。どうせなら前世みたいにザルが良かった。
二人で窓から抜け出して気配を断ちながら黒いフード付きのローブを羽織る。目の前に居るはずなのに気を抜くとオリバーを見失ってしまう。
――気配を消すのも足音を消すのも秀逸だな。
感心していると、振り返ったオリバーと視線が絡んだ。
「アンタって結局何? 暗殺者なのか?」
「まあ、その枠だろうね。国家にとっての危険人物を除外する暗殺専門機動部隊の統率者だから」
「それ俺に話して良かったのか?」
「秘密を抱えてるのはお互い様じゃないか」
「確かにそうだけど……」
話していると以前行ったバーに辿り着いた。
しかし、どこか様子がおかしい。窓ガラスは全て破られ客が一人もいない。入り口の扉も壊されていて、閉まらずに中の様子が窺えた。内部はもっと悲惨で、椅子やテーブルが壊れていてぐちゃぐちゃだ。
「何があった?」
入り口から顔を覗かせて窺うと店主と目が合った。酷く暴行を受けた形跡があり、沸々と怒りが湧いてくる。
「実は前のごろつきが仲間をたくさん引き連れてやってきまして……。私が至らないばかりに、従業員も娘も連れて行かれました」
肩を震わせて脱力し、涙ながらに説明された。
「アイツらの行きそうな場所は分かるか?」
「サナ山中腹にある洞窟を根城にしていると過去に聞いた事ならあります」
「オリバー、俺も抱えて跳べるか?」
「アレスが望むなら」
「頼む」
「私に捕まっててくれるかい?」
「あの、でも、かなりの人数が……」
安心させるように、にっと笑顔を見せる。
「俺、喧嘩は強い方なんだわ。大丈夫。従業員も娘さんも絶対取り戻してくるから」
オリバーの首に両腕を絡めて抱きついた瞬間、周りが虹色に煌めいて、やがて銀を溶かして混ぜ合わせたような景色に変わった。かと思えば見知らぬ洞窟内にいて、初めての経験だったのもあって目を瞬かせる。
――何だこれ、思ってた以上に便利だな。
時間にして数秒だ。まさかこんな短時間で移動できるとは思わなくて驚きを隠せない。
男たちの横には、殴られた痕のように頬を腫らした店員がいて、恐怖で身を震わせていた。
「な、お前らこの前の!」
「よう、お痛がすぎるんじゃねえか? そこの従業員と店主の娘は返して貰おうか」
極道をしていた時代にしていた表情でメンチを切ってやれば、数名が後ずさって悲鳴を上げた。
「俺はな、手前らみたいな卑怯者のクズが何より嫌いでな。特に弱い者に手を挙げる奴には手加減なんてしねえぞ?」
「と、うちの姫が言ってる。私も手加減しないから悪しからず」
——誰が姫だコラ!
そこからは乱闘になった。アレスの体では力負けするのもあって通常の攻撃に風、火、水といった魔法を組み合わせていく。不意を突かれて真横から攻撃を喰らいそうになったのを、オリバーが防御壁を張ってくれて難を逃れた。
――これいいかもしれない。
「オリバー!」
「分かっている」
オリバーが二人の周辺、従業員と娘に防御壁を張っていく。その瞬間を見計らい、風魔法をまとわりつかせた攻撃全弾を四方八方へと飛ばした。一つ一つが拳となって男たちにぶつかる。その攻撃に合わせて、オリバーが威力を増幅させていきとどめを刺す。隣に立つというより、背中合わせという位置に心が踊った。
相手をほぼ全滅させるまで然程時間は要しなかった。ここまでくると楽しくなってくる。
――誰かに背中を預けられるのって良いわ。
生まれて初めての経験だったのもあり、腹の底から笑いが溢れてくる。
「意外と俺ら気が合うな」
「面白いくらいに」
二人して笑った。
うめき声をあげた統領らしき男に近づいて胸ぐらを掴み上げる。
「今度あの店の関係者に手を出してみろ。今度はその命を刈り取りに行くぞ」
「は、はぃいいいい!」
これだけ力の差を歴然と見せつけ脅しておけば大丈夫だろう。
「オリバー、傷を治す魔法ってどうやるんだ?」
「あれは聖魔法を扱えないと使えない。アレスが聖属性の魔法を使えるとは聞いた事がない」
「そうか。悪いな、俺では傷は治せないみたいだ」
「気にしないでください。その内治りますから」
オリバーが聖魔法という名の治癒を使えるのは秘密らしい。
「なあ、四人で転移って出来るか?」
「アレスが後でサービスしてくれるならね」
――いかがわしい言い方やめろ。
半目で見つめた後で、機嫌良さそうなオリバーに「分かった」と渋々返事をする。一瞬にして視界が変わり、店に戻ってきていた。そこでハタと気がつく。
「ちょっと待て……抱きつかなくても出来るんじゃねえか」
「ははは、ちょっとした遊びだよ」
行く時に抱きつかされたのはオリバーの嘘だったと知り、無言で軽くその腹に拳を叩き込む。
「まさか本気にするとは思わなかったんだ」
「腹立つわー」
その横をすり抜けて二人が店主に駆け寄って行く。
「お前たちっ、無事だったか!」
テーブル椅子に腰掛けていた店主が勢いよく立ち上がった。
「お父さん」「店主……っ」
涙ながらに三人で抱き合い、無事を分かち合っている。
そこでようやく違和感に気がついた。めちゃくちゃに壊されていた店が元通りになっていたからだ。
「あれ? 店直ってる」
「僕がやったんだよ」
「凄いなマル公……て何でここに?」
「もー! 僕だけ置いて行くなんて酷いよ!」
「悪い悪い、お前寝てたから」
苦笑混じりにマル公を宥める。
「アレスの匂い辿ってきたらこの店に着いて、アレスは? て聞いたらオリバーと一緒にごろつきのとこに行ったって言うし。流石に転移魔法は追えないよ。大人しく待ってる事にしたんだけど、店ボロボロで見てられないし、僕、再生って魔法使えるからそれでお店全部直した!」
隣でオリバーが息を呑んだのが分かった。
「さ、いせい?」
「うん、女神さまが能力をくれたんだよ」
「そうなのか。あの女俺には何もくれなかったぞ。でもエライぞマル公」
頭を撫で回すとマル公が嬉しそうに笑って尻尾を振り乱した。
――エコ贔屓とかと言ってた割に、俺には何もくれないってどうなんだ?
自称神に対して若干イラッとする。神妙な面持ちで黙ってしまったオリバーに気がつき視線を向けた。
「再生てもしかして貴重な魔法なのか?」
答えを仰ぐとオリバーが自身の顎に触れながら口を開く。
「貴重なんてもんじゃないな。その魔法は今の聖女でも不可能だ」
「マル公、その能力を使っている時誰かに見られたか?」
もし外部に知られるとマル公は狙われる可能性もあって目を細める。
「店主くらいだよ。店の中から隠れて使ってたから」
「それならいい。今後は俺かオリバー以外の前では使うな」
何となく出た自らの言葉を頭の中で反芻して、額に手をやる。
――いや、待て。何で今オリバーもメンツに入れた……?
自分で思っていた以上にオリバーを受け入れている事実を知り、勘弁してくれと内心突っ込む。オリバーも気がついたようで、ニヤニヤと笑みを浮かべながら見てきた。
「私も信頼のおけるメンバーに入れてくれたのは嬉しいな。アレスが自ら妃に志願してくるのも時間の問題かな?」
「誰が志願するかよ……」
自信がない。尻すぼみに言葉が消えて行く。
「僕、皆の怪我を治したいんだけど良かった?」
「ん、ああ。それは仕方ないからいいよ。頼んだ」
「うん!」
見られないように店の中に全員で入り、マル公が両手をかざす。見る間に全員の怪我が治り、それどころか疲労感すら無くなったと皆大喜びしていた。
「へえ、すげえな!」
効果が治癒とも段違いだ。
「本当に何とお礼をしたらいいものか。何から何までありがとうございます」
「ああ、良いよ。俺らが勝手にやった事だからな。それより一杯だけ飲ませてくれ」
「どうぞどうぞ! ツマミもお出ししますのでお掛けになってお待ちください」
店には己らしか客はいなかったのもあって、それからは皆で喋りながらの飲み会が始まった。
***
ピエロが姿を消した直後から、離脱症状で幻覚を見始める人が多発した。
これはもう間違いないだろう。保留にしていた書類も全て薬物による離脱症状であると記載して処理していく。オリバーの力も借りてあのピエロの事を探ってみたが、これといった正体は掴めずにいた。
夜しか外に出た試しがないので、昼間にオリバーとマル公を連れて外出してみた。ちょうど広場付近にきた時だった。怒りに顔を歪めた男と視線が絡む。
――前アレスの知り合いか?
「見つけた! お前っ、あんな訳わかんない薬ばら撒きやがって!」
怒鳴り声と共に飛んできた石をオリバーが代わりに受け止める。投げた相手を確認すると、まだ成人して間もないくらいの青年が立っていた。犬の姿のままマル公が威嚇するように唸り声をあげて吠えまくる。
「どうして俺なんだ?」
「あのピエロを呼んだのはお前だろう! オレはちゃんと見てたし話も聞いてた! 何かの荷物を渡すとこだって見てたから知ってる! お前だった!」
――前アレスが薬にも関わってた?
真一文字に唇を引き結ぶ。アレス自身についてはオリバーから話を聞いてはいたが、誰かから直接苦言を呈されもしなかったので、どこか他人事のように感じていた。しかしこうして感情剥き出しで攻撃されると重みが違ってくる。
「その中身が薬だとちゃんと確認はしたか?」
オリバーが問いかけた。
「してないけど……。でもその直後にあの薬は流行り出した。コイツとしか思えない!」
「それだと状況証拠だけだ。物的証拠にはならないな」
「でも!」
「もう、やめろ。ほら帰るぞ」
何も言えなくて黙ったままでいると、兄弟らしき人物が走ってきて青年を連れ去って行く。
「なあ、オリバー。俺……どうしたら良い? もしあの男の言ってた事が本当なら俺はこの国に居ない方が良いんじゃないか?」
前アレスの記憶が無いのが、いや、存在自体が疎ましく感じ始めていた。
「君は私の妃だからこの国から出られないよ。ほら、とりあえずもう帰ろう。頭を切り替える為に休憩した方が良い」
「ああ」
何もする気になれずに三人で公爵邸へと戻った。
「オリバー」
名を呼ぶとヨシヨシと頭を撫でられる。
今日の分の書類整理は全て済んだので、借金代わりに要求された「俺からオリバーに甘える事」を自分から望んで実行しようとしていた。
ソファーに腰掛けているオリバーの上に正面向きで跨って座り、肩に額を預ける。オリバーの機嫌が一番良くなる方法を選んだ。
マル公はつい先日用意した大きめの籠付きクッションの上で、獣の姿でおとなしく寝ている。
「オリバー……魔法を教えてくれ」
「これが終わったらいいよ」
「何見てるんだ?」
一緒に見ようと体を傾けて背後の本棚にある本に手をついた時だった。ガコン、と何かがはまる音がして体がソファーから滑り落ちていく。
「うわ!」
「っ」
傾いたソファーから二人とも落とされ、すぐに別の部屋へと変わった。落ちた場所は簡易的ではあるが、柔らかなベッドの上だったので助かった。
「何だここ。もしかして隠し部屋?」
「そうみたいだね。アレスの部屋にこんな部屋があるなんて知らなかったな」
「俺も初めて知った」
仄暗い室内なので、周りが見えない。オリバーが魔法で室内灯をいくつかつけていった。
そこは六畳一間くらいの大きさで見た限りではこのベッドと木製の机しかない。その上に置かれてある白い粉を見て舌打ちする。
――アイツ、製造から絡んでやがったのか!
「見ろ、オリバー」
オリバーが白い粉に指を当てて軽く舐めた。
「これは見つかるとちょっとまずいな」
「コカインか?」
「間違いなく」
顎に手を当てて気難しい表情をしたオリバーが何事か思案している。
「ここまで来ると、言っちゃ悪いがアレスが毒殺された理由が分かるわ。なのになんであの自称神とやらは俺をアレスとして生き返らせたんだ? そのままにしておけば死んでただろうに俺は……、んぅ!」
途中で口付けられて話せなくなってしまった。一通り口付けを交わした後にオリバーが言った。
「私は君に会えて良かったと思っている。そんな風に言うのはやめてくれないか?」
「だけど!」
反論する度に唇は唇で閉ざされてしまう。
「オリバー……俺は」
段々と言葉は弱々しくなっていった。
この世界へ来た理由を見出せない。生きろと言われても日本にいた時以上に過酷な道を歩まされようとしている。ここまで来ると流石に心が折れそうだ。
「君がこの世界へ来てくれて良かったと私は心から思っている」
「そんな事を言うのは……、オリバーくらいだ。ツカサだった時からそうだった。俺はどこへ行っても要らない人間なんだよ」
前世でもはみ出しもの。まともな環境で育ってもいない。集まってくるのは同じようなはみ出しものだった。
それでも自分で掲げていた信念だけはあった。女と子どもには手をあげない。薬なんてもっての外だ。なのに現状はどうだ?
この世界へ来てからは〝アレス〟という前人格に悉く壊されている。
この世界にきた事を初めて後悔していた。
沈んだ気持ちに比例するかのように空気さえ重く感じて、その場にへたり込む。かろうじて持ち上げた右手で、オリバーのズボンの裾を力無く掴んだ。
「悪いが、今から約束は破らせて貰う」
「……」
抱き上げられてベッドの上に寝かせられる。されるがままに目を閉じていた。
「ツカサ、このまま進めても良かったか?」
以前の名前で呼び、こんな時まで気遣ってくるオリバーの優しさが身に沁みて、その手を掴んで初めて自分から口付ける。
「…………いい」
ただ許されたかった。ここに居ていいと、必要だと誰かに言って欲しくて堪らなかった。
オリバーなら言ってくれる気がして、許してくれる気がして自ら縋りついた。
アレスという人物を知れば知るほど、本当に自分がやったみたいな気がして嫌になってくる。
目の前の存在を引き寄せて、自ら望んでオリバーを受け入れた。一度受け入れてしまえば、待っていたのは逃げ出したくなるくらいの快楽と、離れがたくなるくらいの心地良い体温で……時間も忘れて何度も何度も飽きるほどに体を重ね続けた。
「私には君が必要だ〝ツカサ〟。だから目を覚ました〝アレス〟が君で良かった。君の事は私が命を賭けても絶対守ると誓う」
その言葉が単に今だけの救済処置的なものだとしても心が潤ったのは本当の事で、あまりにも単純な自分に何も言えなくなった。
無言を貫いていたのに、不意に泣きたくなって、服を着るふりをして顔を隠す。
「……恥ずかしい、やつ」
無理やり笑って誤魔化した。
いつまでもここにいる訳にはいかない。
見つけてしまった〝秘密〟もこのままには出来ず、どうすべきか考える。
「あの薬は証拠隠滅しよう」
「アンタ皇子だろ。バレたら問題になるんじゃねえのか?」
「なるね。そこも黙らせるよ。ツカサとの初めての場所を壊すのは勿体ないからな。この薬物だけをどうにかすればいい」
「アンタな……さっきからちょくちょく挟み込んで来る甘いセリフってわざとだろ」
思い出させないで欲しい。顔ごと視線を逸らすと、いつも自分でやる時みたいにぐしゃぐしゃに髪の毛をかき回される。
「ツカサ、体は痛くないか? ツラいならもう一度治癒かけるけど?」
「……平気だ。それに名前もアレスでいい。その前に俺で遊ぶのをやめろ」
「あまりにもウブな反応をするから面白くてな」
「おい……」
気恥ずかしくなってきて、逸らした筈の視線までもが泳ぐ。オリバーが言った通りになったのは少しだけ悔しく思う。
「君が望むなら、アレスと呼ぼう。ただベッドの上でだけは好きに呼ばせてくれ」
「だからそういうのやめろ……っ」
向き直って言い返すとその口は唇で閉ざされた。
「私は本気で言ってるんだけどな」
「も~、わかったっての! 好きに呼んでくれ」
話を蒸し返され、顔に熱がこもった。話を変えたくて口を開く。
「前アレスは薬物の製造から関わっているのは明らかだ。となると、どこかに取引先との密書やら何かしらの証拠があると見ていいんじゃないか? でもこの部屋には薬物以外は何もない。製造するだけの部屋って感じだ。ならどこにある?」
この世界には携帯端末などの機械がない。やり取りするなら手紙か何かだろうと睨んだ。
「前アレスくんの部屋か……」
「だろうな。もしかしたら今まで俺が気づかなかっただけで、密売人たちとも接触していた可能性もある。石を投げてきた男も俺が呼んだって言ってたしな。明日、朝から広場近辺の路地裏を彷徨いてみようと思う」
何かしらの接触があれば僥倖。なくても不安材料が消えるだけなので問題ない。
「可能性は高いけれど、勧められないな。それでも行くなら私も行く」
「アンタがいると目立つから却下……」
「君の影に潜むから大丈夫だ」
以前に突然現れた従者の男を思い出す。あんな感じかと一人納得した。
とりあえず薬は全て燃やしていく。周りに引火したり自分たちが体内に吸収しないようにオリバーが防御壁を張ってくれたので無事だった。
出口を探す為に、この部屋へ来た時と同じ様に本を押したり壁を叩いたりしていると、オリバーが触れていた机の左横にある壁の煉瓦がガコンと音を立てた。
「アレスあったよ」
「ここの部屋は煉瓦だったのか。覚えておかないとな」
ベッドの側面に降りてきた梯子をあがっていくと格納庫みたいな上に持ち上げるタイプの扉がついていたので、思いっきり上に持ち上げる。
すると近距離に誰かがいたので扉を持っていた手を思わず離しそうになってしまった。
「うお、マル公か! ビックリさせるなよ」
居たのはマル公だった。階段はベッドの横にある部屋に通じていたらしい。
「いっつも僕ばかり置いてけぼり! 二人だけで何してたの? かくれんぼ?」
「まあ、その……色々だ」
詳しい内容なんて言えない。つい目が泳いでしまった。
「犬っころが知るには早いよ。ほらそこをどいてくれ」
「何かこの中、前に嗅いだ変な匂いする~」
「あー? カビだろ」
そう誤魔化すように嘯いて、隠し部屋から脱出する。今度はまた机の中やら色んな所を漁っていった。
「二人して何してるの?」
「探し物。マル公、開かない扉とか、手紙とか書類とかそういう妙なもん見つけたら教えてくれ」
「分かったー!」
「うわっと……」
机の引き出しを引っ張りすぎて外してしまった。一冊だけ本が入っていたので中に戻そうとした時にオリバーに腕を掴まれる。
「どうかしたのか?」
「デザイン的におかしい。多分二重底になっている」
外そうと試みたがどうにもならない。ひっくり返すと底に鍵穴らしきものが付いていた。
「退いててくれないか。私が開ける」
懐からヘアピンくらいの長さの棒を二本取り出してオリバーが鍵穴に差し込んだ。三秒もかからずに解除出来、裏面を下にしたまま手前に引く。
中には何通かにわけられた手紙がビッシリと詰まっていて、嫌な予感がしつつもその一塊に手を伸ばした。書かれていたのは意味をなさない言葉の羅列が記されている。どれも暗号化されていた。これでは読めない。落胆する。
「あ、本」
この引き出しに入っていたのは本だけだ。暗号を解く糸くじがないかパラパラとめくってみたが特徴のある本だとは思えなかった。
「明日、やっぱり広場のとこにある路地裏に行ってみるわ。そろそろ寝よう? 腰怠いし眠い。……あ」
しまった。自爆した。途端にニヤニヤ笑みを浮かべ始めたオリバーに、エスコートされるように手を引かれる。
「ほら、もう犬っころも寝るよ。アレスは体が怠いみたいだ。体調を崩すと困るだろう」
急にマル公に優しくなったオリバーにベッドまで誘導された。
「分かったー。おやすみアレス」
「おう……おやすみ」
純粋無垢のマル公に胸をギュッと掴まれて悶えつつ、オリバーからは身の危険を察知している。転がるなり向かい合わせで腕まくらをされた。
「待て、何で向かい合わせで寝るんだよ!」
「イタズラしたいから?」
「やめろ。アンタはそのまま大人しく寝てくれ」
わざと腰から尻にかけて撫でられる。
「おい」
「今日はもうしないよ。怠いんだろう? これは治癒だ」
腰から体が温かくなり始めて全身に行き渡っていくのが心地よくて目を細めた。
「何で治癒魔法を使えるのに秘密にしてるんだ?」
前々から聞きたかった質問を投げかけたが知りたい答えは返って来なかった。
「私の事を知りたがるなんて嬉しいな」
「おやすみ」
イラっとしたので即行で切り捨てて目を閉じる。笑いを溢すオリバーに気がついてはいたが無視した。
「秘密にしてるも何もアレスしか知らないよ。君か自分にしか使った事がない。教会の時はまさかバレるなんて思わなかったならな。治癒能力を使えるとなると、この国では色々面倒でね。下手すりゃ妃候補が一気に増えて面倒だ」
「候補増えて良かったじゃねえか」
「私は他人に興味がない。正確にはツカサ以外に興味がない。だから誰にも取られないように君の中に先に種を仕込んでおいた。これで確実に私のものになる」
真意をうかがうように目を見開く。
「は?」
「悪いね。私は君が思ってるような綺麗な思考回路はしていない。どんな手を使っても君と結婚すると言っただろう?」
またいつもの冗談だと思って、再度目を閉じると「あ、そこは気にしないんだ」と言われた。戯言にしてはタチが悪すぎだ。
***
次の日から広場や裏路地へと出てみたがこれといった収穫はなかった。
帰って政務を熟してと繰り返す。日が明けてまた路地裏周辺を出歩いていた。そのまま数時間が過ぎて行く。
――マル公と戯れて遊びたいな。
俯きながら犬の姿のまま連れてこれば良かったと考えていると、目の前に影が落ちた。
気配もなく音もしなかった。突然姿を現した人物に視線をあげる。そこに居たのは男だった。あえて自分からは何も言わずに無表情のまま見つめ続ける。
「久しぶりに恋人と会った表情がそれか? 何故最近姿を見せない? 逃げられるとでも思ったのか?」
――恋人?
ダンマリを通していると黒髪の美丈夫がそう言って笑った。とてもじゃないが、恋人に向けるような熱を帯びた視線はしていない。それどころか蔑んだ瞳で嘲笑されている。これならまだオリバーの方が熱を込めた表情をするだろう。
「もう式は済んだな。ならオレは愛人になるのか? 第三皇子の妃って箔がついたんだ。これからもしっかり稼いで貰うとしようか」
――は? どういう意味だ?
引き寄せられて口付けられそうになったので魔法で跳ね返そうとしたが、何故か魔法が使えなかった。
——何でだ? 無効化されてるのか⁉︎
「悪いが、この子は私の妃だ。他と共有するつもりはない」
口付けられる前に、影から現れたオリバーの胸元に引き寄せられる。
「はっ、妃ねえ。毎日お前がどれだけの人数を相手にしてたかを知ったらこの皇子様はどうするだろうな? なあ、アレス」
――は?
何を言いたいのかは下卑た笑みを浮かべる美丈夫な男を見れば一目瞭然だった。また自分を黒く塗り替えられていくようで、それが不快でたまらずに歯を食いしばる。
何かを調べれば調べるだけ、耳に入れたくない情報ばかりが入ってきて煩わしい。それよりも何だかおかしい。この男のセリフだとアレスは噂と真逆に位置していないか? ならあの薬は?
「アレスはどういう奴だった?」
「あ?」
「お前にとってアレスってどんな存在だったと聞いてんだよ」
「お前? 夜の奉仕以外に使えんのか? あー、手先器用だったからな。薬作るのも上手かったっけ。無理やり作らせてたら日に日にやつれてって楽しかったな」
耳障りな笑いが薄暗い路地裏に響く。
――無理やり作らせてた?
それはつまり前アレスの意思じゃなかったというのを意味する。オリバーが話したアレスの噂話も思い出していく。やはり調査通り何か弱みを握られていて全て無理やりさせられていたとしたら、アレスは汚名を着せられていただけの被害者となる。
「良いよアレス、好きにしろ。責任は全て私が取る」
オリバーの言葉の後、思いっきり腕を振りかぶって男を殴った。オリバーが魔法で拳の威力や強度を付け加えてくれたらしい。男はそのまま伸びてしまった。
「この男を地下牢に放り込んで、口内に毒物を仕込んでいないかも確認しておけ」
「承知いたしました」
またどこからともなく現れた男が、男を俵担ぎにして姿を消す。
「オリバー、俺〝アレス〟についてアダリーに聞いてみるわ」
「私も同じ事を考えていたところだ」
二人で執務室に戻る。アダリーが寄ってくるなり、頭を下げられた。
「アレス様、オリバー様、すぐに紅茶をお持ちします」
「ああ、ありがとう」
――ちょうど良いかもしれない。
暫くしたのち執務室に入ってきたアダリーに声をかける。
「アダリー、そこに腰掛けてくれないか?」
「どうかなさいましたか?」
アダリーは目が覚めてから変わらずついてくれていた貴重な人物だ。オリバーと視線を交わして、またアダリーを見つめる。
「単刀直入に聞くけど前の俺ってさ……どんな感じだった? 生い立ちとか、こういう事をしてたとか、好みとか、性格とか、何でもいいから知りたい」
真剣な表情で見つめると、一拍の間を置いてからアダリーが言った。
「大人しく無口なタイプでした。子どもの頃はそうでもなかったのですが、ある時から突然人が近くに来るのを嫌がるようになりまして……それはもう凄い剣幕で喚き立てるくらいには。それからですかね。夜になると屋敷を出ていかれるようにもなりました。気がついたら悪い噂ばかりになってたのには驚かされましたが。アレス様の実の母親は今は辺境地に住まわれているらしいのですが、とても重い精神病にかかられているらしいとお耳に入れてもいます。申し訳ありません。今のご婦人の事がありますので、その件についてはあまり話せず……」
言葉を濁したアダリーに「いや、いいよ。ありがとう」と返す。前のアレスの身に何があったのかは察しがついてしまった。その上で逡巡した。
「あのさ、その実の母親の住所ってわかるか?」
「いえ、わたくしには……。ああ、でも何度か手紙のやり取りはしていたのではないかと思われます。手紙が届いた時だけとても嬉しそうにしていましたので。手紙はそこの机の一番下の引き出しにしまっていたので、その手紙には書かれているかもしれません」
――ああ、あの暗号文か……。
だとすればあれは薬の密書などではなかった。実母との心安げる大切な思い出だったのだ。他者が土足で踏み入ってはいけない領域だ。暗号は解かない方が良いだろう。
オリバーは始終黙ったままだった。
「アレス、私は少し私用がある。三時間ほどで戻るから犬と遊んでいるといい」
「ああ、分かった」
転移魔法でオリバーがいなくなるとその席にマル公がよじ登って腰掛ける。頭を撫で付けて微笑んでみせると、アダリーが笑みを浮かべた。
「アレス様、毒を飲んで倒れられる前より、よく笑うようになられましたね。あの頃は随分とやつれていらっしゃったので」
――毒を飲んで?
「待て。もしかして俺は自分で毒を飲んだのか?」
明らかにしまったという顔をしたアダリーが席を立つ。
「アダリー、頼む教えてくれ! 大切な事なんだ!」
「あの、それは……っ」
「毒を盛られたんじゃなくて、自ら毒を?」
おずおずとアダリーが肯首した。
「あの、でもこれは秘密だったんです。前のアレス様と交わした約束でございます」
「前の俺と……約束?」
「自らを冷遇してきた者たちへ疑いをかけるためのささやかな復讐だと仰ってました。偶然目が覚めた時は記憶がないふりを貫くとも……」
「……っ」
真っ直ぐに視線が絡む。
始めっからアダリーは味方だった。もしかしたら前アレスにとっては、この屋敷内で唯一の心の拠り所がアダリーだったのかもしれない。
思い返せば、目が覚めた時も心配して駆けつけてきたのもアダリーだけだった。
「そか……。本当に忘れてしまってすまない」
アレスは想定していた以上の毒を飲んでしまったのだろう。直ぐに治癒をかけられたが本当に成仏してしまった。
「アダリー、俺さ……」
心底アレスを安じているアダリーに申し訳ない気持ちが込み上げてくる。本当の事を言った方が良い気がして、重い口を開く。
「大丈夫ですアレス様。承知しております。本当のアレス様はもういらっしゃらないのも承知しております。巷で流れている噂もアレス様を陥れる為だけのものだとも存じ上げております。わたくしはアレス様が生まれる前から公爵家に仕えて、これまで一番近くでアレス様を見てきました。だからこそ気が付ける真実もあるのです。〝今の貴方さま〟もそのようなお方ではないのは重々承知しております。寧ろあまりお力になれず申し訳ありません」
主を思い涙をこぼすのは不敬に当たるのだろうか。アダリーは涙を浮かべながら必死に耐えているように見えた。そんな姿を見てしまうとなんて言って良いのか分からなくなる。それでも何とか口を開こうとして唇が細かく震えた。
「あり、がとう。アレスは貴方がいたから今まで頑張れたんだと思う」
礼一つ言うのがこんなに大変だったなんて知らなかった。
◇◇◇
地下牢には肌を刺す程に冷えた空気が流れていた。カビ臭さが鼻をつく。この場所を知るのは王族の中でも一部のみ、特殊暗殺部隊に所属する上部の者だけだ。オリバーは、足音も立てずに石畳の階段を降りていった。
一角にある牢屋の前に立ち、右手を肘の高さまで持ち上げると、白い霧で包まれていき視界は濁っていく。幻覚作用をもたらす霧だが、オリバー特有の魔法ゆえ、知っているものは数少ない。この霧の中で行われる全ての事が脳内だけで再生される。オリバーは、地下牢に鎖で繋がれている美丈夫の黒髪の男を見下ろしていた。
「何のつもりだ。俺は隣国カザルカ国の皇族だぞ。戦争でも起こす気か」
男の問いかけに冷笑で返す。
「てっきりそのつもりでアレスくんに手を出したのかと思っていた。何だ、違うのか? それにアレスくんの秘密を公にされると国家が揺らぐんでね」
「あのアバズレにそんな価値などあるとは思えんが?」
瞬間男の左腕が飛び、耳をつんざくほどの悲鳴が響いた。
「口には気をつけろ。皇族家のよしみとしてお前には選ばせてやる。全て話して不特定多数の苗床となるか、全て話してアレスくんと同じ道を辿るかのどちらかだ」
同じ結末となるのだ。それでは選択肢などないに等しい。
「は? てめえ何言って……」
「こう見えて私は気が短い。さっさと決めるんだな。私が甘い顔をするのは我が妃にだけだ」
ゴクリと生唾を飲み込む音がしたのと同時に、もう片方の腕が空を飛ぶ。また絶叫が響いた。
「遅い、今度は左足をもぐか……。苗床になるには都合が良くなるな」
「話す! 話すからやめてくれ!」
今までの経緯を口早に話し始めた男は、最後まで一息に言い切る。
周囲にはアレスが遊んでいると思わせるように悪役令息に仕立て上げ、実際は隣国にいる異母姉を盾にその身を貪り仲間内でたらい回しにしていた事、無理やり薬物を製作させていた件、アレスの実母にアレスからだと偽り持病の本来の薬と危険薬物をすり替えて持っていき薬漬けにした事。
沸々と温度を上げて行く血が脳を沸き立て、途中で幻覚を切って直にその首を刎ねてしまいたい衝動に駆られる。
必死にその衝動を押し殺しながら、オリバーは男の話を聞いていた。話が終わった直後に両足を刎ねる。そこで幻覚魔法の霧は晴れていった。
目の前の男には傷一つない。ただ瞳は焦点を結ばず、口元も涎だらけだ。全てが幻覚魔法を用いて行われていた出来事だが脳は再起不能を示していた。
「首領、どうでしたか?」
「記憶喪失前までのアレスくんの全ての噂が冤罪だと確定した。主犯はカザルカ国の王家、この男を交えた四兄弟だ。共犯者に一部の貴族が絡んでいる。この男は用済みだ。お前たちは魔法でこの男の顔を変えて離れた下町にある苗床宿にでも放り込んできてくれ。この通り頭はもうイカれている。誰の事も覚えていまい。あと、アレスくんの実母を探し出し、きちんとした施設に移す手配も頼む。私は陛下に謁見してくる」
「承知いたしました」
従者数名が転移魔法で姿を消す。
表情が削げ落ちた表情をしたままのオリバーが、口角だけを持ち上げて冷笑を浮かべた。
◇◇◇
アダリーと話した後、寝室へと移動してベッドに転がりマル公と戯れていた。
獣姿なのでモフモフがかなり気持ちいい。何度も頭や体を撫であげるとマル公が気持ち良さそうにそのまま寝てしまった。
――オリバー遅いな……。
三時間程で戻ると言ってから、既に四時間は経過している。用というのは何だったのだろうか。頭のよく回る男だ。路地裏で会った男やアダリーの話を聞いて、前アレスに何があったのかを悟っただろう。
――嫌になるよな、そりゃ。
ため息をついてハッと我に返り、勢いよく上体を起こす。
「待て、何でオリバーを気にしてる?」
「それは嬉しいな」
気配もなく唐突に背後から抱きしめられ、体がビクリと脈打つ。この男はいつも神出鬼没だから困る。
「気配を消すな!」
「ふふ、心臓の音がすごいね。そんなに私に会いたかったか?」
「……」
いつもしてやられている気がして悔しい。振り返って胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「ああ、アンタに会いたかったぜ?」
耳元で囁けば、オリバーが瞬きもせずに微動だにしなくなった。まるで電池の切れた玩具みたいだ。
「おーい、オリバー?」
ヒラヒラと目の前で手を振ったが動きもしないので、とりあえず放置する事に決めた。
――どうしたんだ、コイツ?
意味が分からない。オリバーが復活したのは五分も経ってからだった。
うつ伏せにベッドに転がっていると、同じように隣に転がってきた。
「長かったな。疲れてんのか?」
「いや……こんなのは初めてで自分でも驚きを隠せなかった。恐ろしいな君は」
——何で俺?
まあいいかと頭を切り替える。
「ふーん? あのさ、昼間してたアレスの話に戻すけど、もしさ、アンタが嫌になったんなら婚約破棄にしてくれて構わな……っ」
最後まで喋る前に言葉はオリバーに食べられた。体を半分返され、ベッドの上に縫い付けられる。
「前に絶対結婚するって言った筈だ。どうしてそうなった?」
「あの男が言ってただろ? あの言い方じゃアレスは冤罪だ。アダリーもアレスの噂は嘘だと信じていた」
「それこそ関係ない。今は君がアレスだろう、ツカサ。私と共に未来を歩こうとは思わないか?」
「未来……」
考えた事もなかった。
前アレスに壊され続けていたと思っていた現状は全てが虚構で、前アレス自身も望んでいたものじゃなかった。しかも言葉にするのも憚られる程に過酷で凄惨な過去を抱えていたのだ。
自称神は己に生きろと言った。その状態で生きろと言われても心が折れそうにしかならなかった。今だって迷っているくらいだ。未来なんて想像もつかない。
「オリバー、俺……やっぱりアンタとは……」
「結婚しないって選択肢はないよ。それにもう手遅れだ」
一度言葉を切ってオリバーが続ける。
「君の腹には私の子がいる」
「は……?」
「私は前にちゃんと言った筈だ。どんな事をしても君を手に入れる、と。ツカサは何だかんだ言って逃げそうだからな。寝た時に、悪いけど先手を打たせてもらったとちゃんと告げただろう?」
ニンマリと笑みを浮かべられて唖然とオリバーを見つめた。
「はあああああっ?」
信じられない。無許可で子宮作った上で孕ませるとか……。腹が立ちすぎたので思いっきりそのご尊顔を殴りつけてやった。
確かにそういう行為を自ら望んだ。だが、それとこれとは話は別だ。
「てめえ、やっていい事と悪い事があんだろが!」
オリバーに対して初めてこんなに腹が立った。
「前言った時は無反応だったのに? 今更文句を言うのか?」
「いつもの冗談だと思ってたんだよ! 俺は明日から前アレスはめた奴ら探してボコりに行く予定だったってのによ! て、おい……これ魔法使えなくなったのも孕んだのと関係あったりするのか?」
路地裏で魔法が使えなかったのを思い出す。あの男になにかしらの手段で相殺されたのだとばかり思っていたのに違うらしい。
「ああ、ちゃんと芽吹いていたのか。それは良かった」
「かまかけかよ! それに良くねえ!」
魔法が使えないのは大打撃だ。どうしようかと頭を抱えているとオリバーにそれぞれの手で手首を取られた。
「君はもう少し周りを頼る事を覚えると良い。暗殺機動隊の主人とか、そこで腰を抜かしかけてる従者とか、犬っころとかいるだろう? 君はいつまで一人でいるつもりだ?」
そう言われてドキリとした。確かに何をする時も一人を想定して動いている。これまでは本当の意味での仲間なんてどこにもいなかったからだ。
「何言って……俺はずっと一人だ」
「違う。前は犬もいたんだ。一人じゃなかっただろう? 今の君には犬も合わせて私やアダリーもいる」
心の中が面映くて落ち着かない。ソワソワしてきた心の疼きに耐えきれなくて、服の上から心臓を掴むように手を当てた。言われてみれば、前世からは隣にマル公がいた。この世界でオリバーが増えて、アダリーとも知り合った。
オリバーの指さす方向にゆっくりと振り返る。アダリーが本当に腰を抜かしかけて涙ぐんでいたので、またどうして良いのか分からなくなった。
「アレス様、本当にご懐妊を……っ⁉︎」
「いや、落ち着いてくれ。オリバーが勝手に言ってるだけだ」
「じゃあ試しに得意な風魔法を出してみるといい」
持ち上げた手のひらに意識を集中させていく。が、何も起こらない。試しに何度もやってみたものの発動はしなかった。シンとした空気が流れていく。
「勝手な事しやがって……っ、アンタなんて嫌いだ!」
もうオリバーとは口も聞かない。そう決めて二人を放置したままマル公を抱え込んで眠りについた。
あれから一週間、オリバーとは一言も話していない。
アダリーが手配した医療魔法師の診察を終えて、マル公と戯れる。
「アレス、私が悪かった。謝るからちゃんと話をしないか?」
「庭に行って遊ぶぞマル公」
オリバーには無言を貫いて、マル公と部屋を出た。
「アレス、オリバーと喧嘩した?」
「喧嘩……まあそんなとこだな」
「仲直りしないの?」
「今はしたくない」
前と変わらず接してくれるのは嬉しいが許せる気がしない。
「でもオリバー少し可哀想。話だけでも聞いてみたらどう? 僕はこのまま庭で遊んどくね! 最近ね、皆が優しくしてくれるんだよー、だから嬉しいの」
「そっか。良かったな」
向日葵みたいな明るい笑顔が心に沁みた。マル公は動物の姿でも人型でも可愛い。庭で洗濯物を干している侍女の元へ駆けて行き、話しながら手伝いをしていた。
しばらくの間その様子を見ながら重い腰を上げて部屋へと戻る。
「オリバー」
話しかけるとオリバーが目を瞠った。
「話ってのは何だ?」
気の置き所を迷ってしまうくらいには居心地が悪くて仕方ない。
「君の意思も聞かずに悪かったと思っている。ただ私が君を離したくなかっただけだ。本当に申し訳なかった。あと前アレスくんについてだけど全ての情報が集まっている。捕らえた男から証言も取れているし、物的証拠はアレスくんの父上であるファルネス公が密かに集めていたのを陛下に提出した」
久しぶりにアレス自身の父親の存在を考えた。
「ファルネス公……?」
「ツカサはずっとここの別館で暮らしているからもう五年以上は会っていない。前に私に調べて欲しいと言っていただろう? 実際にファルネス公に会いに行ってきた。アレスくんの噂に違和感を抱いていたファルネス公も独自に調査していたみたいだ。その文書の写しがある。大体察しはついてるだろうが、見る覚悟はあるか?」
眉間に力を込めて力強く頷く。オリバーが空に手を翳すとA4用紙十枚くらいが纏ってオリバーの手の中に現れた。それを手渡される。ページをめくり、また文字を目で追っていく。胸糞悪くなる物事ばかりがそこには記されていた。
「クソが……っ」
鬼畜の所業としか言いようがなかった。原因不明で寝たきりになっている異母姉を人質に取られ、実母はアレスに作らせた危険薬物で堕落させ、自身の尊厳は全て踏み躙られている。嬲られ続けた挙句に汚名を全て着せられた。
毒殺に見せかけて周りに復讐しようとしたアレスの気持ちも分かる。
「んなの見たら、余計お礼参りしに行きたくなんだろがっ」
紙を握り潰しそうになって、すんでの所で耐えた。
「別にダメだとは言っていない。陛下に申し出たら正式な許可が下りた。だから私の部隊に所属して貰う。私からの指令は厳守だが。その前にこれを……」
拳を突き出されたので手の平を上に差し出してみる。そこには表面がツルツルした七色に光る宝玉のようなものが乗っていた。直径三センチ程度の大きさだ。
「魔法石という。この宝玉の中に魔法力が直に込められている。それを持ったまま魔法を使ってみてくれ」
使えないだろうと思っていたのもあって強めにかけ過ぎてしまい、室内の書類が舞い上がり散らばって落ちていく。
「魔法が使える?」
「その魔法石を持っていれば使えるよ。もし行くのなら君には常に防御壁をかけさせて貰う。どうする? 行くか?」
「行くに決まってんだろ!」
――これならいける。もう前アレスはいないけど、せめてアレスの体で一矢報いてやりたい。
「カザルカ国に全面戦争を仕掛けるのは来週だ。書面通知はしている。前アレスの異母姉はもう連れ戻して公爵家にいるよ。全てが終わったら会いに行こう。それまでに魔法を叩き込むから覚えてくれ」
「分かった」
「でも絶対無理はしないで欲しい。子どもには今まで興味もなかったけれど君との子なら本気で欲しいと思っている」
「ん……。オリバー、あのよ」
言い出しにくくて言い淀む。
「俺も意地張って悪かった。アンタと寝たの……後悔してない。いや、あの時アンタに抱いて欲しかった。アンタならどんな俺でも許してくれそうな気がしたから。だからガキみたいに無視してごめん」
髪の毛をかき回される指先の感触が優しく感じて、思わず笑ってしまった。
「アンタの指先の感触、好きだぜ?」
「照れるってこういう事を言うのかな」
「照れた事ないんかよ」
「それ以前に真剣に誰かを好きになった経験もなかったな。ツカサに会うまでは」
小っ恥ずかしいにも程がある。
「ツカサ、好きだよ」
「おい、恥ずかしいからやめろ。ていうか、アレスでいい!」
「私の中でアレスくんとツカサは別の人物だからね。私が愛しているのは君だよツカサ」
顔から火が出るんじゃないかと思うほど恥ずかしくなって顔を背けたが、すぐに正面を向けられて視線を絡ませられた。欲と熱がこもった視線はどうしていいのか分からなくさせられる。
――火傷しそうだ。
見つめられるだけで、チリチリと焦げ付いて体に跡をつけられた気がした。
――ダメだこれ。
眉間にグッと力を込めて耐える。オリバーに見つめられるだけで心臓が痛いくらいに脈打っていた。そっと右手首を引いたオリバーが小さく笑みこぼす。
「こんなに脈拍数が上がっているのは私を意識していると思ってもいいのかな?」
「……自意識過剰」
「ははは、嬉しいよ」
「人の話を聞けよっ」
そっと唇が重なろうとしていた時だった。
「アレスー! 話終わったー?」
帰ってきたマル公の声に驚いて、思わずオリバーを突き飛ばす。それでもあまり体のバランスが崩れないのは、さすがだと思えた。体幹が良すぎる。
「悪いオリバー! つい……」
「あの犬やっぱり処分しないか?」
オリバーの顔から好青年の皮が剥がれ落ちていく。恐らくは暗殺者仕様だ。己でも血の気が引くくらいに冷徹な笑みを張り付けていた。
「駄目だ。マル公は俺の友達だから勘弁しろ」
「?」
一人意味が分かっていないマル公が、こちらとオリバーを交互に見ている。心の中で「逃げろ」と思っていると、掃除をしに現れたアダリーが空気を読み、マル公を抱えて颯爽と消えていく。
――グッジョブ、アダリー。カッコいいぜあんた!
心の中で親指を立てた。
「オリバー、そういえばあの男はどうしたんだ?」
「国に帰ってもらったよ」
胡散臭い笑顔たっぷりで言われたので半目で見つめる。
「おい、オリバー……嘘だろそれ」
「情報を引き出す為に、幻覚魔法をかけて少しお仕置きしただけだ。前に二人で暴れた時と同じさ。さて、転移魔法から覚えてみるか? 万が一何かあると困るからね。後は変装魔法。カザルカ国では君の顔はかなり知られているから別人のふりをしておくといい。どっちにする?」
――変装魔法? それなら……っ。
気が昂って挙手してしまった。
「変装魔法から覚えたい!」
「ふ、やる気満々だね。じゃあ始めようか」
変装魔法は然程難しくなかった。イメージする人物へと成り変わるだけからだ。そもそも今のアレスよりも馴染み深い上野ツカサの容姿だというのがある。頭の中で完璧に復元出来た。
視線の高さから何もかもが馴染んでいて、テンションが上がってしまい鼻歌混じりに鏡を覗き込む。オリバーが興味津々に見ていた。
「その姿は?」
「アレスに入る前の俺だ。上野ツカサ。こっちのが俺っぽくていいだろ?」
「確かに。好みのド真ん中を突かれたからどうしようかと思った」
真剣な表情でオリバーが呟いたので、思いっきり笑った。
「ふはっ、あーそうかよ」
顔は悪くない。そこだけは昔っから褒められていたから間違いないだろう。
ツカサは片側だけ長めの黒色のツーブロックでシャープな顔立ちをした、アレスとはまた違った美形だった。
「別の意味で連れて行きたくなくなってきたな……誰にも見せたくない」
「置いてくなら俺は一人でも勝手に行くからな?」
「それは断る。ああ、しかしな……っ」
悩み出したオリバーをせっつき、中庭に移動するなり魔法を教えて貰っていく。魔法の物覚えはやはり良くて、一晩で四種類も覚えてしまった。
一息ついて、アレスの姿に戻りマル公を探しにいく。ノックしてアダリーの部屋を覗いた。
「アダリー、マル公は?」
「いるー! 僕ね、今日からお引越ししたの」
「引越し?」
「はい。今日からこの部屋でわたくしがお世話させていただきますので、ごゆっくりなさってください。わたくし一人ではベッドが広いので助かりました」
――あれ、何か誤解しているような気が……。
「いや、なんか勘違い……、もごっ!」
説明しようとした口をオリバーの左手で押さえられる。
「犬っころ、迷惑はかけるな」
「分かってるもん」
そのまままた部屋に連行される羽目になった。
***
そして前アレスの復讐の日がやってきた。
変装魔法も問題なく操れるようになり、空間を移動する転移魔法、その他、風魔法・火魔法・水魔法・地魔法までは難なく使える。それどころか魔法の合わせ技まで幅広く教え込まれた。
――カチコミ開始だ。
まるで前アレスの汚名返上を兼ねた追悼儀式のようだと一人笑う。これは戦だ。気取るつもりはない。私情と恨みを込めた蹂躙なのだと思えばダークヒーローだろうが。
——今の方がよっぽど極道らしいな。
思わず笑った。
「アレス、体調は?」
やけに表情豊かになってきたオリバーに不安そうに見つめられた。
「問題ない。首領がそんな顔してると士気が下がるだろが。アンタは仕事用の顔してろよ」
「私はいつもどうりだけど……」
自分で気がついていないらしい。景気付けを込めて、正面から睨みつける。そして軽く唇を重ねてニンマリと笑みを浮かべてやった。
「おい、気合い入れねえと婚約破棄だ」
一瞬にしてオリバーの表情から彩りが消えて行く。無になった顔と冷ややかな瞳が見下ろしてきた。
「何を言ってるのか分からないな。君は絶対に逃さないと言っただろう」
「はは、それで良い。ほら行こうぜ」
そこから全面戦争が始まって行く。敵の裏をかいて初めに攻めないだろうと予想された小さな地区から攻めて行く。奇襲にはもってこいだ。
「なんで! せっかくこっちに逃げてきたのに話が違うだろうが!」
「悪いな。そんなお行儀のいい良い子ちゃんじゃねえんだわ」
風魔法で竜巻を起こしその場にいた百人単位の傭兵を一気に吹き飛ばし、気絶させて戦闘不能にする。
現れた援軍にはオリバーが幻覚魔法をかけて、身内同士で争うようにしむけていた。横から水属性魔法に雷を混ぜ込ませて小型の爆撃弾を百単位で投げ込んでいく。まるで爆竹が爆ぜたような音と悲鳴が響き渡り、場を騒然とさせていく。その後訪れたのは耳が痛いくらいに閑散とした空気だった。
「はっ、ザマァ」
小さく言葉を紡ぐとオリバーが口角を持ち上げて笑んだ。一気に三ブロックの拠点を落とし、更に進んでいく。逃げ込んでいたカザルカ国の貴族と皇族家、配下の傭兵を合わせると千人に近い。
「恨むんならてめえらを唆した王家の四馬鹿兄弟を恨むんだな」
オリバーの幻覚魔法内で、火魔法を爆発させて火柱で敵を囲んで動けないようにして行く。どこにも逃げ場がなくなった相手がざわつき始める。
「魔法? 魔法が使えるなんて聞いてないぞ!」
「そこ喧しいぞ! さっさと私たちの盾となれ!」
ぴょこぴょこ左右に跳ねながら男が裏返った声を発した。
話を聞く限りだとここに居る傭兵は雇われただけの者たちらしい。魔法も使えないようだ。
——それよりもこの男、広場にいたピエロに背格好が似てないか?
単調な動きだが体を左右に揺らす癖もある。
「ピエロはてめえか」
「ひっ」
どうやら当たりらしい。
「オリバー! あのピエロ見つけたぞ!」
「こんな所にいたとは。都合が良い。丁重にもてなしてやらんとな」
的をピエロと大元の貴族と皇族に絞り、オリバーが呪文の詠唱を始める。すると頭が五つはあるドラゴンが姿を現した。
——へえ、こんな生き物もいるのか……。
興味津々に観察しているとドラゴンが的を絞った相手に攻撃を始めていく。傭兵も何とか立ち向かおうとしている様子だったが、元々が幻覚だ。こちらへの物理的な攻撃は全て通り抜け意味をなさない。それなのに打撃は喰らう理不尽さ。何をしても無駄なのだと気が付いたのか、一人また一人と呆然と立ち尽くしていくようになった。全ての片がついてから地面に指先を当てて話しかける。
「マル公、影の中から治してやってくれ」
「はーい」
予め影に潜ませていたマル公に呼びかけて、再生能力だと気付かせないように影に潜ませたまま地中から負傷した敵を遠隔的に治させていく。それでもまた歯向かってこられると面倒なので防御壁のようなものを立ててその中に隔離した。
「怪我が……治っていく?」
ザワザワと騒めく声が聞こえてきたので声を張り上げた。
「降伏するなら何もしない。傷も治っていってる筈だ。全てが終わるまではそのまま大人しくしていてくれ」
彼らは捨て駒だった。
――相変わらずの非道っぷりだな。
怒りを煽られ奥歯が軋む程噛み締める。その内見えてきた本命がいる筈の拠点には尻尾を巻いて逃げたのか誰もいなかった。
――だろうな……。ゲスのやりそうな事だ。
しかし気配は残っている。
「オリバー、この感覚はなんだ? 魔法か?」
「認識阻害魔法が張られている」
オリバーの言葉に「なるほど」と頷く。という事は見えないだけでそこにはきちんと存在しているという意味だった。
「甘ぇんだよ」
正面から風魔法と火魔法を組み合わせた魔法弾を浴びせると、中から百を超える矢が一斉に飛びだしてくる。
「っ!」
流石にヒヤリとさせられ息を呑んだ。
「小賢しいな」
その矢はオリバーが張った防御壁に阻まれて全て地に落ちていく。
「すげえ防御壁だな。今のは正直また死んだかと思ったわ」
喉を鳴らして笑えばオリバーが氷点下を超えそうな程に綺麗に笑んだ。
「死んだと言ったか? 私といながらそんな戯言を口にするか……ツカサ、帰ったら覚悟しておくんだな。無茶はするなと言った筈だ」
「え、褒めたのに?」
オリバーに背筋をぞっとさせられたこれで二度目だった。逃げようとする本命の敵に意識を向けるとそこには三人の男と護衛らしき人物たちがいて、身構える。
「アレスは死んだと聞いたぞ! 昔の話なんてもういいだろうっ⁉︎ 今更何の用だ!」
そのセリフでまた怒りのスイッチが入った。
「てめえらがそう仕向けたんだろ!」
「勝手に死んだ奴のことを一々気にしていられるか」
叫ぶ様に言ったのはカザルカ国の第四皇子だった。高い身分にいながらオリバーとは大違いだ。額に脂汗を滲ませて動揺さえも押し隠せていない。あまりの言い分に怒りを通り越して聞いて呆れる。そこに声が落ちた。
「では、この送られてきた調査資料の内容を全て事実だと受け取って良かったか? リザーブ、ブリトン、チャールス」
威厳ある言葉と共に傭兵の合間を縫う様に姿を現したのはカザルカ国王だった。
三人が唇を引き結び、微かに肩を震わせている。
「王、俺たちは……っ」
「これは真実なのかと問うている」
重苦しい長い沈黙が流れて行く。此度の実行犯三人はやがて肯首した。
「そうか、残念だ。お前たちの愚行はもう庇い切れるものではない」
「そんな……っ」
「自業自得だ。あの世で反省しろ」
カザルカ国王が左から右に手を振るう。切り裂く音と鈍い音を響かせて三人の体が地に沈んでいく。
――何の魔法だこれ?
一瞬にして三人の首を刎ねてみせた術に固唾を飲んだ。
「此度の件について、心より謝罪を申し上げる。愚息共の首と引き換えにどうか引いてはくれないか? 慰謝料についても私が責任を持って全額支払う。我々は貴殿のいるユラリアーナ帝国と争う気はない」
その瞳は真っ直ぐにオリバーを見据えていた。
「陛下にお伝えしておきます」
頭を下げたカザルカ国王にオリバーが了承する旨を伝える。両手を上げて降参されたようなものだ。引き上げる他なかった。
「行こうか、ツカサ」
「ああ」
歩き出した時だった。急に腹が痛くなってきて足を止める。ズキリと一際大きく痛み出したのもあり、慌ててオリバーの腕を掴んだ。
「ツカサ?」
「オリバー……っ、腹が痛い」
「先に戻っている!」
オリバーが部隊員に向けてそう言った直後、転移魔法で屋敷まで一気に飛んでいた。横抱きにされベッドに降ろされる。
本来遠方への転移では、魔法力の消費を最小限にする為に、各転移地点を利用し、長距離の転移はさけなければならない。なのにそれを無視し、オリバーは涼しげな顔でやってのけた。あんな大仕掛けな魔法を何度も使っていたのにも関わらず余力が多すぎる。それは己が予想していた魔法力量を大きく上回っている証拠でもあり、唖然としてしまった。カザルカ国王はオリバーの素質を見抜いた上で降伏したのかもしれない。
「アダリーいるか⁉︎ 今すぐ医療魔法師を呼べ!」
「承知いたしました」
その後すぐに受診する事になった。
――退屈だ。
絶対安静を言い渡され、ずっと寝たきり生活が始まって三ヶ月は経過していた。
医療魔法師からの許可が出るまで動けないのはつらい。今日も必要最低限の物事が出来ずに、執務室に急遽作られたベッドの上だ。オリバーの監視下で軟禁状態である。
――もう良いんじゃないか?
腹に触れると以前よりふっくらとしていて、思わず手を離してしまった。本当にここに命が宿っているのだと知らされた気がした。
――マジでアイツの子がいるんだな。
そう思うと複雑な気持ちになる。あんなに否定していたのに、今は嫌だと感じていない自分自身が嫌になるのだ。
その大元の人物にチラリと視線をやると、視界の右端でオリバーが政務に励んでいた。真剣な眼差しはため息をつきたくなる程に凛々しい。ふと視線を上げたオリバーと目が合い、咄嗟に逸らしてしまった。
妙な照れ臭さがあってまともに顔を合わせられない。
「暇かい?」
「そりゃ、な……」
「君は否定するわりには存外に私が好きだな」
「あー……、はあっ⁉︎」
驚きすぎてオリバーを凝視する。突然何を言い出すかと思えば、耳を疑いたくなるセリフを聞いて唖然とさせられた。
「良く見ているだろ? 無自覚か」
笑いを吹き出したオリバーが席を立ち、ベッドに寄ってくる。腰掛けて間近で視線を絡ませられると顔に熱がこもった。証拠を取ると言わんばかりに手首で脈を測られる。こういう所は狡いと思う。無理やり何かを仕掛けるわけでもなく、緩やかにこちらの逃げ場を奪っていく気がするからだ。
「脈が早いな」
額を合わせられたがすぐに離れて行く。帰ってきてからのオリバーはずっとこうだ。態度は甘いが口付けはしない。相変わらずの熱視線で身を焦がされそうだけど。
「オリバー、暇だ。俺に構え」
「人が必死に耐えているというのに酷い妃だな」
肩をすくめてみせたオリバーをジッと見つめた。
「お前の熱が欲しい」
「はあ、一度目で孕ませたのは早計だったとつくづく思うよ。容体が落ち着くまで待ってくれ。私だってツカサに触れたくて堪らないんだ」
「アレスって呼ばないのか? 最近周りに不審がられてるぞ」
「私が愛したのはアレスくんに入っていたツカサだからね」
相変わらず恥ずかしい奴だ。挙動不審ぎみに左右に視線を揺らすとオリバーが笑った。
コンコンと扉がノックされる。返事をするとマル公が顔を覗かせた。その後ろに医療魔法師が立っていて、会釈後室内に入ってくる。いつの間にか診察の時間になっていたらしい。
「アレス大丈夫?」
「よく分かんねえな。自分ではもう良いような気はするけど」
診察されている間、ベッドに登ってきたマル公の頭に手を伸ばして撫でた。
「張りも引いてますし大丈夫かとは思いますが、あまり無茶な行為はしないようにしてください」
——無茶? 喧嘩は駄目か? 暴れなければ大丈夫って意味かな?
確かめる為に問いかける。
「例えば?」
「前回のようにどこかに乗り込んで戦闘したりです。安定期に入るまでは激しい運動は避けてください」
「安定期?」
「大体妊娠六ヶ月ですね」
初めて知った。礼を言って医療魔法師と別れる。ベッド縁に腰掛けて膝の上にマル公を乗せるなり、久しぶりにモフモフを堪能していく。
「私が抱いて運べば問題ないかな」
「何が?」
「寝たきりのアレスくんの異母姉に会いに行ってみないか? 精神的なもので寝たきりになっているのなら君の声を聞けば反応するかもしれない。それに彼女はもう先が長くない」
容態が思わしくないみたいだ。急いだ方が良さそうだった。
「マル公も来い」
再生能力なら何とかなる気がして声がけすると、マル公が嬉しそうに飛び跳ねた。
「やったー! 行くー!」
「では、今から行こう」
了承したのはいいが、実際に横抱きで運ばれるのは正直気恥ずかしいものがある。誰かに見られてヒソヒソと囁かれる度にゲンナリしてきた。
「オリバー、やっぱり自分で歩きたい」
「却下させて貰うとするよ」
ニッコリと微笑まれた。
シュグナイザー公爵家の本館には初めて足を踏み入れる。この世界へ来てからアレスは嫌われ者だと思っていたのもあって、顔向け出来ない気分になっていたというのもあるし、正直どう呼んでどう対応していいのか迷う。
アレスが住んでいた別館から徒歩三十分……屋敷の隣にある雑木林や村を挟んだ向こう側に本館はあった。オリバーが浮遊魔法を使いながら行くとすぐに到着した。
――意外と近かったんだな。
驚きだ。高い石壁に覆われた立派な門構えで警備兵まで立っている。アレスが住んでいた屋敷も大きいと思っていたが、本館は比じゃない。十万平方メートルはある歴史を感じさせる洋館で、門から内部に入ってからがまた広い。
初めっからそうしてくれればよかったのに、オリバーは門を潜ってから転移魔法で飛んだ。
「アレス……」
名を呼ばれてオリバーが振り返ると見た事もない男性と女性が立っていた。オリバーを見るなり頭を下げ始める。
「オリバー殿下、何とお礼を申し上げたら良いか……っ、本当にありがとうございます」
深々と下げていた頭を上げたシュグナイザー公爵家当主に向けてオリバーが微笑む。
「私がしたかっただけだ。礼は要らない。キャナリア嬢にアレスくんを会わせたいのだが少しだけいいか?」
「ええ、こちらへどうぞ」
赤い絨毯の敷かれたジャコビアン式の大階段を登って行く。一番奥にある部屋へ入ると長い黒髪の女性がベッドの上に横たわっていた。
――あれ? この女……。
見覚えがあった。それもあるなんてもんじゃない。腰までありそうな黒髪に白いドレス。瞳を開ければあの赤い瞳で見つめてくるに違いない。
「え、何でここに女神さまがいるの?」
マル公が呟く。いよいよ核心に迫ってきた。
「何で……っ」
この世界へ招いた自称神とやらだった。訳が分からずに食い入るようにベッドの上の女を見つめた。
「アレス?」
オリバーに顔を覗き込まれる。
「この女は、俺とマル公をこの世界へ送った人だ」
オリバーにしか聞こえない声量で言葉を紡ぐ。このままにしといて平気なのか? 思考を巡らす。
「マル公、再生使えるか? もしかしたらお前なら目覚めさせられるかもしれない」
「分かった!」
マル公が人型になり手を翳す。手の平から光が広がり女の体を包み込んでいく。閉ざされていた瞼が震えて薄く開かれて行き、そこから赤い瞳が覗いた。
「キャナリア!」
「お父……様、お義母様……」
――本人で間違いない。
始まりの時に助けてやれるかもしれんと言っていたのはアレスの事だったのかと逡巡する。生を司ると言っていたのが気になった。もしかして再生能力はキャナリア本人が持っていたのか? それをマル公に授けた? そうみて良いかもしれない。
「……助けてくれたの……だな。感謝する」
誰を、とは言わない含みを持たせた言い方だった。
「最初っから告げておけよ」
「込み入った話になりそうだったんでな……」
それを聞いて確信する。全てがアレスに繋がっていて、境遇は違えど幼少期から周りから疎まれ死した己とマル公を引っ張りこんだ。キャナリアからすれば、己らへの救いと自分自身の一縷の望みだったのだろう。
「今日は帰ろう、オリバー」
「そうだね」
「アレス、たまにはここにも帰ってきてくれ。もうお前を悪く言う輩はいない」
アレスに関する諸々の証拠を集めたのは公爵家当主だったと思い出す。
「分か、りました。信じてくれてありがとう」
笑みを浮かべると大きな手の平が頭の上に乗った。震える声で「当たり前だ」と言われたのが自分の事のように嬉しかった。
「じゃあ、また」
「ああ。待っている。君も娘を治療してくれてありがとう。感謝する」
頭を撫でられたマル公がいつもの愛嬌ある顔で笑う。今度は屋敷まで転移魔法で移動し、ベッドの上に乗せられた。
「少し休んどくといいよ。私は残りの仕事を終わらせてくる」
「分かった。俺も転がりながら自分の仕事をやる」
「ツカサのは私が代わりにやっておいたからないよ」
腹黒タヌキ男が随分と過保護になってしまい、返答に窮する。礼を言うのも抗議するのも憚られ、オリバーをジッと見つめた。
「なあ、体壊さないか?」
「心配してくれてるのか。それは嬉しいね」
本当に嬉しそうに微笑まれ、また返事に困った。これはもう正直に礼を述べた方がいいだろうと思考回路を巡らす。
「……ありがとう」
かなり無愛想な響きになってしまったが「どういたしまして」と返ってきた。
――ヤバイ……どうしよう。
些細なやり取りなのに胸の奥を擽られてしまい、どうしていいのか分からない。アレスは恋の一つでもしたのだろうか? 己にはそういう甘い経験は一切ない。記憶にあるのは喧嘩か借金の取り立てに同行していたくらいだ。
味方が出来たと思ったら裏切られ、知り合った矢先に別の組へと売られた事もあった。あんなに殴られて生きていたのに、犬一匹庇って死んだのには少し笑えた。本当に碌な人生じゃなかったけどマル公に会えた事だけが救いだった。なら今は? オリバーの存在をどこに位置付けして良いのかが分からない。アレスの件が片付いた今となっては、この世界は己には優しすぎた。
――慣れねえんだよな。
居心地良いのが逆に居心地悪い。相反する感情が胸の内でせめぎ合っている。オリバーに触れられるのは嫌いじゃない。どちらかといえば心地よい。左腕を額へと持ち上げて口を開いた。
「オリバー、俺アンタの事嫌いじゃないと思う。でも頼れって言われると戸惑う。今まで信用できる仲間ができた事がない。恋人はいなかったどころか誰かを好きになった試しもない。俺はずっと喧嘩しかしてこなかったからな。だから……」
「だから?」
すぐ真横まで来られていたのに気がつきもしなかった。相変わらず気配を殺すのが上手い。
「アンタと生きていける自信がない」
「そこは無理矢理にでも矯正させるから気にしなくていいよ。ツカサには私と子と一緒に生きる道しかない。犬っころもいるしね」
「俺の本当の父は母に暴力を振るう事しかしなかった。それを庇って俺もガキの頃から殴られてばかりだった。母は男を作ってサッサと一人だけ出てった。そんな奴らしか見てないのに、自分がまともな親になれる気がしない」
「私がいるし、乳母もいる。言っただろう? 君は一人じゃない。それとも一人じゃないのが怖い?」
的を射た質問をされ、言葉が喉の奥で詰まった。唇を噛み締めた後で、消え入りそうな声で呟く。
「怖え……」
逃げ出したいくらいには怖い。
守らなければいけない者が出来たのが怖い。失望させてしまうかもしれない事が怖い。希望を叶えられるか分からないのが怖い。大切に思い失ってしまうかもしれないのが怖い。
初めはオリバーが相棒みたいで良いかもと思ったけれど、いざ隣にいる事に慣れて来るとこんな訳の分からない感情に支配されるなんて思いもしなかった。
「ああ、ちゃんと感じてその気持ちを言えるようになったのは前進だね。良い傾向だと思うけど?」
「何でだよ?」
「以前の君なら殻を盾にはぐらかして言わなかっただろう。君にとって私はそういう弱さを見せれる存在になれたという事だ」
「~~っ! ああ、くそっ、腹立つ。悪いかよ。そうだよ。多分アンタが好きなんだわ。だから深みにハマるのが嫌なんだよ! 失うのが怖えって言ってんだよ!」
――俺が死んだ時、マル公もこんな気持ちだったのかな。
アレスになってからは色んな感情が芽吹き出して止まる事を知らない。
「それなら心配ない。私は死ぬ時はツカサも連れて行くからね」
「え?」
「君が私以外の誰かを好きになるのは永遠に許せる気がしない。私は手に負えないくらいに嫉妬深かったようだ。君に会うまで知らなかった。ツカサは自分ばかりが不安だと思ってるんだろうけど私も同じだ。私は君と離れるかも知れないと思うと怖い」
でも、と言葉を続けた後でオリバーがまた続けた。
「だからこそ今のこの時が愛おしく思う」
「そういうの恥ずかしくないか?」
「初めて抱いた感情だから私は口にしたいしツカサに伝えたい。このまま泥沼にハマるように私に堕ちて抜け出せなくなってしまえばいいと本気で思っている」
「ごめ、降参。俺は気恥ずかしくて居た堪れねえわ……もう黙ってくれ」
周りにあるクッションを引き寄せてその中に顔を埋めるように上に乗せていく。
「私の妃は恥ずかしがり屋で可愛いね」
「だから黙れよっ!」
思いっきりクッションの一つをぶつけると、オリバーが声高々に笑った。
***
あれから二ヶ月が経過していた。もう安定期に入り、今度は適度に体を動かす時期に入っている。腹が重いのは難だが、内部で動く様子があるのは不思議な感覚にさせられた。
「アレス、遊ぼうー?」
マル公が大きなボールを抱えて執務室に入ってくる。
「あー、良いぞ」
「やったー!」
「オリバー、ちょっと庭に行ってくる」
「転ばないようにしてくれ」
「はいはい」
ちょうど一息ついたところだったのもあり、一緒に庭へと出た。ボールを転がしマル公が追いかけて行く。人型でも三歳児くらいの大きさしかないのもあって、ボールの上に乗っかって、弾んだボールに跳ね返されは一人楽しそうにキャラキャラ笑っていた。その様子を見ているとこちらまで楽しくなってくる。
「マル公一人で遊ぶなよ」
「ボールにポーンてされて弾むの楽しい~!」
獣人の体は見た目よりも丈夫らしい。痛そうにする素振りは全くなかった。頭についていた葉っぱを取ってやり、ボールを奪ってまた放る。そのやりとりを一時間くらいは繰り返していた。
「ツカサそろそろ休憩にしようか」
「外ではアレスって呼んでくれよ」
じっとりと非難めいた目で見つめ、オリバーに文句を垂れる。とある考えが閃いて、俯き加減で口を開く。
「俺らだけの秘密だろ?」
「これはまた姑息な技を覚えたね。分かったよ、アレス」
ガッツポーズを作った。
「お腹が目立ってきたけど、先に式をあげないか? アレスは元々細身だからね、少し大きめのタキシードで誤魔化せると思うんだ」
「式か……」
「今更渋るのか?」
大人しく左右に首を振る。オリバーなら構わない。正直まだ気恥ずかしいが、オリバーも同じなのだと分かってから気持ちがまた前向きに変化している。
「ではすぐに用意させよう」
話が出てから二週間後にはもう式をあげていた。アレスに憑依した直後には拒んだ口付けも素直に受け入れる。それから数ヶ月後には子どもが生まれた。
久しぶりに訪れたシュグナイザー公爵家に、マル公とオリバーと子ども……ミライザを連れて訪れていた。
「アレス……その子は?」
「俺とオリバーの子だ。孫が生まれたから挨拶に来ました」
「私に孫が!」
「わたしたちの孫が!」
懐妊していた時には話していなかったのもあり、卒倒しそう勢いで驚かれた。
「可愛い~!」
「キャナリア嬢とのお茶会の間、わたくしたちにお任せください!」
「オリバー殿下の髪色にアレス様の瞳の色。将来が楽しみですわ! 絶世の美男子確定です!」
「じゃあ、お願いしようかな」
「是非是非! キャナリア嬢もお茶会を楽しみにしていらっしゃったのでごゆっくりなさってください」
群がってきた侍女たちが面倒をみたがったのもあり、少しの間面倒を任せる事にした。
キャナリアと噴水のある庭に出て、お茶会用に常備設置されているテーブルセットの椅子に腰掛ける。目の前に菓子と紅茶を置かれた。
「待っていた」
キャナリアはすっかり元気になっていて、細身なのは変わらないものの、こそげ落ちていた頬がまろみを帯び、真っ暗闇の世界で会った時と同じ姿にまで戻っている。
「感謝するよ、上野ツカサ。改めて礼を言わせてくれ。アレスを色々な意味で助けてくれてありがとう」
憑依する前、暗闇の中で見た無表情な顔とは違い、毅然としながらも慈愛に満ちた顔をしていた。
「やっぱりアンタだったんだな。神とか嘘じゃねえかよ」
「ふふ、霊体だとも言っただろう? どう説明して良いのか私も分からなかったんだ」
「女神さま!」
テーブルセットの椅子に腰掛けているキャナリアの足にマル公が抱きつく。
「お前はいつ見ても可愛いな。おいで」
マル公を抱き上げてキャナリアが微笑んだ。
「でも、何で人間のアンタに俺とマル公を転生させる力があったんだ?」
率直な疑問を投げる。
「再生能力は生物だろうと物体だろうと全ての生命を司り生き返らせる。それを利用した。あと、元々聖女として神託を受けていたのは私だったからな。隣国に嫁がなければならなくなり神託を受けずにおりた。でも不思議な事に元々与えられていた様々な恩恵は使用可能な状態だったんだ。その内の一つである次元を越える魔法を使い、同時に再生能力を重ねがけして上野ツカサきみをここへ招いた」
「それなら俺にも何か能力をくれても良かっただろ」
そう言うとキョトンとした顔をされた後で思いっきり笑われてしまった。
「もうその時点ではその恩恵は与えていたぞ。アレスとオリバー殿下では形式的なものになるだけで上手くいかなかっただろうが、きみとはこれ以上ない程に相性が良いと思っていた。それともオリバー殿下以上に欲しいモノでもあったか?」
返事に困り、己の髪の毛をかきまぜる。オリバーで良かったと思ってしまっている自分が悔しい。それを悟ったのかキャナリアがクスリと笑む。
「あと、この子は何の業なのか生命力がとても弱いんだ。だから再生能力を譲渡する事で調和させている。私は色々な能力を持ちすぎていて、利用されるのに疲れ果て自ら眠りについた。でもそのせいでアレスをあんな形で利用されるとは思ってもみなかったんだ。子どもの頃、少し遊んでいた程度だったからな」
眉根を寄せて視線を伏せたキャナリアはどこか儚げで消えてしまいそうな印象を受けた。
「まあ、私はツカサと会えて良かったよ」
「ほらな。聞いただろう、ツカサ。きみが一番欲しかったモノだろう?」
「やめろ。小っ恥ずかしいにも程があるわ……」
穴があったら埋まりたい。テーブルに突っ伏してオリバーとキャナリアから顔を隠すように下を向いたというのに、テーブルの下からマル公に見つめられていた。
「アレス顔赤いよ?」
「ごめんマル公黙っててくれ」
フッと笑いをこぼすオリバーとキャナリアの声が聞こえてきて、更に居た堪れなくなってくる。このまま消えるように一人で転移魔法を使い屋敷に帰りたかった。
今なお続く笑い声にいよいよ顔を上げられずにいるとオリバーが「ああ、そうだ」と言葉を発した。
「明日例の仕事で三つ隣町に出没するようになった賊の制圧指令があるけど一緒に来るか?」
弾かれたように顔を上げる。
「行く!」
二言返事で即答するとオリバーが双眸を細めて優しく笑んだ。
「一人で行こうかと思っていたが、暴れたそうな顔をしているからね。うちの妃は喧嘩っぱやくて困るね」
ちっとも困っていなさそうな顔で言ったオリバーを睨め付ける。
「アンタだって同じだろう」
「まあ、似たモノ同士だな。そういうところも含めて愛してるよツカサ」
近距離で特大な爆弾を落とした男に再度撃沈させられたのだった。
【了】
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