ねぶくろ
2026-05-29 21:37:32
3790文字
Public Skeb
 

正の残像

Skebにて納品した作品です。


 直視していれば、何かが変わったのだろうか。





     *     *     *

 床に転がされた遺体は、親しい部下のものだった。
 小柄な体躯に、肩にかかる長さの髪の毛。纏っているのは見慣れた制服ではなく、それが、彼女が選んだ道筋を物語っている。いつもぱっちりと開いていた丸い瞳は瞼に閉ざされ、明るい水色は隠されていた。
 肉塊となり果てて、衆目の前で足蹴にされるそれをじっと見下ろす。お前が片付けろ、と責任者としての義務を課す声が遠い。白波しらなみはただじっと、血の気の失せた夜半よわの顔を見下ろしていた。
 不意に、「白波くん」と、死んでいるはずの彼女が口を開く。あり得ない出来事に絶句していれば、床に転がされた姿勢のまま、彼女が瞼を持ち上げた。光を失った瞳がじっと己を見つめて、その奥に憎悪の色を灯す。彼女は、生前とは打って変わって静かな表情で、白波に問いかけた。
「どうして見て見ぬふりしたの?」

 目を覚ます。嫌な汗の感覚に、白波は横になったまま浅く息を吸い込んだ。肺に突き刺さるような短い呼吸を繰り返し、ゆっくりと動悸を鎮めていく。次第に意識がはっきりして、カーテンを透かす青い光に思考が洗われた。
 視線を巡らせるまでもなく、目の前に聳える真っ白い天井は自室のそれだと理解できる。自分は自室で休眠していて、今日は仕事のある平日だ。時刻は、差し込む光の加減を見るに、早朝だろう。そこまで考えて、息を吐く。夜半の死からは、もうずいぶん時間が経っている。
 まだこんな夢を見るのか、と己の脆さに苦い思いがよぎった。夢の名残を振り払うように頭を振って、身を起こす。白波はベッドを降りると、カーテンを開けた。青く、まだ鈍い朝の光が部屋を照らし出す。
 一人暮らしには広すぎる、調度の少ない殺風景な室内。しんと静まり返った家に、人の気配はない。空間そのものが深い眠りのさなかにあるような、そんな落ち着いた静寂。白波は目を瞬くと、部屋のドアを開いた。
 廊下の途中で道を逸れて、洗面所に入る。顔を洗おうと洗面台の前に立って、不意に、少ないな、と新鮮な驚きが胸を満たした。
 洗面台に二つ並んでいた歯ブラシが一つになった。積み上げられていたタオルから、色のついたものが減った。棚を鮮やかにしていたメイク道具は、遺品整理の際に処分した。髪の毛をケアするための櫛やら、髪飾りやらも、自分の手で片付けた。この部屋から彼女の痕跡を消したのは白波だ。それなのに、なくなったことを意識すると、途端に心許ないような居心地の悪さを覚える。この場所にはもう、夜半が生きていたころの生活の跡は残されていない。
 嫌に目につく空白に顔をしかめて、蛇口をひねる。いつもよりも多少乱雑に顔を洗って、白い無地のタオルで水気を拭きとった。空白の多い室内には目を向けないで、逃げるように背を向ける。白波はそのまま、朝食を摂るためにキッチンへと向かった。
 食器棚を開ければ、半分に減った食器が目につく。冷蔵庫の中には、自分の好みに偏った食材しか入っていない。食事を用意して席に着けば、会話のない食卓が気にかかる。──もう慣れたはずの欠落がいちいち意識を引っ掻いて、白波は天井を仰いだ。真っ白いクロスを見上げて、目を瞑る。網膜に焼き付いた、夜半の死に顔。夢で見たばかりのそれを思い返して、「どうして」と問いかける言葉を反復する。
 どうして見て見ぬふりしたの?
 もしもそれを聞かれていたら、自分は何と答えただろう。空になった皿の上に視線を落として、思考する。
 白波は、彼女の心変わりに気づいていながら、黙認した。その事実は、どんな言葉を並べても変わらない。
 自分が止めていれば。彼女ともっと話していれば。その底意を聞きだしていれば。──そうすれば、彼女が死ぬことはなかったのではないか。
 不可逆の可能性を追いかけて、ため息を吐く。どうして、見て見ぬふりをしたのか。それは、それがより善に近い行動だと思ったからだ。真っすぐで、ひたむきで、人を助けることに一途な彼女を、見守るつもりでそれを選んだ。組織の思想に疑念を抱く気持ちに寄り添い、理解した気になって、彼女が死地へ向かうことを止めなかった。
 直視していれば、何かが変わったのだろうか。一人きりの室内に、答える声はない。責め立てられているような静寂を前に短く瞑目して、未練を断ち切るように立ち上がった。食器を流しにおいて、廊下へ出る。向かったのは、遺品を整理してからは一度も立ち入っていない、夜半の部屋だ。
 閉ざされたドアの前に立ち、習慣でノックをしようと手を上げる。コン、と音を響かせてからそれが必要のない行為であると気付いて、白波は不意に眩暈に似た動揺に襲われた。浮かせた手を中途半端に揺らして、下ろす。もう、「入るぞ」と声をかける必要もないのだと、唇を引き結び、何も言わないままドアノブに手を掛けた。抵抗のないドアを押し開け、──けれど、部屋の中には入れない。白波は入り口に佇んで、室内へと視線を放った。
 白波が使っているものより少しサイズの小さなベッド。数年前に「少しくらい荷物を増やしてもいいだろう」と半ば無理やり買わせた洋服箪笥。彼女が以前のアパートから持ち込んだ、やけに明るい色のカーテン。今後誰かに引き渡すかもしれないと残したまま、わずかに埃を被ったトレーニング用品。空っぽになったコートハンガーに、処分に困って残した遺品を詰めた段ボール箱。
 残されたものをしかと見つめて、目を瞑る。白波くんさぁ、ととても上司に向けるものとは思えない、間延びした声が耳に蘇った。

 ベッドの上に放り出された、可愛らしいカバーの掛かったクッション。その上に洋服箪笥から引っ張り出した服を広げて、呆れ顔の夜半がこちらを見る。開かれたカーテンの向こうからは昼間の澄んだ光が差し込んで、手入れのされたトレーニング用品を照らし出していた。後回しにしているのか、冬物と春物が混在したコートハンガーを一瞥すれば、彼女は「こっちはまだなだけだから!」と先回りして言い訳を口に出す。床の上は綺麗に掃除されていて、そこに、遺品をまとめた段ボールなど存在しない。
「まだ衣替えが終わらないのか」
 呆れた声で白波が問えば、彼女はムッとしたように眉根を寄せた。
「時間がかかってるのは申し訳ないけど、でも仕方ないじゃん。前は衣替えが必要なほど服なんて持ってなかったし。慣れてないから時間がかかるの!」
 っていうか女子の部屋にずかずか入るのはどうかと思う、とため息を吐く彼女に、「それもそうか」と一歩下がって、廊下に出る。白波が「お前の言い分もわかるが、買い物に行く予定だろう。キリの良いところでいったん止めろ」と声を掛ければ、彼女は「じゃあもういいや。一旦あとで!」と手にしていたニットをベッドの上に放り出した。思い切りの良さに苦笑して、出かけるために踵を返す。

 淡い幻想を断ち切るように瞼を持ち上げて、無音の室内と相対する。彩りが欠け、ただの空間と成り下がった夜半の部屋。そこに、彼女が暮らしていたころの面影はほとんどない。それでも、瞼の裏には、彼女の残像が焼き付いている。
 仕事中にも私語が多かった。犬と猫だったらどっちが好きか。たい焼きは頭から食べるか尻尾から食べるか。ため口でだらだらとどうでもいいことばかり聞いてくる割に、時と場所を弁える能力はある、一人前の職員だった。
 人を助ける仕事がしたい、と志を胸に刻んで入隊してきた。部隊の中でも五指に入る強さで、身体能力も高いので、作戦の要になることが何度もあった。戦闘になれば機敏な動きで相手を撹乱し、アクロバティックな攻撃で味方を援護する、心強い仲間だった。
 教育期間中には、期待を込めて厳しい訓練をつけた。高い目標設定にもめげずに努力し、小柄な体格の不利を補うために自主トレーニングを積むような、真面目で懸命な部下だった。
 笑っていた顔も、呆れたような声も、くだらない雑談も、緊迫した戦闘の一瞬も、助けられたことも、助けたことも、嬉しかったことも、苛立ったことも、全部残っている。覚えているよりも手前の段階で、ずっと、目の裏に残されている。
 共に暮らして初めて気づいた些細な習慣や、バディとして仕事をして馴染んだ所作の癖。意識にのぼることがなかったはずの日常の欠片が目について、忘れることが出来ない。見て見ぬふりをしたはずなのに、直視など出来ていなかったはずなのに、ふと瞬きをした一瞬に、彼女の気配が風のようにすり抜ける。
 それは、それだけ自分が後悔しているということなのだろう。端的な理解と共に、息を吸う。
 自分で作り上げた亡霊の言葉に、言葉を返す必要などない。白波はがらんどうの部屋を真っ直ぐ見つめて、無言のまま扉を閉めた。パタン、と軽い音を残して幻想が視界から消え失せる。
 どんな言葉を並べても、起きたことは変わらない。白波に出来ることは、ただ誠実に毎日を生きることだけだ。──だから、もう二度と目は逸らさない。
 先ほどよりも高い位置から差し込む朝の光に、白波は身支度を整えて、玄関のドアを押し開けた。今度こそ、彼女が信じた正しさの行く先を見届けるために。